語りながら、水鶏氏はノートを掴み直し頁をとばしてなかほどをめくると、その腹を裂かんばかりに両側から分厚い掌を押し当てて、平たく伸して開いた。
「ところで、ここに付録としてある人物の手記が載っています。石について記した、まことに妙ちくりんな文章で、むしろ狂疾者的と形容するのがふさわしい文章です。今ある状況と書かれている内容とをどう結びつけたら良いのか、何度読み返してみても分かりません。そんな思考停止の状態にあったとき、偶々、例のご本があなたから送られて来た次第なのです。」
たしかに私は水鶏氏の許へ本を送りはしたが、それはあの黒表紙の書物の中身について文字一文字の解読(表紙の文字は無論のこと)すらできなかったことから、思い余って内外の書籍に精通していると声望高い水鶏氏を頼ったまでのことである。したがって、あの書物が目の前の石の塊とまさか何かの因縁、関わりがあるなんて、耳を疑う突飛な話である。私なりに勘ぐれば、書物に浮かび上がって見えた光景が石塊の姿形と寸分の狂いなく重なり合ったという不思議な吻合は、いつか奇蹟を予告する表徴に接したいと常日頃願っている心理的渇望から生まれた蜃気楼のようなものではないか。心身もろとも石の奇勝振りに魅入られたあげく、偶然目に触れた本の頁から立ち昇って来た黒白の影形と石塊の残像とが瞬時に交叉し、折り重なって水鶏氏の脳髄に焼き付いてしまったのではなかろうか。ただ、水鶏氏ご当人にとっては、紛れもなく現実に起きた出来事、高等な認知力によって捉えた確たる物理現象として記憶に深く刻まれたものに違いない。