か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

宥和政策

2011年12月29日 | 西洋歴史

1935年アドルフ=ヒットラーは怯えと怒りと野望の中にいた。断じて行えば鬼神もこれを避くという心境か、ベルサイユ条約をほごにして再軍備を宣言した。英仏はヒットラードイツよりも何よりも戦争そのものに怯えていた。

ところがドイツにとってはベルサイユ条約下では絶望という戦争がまだ続いていたのだ。200億倍ものインフレ。すさむ人心。割譲された領土。ドイツにとって起死回生のチャンスは全くない。と、思われた。

ヒットラーは自信家ぶっているだけでこのときの気持ちを薄氷を踏む思いだったと回想している。ドイツを永久に奴隷に貶めるベルサイユ条約を拒否した。ドイツ国民がこれ以上絶望という屈辱に耐えねばならぬ理由はない。

しかし、英仏が恐怖と考えていたのはドイツの再来ではなく戦争の再来だ。英仏には2500万人が死んだ戦争はもうたくさんだという厭戦気分がしっかりと根付いていた。

ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain、英首相 )は独伊との開戦を何とか回避しようとミュンヘン会談に乗り込み悪魔の取り引きをする。

1938年、その会談でヒトラーがズデーテン地方(チェコスロバキアの要衝)を要求したことを受け、イギリスのチェンバレン首相は、平和主義のためと、戦争準備の不足からドイツの要求をのんだ。

つまり、ファシズム諸国の領土的要求に譲歩することによって戦争を回避したのである。弱小国が割譲されて消滅するよりも戦争の被害が少ない方がましだったのだ。

会議はどうしても戦争を避けようという空気が強かったため、アジアでいえば日本の満州侵略に目をつむった。ドイツの小都市で開かれたヨーロッパ列強の虚々実々の駆け引きは国際世界を見渡していた。

彼自身、ナポレオンの後始末をしたウィーン会議のように列強間の協議によって紛争を解決しようという意識しか持ちあわせていなかった。

その結果何が待っていたか。たしかにチェンバレンは戦争を回避した政治家として全国民的英雄になった。一方でヒットラーは常にイギリスに対して開戦するぞと脅しをかけ、脅しが有効であることを実感していた。ヒットラーの手中にはまったチェンバレンはヒットラーが無傷でズデーテン地方を第三帝国内に収める事ができるように保証を与えたのと引き換えに、イギリスの安泰を図ったのだ。(ヒットラーのチェコ侵攻を黙認する代わりにヒットラーはイギリスを攻めない)

しかし、はなしはここでおわらない。ヒットラーは言った。これ以上の領土的野心はないと。チェンバレンはお人好しにもそれを信じ、第1次大戦の10倍の死者を出す第二次大戦を不可避にしてしまった。なぜならヒットラーの領土的野心は大日本帝国と同様とどまるところを知らなかったからだ。

かつての我が帝国の植民地が傲慢にも空母を作る時代になった。竹島問題みたいに無為無策ではすべてを失う。チェンバレンの宥和政策が如実にそれを示している。

学べ!宥和政策は敗北主義だ。日中友好も日韓友好も口に出した瞬間負けだ。


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