《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

割込み旅メモ「法輪寺の桜」

2010年04月09日 | Weblog
満開状態で桜がまだ頑張っている。五月晴れのような青空にじっとしておられなくなり斑鳩へ出かけてみた。昨年秋に伝・山背大兄墓を探しているときに偶然分った法輪寺の撮影ポイントでシャッターを一押し。
(今日の歴史=752年東大寺の大仏が完成し、開眼供養が行われる)

割込み旅メモ「開催まじかの大極殿」

2010年04月08日 | Weblog
例年桜は開花後1週間で満開になるらしいが、今年の桜は天候の異変(?)で、2週間たってもまだしっかりと花びらは頑張ってる。遷都1300年祭開催まであと2週間あまり、整備にも拍車がかかり最後の仕上げを見守っているようだ。
(今日の歴史=1542年室町幕府が撰銭(えりせん・悪銭・贋金)を禁止)

平城京よもやま話「休暇届」

2010年04月07日 | Weblog
洗濯や子供の病気治療のための休暇届が残っている。唐風の公服を着ていたのは都の住人の中でも少数の役人だった。一着しかない公服を洗濯し、乾くまで休暇をとった下役人もいたようだ。庶民は古墳時代と余り変わらず無地無着色の麻服、丈の短い上着とズボンをはいていたと推定される。風呂はお寺の湯屋から始まるがこの時期はまだ風呂に入る週間はなく、皮膚病がはやった。正倉院の文書には正月五日の届出に「子供が皮膚病のため三日間休ませてくれ」というのがあり、続いて「2月7日にはその子供が死去したので葬式のため休ませてくれ」というのがある。
(今日の歴史=724年藤原不比等の三男、宇合(うまかい)が蝦夷平定の持節大将軍に任命される)

平城京よもやま話「履物」

2010年04月06日 | Weblog
道を歩くのには裸足や草履がおもだったであろう。発掘では履物で多く出てくるのは下駄(草履は腐敗して残らない)。その下駄には右用と左用は異なっているものがあるが多くは左右兼用のもの。下駄の裏を見ると後ろが磨り減っていることから貴族は「粋」に下駄を引きずって都大路を歩いていたのだろう。しかし道は不衛生な状態であり結果疫病が流行り次へ遷都を余儀なくされた一因かもしれない。画像左下から上二つ目が右用の下駄

平城京よもやま話「京内の人口」

2010年04月05日 | Weblog
10万から20万とも云われている。773年の確かな記録では、京内に80歳以上の長寿者が1,076人いたことがわかる。その内訳は100歳以上二人、90歳以上104人80歳以上が970人いた。天皇を初め五位以上の貴族約100人を頂点に僧を初め農民までいろいろな人が暮らしていた。人が暮らすためには食べて出さなければならない。庶民の厠については垂れ流し状態だったが長屋王跡からは道路側溝から水を引き穴に埋めている厠跡が見つかっている。その穴からはギョウチュウやその卵が見つかっているので便所だと分る。平安時代の絵巻物「餓鬼の草紙」を見るとこの時代でも下駄を履いて道で用足しをしていることがわかる。厠でも貴族と庶民との格差があった。
(今日の歴史=1968年アメリカと小笠原返還協定を結び6月26日に返還される)