道を歩くのには裸足や草履がおもだったであろう。発掘では履物で多く出てくるのは下駄(草履は腐敗して残らない)。その下駄には右用と左用は異なっているものがあるが多くは左右兼用のもの。下駄の裏を見ると後ろが磨り減っていることから貴族は「粋」に下駄を引きずって都大路を歩いていたのだろう。しかし道は不衛生な状態であり結果疫病が流行り次へ遷都を余儀なくされた一因かもしれない。画像左下から上二つ目が右用の下駄
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