歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

比企氏伝承地―歴史雑感〔48〕―

2019年08月30日 19時49分43秒 | 日本史(古代・中世)

源頼朝の乳母として公私に渡り支援をした比企尼を頂点とする、比企氏は鎌倉幕府の有力御家人として位置しました。そして、2代将軍頼家の乳母も輩出し、当主能員の娘若狭局が頼家長男一幡を出生しました。これにより頼家の外戚家として比企氏が位置しました。しかし、これに脅威を感じた頼朝外戚家の北条氏は、建仁3年(1203)9月2日、能員の暗殺を発端として、クーデターで比企氏本宗を滅亡させ、頼家を失脚させ、3代将軍に同母弟実朝を擁立しました。いわゆる比企氏の乱です。比企氏の本貫は武蔵国比企郡であり、当地には比企に関連の伝承が多く残されています。そこで、一部の伝承地を、2019年8月26日(月)午後、訪れたので、これを紹介します。

写真1は、国道307号から少し北に入ったところにある、曹洞宗扇谷山宗悟寺(埼玉県東松山市大字大谷400)の山門です。若狭局が頼家暗殺後に比丘尼山に草庵を営み、寿昌寺を創建したとの伝承があります。本寺伝では天正20年(1592)に徳川家康家臣森川金右衛門氏俊が寿昌寺を移転して、宗悟寺と改称して森川家菩提寺としたとしています。これにより、本寺には森川家代々の墓があります。

写真2は、若狭局が保持していた頼家位牌と伝えるものです。本殿に厨子に納められて安置されています。残念ながらほとんど読めませんが。お寺さんのご厚意により拝見できました。

宗悟寺から国道307へと戻る手前に小川に沿った小道があります。これを約700mほど行ったところで、北に行く道とそのまま直進するところに出ます。北に行くと、若狭局が頼家の唯一の形見である櫛を見て悲しむ姿を見かねた祖母比企尼が櫛を捨てて思いを断ち切るようにいい、これにより櫛を沼に放ったと伝える櫛引沼があります。ただ、この伝承は比企尼が賴朝期の建久年間に死去したと考えるのが至当なので、無理な伝承といえます。写真3は、そのまま西に直行して、撮った比丘尼山です。比企遠宗の妻(比企尼)が夫の死後にこの丘に草庵を営んだと伝えることから比丘尼山と呼ばれるようになりました。

比丘尼山には7世紀頃の比丘尼横穴墓群があります。写真4は、この説明板のところで、左側に横穴が見えています。比丘尼山に沿って遊歩道が整備されて一周することができますし、串引沼への分岐路もあります。

写真5は、真言宗清月山金剛寺(埼玉県比企郡川島町大字中山1198)山門です。

比企氏の後裔とする比企政員が天正年間にこの地に館を構え、菩提寺として本寺を創建しました。政員(天正3年〔1575〕死去)は岩槻城主太田資正に属しました。子孫は幕臣となりました。政員以下歴代の位牌を納めたのが、写真6の、大日堂です。この奥が比企氏歴代の墓所です。この途中に掘割り跡が残っています。

最後の写真7は、比企氏歴代の墓石です。

(2019.08.30)


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