花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

カラヴァッジョ《キリストの笞打ち》ドンナレジーナ(ナポリ)で特別展示。

2024-03-01 14:40:32 | 展覧会

ボローニャのFさんから展覧会情報を頂いた(Grazie!!>Fさん)

ルーヴル美術館に貸与されていたカラヴァッジョ《キリストの笞打ち》がナポリに戻ってきた。しかし、今回展示されるのはカポディモンテ美術館ではなく、ドンナレジーナ教区博物館(ドンナレジーナ・ヴェッキア)なので、ナポリに観に行く方は要注意だ。(ピオ・モンテ・ミゼリコルディアの近くでもある)

https://www.youtube.com/watch?v=kJbSBDY8rcQ

・会期:2024 年 2 月 28 日(水)~ 年5 月 31 日(金)

・会場:ドンナレジーナ教区博物館(Complesso Monumentale Donnaregina - Museo Diocesano Napoli)

カラヴァッジョ《キリストの笞打ち》(1607-08年)カポディモンテ美術館

《キリストの笞打ち》は元々サン・ドメニコ・マッジョーレ教会のフランキス礼拝堂のために描かれた祭壇画であり、1980年以降はカポディモンテ美術館に所蔵されるようになった。

カポディモンテ美術館では暗い特別室に照明効果を加えた展示をしているが、今回のドンナレジーナでの展示は(動画を見る限り)細部まで観察するのに適しているように思える。



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12 コメント

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キリストの埋葬 来ます! (むろさん)
2024-07-01 13:03:19
しばらく新しい記事がありませんが、お変わりありませんか。

さて、この記事のテーマとは無関係なのですが、カラヴァッジョの情報なのでここに投稿します。
コロナ禍で来日が中止となったバチカン絵画館のカラヴァッジョ作キリストの埋葬が来年開催の大阪・関西万博で来日します。(下記URL)
https://www.cbcj.catholic.jp/2024/05/10/29636/
他にどんな作品が来るのか、それによっては私も行くかもしれません。

また、このキリストの埋葬について、西美の渡辺氏が書いた論考があることを最近知りました。
国立西洋美術館研究紀要No. 27 (2023.3) カラヴァッジョの《キリストの埋葬》に見られる古典的性格 渡辺晋輔
既にご存じかもしれませんが、インターネットで読めるのでご覧ください。(下記URL)
https://nmwa.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=1695618753902
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むろさんさん (花耀亭)
2024-07-02 00:31:28
貴重な情報をありがとうございました!!
2021年の展覧会中止のリベンジ(?)になりそうですね。もし他にもヴァチカンから美術品が展示されたら本当に嬉しいです。でも、万博のパビリオンだと入場するまでも大変そうで、ゆっくりと鑑賞できる環境になるのか心配です(^^;

で、渡辺氏の論考もありがとうございました!!2021年の展覧会用だったのですねぇ。興味深く読みながら勉強させていただきました。私的になんだか、《キリストの埋葬》のニコデモはやはりミケランジェロかもしれない、との思いも強くなってしまいましたですが(^^ゞ

ちなみに、蛇足ですが...既にご存じかもしれませんが、カピトリーノ美術館で「Filippo e Filippino Lippi. Ingegno e bizzarrie nell'arte del Rinascimento」(2024/05/15~08/25)が開催されているようですね。(↓ URLのjpをitに)

https://www.museicapitolini.org/jp/mostra-evento/di-padre-figlio-filippo-e-filippino-lippi-pittori-fiorentini-del-quattrocento

https://www.youtube.com/watch?v=lbMVwKk3ZKk&t=40s

フィレンツェではなくローマでの展覧会なので、内容的にどうなのでしょうね?
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展覧会情報に感謝 (むろさん)
2024-07-03 00:30:36
カピトリーノ美術館でのフィリッポ・リッピとフィリッピーノの展覧会の情報ありがとうございます。
ご紹介のサイトでの記事や掲載写真を見ると、素描は別として、板絵では日本に来たことがある作品が多いように感じます。来日していないものでは、父フィリッポの絵でミラノ・スフォルッツァ城美術館のトリブルツィオの聖母とトリノ・アカデミア・アルベルティーナの四大教会博士(2年前のMet展で来日した玉座の聖母の両翼)がありますが、私が見ていないのはこのアルベルティーナの2枚の絵だけです(Metの聖母子とは背景の建築表現が一致するので、一具の作品と分かりますが、元々どこにあったものかは不明です)。美術館が外部に貸し出す絵というのはどうしても小さいものとか保存状態が良いものになるので、同じ絵が多くなるというのは仕方がないことかもしれません。トリノのアカデミア・アルベルティーナというのはどのような美術館なのか調べたことはありませんが、将来サバウダ美術館へ行きフィリッピーノのトビアスと大天使の絵を見たいと思っているので、この四大教会博士の両翼もその時までのお楽しみとしておきます。

今回たまたま知ることができたカラヴァッジョ作キリストの埋葬来日の情報を投稿しましたが、私はかねてよりカラヴァッジョ関係の来日情報とかテレビ番組情報については、情報を知ったら速やかにこちらの掲示板に投稿するように心掛けています。特にテレビ番組情報は放送を見逃してしまうことがないように注意しています。(これは美術関係では他の分野でも同じで、日本の仏像彫刻では別の愛好者関係の掲示板にすぐに投稿するようにしています。)
こういう情報はそれを知ってもらいたい人、価値の分る人にお伝えすることが何より大切ですから、今後も注意していきたいと思います。そういった意味では今回教えていただいたフィリッポ・リッピ、フィリッピーノ・リッピの展覧会の情報はありがたいと思っています。海外のこういう情報を知らせてもらえる知り合いはあまりいませんので、今後もよろしくお願いします。

次に渡辺晋輔氏の論文についてですが、この中で気になったのはP12の注釈16(本文P10)に書かれたRona Goffenの「ルネサンスのライヴァルたち」の引用の仕方です。渡辺氏がこれを書いたのは2021年国立新美術館で開催予定のカラヴァッジョ《キリストの埋葬》展」カタログのためとのことですが、注16には英文の原書のことしか書いていなくて、2019年に出た日本語訳(塚本博訳、三元社)のことには触れていません。注16には原書のP211とありますが、邦訳版で確認したら該当部分はラファエロの項目のP262にありました(渡辺氏の本文はかなり省略された引用です)。
私は原書の引用で邦訳版があるものはできるだけ邦訳版を確認しようと心掛けています。それによって理解が深まったり、関連分野のことを知る手掛かりにもなるためです。渡辺氏も当然2019年に出た邦訳版のことは知っていると思いますが、注16に書かないのは不親切だという気がしました。なお、邦訳版では原書が出たのは2002年となっていますが、渡辺氏の注16で2004年となっているのも何故か分りません。
美術書の邦訳では、例えばミラード・ミースのペスト後のイタリア絵画の翻訳について、石鍋氏は「この本には誤訳が多いので注意が必要」と書かれています。また、私が気づいた例では、ボッティチェリ没後の負債に関する相続放棄の件で、相続人である長兄の息子を姪と訳している例がありました。美術史の専門家でもこのような誤りがあるので、日本語訳のある本を全て信用することはできないと思いますが、素人が趣味で読んでいるのですから、日本語訳がある場合は活用したいと思っています。

渡辺氏の論文の内容についてですが、これを読んでカラヴァッジョのことを理解するには、ルネサンス以降の絵画・彫刻の流れや時代背景が重要ということを再確認しました。ローナ・ゴッフェンの本ではレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロやティツィアーノ、セバスティアーノ・デル・ピオンボ、チェリーニ、バンディネッリ、ヴァザーリまでの影響関係やライヴァル関係について述べられていますが、これらがカラヴァッジョにまで影響を及ぼしていること、そして、そこには絵画・彫刻の優劣論争(パラゴーネ)も絡んでいるということもよく見えてきました。

ミケランジェロが彫刻家であることに拘り、油彩は女子供や暇人がやることと言ったことも、カラヴァッジョがメデューサの楯で彫刻には出来ないことを表現しようとしたこともこの観点から考えると理解できるし、これに関して最近思ったことでカラヴァッジョとベルニーニの肉体表現のことがあります。カラヴァッジョの勝ち誇るアモルと隣に飾られているバリオーネの聖愛と俗愛の表現・技術を比較し、勝ち誇るアモルの肌の描き方の素晴らしさを実感しましたが、ベルニーニ作プロセルピナの掠奪で、プロセルピナの腰に食い込むプルートの指とプロセルピナの肉の表現について、大理石で何故このような肉体の柔らかさが表現できるのかと思ってしまいます。ベルニーニはパラゴーネの観点から絵画以上のことを彫刻でも出来ることを示したくてこの像を作ったのではないかという気がします。プロセルピナの注文主はシピオーネ・ボルゲーゼなので、カラヴァッジョより27歳若いベルニーニもカラヴァッジョの絵はたくさん見ていたと思います(教会の他、シピオーネのコレクションも)。勝ち誇るアモル(または同様の肉体表現の作品)をベルニーニも見ていたのでは?
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むろさんさん (花耀亭)
2024-07-04 02:27:26
拙ブログにいつも貴重な情報を頂き、本当に感謝しております!!むろさんさんの情報収集力にはいつも瞠目しております🌟
で、恥ずかしながら、実はカピトリーノのリッピ親子展もボローニャのFさん情報からなのですよ(汗)(Grazie!>Fさん)
頂いた情報がむろさんさんのお役に立てて私も嬉しいです(^^ゞ

で、Rona Goffen「Renaissance Rivals」ですが、初版(ハードカバー)は2002年で、ペーパーバック版が2004年なので、多分、渡辺氏は後者を指しているのではないかと思われます。ちなみに、私は語学弱者なのでもっぱら邦訳版派です(^^;

>ベルニーニ作プロセルピナの掠奪
なるほど、むろさんさんのおっしゃるように「ベルニーニはパラゴーネの観点から絵画以上のことを彫刻でも出来ることを示したくて」かもしれませんね。
そして、ベルニーニはカラヴァッジョ作品を見ているはずです。ボルゲーゼ所蔵はもちろん、多分ジュスティニアーニ所蔵作品も。ジュスティニアーニは古代彫刻コレクションも持っていましたから、ついでに《勝ち誇るアモル》も見ていると私も思います。あ、この辺は石鍋先生のご専門ですよね😉
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ルネサンスのライヴァルたち そしてパラゴーネ(1) (むろさん)
2024-07-08 01:30:31
まず、情報収集の件ですが、興味のある分野に特化してネット情報その他にいろいろとアンテナを張っていますが、日本美術(主に彫刻史)と西洋美術の両方をやっていることが、結果として役に立っているのかもしれません(美術展ナビなど)。今回の西美渡辺氏の論考も東博資料館に日本彫刻史関係の論文等を調べに行った時に、博物館美術館出版物の相互寄贈により西美の研究紀要が置いてあったので知ったものです(ネットにも出ていたので東博でコピーしないで済みました)。東博や東文研の資料室には日本美術の資料を探しに時々行きますが、西洋美術関係の資料もあり結構穴場です。東文研は昔矢代幸雄が所長だったので、ボッティチェリ関係の古い写真資料もたくさん保存されているかもしれません。今度行ったら確認しようと思います(先日放送されたNHK Eテレの番組「ザ・バックヤード 知の迷宮の裏側探訪 東京文化財研究所」を見て古い写真乾板や写真資料の保存状況が紹介されていたので思いつきました)。
そちらのイタリア情報については、ボローニャのFさんからのものが多いのなら、私もFさんに感謝しなくてはいけないですね。

<Rona Goffen「Renaissance Rivals」初版(ハードカバー)は2002年でペーパーバック版が2004年なので、渡辺氏は後者を指しているのではないか
なるほど、そうかもしれません。ただ、通常は内容が改訂されていない限り、引用としては初版を取り上げるはずです。Rona Goffen女史は2004年に60歳で病死されているそうなので、多分改訂版は出していないはずです。渡辺氏は西美の図書室など手近な所にたまたま2004年のペーパーバック版があったか何かでこれを引用したのかもしれませんね。
なお、日本語訳がある場合にこれを取り上げていないのは不親切ではないかと書きましたが、西洋美術史関係の論文で同様の事例が他にもありました。この後に取り上げる九州大学荒木文香氏のフィリッピーノ・リッピ作カラファ礼拝堂関係の論文(地中海学研究33号2010年)で、Gualazzi著1982年発行のサヴォナローラの伝記を注に引用していますが、1987年中央公論社発行の日本語訳があることを書いていません。論文の引用文献でこのようなことはよくあるのかもしれませんが、日本語訳がある場合にきちんとそれを記載している著者がいることも確かであり、私のように日本語訳を活用したいと思っている一般読者のためにも、できるだけ紹介してほしいと思います。

>ベルニーニ作プロセルピナ
石鍋氏の「ベルニーニ」(吉川弘文館1985)を確認したところ、「絵画的表現を彫刻によって達成しようとした大胆な試み」「大理石をロウのように扱う困難さを克服してきた自負」により、「プロセルピナの略奪には絵画と彫刻とを結びつけようとする発想と、大理石をロウのように意のままに刻もうとする意志がはっきりと認められる」とありました(P26~27)。パラゴーネという言葉は出てきませんが、ベルニーニの「絵画表現を超えようという意思」は明確であり、さらに彫刻家としての対抗意識として、P27には「ミケランジェロの彫刻・絵画は解剖学的に美しくりっぱなだけで、肉体を表現する才能を持っていない。(自分にはそれを表現できる技巧がある)」というベルニーニの言葉が引用されています。

また、ローナ・ゴッフェンの「ルネサンスのライヴァルたち」訳者あとがきには、「ライヴァルリーという視座は比較論(パラゴーネ)と表裏一体をなすもの」とあります。今回、渡辺氏の論考をきっかけに、ルネサンスからバロックにかけての美術作品の本質を理解するには、ライヴァル関係とパラゴーネのことを知ることが重要であると再認識したのですが、ライヴァル関係は現代人にもよく理解できるのに対し、パラゴーネはかなり現代の意識とズレた感覚と思っていました。絵と彫刻はどちらの方が上か、絵と詩はどちらの方が優れた芸術なのかなど、現代人には全く馬鹿げた論争のように見えますが、これが当時の人の意識であり、作家も注文者も収集家も皆この考えに大きく左右されていた、ということです。私はかねてより昔の美術作品や歴史を理解するには、当時の人の精神的な背景を知ることが大事と思ってきました。平安・鎌倉時代の記録には(さらに大河ドラマ鎌倉殿の13人や光る君へなどにも)呪詛や物忌み、方違えといったことがよく出てきます。我々にとっては迷信でも当時の人はこれに従って生きていた、そして美術作品として今に伝えられてきた物も、当時はこういう精神的世界の中で作られたものです。ミケランジェロやカラヴァッジョの作品もその背景としてパラゴーネという考え方が存在していることを前提として考えると、よく見えてくると思っています。(続く)
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ルネサンスのライヴァルたち そしてパラゴーネ(2) (むろさん)
2024-07-08 01:32:36
なお、ついでながら最近私はルネサンス・バロック美術や平安・鎌倉時代の彫刻を考える時の視点として、宗派対立がキーワードの一つと思っています。バロック美術の成立自体そもそもプロテスタントに対抗するためのものですが、もう少し細かい話でも、例えばボッティチェリに大きな精神的影響を与えたサヴォナローラの処刑は、フランチェスコ派からドメニコ派に対して出された火の試練に端を発しているし、フィリッピーノ・リッピのローマSMソプラ・ミネルヴァにあるカラファ礼拝堂フレスコ画と、同じローマ・アラチェリ教会のピントリッキオ作ブファリーニ礼拝堂フレスコ画について、この両派による対立関係を軸に考察した荒木文香氏の一連の論考もあります。日本彫刻史でも快慶・行快に近い作品で署名のないものの多くが法然の浄土教関連である(旧仏教への配慮から署名をしなかったか)、京都大報恩寺の創建(及び本尊が清凉寺式でないこと)は比叡山側から南都仏教側への対抗措置である、三井寺関係の彫刻は比叡山による焼き討ち対策を考えると理解できる(聖護院智証大師像の存在など)等、この視点に立つことによって見えてきたこともたくさんあります。呪詛などの精神的なこと、パラゴーネ、宗派対立など、ある程度時代を超えて行われてきたことを通して、個別の作品について詳しく知るだけでは見えてこなかったことが、作家や時代を超えて見えてきたと思っています。

なお、上記荒木文香氏の論文(美術史173号2012年)ではフランチェスコ派とドメニコ派の対立による考察の次の段階の論文の課題として、システィーナ礼拝堂壁画でのボッティチェリとペルジーノの競作が、その完成直後の時点でのピントリッキオ対フィリッピーノ・リッピというウンブリア派対フィレンツェ派の競合という形になって現れたことへの考察が必要としています。ここでもライヴァル関係を軸に考えることが重視されていることになります。

ローナ・ゴッフェンの「ルネサンスのライヴァルたち」とベッチュマン&ヴェディゲンの「ベネデット・ヴァルキ―パラゴーネ 諸学芸の位階論争」の2冊はこの1年ぐらいの間に読んだ本では分厚く、難解なものでしたが、ルネサンス・バロック美術を理解するには、この2つの概念は大変重要であり、今後も必要の都度関係個所を参照していく必要があると感じています。

別項目のコメント返信で書かれた
<ティツィアーノもミケランジェロの影響をなにかしら受けているような気もします
のことですが、「ルネサンスのライヴァルたち」ではレオナルド、ラファエロと並んでティツィアーノもミケランジェロの敵対者たちの項目に取り上げられ、100ページに亘って考察されています。レオナルドがフランスへ行き舞台から降りてしまい、ラファエロは早死にしたということで、残る最大のライヴァルはティツィアーノ一人。そして、ティツィアーノはヴェネツィアに住んだままで海外の王侯貴族から多くの注文を受け、形態のフィレンツェ派に対する色彩のヴェネツィア派ということで、ミケランジェロも相当意識せざるを得なかったのでしょう。しかもミケランジェロが男性的な女性像しか彫れない、描けないのに対して、ティツィアーノはミケランジェロの構図を(左右反転など狡猾な方法で)利用しながら、魅力的な女性像を次々と描いていった―ミケランジェロとヴァザーリがローマに来ていたティツィアーノの工房に行って、ダナエなどの絵を見た後の感想の言葉が残っていますが、ライヴァル意識は相当なものですね。これ以上は「ルネサンスのライヴァルたち」をお読みください。

長くなりましたので、カラヴァッジョの勝ち誇るアモルやキリストの埋葬に関連したジュスティニアーニ、シピオーネ・ボルゲーゼとの関係などは別の機会にします。ラファエロのキリストの埋葬を無理やりローマに持ってきた張本人(パウルス5世)との関係とかベルニーニとの関わりなど、カラヴァッジョにも関わることであり、もう少し詳しく調べてみます。
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むろさんさん (花耀亭)
2024-07-11 20:35:02
むろさんさんの張り巡らせたアンテナにいつも感謝です(*^^*)

>パラゴーネ...これが当時の人の意識であり、作家も注文者も収集家も皆この考えに大きく左右されていた、
私も「パラゴーネ」は時代的にズレた感覚と思っていました(汗)。しかし、むろさんさんのおっしゃる通り、確かに当時の美術界隈では普通の論調だったのでしょうね。なるほど「ライヴァル関係」と「パラゴーネ」を念頭に考えないといけないようですね。

で、恥ずかしながら、未読だった「ルネサンスのライヴァルたち」(三元社版)を図書館から借り、サクッと目を通し始めたところです(汗)。
イザベル・デステがストゥディオーロにマンテーニャとベッリーニの絵を並べたい(競争を見たい?)という希望が二転三転し、ベッリーニ《生誕》になってしまうという事の顛末が私的にとても面白過ぎ、いやぁ、今まで読んでいなかったのは不覚でした(反省)(^^ゞ。むろさんさんのおかげで読むきっかけができ、ありがとうございました!!

>サボナローラ...フランチェスコ派からドメニコ派に対して出された火の試練に端を発している
バロックが宗教改革の一環だとは知っていましたが、ルネサンス期の宗派の対立はあまりよく知りませんでした。鎌倉彫刻においても宗教対立があるという視点、非常に興味深いです。なるほど、「宗教」の視点は重要ですね!!

で、ラファエロ《キリストの埋葬》ですが、取り上げた教会(地元)に悪いからと、カヴァリエーレ・ダルピーノに模写させた作品を置いたというのが、なんともボルゲーゼ家の教皇&枢機卿らしいと思っています(;'∀')
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パラゴーネ・宗派対立・コピー作品(1) (むろさん)
2024-07-21 15:08:56
ベネデット・ヴァルキのパラゴーネについての本、以前のコメント投稿で「ここまで詳しい内容については、素人が趣味でやっている場合は読む必要ないだろう」と書きました。中央公論美術出版社版の美術家列伝全6巻が完結して、第4巻収録の甲斐教行氏解説「ヴァザーリのルサンチマン―好敵手たちへの非難・歪曲・抹殺」を読んだこと、そして芸術新潮2023年9月号(ヴァザーリの美術家列伝特集)での記事などから、ルネサンス・バロック美術の本質を理解するには、ベネデット・ヴァルキとパラゴーネのことをよく知っておかないとダメだと思い、ベッチュマン&ヴェディゲン著の「ベネデット・ヴァルキ―パラゴーネ」を読むことにしました。これにより、ヴァザーリとベネデット・ヴァルキの関係や周辺の美術家(唯一の大芸術家となったミケランジェロの他、同時代を生きたセバスティアーノ・デル・ピオンボ、バッチオ・バンディネリ、ベンベヌート・チェリーニなど)についてもよく見えてきました。ヴァザーリがディセーニョを絵画・彫刻・建築の上に立つものとしたことにより、パラゴーネの調停者となり論争に終止符を打ったことは分りましたが、カラヴァッジョやベルニーニもパラゴーネの考えを持ちながら制作に当たっていると思われるので、バロック期になっても依然この考えは続いているということも感じました。

「ルネサンスのライヴァルたち」ではレオナルド、ラファエロ、ティツィアーノの次にミケランジェロ晩年のライヴァルたち(上記のバンディネリやチェリーニ)が取り上げられていますが、この部分もヴァザーリやパラゴーネのことを理解するためには参考になるので、(かなり分厚い本ですが)後半もしっかりお読みいただくとよろしいかと思います(できれば「ベネデット・ヴァルキ―パラゴーネ」も)。

宗派対立の件
宗教対立というとキリスト教対異教ということになりますが、私の関心はもっと細かい宗教内部での宗派対立です。これは結局は主導権争いということで、どちらがトップの座を手に入れるかということに尽きます。キリスト教ではフランチェスコ派とドメニコ派のどちらから教皇を出すか、日本では天台座主の地位を比叡山(慈覚大師・慈恵大師派)と三井寺(智証大師派)のどちらから出すかなどです。以前にローマのSMソプラ・ミネルヴァとアラチェリ教会に行ったのは荒木文香氏や福田淑子氏によるいくつかの論文を読む前であり、フィリッピーノ・リッピとピントリッキオによるフレスコ画の制作背景に関する知識は全くなかったので、将来また行く機会があれば、そのような視点(ドメニコ会による聖ベルナルディーノ異端視への対応策やトマス・アクィナスが主張する聖母マリアの原罪性に関する両派の議論等)で二つの礼拝堂フレスコ画を眺めたいと思っています。
日本の例で、比叡山延暦寺対園城寺の対立は平安時代後期には互いの寺を焼き討ちするまでになり、焼き討ちされることに慣れていた三井寺側は非常持ち出し対策や複製制作などを行っていて、一方あまり焼き討ちを受けなかった比叡山側はこの備えが三井寺ほど進んでいなかったため、最終的には織田信長の焼き討ちの結果、三井寺ほど古い文化財が残らなかったということになります。平安・鎌倉時代を通じて武力では園城寺よりも優位に立っていたのに、更に強い敵が現れて全山焼き討ちに会ったというのは歴史の皮肉に感じます。

ラファエロ作キリストの埋葬
この絵については、「ルネサンスのライヴァルたち」ではラファエロがミケランジェロから如何に着想を受けたかということが論じられていますが、それとは別に、バロック時代になって、この絵を無理やりペルージアから持ち出してローマへ運び、現地には複製を送ったという事件がまた別の意味で興味を引く点です。

<なんともボルゲーゼ家の教皇&枢機卿らしい
ペルージア市民からの猛烈な抗議で複製を作って送ったとのことですが、当時は教皇がやったことなので仕方がないと納得したのでしょうか。これも現代の感覚では理解できない出来事です。なお、同じラファエロがらみの話で、「教皇レオ10世と二人の枢機卿」(ウフィツィ)をアンドレア・デル・サルトに模写させマントヴァ侯に送ったが、模写制作を見ていたヴァザーリがそのことを暴露するまで本物と思われていたという話があります。そして模写作品にはオリジナルのラファエロ様式とアンドレア・デル・サルトの様式の両方があるのだから、模写の方が価値があるとまで言われるようになる。ここまで来ると我々現代人には全く理解不能です。

前コメント投稿で、当時の考え方や社会状況を理解していないと古い美術作品は理解できないと書きましたが、オリジナルとコピーの問題もこの一つです。そしてこれをテーマにした論考も日本美術、西洋美術を問わずいろいろ出ていますが、私が読んだもので役に立つと思ったものを2点上げておきます。
(続く)
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パラゴーネ・宗派対立・コピー作品(2) (むろさん)
2024-07-21 15:10:34
一つ目は「平成19~22年度科研費補助金研究成果報告書 模倣の意味と機能―写す・抜き出す・変容させる」(2011年)で、日本美術と西洋美術で各数件の論考が掲載されています。西洋美術では「テル・ブリュッヘンのカラヴァッジスムを巡る再考察―聖マタイの召命と聖トマスの不信を中心に」(深谷訓子)と「フィリッポ・リッピによる聖母子像の模倣をめぐって」(剱持あずさ)の二つが特に重要だと思います(後者については以前の投稿で、リッピ本人公認で偽ピエル・フランチェスコという仮名の画家にコピーを作らせていたことを書きました)。

二つ目は「鹿島美術財団 第34回美術講演会講演録 ほんものとにせもの―偽物・模作・複製」(2006年)で、こちらも西洋・中国・日本美術の専門家各一人が話した内容の記録で、西洋美術は「西洋の古文献と作品から見た偽物・模作・複製の再考」(小佐野重利)で、主にルネサンスの作品を扱っており、上記のラファエロとアンドレア・デル・サルトの話もここに出てきます。

コピーの問題はカラヴァッジョの本にもよく出てくるので、花耀亭さんもご興味があると思います。特に本人が後から注文によって再度同じテーマで描いたドッピオ作品の存在が(作者判定も含め)問題を複雑にしていると思います。これも現代人の常識からはちょっと疑問に感じますが、それは芸術家というものにはプライドがあり、売れるからといって過去の作品と同じ物をまた作るということを軽蔑するという現代的な感覚で考えているためです。今上野でキリコ展をやっていますが、キリコも過去の評判が良かった作品と同じ様式の絵を後世になってまたたくさん描いたら(特にキリコの影響で形而上学派になった画家から)非難されたということですから、現代の感覚ではこれは許されないことになります。石鍋氏は「ありがとうジョット」で聖マタイと天使の絵の第一作が受け取り拒否となったことに対し、「実入りが倍になって、彼にとっては一層よかったとも考えられる」としています。カラヴァッジョは何回も作品の受け取り拒否にあっていますが、これも全て別の人に引き取られているのだから、本人は収入が増えて喜んだのかもしれません(花耀亭さんは信じたくない話かも)。我々はクリムトのウィーン大学天井画が大学当局から受け取り拒否され、これに憤慨したクリムトは二度とこういった注文は受けないことにしたという美術史を知っていますが、同じような意識でカラヴァッジョを見てはいけない、その当時の常識と近代・現代は違うのだということを意識しないと本質は見えてこないと思っています。

なお、ラファエロ作キリストの埋葬ですが、2013年の西美ラファエロ展にカヴァリエル・ダルピーノの模写が来たので、そこで見ることができましたが、記録ではランフランコによる模写が作られたとなっているそうですね。多分この出来が良くなかったので、カヴァリエル・ダルピーノに改めて依頼したと考えられているようですが、ランフランコの模写はどこにあるのでしょうね(失われてしまったのか、世の中にはあまり紹介されていない模写として画家名が特定されていないで残っているのか)。

また、この事件の張本人パウルス5世の肖像とされる絵がカラヴァッジョの真筆かどうかは疑問が多いようですが、ベルニーニも若い頃に大理石とブロンズの両方でパウルス5世の胸像を作っているので、どうしても両者を比べてしまいます。カラヴァッジョ(帰属)とされる絵については、この機会にいくつかの本を確認しましたが、あまり好意的な記述ではないようです。Catherine Puglisiの本では「この作品の完全な複製と部分的な複製が存在することから、この堂々とした肖像画は教皇の公式肖像として使われていたことが分かる。」「しかし、最終的な判断は、失われたオリジナルなのか複製なのかという疑問を解決するための洗浄と修復を待たなければならない。」としています。カラヴァッジョ作ならば制作時期は、パウルス5世が教皇に選出された1605年5月からカラヴァッジョが殺人を犯して逃亡した1606年5月の間の1年間に限定され、 同じ頃に描かれた他の真筆作品(パラフレニエーリの聖母やネルソン・アトキンズの洗礼者ヨハネ)と様式的には似ているそうですが、絵の質はこれらの真筆作品よりかなり劣ると思います。それは肖像画としてその後のマルタ時代に描いた現存の2点(アロフ・ド・ヴィニャクールやアントーニオ・マルテッリ)と比べても同様です。ただ、1605年夏にカラヴァッジョが起こした公証人への傷害事件の和解を仲介したのがパウルス5世の甥であるシピオーネ・ボルゲーゼ(ボルゲーゼ荘の執筆する聖ヒエロニムスはその謝礼か)なので、カラヴァッジョにパウルス5世の肖像画を描かせた可能性は十分あると思います。問題は現存作品がその絵に該当するかどうかです。花耀亭さんはパウルス5世の肖像画をご覧になっていますか?

そして、ベルニーニ作のパウルス5世の胸像(大理石とブロンズの2点)ですが、私はカラヴァッジョ(帰属)の絵よりもベルニーニの彫刻の方がかなり優れていると思います。カラヴァッジョ(帰属)の絵は1605年作ならばパウルス5世53歳、一方、ベルニーニの彫刻は1618年より少し前の作ならばパウルス5世は60代半ばとなり、68歳で亡くなる数年前です。ベルニーニの彫刻は本人の内面までよく表現できていると感じますが、カラヴァッジョ(帰属)作品の方はあまりそういう感じがしないので、アロフ・ド・ヴィニャクールのような肖像画を描けるカラヴァッジョの作とはとても思えません。
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むろさんさん (花耀亭)
2024-07-25 01:40:00
興味深いお話をありがとうございました!!特に天台座主や三井寺をめぐるお話、とても面白かったです!! ローマ教皇もですが、宗教内部の宗派対立は権力争いということなのかもしれませんね。

>模写作品には...様式の両方があるのだから、模写の方が価値がある
確かに現代のオリジナル重視からすると驚きますね👀;。当時は著作権も(概念も)無いし、模写作品も普通に有りだったようですが、「模写の方が価値がある」とは...。アエムラティオ(aemulatio)の観点なのでしょうかね??

で、画家本人によるコピー(ドッピオ)問題ですが、やはりお金は欲しいし、依頼があれば自主レプリカ制作も当然OKでしょうね(^^;。
なので、カラヴァッジョの受取り拒否作品も売れて良かった(笑)。ナポリ時代に銀行口座を作っているし、案外貯蓄に励んでいたかも(^^;

>パウルス5世の肖像
実見していますが、私的にはカラヴァッジョ真筆とは思えませんでした(^^;。美術ド素人なので悪しからずです。
ということで、私もベルニーニ作品の方が当然優れていると思います。もちろん、シピオーネ枢機卿の肖像(2作品とも)の方がダントツに魅了されますけどね。あの顔を見ると憎めない(笑)。
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コピーのこと、アエムラティオ その他 (むろさん)
2024-07-30 00:00:37
アエムラティオという考え方、これもライヴァル意識であり、絵画と彫刻間であればパラゴーネの一つですね(当然その根底には絵をより高く売りたいという気持ちがありますが)。カラヴァッジョのイサクの犠牲もギベルティ―ブルネレスキの洗礼堂門扉浮彫りコンクールに対する挑戦かもしれないし、石鍋氏も2年前の著書でこの件を書いています。メデューサの楯のようにトスカーナ大公に贈られたものではないかもしれませんが、フィレンツェにあるのでギベルティへの挑戦という思いを強くします。また、前コメントで書いたようにベルニーニのプロセルピナの略奪は逆にカラヴァッジョの皮膚表現に対する挑戦と思えます。参考までに、レンブラントの例は下記URL。この中村俊春氏はカラヴァッジョの聖マタイの召命でのどちらがマタイかの論争に関して、大変有用な1990年の論考―視覚表現の多義性と解釈 カラヴァッジョ作聖マタイの召命に関する一考察―を書かれた方です。なお、このレンブラントの話の中で中村氏はイサクとアブラハムの名前を反対に話されていますが、講演会なのでうっかりして間違われたのかと思います。
https://www.kyoto-u.ac.jp/sites/default/files/static/ja/news_data/h/h1/news7/2013_1/documents/140220_2/140227_1/01-92652b781335b2e50bf5e3a896093f5a.pdf

パウルス5世の肖像、やはり実物をご覧になっていて、その結果真筆ではないと思われたのですね。予想通りでした。

コピー作品に関して、以前のコメントで「日本の仏教美術では聖性・霊性の付与について、必ずしも元の像とそっくりに作られていなくても、大体の形が同じで元の像を写したものと判断できればいい」と書きました。今回比叡山と園城寺の対立・焼き討ちを考えていて、現存する例では時代によって考え方に多少の変化があるということが見えてきました。それは平安時代後期1140年頃に作られた像と鎌倉時代中期1250年頃に作られた像の違いからです。京都の聖護院に智証大師像があり、納入文書から康治二年1143年に宇治の三室戸寺で作られたことが分かります。これはその直前に園城寺が比叡山の焼き討ちを受け、園城寺の智証大師像(2体あるうちの中尊大師と呼ばれる像)が難を逃れるために三室戸寺へ疎開してきていたので、将来また焼き討ちを受けて失われることを想定し、あらかじめ複製を作っておくことにしたもので、それが聖護院に伝わりました。この像内には智証大師自筆の文書も納入されていて、コピー作品なのにそのような重要な文書が納入されていることを不思議に思っていましたが、将来また起こる可能性がある焼き討ちへの対策として、重要な文書を納入し、複製にあらかじめ聖性を付与するためだと気がつきました。そしてこの像は三室戸寺に来ていた園城寺の中尊大師を前にしてそっくりに作ったものです。一方、奈良西大寺の本尊釈迦如来は建長元年1249年に仏師善慶一派が京都の嵯峨清凉寺に行き、本尊釈迦(平安時代中期985年に宋で仏師に彫らせた像を日本に請来したもの)を目の前にして彫ったものですが、形式はそっくりに作られているのに、顔の表情は当時の一般的な日本の仏像の顔です。聖護院の智証大師像と西大寺の釈迦如来はともに原像を前にして仏師が作ったものですが、複製の考え方に違いがあります。そして、他の清凉寺式釈迦の模造を見ると、平安時代後期作の三室戸寺像は表情なども原像に似せようとしていて、その後の鎌倉時代初期建久四年1193年の目黒大円寺像ではもう少し日本風の表情に近くなり、鎌倉時代中期の西大寺像では完全に日本の仏像の顔をしています。これは法隆寺金堂西の間の阿弥陀(1232年運慶の四男康勝の作)が体部は飛鳥時代様式なのに表情は鎌倉時代の仏像の顔つきであることとも一致していて、これらの例から、聖性・霊性の付与の条件として、平安時代までは原像に忠実なコピーを作ろうとしていたが、鎌倉時代初期(運慶・快慶の頃)からそっくりでなくても一見してそれと分かればよい、というように変化したようです。

この頃は貴族社会から武家社会へ変わる転換点であり、例えば仏像の眼に水晶を入れる玉眼の技法も12世紀の半ば頃に奈良仏師が考え、運慶・快慶の頃(12世紀末)には一般的になってきます。以前は「鎌倉時代になると仏像も写実的になり玉眼が使われた」とされていましたが、今では研究者でそのようなことを思っている人は誰もいません(中学校の歴史ぐらいではまだそう教えているかもしれませんが)。写実という言葉は近代西洋美術の考え方であり、現在玉眼について考えられているのは、生身仏(しょうじん=生身の仏様)を表わすための技法の一つとして使われたということです。平安・鎌倉時代の人でも仏像が木や銅で作られていることは知っていますが、あの世の存在が現世に現れた実在するものであることを示すために、鎌倉時代になると異質の素材を歯や唇に使ったり、足裏に仏足文を描いたり、また、作る時の作法を細かく決めたりしています(如法仏=造像開始のみそぎ加持の儀式、制作期間中の潔斎や一日造立仏など)。このような流れの中で、模作への聖性付与に関する考えも変化してきたのだと思います。

最近、日本美術でも西洋美術でも個別作品の詳細な内容を知ることだけでなく、全体的な概念や時代の変化に伴い変わってきたことと継続していることなど、比較をしながら大きく捉えていこうという気持ちに変わってきました。自分が関心のある日本美術と西洋美術の特定分野だけですが、これによって見えてくるものも多いだろうと思っています。近代・現代の考え方と違う世界であるという基本を持ちながら、平安・鎌倉時代及びルネサンスとバロックの違いと変らずに継続されていることを見極めていこうと思っています。

前投稿で、東京文化財研究所の矢代幸雄ボッティチェリ関係写真資料を調べに行くつもりと書きましたが、先日行ってきましたので、この件は別項目(矢代幸雄関係記事)に投稿します。
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むろさんさん (花耀亭)
2024-08-01 01:20:35
アエムラティオについては、以前某講座で勉強したことがあり、中村俊春氏の論考で再度勉強できました。ありがとうございました!!

で、むろさんさんのお話で、仏像の聖性・霊性の付与の条件が時代によって変化する過程が興味深かったです。

>現在玉眼について考えられているのは、生身仏(しょうじん=生身の仏様)を表わすための技法の一つ
恥ずかしながら、私も「鎌倉時代になると仏像も写実的になり玉眼が使われた」とばかり思っていたのですよ(汗)。現在の通説を知ることができました。ありがとうございました!!

>近代・現代の考え方と違う世界であるという基本を持ちながら
本当にそうですよね。私もむろさんさんを見習って視野を広くしながら勉強したいと思っております(^^ゞ
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