花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

ヴェロッキオ、クレディ作《ピストイア祭壇画》。

2022-07-05 21:41:47 | 西洋絵画

『リ・アルティジャーニ』にも登場するヴェロッキオ工房にはボッティッチェッリやレオナルドの他にも、ペルジーノやロレンツォ・ディ・クレディなど多くの画家たちが働いていた。

ちなみに、先月観た東京都美術館「美の巨匠」展でもヴェロッキオ帰属《ラスキンの聖母》が展示されていたが、フィレンツェ・ルネサンスらしい聖母子像が眼に心地よかった

アンドレア・デル・ヴェロッキオ(帰属)《幼児キリストを礼拝する聖母(ラスキンの聖母)》( 1470年頃)スコットランド国立美術館

実は、ゲストの山科さんのブログで知った岡部紘三(著)『ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン』( 勁草書房)を図書館で借り、(返却期限があるので)サクッと読んだところ...

https://keisobiblio.com/2020/10/12/atogakitachiyomi_rogier/

巻末資料一覧の中に、『美術史』(155号 2003年 NO.1)掲載「メルボンのヴィクトリア国立美術館《キリストの奇跡の祭壇画》-図像解釈と制作年代」(平岡洋子・著)を見つけ、論文コピーしたのだが...(詳細は後日...)

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/ronbunshou/05-10-hiraoka-senhyou.pdf

なんと、同じ号に「ヴェロッキオ、クレディ作「ピストイア祭壇画」の問題」(江藤 匠・著)も載っていて、もちろん、こちらもコピー

ということで江藤論文を読むと、ヴェロッキオ工房の「ピストイア祭壇画」がなかなかに興味深いのだ。(残念ながら私はピストイアには行ったことがなく実見していない

アンドレア・デル・ヴェロッキオ、ロレンツォ・ディ・クレディ《ピストアイア祭壇画(Madonna di Piazza)》( 1475 - 1483 年)ピストイア大聖堂

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Verrocchio_e_lorenzo_di_credi,_madonna_di_piazza_03.jpg

この祭壇画のプレデッラは3点確認されており、現在は各地に散っており、ルーヴル所蔵の《受胎告知》がレオナルド《受胎告知》に起因しているところも興味深い。

https://it.wikipedia.org/wiki/Madonna_di_Piazza

さて、論文の内容だが、「結論」からサックリ要約すると(勝手にスミマセン!)…

■■…「ピストアイア祭壇画」には明らかに造形的にも機能的にも、フランドル絵画からの影響が看取できる。祭壇画が北方起源のエピタフと同じ構成を取っている。あくまでも「聖なる会話」の絵画伝統を継承しつつ風景の導入が図られたが、構図としては「開口式」と呼ばれる新機軸を打ち出した。この構図に最も近いと推断するのは、「聖バルバラと聖エリザベツを伴う聖母子」などの、ファン・エイク派の祭壇画である。それらはいずもエピタフの機能を有し、造形的にも「ピストイア祭壇画」との関連性が認められるからである。しかもヴェロッキオは、構図や風景の引用にあたって、模倣というよりは同化のレベルまで昇華している。…■■

ヤン・ファン・エイク派《聖バルバラと聖エリザベツを伴う聖母子(ヤン・フォスの聖母》( 1441 - 1443年頃)フリック・コレクション

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jan_van_Eyck_-_Virgin_and_Child,_with_Saints_and_Donor_-_1441_-_Frick_Collection.jpg

↑《ピストイア祭壇画》部分

↑《ヤン・フォスの聖母》部分

で、この論文を読みながら私的に想起したのがボッティチェッリ《バルディ家祭壇画》だった。ヴェロッキオ工房の聖会話スタイルを継承してはいるものの、しかしながら、背景を「開口式」ではなく、装飾性豊かな壁龕風に植物で構成するところに、ボッティチェッリの当時の興味の在りどころと、その独自性が強く出ていているようで面白く感じられるのだ。あの《春(Primavera)》に描かれた花々や植物観察の残響が見て取れる故に、特に好きな作品なのだから。

ボッティチェッリ《聖母子と二人の聖ヨハネ(バルディ家祭壇画)》(1485年)ベルリン国立絵画館

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Botticelli,_madonna_bardi_01.jpg

ということで、ヴェロッキオ工房ってフランドル絵画の情報収集も怠りなく(メディチ家の後援もあり)、当時のフィレンツェにおける最先端情報センターだったのだろうなぁと想像できたのだった