花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

ヴェロッキオ、クレディ作《ピストイア祭壇画》。

2022-07-05 21:41:47 | 西洋絵画

『リ・アルティジャーニ』にも登場するヴェロッキオ工房にはボッティッチェッリやレオナルドの他にも、ペルジーノやロレンツォ・ディ・クレディなど多くの画家たちが働いていた。

ちなみに、先月観た東京都美術館「美の巨匠」展でもヴェロッキオ帰属《ラスキンの聖母》が展示されていたが、フィレンツェ・ルネサンスらしい聖母子像が眼に心地よかった

アンドレア・デル・ヴェロッキオ(帰属)《幼児キリストを礼拝する聖母(ラスキンの聖母)》( 1470年頃)スコットランド国立美術館

実は、ゲストの山科さんのブログで知った岡部紘三(著)『ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン』( 勁草書房)を図書館で借り、(返却期限があるので)サクッと読んだところ...

https://keisobiblio.com/2020/10/12/atogakitachiyomi_rogier/

巻末資料一覧の中に、『美術史』(155号 2003年 NO.1)掲載「メルボンのヴィクトリア国立美術館《キリストの奇跡の祭壇画》-図像解釈と制作年代」(平岡洋子・著)を見つけ、論文コピーしたのだが...(詳細は後日...)

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/ronbunshou/05-10-hiraoka-senhyou.pdf

なんと、同じ号に「ヴェロッキオ、クレディ作「ピストイア祭壇画」の問題」(江藤 匠・著)も載っていて、もちろん、こちらもコピー

ということで江藤論文を読むと、ヴェロッキオ工房の「ピストイア祭壇画」がなかなかに興味深いのだ。(残念ながら私はピストイアには行ったことがなく実見していない

アンドレア・デル・ヴェロッキオ、ロレンツォ・ディ・クレディ《ピストアイア祭壇画(Madonna di Piazza)》( 1475 - 1483 年)ピストイア大聖堂

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Verrocchio_e_lorenzo_di_credi,_madonna_di_piazza_03.jpg

この祭壇画のプレデッラは3点確認されており、現在は各地に散っており、ルーヴル所蔵の《受胎告知》がレオナルド《受胎告知》に起因しているところも興味深い。

https://it.wikipedia.org/wiki/Madonna_di_Piazza

さて、論文の内容だが、「結論」からサックリ要約すると(勝手にスミマセン!)…

■■…「ピストアイア祭壇画」には明らかに造形的にも機能的にも、フランドル絵画からの影響が看取できる。祭壇画が北方起源のエピタフと同じ構成を取っている。あくまでも「聖なる会話」の絵画伝統を継承しつつ風景の導入が図られたが、構図としては「開口式」と呼ばれる新機軸を打ち出した。この構図に最も近いと推断するのは、「聖バルバラと聖エリザベツを伴う聖母子」などの、ファン・エイク派の祭壇画である。それらはいずもエピタフの機能を有し、造形的にも「ピストイア祭壇画」との関連性が認められるからである。しかもヴェロッキオは、構図や風景の引用にあたって、模倣というよりは同化のレベルまで昇華している。…■■

ヤン・ファン・エイク派《聖バルバラと聖エリザベツを伴う聖母子(ヤン・フォスの聖母》( 1441 - 1443年頃)フリック・コレクション

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jan_van_Eyck_-_Virgin_and_Child,_with_Saints_and_Donor_-_1441_-_Frick_Collection.jpg

↑《ピストイア祭壇画》部分

↑《ヤン・フォスの聖母》部分

で、この論文を読みながら私的に想起したのがボッティチェッリ《バルディ家祭壇画》だった。ヴェロッキオ工房の聖会話スタイルを継承してはいるものの、しかしながら、背景を「開口式」ではなく、装飾性豊かな壁龕風に植物で構成するところに、ボッティチェッリの当時の興味の在りどころと、その独自性が強く出ていているようで面白く感じられるのだ。あの《春(Primavera)》に描かれた花々や植物観察の残響が見て取れる故に、特に好きな作品なのだから。

ボッティチェッリ《聖母子と二人の聖ヨハネ(バルディ家祭壇画)》(1485年)ベルリン国立絵画館

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Botticelli,_madonna_bardi_01.jpg

ということで、ヴェロッキオ工房ってフランドル絵画の情報収集も怠りなく(メディチ家の後援もあり)、当時のフィレンツェにおける最先端情報センターだったのだろうなぁと想像できたのだった



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16 コメント

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ヴェロッキョ工房作ピストイアの祭壇画 (むろさん)
2022-07-05 22:52:35
ピストイアの祭壇画については芸術新潮2018年11月号に「レオナルドも描いたのか? ヴェロッキョ工房作の作者をめぐる新考察」(前橋重二)という4ページの記事が出ています。プレデッラとして作られたルーブルの小さな受胎告知やウースター美術館の聖ドナトゥスの奇跡と合わせたヴェロッキョ、レオナルド、ロレンツォ・ディ・クレディとの制作分担やこの当時のフィレンツェにおけるテンペラから油彩への変化の状況、そしてこの記事の翌年に計画されているワシントンとフィレンツェでのヴェロッキョ展への期待などが書かれています。フランドル絵画やボッティチェリとの関連は書かれていませんがご参考まで。
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江藤匠氏の関連論文 (むろさん)
2022-07-06 22:51:41
「北方の要素だけが、勝ち誇る古典的形態に正当な引き立て役をもたらす」E.H.ゴンブリッチ「アビ・ヴァールブルク伝」鈴木杜幾子訳 晶文社1986年

前コメントで取り上げた芸術新潮の記事は、ピストイアの祭壇画の技法と制作者分担に関する内容なので、もう少し本文の趣旨に沿った北方絵画との関連について追加します。連続投稿お許しください。

15世紀後半のフィレンツェ絵画への北方絵画からの影響は、例えばロヒール作「哀悼」(ウフィツィ美術館)を代表例としていろいろ考察されています(美術史129号1991年 北澤洋子「十五世紀後半のフィレンツェ絵画に果たしたロヒール作『哀悼』の役割」など)。一方、ヴェロッキョ工房内や周辺にいた画家による具体的な例はあまり取り上げられていないようですが、本文に書かれた江藤匠氏が美術史155号「ピストイア祭壇画の問題」の後に書いた論考を以前にコピーしているのでご紹介しておきます。

一つ目は「1470年代フィレンツェ派の祈念画におけるフランドル絵画の影響―ギルランダイオの初期作ブロッツィの聖会話を中心に―」鹿島美術研究年報別冊27号2010年」というもので、フィレンツェ郊外サン・タンドレア・ア・ブロッツィ聖堂にある1470~75年頃に描かれたドメニコ・ギルランダイオの初期真作「洗礼」と「聖会話」のうちの聖会話がプラドにあるペトルス・クリストゥスの聖母子の影響を受けているとするものです。

二つ目は「ペルジーノ作『ガリツィン祭壇画』におけるフランドル絵画の影響―カ・ドーロの『磔刑』などファン・エイク派の作例を中心に―」美学251号2017年」というもので、ワシントンNGにあるペルジーノの三連祭壇画キリストの磔刑(1482~85年)(フィレンツェ、サンタマリア・マッダレーナ・デ・パッツィ修道院のフレスコ画を縮小したような絵)はファン・エイク派の影響により作られ、また、チェルクエートにある聖セバスティアヌス(1478年銘)からストックホルムにある聖セバスティアヌス(1485年頃)への姿勢の変化はドイツ版画の影響によるものとしています。

江藤氏が取り上げた、ヴェロッキョ工房のピストイア祭壇画、ギルランダイオのブロッツィの聖会話、ペルジーノのガリツィン祭壇画(及び聖セバスティアヌスの姿勢変化)を並べてみると、ヴェロッキョ工房内にとどまらず、その周辺にいた画家もそれぞれが独自に北方絵画から何かを学ぼうとしていたことが分かります。特にギルランダイオの例は1470~75年頃であり、ピストイア祭壇画の1475~85年より早いということは重要です。「ヴェロッキオ工房が当時のフィレンツェにおける最先端情報センター」だったということには私も同意見ですが、こういう個別の動きがあったということも忘れないでおきたいと思います。

ボッティチェリ、ギルランダイオ、ペルジーノらがヴェロッキョ工房とどのような関わりであったのかは、以前のコメントでも書きましたが、多分ボッティチェリは自宅からの通いの協力者(1470年作のフォルテッツァがポライゥオーロやヴェロッキョと深い関係を持つ作品なので、フィリッポ・リッピがスポレートに移ってからはボッティチェリがヴェロッキョ工房と関わりを持ったことはほぼ確実。絵画部門の責任者だったかもしれない)。ペルジーノもヴェロッキョ工房と関係していることは間違いないし、フィレンツェ出身ではないので、住み込みかもしれない。一方、ギルランダイオは微妙です。ブロッツィの洗礼はヴェロッキョ・レオナルドの洗礼と関連する作品であること、LNG展に出ていた聖母子もヴェロッキョ工房の聖母子に近い作品なので、影響関係は強いと思いますが、工房の協力者だったかはよく分りません。今回のスコットランド展図録のラスキンの聖母解説でも、「ヴェロッキョの直接の弟子であったと知られておらず」としています。もし、協力者でないなら、ヴェロッキョ工房の動向(油彩技法や風景表現、聖母子の姿勢などの北方絵画の影響)の情報を横で眺めながら独自に追及していったということになります。
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むろさんさん (花耀亭)
2022-07-09 01:36:39
芸術新潮2018年11月号をチェックしました。ありがとうございました!! 記事にあった展覧会動画も見つけました。「レオナルドの師匠」と強調されてますね(;'∀')「Verrocchio, il maestro di Leonardo」
https://www.youtube.com/watch?v=Ai7zyjhs2No

で、15世紀後半のフィレンツェ絵画への北方絵画からの影響に関しての論文ご紹介もありがとうございました!!
ギルランダイオはメムリンク作品模写も残っていますし、やはり北方絵画への関心が強かったのでしょうね。「ペトルス・クリストゥスの聖母子の影響」というのも興味深いです。フランドル絵画がヴェロッキョ工房以外の画家たちにも大きな刺激を与えたことは確かですよね。
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江藤氏のレオナルド論文 (むろさん)
2022-07-09 21:56:37
上記コメントで取り上げたギルランダイオとペルジーノに関する江藤氏の論文の間の時期に、同じ江藤氏が書いたレオナルドのジネブラ・デ・ベンチに関する北方絵画からの影響についての論文がありました。東洋大学の国際哲学研究4号(2015年)に掲載され、インターネットで読めます。
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/15429.pdf

これを読んで面白いと思ったのは、ヤマザキマリ作リ・アルティジャーニの第25回でレオナルドがジネブラ・デ・ベンチの肖像画を依頼される場面との関連です。ここではベルナルド・ベンボとアントネルロ・ダ・メッシーナもレオナルドに紹介されていますが、論文ではジネブラとベンボの間に恋愛関係があった可能性が述べられています。リ・アルティジャーニではジネブラが結婚するお祝いとしてベンボが肖像画を贈る(制作年の従来説)としていますが、論文中の年齢関係(ジネブラの結婚時の年齢は17歳。ベンボがフィレンツェに滞在していた時期のジネブラの年齢は23歳)とは整合していません。私は北方絵画からの影響のことよりも、ジネブラとベンボの不倫関係(別れに際して肖像画を注文した?)、レオナルドがこの二人の関係を知っていたら、ジネブラの肖像画裏面に最初に書かれたという「徳と名誉」(現状の「美が徳を飾る」の下面にあって赤外線撮影で判明)の文字をどんな思いで書いたのか、そして、この絵の制作年代や(ジネブラの肖像画との関連が言われている)バルジェロにあるヴェロッキョ工房作の貴婦人の大理石胸像との関係などの方に興味がわきます。ヴェロッキョ工房に関する問題の一環として(後記するフィレンツェ・ワシントンの展覧会図録のことも含め)今後調べていこうと思います。

ヤマザキマリさんもこの江藤論文、または、論文中に引用されているいくつかの原論文を読んでいてストーリーを考えたのかと思いました。なお、論文中ではジネブラ・デ・ベンチの肖像はベルリンにあるペトゥルス・クリストの婦人の肖像から影響を受けているとする多くの説を紹介していますが、アントネルロ・ダ・メッシーナについては簡単に触れているだけです(リ・アルティジャーニとは少し違う内容)。

なお、前コメントの冒頭に挙げたアビ・ヴァールブルク伝からの引用は、江藤氏のペルジーノ作ガリツィン祭壇画の論文の冒頭から取ったものですが、このレオナルドの論文でも同様に冒頭に書かれているので、氏はこの言葉をキーワードとして考えているように思います。この辺はこのレオナルドの論文の1章と5章(結論)で詳しく述べられていますが、リ・アルティジャーニで繰り返し描かれている「北方絵画の悲壮感」「北方の絵師の描く表情」「考古学調査(ルネサンスとはギリシャ・ローマの復興という常識)」といったことに対する問題点への解答がここに書かれていると思います。リ・アルティジャーニと比べながらこの江藤論文を読むとよろしいかと。

ご紹介の「Verrocchio, il maestro di Leonardo」の動画、既に貴ブログ「ウッチェロ《聖ゲオルギウスと竜》の制作年表記」2020-09-22 のコメントやり取りの中で9/28に教えていただいております。
https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/c092a539b5aecda089572afc5ea7234c
また、この中の10/1の私のコメントでは別の動画とワシントンNGヴェロッキョ展を訪問した人の記事も引用しています。これらをあらためて眺めてみると、ピストイアの祭壇画を初め、ヴェロッキョ、レオナルド、ボッティチェリ、ギルランダイオ、ペルジーノなどの今回話題になった画家の作品が多く取り上げられていて、大変有意義な展覧会だったということが分かります。フィレンツェ・ストロッツィ宮でのこの展覧会の伊語版図録が都内の図書館で閲覧できますので、そのうち確認に行こうと思っています。
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Unknown (Unknown)
2022-07-11 22:46:53
>ジネブラとベンボの間に恋愛関係があった可能性
なんと!初めて知りました(;'∀')。確か受けてに、何故ベンボが肖像画を依頼しのたのかが了解できますね。
で、《ジネブラ..》がベルリンのペトルス作品の影響を受けていたら...なるほど面白いです!! ご紹介の江藤氏論文、チェックしたいと思います。

>「Verrocchio, il maestro di Leonardo」
恥ずかしながら、失念しておりましたです(^^ゞ。
本当にベロッキョ工房って面白そうですよね。むろさんさんの図録チェック、及び、ベロッキョ工房ご考察の続きを楽しみにしております(^^)/
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ジネブラ・デ・ベンチ (むろさん)
2022-07-12 01:40:40
私もこのジネブラとベンボの恋愛関係については初めて読んだのですが、最近出た他の資料を確認したら、同様のことが書かれていました。(池上英洋著レオナルド・ダ・ヴィンチ―生涯と芸術のすべて―筑摩書房2019のP249) この中で池上氏は「彼にとって彼女は精神的な愛を捧げる相手」「注文主をベンボとするのが合理的」「制作時期を1478~80年とする説に与したい。ジネブラの21~23歳時にあたり、モデルの年齢としても相応しい」としています。なお、この本にはジネブラの肖像画裏面銘文の赤外線写真やベンボがモットーとしたVirtus et Honorの標章の写真も出ていますので、上記論文と合わせて読むとより理解できます。

注文主と制作時期は、諸資料の状況から見て、私も池上氏の考えに同感ですが、「精神的な愛を捧げる相手」というのはどうなんでしょうか? このケースとほぼ同時代の例として、シモネッタとジュリアーノの件が有名です。辻邦生の小説「春の戴冠」ではシモネッタとジュリアーノが同居していたという設定をしていますが、それはあくまで小説の中での想像であり、ストーリーの展開上そのような関係を考えたのでしょうが、馬上槍試合での勝者へ冠を渡すミューズという衆人環視の公的な舞台での役割を演じているので、実際の恋愛関係というのはちょっと無理だったと思います。一方、ジネブラとベンボについては、そのような公の場で披露するようなことではないし、上記論文で書かれているように「友人の家で遇うと一目で恋に落ちた」ということなら、お互いに夫・妻がいる立場でも実際の恋愛関係だったという可能性の方が高いのではないかと思います(論文ではペトラルカの恋人ラウラのことも述べられていますが、このことからは精神的な愛を捧げる相手だったかどうかは判断できないでしょう)。

結婚祝いとしての肖像画ということでは、同じ頃の例として、Met展に出ていたギルランダイオ(弟のダヴィデ)作セルバッジャ・サセッティの絵とか、近代の例ですがスコットランド展に出ていたフランシス・グラント作の絵があります。これらは結婚する娘の絵であり、父親の立場からのものですが、ベンボが家族でもないジネブラの絵を結婚に際して注文したという従来の説はやはり不自然という気がします。それよりも1480 年にフィレンツェを去る時に愛人の肖像画を描かせたという方が(ちょっと未練がましい気もしますが)自然に思えます。

私にとってジネブラ・デ・ベンチは、初めて西洋美術に興味を持つきっかけとなった絵です。リヒテンシュタイン公国からアメリカのメロン財閥が購入することになった話を新聞の文化欄で読み、興味を持ちました(当時の絵画取り引き史上最高額とか飛行機の一人分の座席を使って運んだといった内容でした)。そしてこれを読んだ数年後にボッティチェリの本(集英社Rizzoli版)を買ってから本格的にイタリア・ルネサンス美術にのめり込みました。ワシントンへ行って実物を見るまでにはそれからさらに10数年かかりましたが、ボッティチェリの作品とともにWNGでもっとも見たかった絵であり、裏面が見れるように展示されていて嬉しく思ったことを今でも覚えています。
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むろさんさん (花耀亭)
2022-07-13 01:12:56
前回レスに名前を入れ忘れ、失礼しました(^^ゞ

>ジネブラとベンボの恋愛関係
やはりイタリア男だなぁ、と思いました(笑)。ちなみに、息子のピエトロ・ベンボもフェッラーラでルクレツィア・ボルジアと恋愛関係だったようで、この父子、なんだか了解してしまいました(;'∀')

>初めて西洋美術に興味を持つきっかけ
むろさんさんの原点的作品だったのですねぇ。確かに目が吸い寄せられる肖像画ですよね。あの肌の透明感と言ったら...さすがレオナルドだと私も溜息をついてしまいました。ご紹介いただいた江藤氏論文にベルリンのペトルス作品からの影響について言及がありましたが、なるほどで、両者の冷ややかな眼差しと肌の質感に共通性を感じます。
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関連する論文紹介 追加分 (むろさん)
2022-07-15 23:05:42
芸大のサイトで今回のテーマに関連するネットで読める論文が2つありましたのでご紹介します。

一つ目は論文というより展覧会評ですが、美術史の専門家の方が書いているので、有意義な内容だと思います。
展覧会評「ヴェロッキオ レオナルドの師匠 」 : 会期 : 2019年3月9日-7月14日 / 会場:フィレンツェ、パラッツォ・ストロッツィ(平井彩可 西洋美術史研究室紀要Vol.17 2019年)
https://geidai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1033&item_no=1&page_id=13&block_id=17
特にピストイアの「広場の聖母」についての解説が詳しいので役に立ちます。
なお、著者は同じ紀要のVol.13、14、18でボッティチェリの論文を書いています。また、別の号にはアルテミジア・ジェンティレスキやヴァザーリ関係の論考などもありますのでご興味があればどうぞ。

二つ目は前コメントで書いた江藤氏のジネブラ・デ・ベンチの論考の続編です。同じ頃の執筆なので、多分東洋大学の論文で字数制限のため書き切れなかったことの追加だと思います。
フランドル絵画の仲介者としてのベルナルド・ベンボ : 《樹木の判じ絵(arboreal rebus)》の導入をめぐって(江藤匠 西洋美術史研究室紀要Vol.14 2016年)
https://geidai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=788&item_no=1&page_id=13&block_id=17
https://core.ac.uk/reader/235585440
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/66/2/66_KJ00010199713/_pdf
2番目も同じものですが、1回のクリックで出てきます。ただしhtml形式なので(文字が小さくても)拡大できないため、1番目のpdfをダウンロードした方がよいかもしれません。3番目は論文の要約版です。

<ピエトロ・ベンボとルクレツィア・ボルジアの関係
面白そうなので手持ち資料で少し調べてみました。
ふくろうの本「ルネサンスに生きた女性たち」佐藤幸三2000年、ヒロインの世紀7「ルネサンスの美女たち」千趣会1997年、塩野七生「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」新潮社 などです。(塩野氏の「ルネサンスの女たち」は持っていないのですが、ルクレツィア、イザベラ・デステなど4人を扱っているので、この機会にルクレツィアの部分だけでも読んでみようと思います。)

ルクレツィアについては父と兄の都合による3度の政略結婚、3人の愛人、イザベラ・デステとの確執などいろいろなことが出ていましたが、ピエトロ・ベンボとの関係は政略結婚に対する不満だったのでしょうね。惣領冬実の「チェーザレ」ではルクレツィアはまだ可愛い少女の時代ですが、今後の展開でどのように変わっていくのでしょうか(今の執筆ペースではいつになるか分りませんが)。

ルクレツィアの肖像とされる絵はいくつかありますが、私はヴァチカンのボルジアの間第5室にピントリッキオが描いたアレクサンドリアのカタリナに扮した女性像が一番印象に残っています。このボルジアの間はルクレツィアをはじめ一族の人々に関わる様々な出来事の舞台になった場所でもあり、そこに描かれた美しい女性として、(本人ではないかもしれませんが)この絵は特に想像をかき立てるものです。

ピエトロ・ベンボの方は晩年の枢機卿の時にティツィアーノが描いた肖像画が数点残っていますが、若い頃の肖像とされているラファエロ作のブダペスト美術館の絵が(本当にベンボならば)この恋愛の時に一番近い時期の絵です。この絵は確か1990年代にブダペスト美術館展で来日し、その後2013年の西美ラファエロ展にも来ています。ラファエロ展の図録解説を読むと「1503~04年頃、像主の特定は困難」とあるので、実際にベンボであるかどうかは不明です。ルクレツィアと恋愛関係にあった時期は1502~03年で絵の推定時期と近いのですが、当時ベンボは32歳であり、この絵は20歳ぐらいの若者に見えるので、ベンボとするのは難しいかもしれません(ラファエロは当時20歳ぐらいなので、この絵のモデルをラファエロとする自画像説には有利です)。

3度目の結婚直後とはいえ、まだ22歳のルクレツィアと、10歳年上の美貌の詩人との恋愛のイメージとしては、ピントリッキオの絵とブダペストの絵を組み合わせて想像したいところです。また、ベルナルド・ベンボとピエトロ・ベンボ父子がともに人妻と恋をしたということで、親子そろっていかにもイタリア人の男という感じですが、恋愛に関してはルクレツィア・ボルジアの方が一枚上ですね。
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むろさんさん (花耀亭)
2022-07-18 00:22:28
芸大のサイトの論文、ご紹介ありがとうございました!!《ピストイア祭壇画》《ジネブラ・デ・ベンチ》について更に勉強できました(^^)

で、私的にベルナルド・ベンボはメムリンクの肖像画(多分)で知っていたので、ジネブラの恋人としてよりも、メムリンクとレオナルドを両方知っていた事の方が羨まし過ぎだと思います(笑)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bernardo_Bembo,_by_Hans_Memling.jpg

>ボルジアの間第5室にピントリッキオ
確かにあのルクレツィア(多分)は金髪で美しかったです。惣領さんの「チェーザレ」にもピントリッキオが登場してます。3度も政略結婚しているルクレツなので、恋愛ぐらいは自由にしたかったでしょうね(;'∀')
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2019年のヴェロッキオ展図録(その1) (むろさん)
2022-08-23 23:58:39
7/9のコメントで書いた2019年3~7月フィレンツェ・ストロッツィ宮で開催された「Verrocchio, il maestro di Leonardo」展の伊語版図録ですが、借りることができて今手元にあります。350ページぐらいの本で、知らない作品も多く掲載されていました。上記7/15のコメントでご紹介した平井彩可氏の展覧会評(芸大紀要Vol.17)も参考にしながら、この10日間ぐらいスキャナーでの図版取り込みやコピー、関連する過去の解説資料との比較などを行っていましたので、感じたことや分かったことなどをいくつか書きます。

この展覧会の目的はバルジェロその他にあるヴェロッキオの彫刻作品から絵画作品等への流れを工房周辺の弟子・協力者の手も考慮しながら解明していくことと、その結果としてのピストイアの祭壇画(広場の聖母)の制作分担を明らかにすることにあると思われますが、私が第一に感じたのはウフィツィ美術館にある絵画作品があまり取り上げられていない、ということです。ウフィツィからの出品は素描ばかりであり、テンペラ画(及びフレスコ画・油彩画)は皆無です。これは同展がすぐ近くで開催されているので、見たい人はウフィツィへ行って見ればいいということなのだと思いますが、図録掲載の論考や出品作品解説でもウフィツィ所蔵品に触れることが少ないように感じます(展覧会の主体となる研究者がバルジェロ美術館関係者だということも関係しているかもしれません)。図録中にはウフィツィにあるヴェロッキオとレオナルドの「キリスト洗礼」の図版は掲載されていて、ヨハネの腕やキリストの足の細部描写と他の推定ヴェロッキオ作品との比較などは出ていますが、同じウフィツィにあってキリスト洗礼図と同様の制作事情(数人の弟子・協力者による作品)と考えられている「3大天使」の絵(フランチェスコ・ボッティチーニ他の作)が全く触れられていないし、ボッティチーニの名前もほとんど出てきません。

この「キリスト洗礼」と「3大天使」については、2007年新宿ペルジーノ展図録で当時のウフィツィ美術館館長A.ナターリ氏が「フィレンツェ、ヴェロッキオの周辺にて」という有意義な論考を書いていて、まさにこの2枚の制作事情が1470年代頃のヴェロッキオ工房の実態を正しく評価していると思われるので、2019年のヴェロッキオ展でその辺が考慮されていないとしたら不十分と思います。これはバルジェロとウフィツィという研究者の系列による意見の差が出ているのかもしれません。巡回展のワシントンNGでの出品作や図録でウフィツィの絵画作品をどのように扱っているのかも知りたいところです。(2020年9月22日の貴ブログ「ウッチェロ《聖ゲオルギウスと竜》の制作年表記(^^;)」に対する10/1のコメントでご紹介したワシントンNG巡回展訪問記事を見ると、ウフィツィの「キリスト洗礼」が写っていますので、ワシントンではウフィツィからの絵画作品の出品もあったようです。下記URL)
https://mikissh.com/diary/verrocchio-national-gallery-of-art-washington-dc/
なお、ついでながら、フィレンツェでのヴェロッキョ展について、現地在住の観光ガイドをされている方の訪問記事もありました。14回に分けて記事を投稿されていて、写真も豊富で出品作品の概要がよく分ります(下記URL)。末尾の2231を2236から2254まで変えるか、あるいは下の方にあるPrevious Postを順次クリックしていくと見ることができます。ご参考まで。
http://yukipetrella.blog130.fc2.com/blog-entry-2231.html

2019年ヴェロッキオ展でのボッティチェリの出品作は、カーポディモンテの聖母子1枚でした。ヴェロッキオの影響が強い作品という意味ではこれでも良いのですが、本当は制作年の明確な基準作であるウフィツィの「フォルテッツァ」が出ていれば、ヴェロッキョ工房に対するポライゥオーロ工房との注文の競合に関わる作品という経緯もあり、もっと意味のある出品になったと思われます。また、上記2020年9月22日の貴ブログでご紹介していただき、私も(ヴェロッキオに近い作品として)いろいろコメントをつけたジャクマール・アンドレのボッティチェリ作?聖母子についてはこの展覧会には出ていません。ヴェロッキオ作とされる世界各地の聖母子は主な作品がほとんど出ているし、同じジャクマール・アンドレからはペルジーノ作とされる聖母子も出ているので、このボッティチェリ作?とされる絵については誰の作か評価が分かれているためか、あるいは後述するギルランダイオ作の聖母子のように、他の作品がヴェロッキオ作かどうかを判断するための材料にもならないと考えられたので出品されなかったのかと思います。

個々の出品作について感じたのは、今までポライゥオーロ、ヴェロッキオ、ギルランダイオ、ペルジーノなどの作とされていた作品の帰属、判定がかなり変化していることです。
つい最近見たばかりのヴェロッキオ帰属作品であるスコットランド国立美術館展出品のラスキンの聖母が、2019年ヴェロッキオ展ではギルランダイオの作とされています。そしてワシントンNGにあるギルランダイオ作の聖母子(下記URL)と聖母の顔の部分だけを切り取った図が並んで掲載されていました。
http://arts.moo.jp/G/Ghirlandaio/z007.html
このワシントンの絵はファブリ画集(平凡社1973年、高階秀爾解説)にも掲載されていて、お馴染みの作品ですが、ラスキンの聖母との類似には全く気がつきませんでした。スコットランド展の準備段階で考えていたのは、ロンドンNGにある「聖母子と2天使」(現在ヴェロッキョとロレンツォ・ディ・クレディ作とされる作品)の聖母との顔の類似(但し斜めの向きは左右逆)であり、ワシントンの絵が思い浮かばなかったのは、聖母の顔以外では全く雰囲気が違うためです(例えば幼児キリストの表現や聖母の装飾の豪華さ、背景の違いなど)。聖母の顔の部分だけを切り取った形で比べれば、いかに似ているかが分かります(ラスキンの聖母、ワシントンNGの聖母子、ロンドンNGの聖母子と2天使 の3枚ともヴェロッキオ展出品作)。スコットランド展図録解説ではラスキンの聖母の作者をギルランダイオとすることには否定的です。「何人かの研究者は最近ラスキンの聖母の全部または一部を若い頃のドメニコ・ギルランダイオの手になるものとしているが、確かな証拠があるわけではない」と書かれていて、これは2019年ヴェロッキオ展図録を指しているものと思います。(続く)
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