今年も今日で終わり。時が過ぎていくことを感じることができない仕事をしていると、ますます1年が短く感じる。
今年もたくさんの方々にお世話になって、県議会議員としての仕事をすることができた。感謝、感謝の1年である。
そんな中で、1人、また1人と、お世話になった方々が亡くなっていくのは淋しいものである。
私のブログや、フェイスブックで何度か書いてきたが、12月25日にお亡くなりになった高崎市議会議員の山田行雄さんについて書いておきたい。
「追悼 山田行雄さん」
山田さんが危篤状況だと須藤国労高崎委員長から連絡が入ったのが24日だった。山田さんは2010年の夏にガンであることが判明し、いくつかの個所に転移しており、余命あと3ヶ月位と宣告された。
山田さんからその事を告げられ、愕然としていた私だったが、山田さんは「オレは負けない」と言って、そこから山田さんとガンとの凄まじい闘いが始まった。
山田さんのガンの発生源である大腸がんを先ず摘出する大手術。さらに転移したガンが足につながる神経を圧迫し歩けなくなりそうになると、命に係わる大手術を行い、歩く力を回復させた。
その間、放射線治療や抗ガン剤などの薬を投与しながら、2011年4月の高崎市議会議員選挙で3度目の当選を果たし、その後もガンと壮絶な闘いをしながら政治活動を続けた。
山田さんが凄いのは、全く我々に弱気なことを言わない、見せない。常にファイティングポーズを取り続けて、あらゆる政治的事象に対処していったことです。
山田さんは、連れ添った淑子夫人もビックリするくらいの強気、強気で、最後の最後まで弱気を見せなかった。その精神力とガンとの闘いの様は、医師もこんな患者は見たことがないと感嘆するほどのものだった。
2008.7 山田後援会のみなさんと 2009.11 私の地元吉井町の産廃予定地視察
「山田さんとの出会い」
そんな山田さんとの出会いは、確か1986年の夏だったと思う。
当時、国鉄の分割民営化を推し進める中曽根内閣は、衆・参ダブル選挙で圧勝し、分割民営化に反対する国鉄労働組合(国労)は、劣勢な政治状況にあった。
しかし、厳しい状況になっても「1人の首切りも許さない、仲間を裏切らない」を旗印に、山田さんの所属する国労高崎は、国労の中でもとりわけ反対姿勢を強く打ち出していた。
夏季休暇で故郷の群馬県に帰省した時に、国労高崎の青年部が高崎駅西口の前で分割民営化反対のハンガーストライキを行っており、そこで初めて山田さんと出会った。
私も東京で、国鉄の分割民営化に反対する小さな市民運動に参加していて、国労高崎の闘いについて話は聞いていた。
その後の国労にとって大きな分岐点となったこの年の10月に行われた国労の臨時大会が静岡県の修善寺であり、決戦の修善寺大会に全国から国労を支援する労組や市民運動の仲間が結集するための前段集会を千代田区の九段会館で行った。
その日の夜にバスで国労高崎のメンバーと修善寺大会にかけつけた時に、再び山田さんと会った。
国鉄は分割民営化されたが、山田さんが役員をしている国労高崎が、信越線の存続運動とセットで、長野新幹線に反対する運動をすすめている時に、山田さんと運動を少しだけ一緒にさせていただいた。
「山田高崎市議会議員との新たな出会い」
その後、私は国会議員の秘書になり、山田さんとも暫く会うことがなかったのだが、私が2004年の秋に故郷に戻って政治家になりたいとの決意を固めて、最初に群馬県で相談に乗っていただいたのが山田さんだった。
山田さんは国労高崎書記長を経て、高崎市議会議員にすでになっており、高崎地域の政治情勢に精通しており、山田さんと相談をしながら自らの政治的選択をしていったものだった。
山田さんと私との仕事の中で、思い出はたくさんあるが、特に分割民営化の煽りで首を切られた1047名の国労闘争団の解決問題に寄与できたことが私にとって印象に残ることだった。
当時、国労本部は1047名の国労闘争団の扱いをめぐって、後退に後退をし始めており、国労の中も方針をめぐって分裂状況が続いていた。特に国労高崎が支援する国労闘争団の最強行派の部分である「闘う闘争団」と国労本部との軋轢は凄まじく、こうした分裂状況を脱し全てのグループが結集しないと、交渉相手である国土交通省に足元を見られる事態にあった。
そこで動いたのが山田さんだった。
2005年の11月に1047名解決の、まさに陰の功労者である北海道平和フォーラムの小林代表、当時の国労本部の吉田書記長との三者会議を開いて、修復の可能性を探る初めての試みを行うことになった。
私が秘書をしていた金田誠一衆議院議員が、大変お世話になっていた小林さんと山田さんをつなげ、吉田書記長との三者会議のセッティングなどの仕込みに私も携わったわけだが、山田さんは当時から明確な戦略を持っており、私に三者会議のセッティングの強い指示要請もあった。
結果、関係者の努力もあり、2010年の鳩山政権時に国労闘争団1047名問題は、一定の解決を果たすことができた。
5年かかった大変な取り組みだったが、山田さんがこの解決に果たした役割は極めて大きかった。その事を知る者は少ないかもしれないが、ぜひ知ってほしい「事実」なのだ。
「高崎市議会での山田さん」
国労高崎の書記長だった山田さんは、2003年に高崎市議会議員になった。山田さんの異能とでもいうべき「力」が発揮されてきたのは、高崎市議会議員になってからだろう。
国労時代に培った経験や交渉力、大局観などが、さらに花開いた。高崎市役所や高崎市議会の中で、山田さん独特の存在感で、市役所や市議会の中で会派、党派を超えて評価されていた理由は「筋」を通す政治手法と、政治的合意形成の巧みさにあったと思う。
私も県議会議員として高崎市政への要望がある時に、山田さんの抜群の根回しによく助けられた。
政治的な落とし所も1つに限定するのではなく、複数の落とし所を必ず用意していた。もちろん「筋」は外していないのは当然である。
こうした山田さんの政治的ビヘイビアが、多くの市職員や市議会議員の信用や信頼をつくってきた理由だと思う。
しかし、山田さんは決して「いい人」ではなかった。いつも冷徹に現実を直視していたし、情に流されて政治的判断をするということは、ほとんどなかったと思う。そういう厳しさがまた、山田さんの魅力だったのだと思う。
「ガンと闘う山田さん」
ガンと闘う山田さんに厳しい現実が突き付けられたのは今年の夏だった。
ガンが進行し、またもや足につながる神経を圧迫し、写真の新聞記事にあるように、山田さんは手術の機会を逃し、歩けなくなり、車イス生活になってしまった。
ガンと3年以上闘ってきた山田さんの体は、手術する余力もなくなってきたし、恐らくガンは更に転移し、山田さんの体を蝕んでいたのだと思う。
秋以降、山田さんは急速に体が衰えていった。しかし気力は充実し、議会での本会議質問も続け、顔を合わせると次回の選挙戦をどのように闘うのかということを、いつも私に話していた。
車イスになっても山田さんの独特の政治的勘は冴えわたっていた。私にはたまに電話してきて「政治情勢について報告に来い」と命令していた(笑)。山田さんの「命令」は、いつものことなのだが、その「命令」に「?」と思うこともあったが、従わざるをえないのが山田さんの「人徳」だ。「人徳」のウラには、山田さんの体に似合わない気配りがあったことは言うまでもない。
山田さんにとっては中央政治、特に安倍政権の暴走ぶりに対する危機感や、対抗政治勢力の力量不足もあり、いつもイライラしていたのだと思う。
私が国会議員の秘書をしていたこともあり、そうした動向も加味して群馬や高崎でどのような政治的組立てをしていくのかも絶えず考えていて、私と話すことを楽しみにしてくれていたようでもあった。
山田さんからは「角倉は最近、顔を出さない」と怒られたりしたが、日々衰弱していく山田さんを見るのが忍びなかったのも正直な気持ちであった。
山田さんと最後にお会いしたのは、亡くなった25日の午前中だった。
「山田さん、角倉だよ」と言うと、山田さんはすでに声を出すことも出来ず、息も絶え絶えの中で、目で合図を送ってくれた。
その場で泣いてはいけないと何とかこらえたが、その日の午後にオスプレイ問題の防衛省交渉で東京に向かう誰も乗っていない新幹線の中で、ひたすら泣けて、泣いてしまった。
山田さんは、その日の午後10時30分にお亡くなりになった。
2011.3 高崎駅西口にて 2013.4 私の政経セミナーにて
「淑子夫人のこと」
もうひとつ、ふれておきたいことがある。ガンと闘う山田さんの最大の理解者であり支援者であった淑子夫人のこと。献身的に山田さんを支えて、たまに顔を出す私にも大変よくしていただいた。
山田さんのガンとの闘いも、政治活動も、淑子夫人なくしてありえなかった。
淑子夫人は、「まったくこの人は、私に感謝の言葉ひとつもない」と笑いながらこぼしていたが、淑子さんそんなことはありません。山田さんは「うちのカアチャンなくしてオレはありえない」と私にいつも言っていた。
照れ屋の山田さんだから恥ずかしくてとても言えなかったと思うけれど、私たちの前では、たまに涙声で「うちのカアチャンに感謝している」と言っていた。淑子夫人が告別式のあいさつで「山田が亡くなるその日の午後4時くらいに、大粒の涙を流していた」というお話を聞き、その涙は淑子さんへの感謝の気持ちの表れだと思った。
淑子夫人からは私に対して「あの人は絶対に人を褒めないけど、角倉さんのことは私に褒めているよ。」と言っていただいて、内心うれしくて、うれしくてしょうがなかったことも思い出す。
「活動家 山田行雄」
山田さんは凄かった。「死」に直面する中で恐怖や孤独、痛み、苦しさがある中で、弱音を決して吐くことはなかった。
それどころか山田さんは、この夏には国労高崎の唐沢書記長宛てに自分の葬式の在り方まで指示していた文章が山田さんのパソコンの中から見つかり、皆も驚いたり、呆れたりで、「山田はやっぱり最後まで書記長だったよな」と皆で葬儀の準備をしながら苦笑いをした。
山田行雄という群馬にあって異彩を放った「政治家」の10年が終わった。
しかし、山田さんは「政治家」ではなく「活動家」だったと思う私である。
私も、自分を「政治家」と表向きはいっているが、「活動家」だと規定している。
「政治家」と「活動家」の違いは「政治権力」への距離感だと思う。
私も山田さんも、暗黙の不文律である「権力にならない」「権力への抵抗」。そんなところが通底したのだと思う。
山田さんが亡くなった今、私自身の決意がまた1つ固まった。
「人生とは自分のためにある」ということ。結果として自分の人生が人のためになることもあるかもしれないが、「人生とは自分のためにある」と勝手に規定して、残りの私人生を歩んでいきたい。
山田さん、ありがとうございました。心の底からありがとうございました。そして、さようなら。
群馬県議会議員(活動家) 角倉邦良
今年もたくさんの方々にお世話になって、県議会議員としての仕事をすることができた。感謝、感謝の1年である。
そんな中で、1人、また1人と、お世話になった方々が亡くなっていくのは淋しいものである。
私のブログや、フェイスブックで何度か書いてきたが、12月25日にお亡くなりになった高崎市議会議員の山田行雄さんについて書いておきたい。
「追悼 山田行雄さん」
山田さんが危篤状況だと須藤国労高崎委員長から連絡が入ったのが24日だった。山田さんは2010年の夏にガンであることが判明し、いくつかの個所に転移しており、余命あと3ヶ月位と宣告された。
山田さんからその事を告げられ、愕然としていた私だったが、山田さんは「オレは負けない」と言って、そこから山田さんとガンとの凄まじい闘いが始まった。
山田さんのガンの発生源である大腸がんを先ず摘出する大手術。さらに転移したガンが足につながる神経を圧迫し歩けなくなりそうになると、命に係わる大手術を行い、歩く力を回復させた。
その間、放射線治療や抗ガン剤などの薬を投与しながら、2011年4月の高崎市議会議員選挙で3度目の当選を果たし、その後もガンと壮絶な闘いをしながら政治活動を続けた。
山田さんが凄いのは、全く我々に弱気なことを言わない、見せない。常にファイティングポーズを取り続けて、あらゆる政治的事象に対処していったことです。
山田さんは、連れ添った淑子夫人もビックリするくらいの強気、強気で、最後の最後まで弱気を見せなかった。その精神力とガンとの闘いの様は、医師もこんな患者は見たことがないと感嘆するほどのものだった。
2008.7 山田後援会のみなさんと 2009.11 私の地元吉井町の産廃予定地視察
「山田さんとの出会い」
そんな山田さんとの出会いは、確か1986年の夏だったと思う。
当時、国鉄の分割民営化を推し進める中曽根内閣は、衆・参ダブル選挙で圧勝し、分割民営化に反対する国鉄労働組合(国労)は、劣勢な政治状況にあった。
しかし、厳しい状況になっても「1人の首切りも許さない、仲間を裏切らない」を旗印に、山田さんの所属する国労高崎は、国労の中でもとりわけ反対姿勢を強く打ち出していた。
夏季休暇で故郷の群馬県に帰省した時に、国労高崎の青年部が高崎駅西口の前で分割民営化反対のハンガーストライキを行っており、そこで初めて山田さんと出会った。
私も東京で、国鉄の分割民営化に反対する小さな市民運動に参加していて、国労高崎の闘いについて話は聞いていた。
その後の国労にとって大きな分岐点となったこの年の10月に行われた国労の臨時大会が静岡県の修善寺であり、決戦の修善寺大会に全国から国労を支援する労組や市民運動の仲間が結集するための前段集会を千代田区の九段会館で行った。
その日の夜にバスで国労高崎のメンバーと修善寺大会にかけつけた時に、再び山田さんと会った。
国鉄は分割民営化されたが、山田さんが役員をしている国労高崎が、信越線の存続運動とセットで、長野新幹線に反対する運動をすすめている時に、山田さんと運動を少しだけ一緒にさせていただいた。
「山田高崎市議会議員との新たな出会い」
その後、私は国会議員の秘書になり、山田さんとも暫く会うことがなかったのだが、私が2004年の秋に故郷に戻って政治家になりたいとの決意を固めて、最初に群馬県で相談に乗っていただいたのが山田さんだった。
山田さんは国労高崎書記長を経て、高崎市議会議員にすでになっており、高崎地域の政治情勢に精通しており、山田さんと相談をしながら自らの政治的選択をしていったものだった。
山田さんと私との仕事の中で、思い出はたくさんあるが、特に分割民営化の煽りで首を切られた1047名の国労闘争団の解決問題に寄与できたことが私にとって印象に残ることだった。
当時、国労本部は1047名の国労闘争団の扱いをめぐって、後退に後退をし始めており、国労の中も方針をめぐって分裂状況が続いていた。特に国労高崎が支援する国労闘争団の最強行派の部分である「闘う闘争団」と国労本部との軋轢は凄まじく、こうした分裂状況を脱し全てのグループが結集しないと、交渉相手である国土交通省に足元を見られる事態にあった。
そこで動いたのが山田さんだった。
2005年の11月に1047名解決の、まさに陰の功労者である北海道平和フォーラムの小林代表、当時の国労本部の吉田書記長との三者会議を開いて、修復の可能性を探る初めての試みを行うことになった。
私が秘書をしていた金田誠一衆議院議員が、大変お世話になっていた小林さんと山田さんをつなげ、吉田書記長との三者会議のセッティングなどの仕込みに私も携わったわけだが、山田さんは当時から明確な戦略を持っており、私に三者会議のセッティングの強い指示要請もあった。
結果、関係者の努力もあり、2010年の鳩山政権時に国労闘争団1047名問題は、一定の解決を果たすことができた。
5年かかった大変な取り組みだったが、山田さんがこの解決に果たした役割は極めて大きかった。その事を知る者は少ないかもしれないが、ぜひ知ってほしい「事実」なのだ。
「高崎市議会での山田さん」
国労高崎の書記長だった山田さんは、2003年に高崎市議会議員になった。山田さんの異能とでもいうべき「力」が発揮されてきたのは、高崎市議会議員になってからだろう。
国労時代に培った経験や交渉力、大局観などが、さらに花開いた。高崎市役所や高崎市議会の中で、山田さん独特の存在感で、市役所や市議会の中で会派、党派を超えて評価されていた理由は「筋」を通す政治手法と、政治的合意形成の巧みさにあったと思う。
私も県議会議員として高崎市政への要望がある時に、山田さんの抜群の根回しによく助けられた。
政治的な落とし所も1つに限定するのではなく、複数の落とし所を必ず用意していた。もちろん「筋」は外していないのは当然である。
こうした山田さんの政治的ビヘイビアが、多くの市職員や市議会議員の信用や信頼をつくってきた理由だと思う。
しかし、山田さんは決して「いい人」ではなかった。いつも冷徹に現実を直視していたし、情に流されて政治的判断をするということは、ほとんどなかったと思う。そういう厳しさがまた、山田さんの魅力だったのだと思う。
「ガンと闘う山田さん」
ガンと闘う山田さんに厳しい現実が突き付けられたのは今年の夏だった。
ガンが進行し、またもや足につながる神経を圧迫し、写真の新聞記事にあるように、山田さんは手術の機会を逃し、歩けなくなり、車イス生活になってしまった。
ガンと3年以上闘ってきた山田さんの体は、手術する余力もなくなってきたし、恐らくガンは更に転移し、山田さんの体を蝕んでいたのだと思う。
秋以降、山田さんは急速に体が衰えていった。しかし気力は充実し、議会での本会議質問も続け、顔を合わせると次回の選挙戦をどのように闘うのかということを、いつも私に話していた。
車イスになっても山田さんの独特の政治的勘は冴えわたっていた。私にはたまに電話してきて「政治情勢について報告に来い」と命令していた(笑)。山田さんの「命令」は、いつものことなのだが、その「命令」に「?」と思うこともあったが、従わざるをえないのが山田さんの「人徳」だ。「人徳」のウラには、山田さんの体に似合わない気配りがあったことは言うまでもない。
山田さんにとっては中央政治、特に安倍政権の暴走ぶりに対する危機感や、対抗政治勢力の力量不足もあり、いつもイライラしていたのだと思う。
私が国会議員の秘書をしていたこともあり、そうした動向も加味して群馬や高崎でどのような政治的組立てをしていくのかも絶えず考えていて、私と話すことを楽しみにしてくれていたようでもあった。
山田さんからは「角倉は最近、顔を出さない」と怒られたりしたが、日々衰弱していく山田さんを見るのが忍びなかったのも正直な気持ちであった。
山田さんと最後にお会いしたのは、亡くなった25日の午前中だった。
「山田さん、角倉だよ」と言うと、山田さんはすでに声を出すことも出来ず、息も絶え絶えの中で、目で合図を送ってくれた。
その場で泣いてはいけないと何とかこらえたが、その日の午後にオスプレイ問題の防衛省交渉で東京に向かう誰も乗っていない新幹線の中で、ひたすら泣けて、泣いてしまった。
山田さんは、その日の午後10時30分にお亡くなりになった。
2011.3 高崎駅西口にて 2013.4 私の政経セミナーにて
「淑子夫人のこと」
もうひとつ、ふれておきたいことがある。ガンと闘う山田さんの最大の理解者であり支援者であった淑子夫人のこと。献身的に山田さんを支えて、たまに顔を出す私にも大変よくしていただいた。
山田さんのガンとの闘いも、政治活動も、淑子夫人なくしてありえなかった。
淑子夫人は、「まったくこの人は、私に感謝の言葉ひとつもない」と笑いながらこぼしていたが、淑子さんそんなことはありません。山田さんは「うちのカアチャンなくしてオレはありえない」と私にいつも言っていた。
照れ屋の山田さんだから恥ずかしくてとても言えなかったと思うけれど、私たちの前では、たまに涙声で「うちのカアチャンに感謝している」と言っていた。淑子夫人が告別式のあいさつで「山田が亡くなるその日の午後4時くらいに、大粒の涙を流していた」というお話を聞き、その涙は淑子さんへの感謝の気持ちの表れだと思った。
淑子夫人からは私に対して「あの人は絶対に人を褒めないけど、角倉さんのことは私に褒めているよ。」と言っていただいて、内心うれしくて、うれしくてしょうがなかったことも思い出す。
「活動家 山田行雄」
山田さんは凄かった。「死」に直面する中で恐怖や孤独、痛み、苦しさがある中で、弱音を決して吐くことはなかった。
それどころか山田さんは、この夏には国労高崎の唐沢書記長宛てに自分の葬式の在り方まで指示していた文章が山田さんのパソコンの中から見つかり、皆も驚いたり、呆れたりで、「山田はやっぱり最後まで書記長だったよな」と皆で葬儀の準備をしながら苦笑いをした。
山田行雄という群馬にあって異彩を放った「政治家」の10年が終わった。
しかし、山田さんは「政治家」ではなく「活動家」だったと思う私である。
私も、自分を「政治家」と表向きはいっているが、「活動家」だと規定している。
「政治家」と「活動家」の違いは「政治権力」への距離感だと思う。
私も山田さんも、暗黙の不文律である「権力にならない」「権力への抵抗」。そんなところが通底したのだと思う。
山田さんが亡くなった今、私自身の決意がまた1つ固まった。
「人生とは自分のためにある」ということ。結果として自分の人生が人のためになることもあるかもしれないが、「人生とは自分のためにある」と勝手に規定して、残りの私人生を歩んでいきたい。
山田さん、ありがとうございました。心の底からありがとうございました。そして、さようなら。
群馬県議会議員(活動家) 角倉邦良