日本がここ20年停滞する中で、政治・経済というジャンルを超えて「改革」という言葉が氾濫した。最近では「維新」というものに置き換わっている場合もある。
「県政改革の突破力」これは私の前回の県議選のスローガン。今も宣伝カーにこのスローガンがある。
自分としては群馬県議会の中で、自分こそが「県政改革の突破力」となる、という決意を込めてつくったつもりであった。
しかし「改革」とか「力」とか、世間で流行っているキーワードに阿った感は否めないと自分でも感じていた。
「改革」ってなんだ、「力」ってなんだ。自分の中で深く考え抜いてのスローガンであったかどうか。
私たち現代人は、とかく流行とか変化に重心を置いて生きている、いや生かされてしまっているように思える。
「改革」という言葉は一種のファッションになっている。
先が見えない中で、取り残されることに恐怖している。
皆が浮足立っていて「改革」「維新」というある種の「病」に、とりつかれているようである。
私たちは近代化の中で豊かな生活を得てきたのは事実である。世の中は近代化=進歩はいいことだと思ってきた。
例えばエネルギーは「分散から集中」、GDPや生産などは「小から大へ」、交通や通信などは「遅いから速いへ」。
しかし、近代化が行き詰った今、エネルギーは原発事故により「集中から分散へ」、GDPを豊かさの価値の指標としていたことが「成長から成熟や脱成長へ」、高速がもてはやされる中で「徒歩や自転車が見直され評価」される時代となってきています。
改革とか維新とかいう「近代化、競争、進歩」というものが限界にあり、日本人の生き方、在り方を根本から見直していく大きな転換点にある。
だからこそ「温故知新」という言葉を、私たちは今、深く噛みしめなければならない。
長続きする生き方や世の中の仕組みを、どうつくっていくのかが問われている。
温故知新とは、改革、維新という病を超えていくものである。
昨日はあいさつまわり、集会参加。
「県政改革の突破力」これは私の前回の県議選のスローガン。今も宣伝カーにこのスローガンがある。
自分としては群馬県議会の中で、自分こそが「県政改革の突破力」となる、という決意を込めてつくったつもりであった。
しかし「改革」とか「力」とか、世間で流行っているキーワードに阿った感は否めないと自分でも感じていた。
「改革」ってなんだ、「力」ってなんだ。自分の中で深く考え抜いてのスローガンであったかどうか。
私たち現代人は、とかく流行とか変化に重心を置いて生きている、いや生かされてしまっているように思える。
「改革」という言葉は一種のファッションになっている。
先が見えない中で、取り残されることに恐怖している。
皆が浮足立っていて「改革」「維新」というある種の「病」に、とりつかれているようである。
私たちは近代化の中で豊かな生活を得てきたのは事実である。世の中は近代化=進歩はいいことだと思ってきた。
例えばエネルギーは「分散から集中」、GDPや生産などは「小から大へ」、交通や通信などは「遅いから速いへ」。
しかし、近代化が行き詰った今、エネルギーは原発事故により「集中から分散へ」、GDPを豊かさの価値の指標としていたことが「成長から成熟や脱成長へ」、高速がもてはやされる中で「徒歩や自転車が見直され評価」される時代となってきています。
改革とか維新とかいう「近代化、競争、進歩」というものが限界にあり、日本人の生き方、在り方を根本から見直していく大きな転換点にある。
だからこそ「温故知新」という言葉を、私たちは今、深く噛みしめなければならない。
長続きする生き方や世の中の仕組みを、どうつくっていくのかが問われている。
温故知新とは、改革、維新という病を超えていくものである。
昨日はあいさつまわり、集会参加。