遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『あしたの君へ』  柚月裕子  文藝春秋

2017-10-09 17:51:28 | レビュー
 家庭裁判所調査官という職業に光を当てた小説は初めて読む。家庭裁判所という司法機関は知っていても、家裁調査官という職務自体の存在を知らなかった。その観点でも興味深く読める小説と言える。家裁調査官は家庭裁判所に持ち込まれる問題、つまり少年犯罪や離婚問題などを取り扱う。問題案件の対象者と面談し、必要に応じて関係者とも面談して問題の背景を調べ、関連機関との連携方法を築き、案件への対処策について考慮し、報告書の作成・提出をするそうである。
 この小説は、家裁調査官を目指し、研修期間中は家庭調査官補という身分である望月大地が主人公である。そして2人の同期と上司たちが登場する。
 一言で言えば、家裁調査官補望月大地が専門職として成長していく物語である。家裁調査官という職業が己にとって適職なのか、その職業に熟達し、使命を果たせる能力が己にあるのか、研修中の担当課題に悩みながら取り組んでいく姿が活写されている。
 この小説は、5つのストーリーを扱う。家庭裁判所が扱う様々な案件が問題解決の対象になっていく。つまり短編小説の累積の中で、大地が悩みながらも家裁調査官へ少しずつ前進するというオムニバス形式になっている。5つの話は独立し一応完結しているので、どれからでも読むことはできる。しかし、その問題に取り組む大地に着目していくと、大地の成長という局面では各短編は緩やかに一つの流れが通貫していて、第1話から順次読み進めるのが素直なところと言える。

 私がこの小説で知った家裁調査官という専門職のアウトラインをまずご紹介しよう。
 裁判所職員採用総合職敷試験を受け、合格すれば家裁調査官に採用される。
 2年間の養成課程研修を受ける。その期間は家裁調査官補という身分に位置づけられる。研修プロセスの大枠は、次のとおり。
  1) 前期合同研修 3ヶ月間 埼玉県和光市所在の裁判所職員総合研修所にて
  2) 実務修習 1年あまりの期間 全国にある修習庁配属にて
     家事事件担当と少年事件担当の2分野の事件課題取り組む。
  3) 後期合同研修 約6ヵ月間 裁判所職員総合研修所にて
 この2年間の研修コースを修了してやっと正式な家裁調査官に任官する。

 この小説は、大地が実務修習として、九州の某県庁所在地・福森市にある福森家裁に配属され、1年間を過ごすことになった期間を舞台とする。この福森家裁には、同期である藤代美由紀と志水貴志とともにやってきたという設定になっている。
 家裁調査官には大きく分けると3通りの人間がいるという。法律畑、心理学畑、社会学畑の出身者である。大地は静岡県出身で、大学は法学部の出身である。同期の藤代と志水は心理畑の出身である。出身の違いにより、物事の見方に違いがあることもストーリーの中に面白みを持ち込んでいる。
 この福森家裁は42歳の真鍋恭子が上席の総括主任であり、真鍋の下に離婚や相続問題を扱う家事事件担当と少年犯罪を扱う少年事件担当、各6人で計12名の家裁調査官がいる。大地は最初、少年事件を担当する溝内圭祐の下で実務修習を始める。溝内は大学院で心理学を学び任官し、調査官歴8年で、ここ5年は少年事件を担当している人物。
 上席の真鍋をはじめ調査官は、見習いの家裁調査官補をカンポちゃんと親しみをこめて略称する。つまり、これは若きカンポちゃん奮戦成長物語である。
 
 この小説の視点は、大地が溝内の次に実務修習として家事事件を担当するときに指導をうける露木調査官の発言に端的に表れている。彼女は溝内と同期であるが、福森家裁の中で裁判官から大きな信頼を寄せられている一人であり、同期のなかでも一目置かれているという。彼女は言う。「家裁調査官は、当事者が置かれている状況を丹念に調べて、裁判官に双方の詳細な情報を報告するのが仕事」(p149)であり、「担当することになった事案を、世間一般と同じ見方しかできないんじゃ家裁調査官としては失格」(p150)だと。つまり、世間一般の通り一遍の見方を超えた見方で事案に取り組めるか。悪戦苦闘しながら、己は家裁調査官に向いていないのではと悩みつつ、担当する案件を解決に導いていく大地の成長プロセスが5つの短編で描き込まれていく。

 この小説、カンポちゃんが主人公で家裁の案件を扱うが、調査官としての仕事は、案件(事件)の問題解決に対する糸口の究明発見プロセスである。推理小説と同じ要素が大きく絡んでいて、いかに通り一遍の見方から脱却し、問題に取り組めるかのストーリー展開となる。そこには思いもしない意外性やどんでん返しなどが含まれていて、興味深く楽しめるストーりーとなっている。
 どんな事件、案件が取り上げられているかに簡単にふれておこう。

第1話 背負う者(17歳 有里)
 少年事件。加害者は鈴川有里、17歳。窃盗事件。スマホのラインで知り合った小林を、ラブホテルに誘い込み、小林がシャワーを浴びている隙に財布を盗み逃走。通報を受けた警察官から職務質問を受けて逮捕され容疑を認め、検察から家裁送致案件となる。
 「百聞は一見に如かず」と真鍋から大地はこの事件を担当する指示を受ける。窃盗容疑を認めた有里が、窃盗で得た金を何に使うつもりだったか。有里は窃盗を認めたことそれ以外は語ろうとしない。大地が送致書類に記されていた有里の現住所を訪ねる行動を取ったことから、問題点が見え始める。有里が背負っていたものが何かが、明らかにされていく。

第2話 抱かれる者(16歳 潤)
 大地たちが福森家裁に来て2ヵ月半が経った時点での話。
 少年事件。ストーカー事案。加害者は星野潤。進学高校の2年生、16歳。被害者は市内の別の高校に通う1年生の相沢真奈。スマホのネット上で知り合い、潤が交際を申し出、付き合い始めるが、2ヵ月後に真奈が「もう合わない」と別れのメッセージを送る。そこから潤の真奈へのストーカー行為が始まる。潤が真奈の自宅近くで待ち伏せ、カッターを真奈にちらつかせた。真奈は悲鳴を上げ、近所の住民が駆けつけて潤は取り押さえられる。暴行の罪で逮捕となり、家裁送致に。潤は大地の面接に対し、優等生的態度で悔悛していることを示す。母親譲りの優等生ぶり、それは本物なのか、そうでないのか。それを見極めるために大地が行動する。そこから星野家の家庭問題が明らかになっていく。
 書類の記録では見えない事実が意外な方向に展開していくところが興味深い。

第3話 縋(すが)る者(23歳 理沙)
 大地はカンポちゃんとして福森家裁で実務修習期間中、年末年始の休暇を利用して帰省する。故郷で同期会に出席し、後に特別な感情を抱いていたことを自覚する羽目になった理沙とも再会する。この第3話では、大地の高校時代の姿が描かれるとともに、なぜ大地が家裁調査員という道を選択したかの理由が語られる。同期会の後で理沙が語った体験談と大地へのメッセージが大地にとって重要な示唆となる。同期会と併せて、その2週間前に大地が参加した福森市での合コンのエピソードが織り込まれていく。合コン後の同期志水の発言が大地にとって重みを持つ。志水の言動を鏡として、大地は己のふがいなさを痛感する。
 この短編は、「やるだけやってみよう。それで駄目なら、そのとき、もう一度考えればいい。だけどいまは、まだ諦めたくない」(p142)と奮起する結末を導く。いわばインターミッション的なショートストーリーである。
 理沙と志水の発言は、大地が職種選択の適正性に悩むことへのメルクマールとなる。

第4話 責める者(35歳 可南子)
 大地は実務修習として、少年事件担当から家事事件担当に代わる。カンポちゃんは、実務修習期間中に、両方を体験することになっている、この第4話は上席の真鍋から、大地がはじめての家事事件案件として指示された事件を描く。
 家事事件。離婚訴訟問題。離婚申立人は朝井可南子、35歳。相手方は夫朝井俊一、40歳。戸籍謄本ではお互いに初婚であり、婚姻届は5年前に出されている。子供はいない。可南子からの離婚申し立てにあたり、金銭的要求は一切なし。そんな案件である。
 この事件の担当から大地の直属の先輩は、少年事件担当の溝内から、家事事件担当の露木千賀子に移る。露木は溝内より3歳下だが、任官では同期の女性であり、裁判官からも信頼されている。同期からも一目置かれている存在であり、考え方は厳しい。大地が書類を読んだ範囲では離婚申請の経緯・理由がわからないと露木に言うと、「わからなくて当たり前よ。紙に書かれた情報だけで真実がみえるなら、私たち調査官なんて必要ないわ」(p147)と答え、通り一遍の見解しか出せないなら家裁調査官の資格はないと、大地に厳しく言う。
 大地の取り組みは調停の話し合いの場に同席することからスタートする。可南子と調停委員との面談、俊一と調停委員との面談の場面が克明に描き込まれていく。家裁調査官補としての大地が、通り一遍の見方からどう脱却していくかを描く。読み応えのある短編となっている。書類では見えない側面をどう見える形にしていくか・・・・。判断できる客観的な証拠があるのか。離婚を申し立てるほどの理由があるようには熟練の調停委員にも見えない案件の陰に何があるのか? 大地が調停立会の先に、自分の足で調べた事実が、決定的な証拠入手に繋がって行く。最後に、露木が大地に語る。「あなたは、ひとりの女性を救ったのよ」と。通り一遍に読み進めると、見えない背後の意外性がテーマとなっている。世の中、離婚訴訟に限らず、こんな事象が増えてきているようである。そういう意味で、社会事象の断面をうまく切り取っていて読ませる短編となっている。大地がカンポちゃんとして一皮むけるというところか。
 
第5話 迷う者(10歳 悠真)
 大地は実務修習を始めて年を越し、少年事件担当から家事事件担当となった。6月上旬に大地は露木から親権争い事件の一式の書類を受けとる。裁判官から夫と妻の生活環境や経済状況を精査し妥協点を探る依頼があること、1週間後の2回目からの調停に立ち会うこと、子供の意思確認を慎重にすることと、という指示を大地は露木から受ける。
 家事事件。親権問題。離婚申立人は妻の片岡朋美、35歳。相手方の夫は信夫、46歳。親権争いの対象となっているのは、悠真10歳、小学校5年。悠真は父親とその両親の住む家で生活している。一方、悠真を引き取りたい朋美は、悠真が現在通う小学校の学区内にあるマンションに別居していて、悠真を引き取った後も、通学を含め悠真の生活環境への体制は十分できていると主張する。
 このストーリーも、朋美と信夫それぞれと調停委員の面談を軸にしながら進展する。調停に立ち会う場面の描写が、この事件の背景情報を累積していくプロセスとなる。さらに大地が己の足で関係者に会いに出かけ、調べるという行動から、面談内容とは異質の事実が見えていくという展開となる。露木の言った{子供の意思確認」という観点が、大きな意味を帯びていく。そして、このストーリーでは、誰にも語らなかった己の生い立ちを、志水が大地に明かすという意外な局面も織り込まれていく。
 この短編でも、調停のための面談の場だけでは到り得ない事実、大地が足で調べた結果わかったことが決め手となっていく。それが調停面談の場で、どんでん返しの告白を引きだすという結果になる。この最終話はカンポちゃんの実務修習の集大成版にもなっているストーリーにはいくつかの大きい山場が造り出されていて、読ませどころを巧みに織り込んだ短編である。。

 実務修習中の家庭裁判所調査員補を主人公にしているが、この小説は、警察小説に通底する調査という行動が太い軸となっている。担当した事件について、己の足で調べ、自分が確認した事実情報を着実に累積し、書類に記された内容を捕らえ直していくというプロセスである。世間一般の通り一遍の考えに捕らわれない問題意識、独自の視点での情報収集、推定と論理の展開。そして到るべき結論を着実に導き出すという歩みである。
 裁判所というシステムの中に、こんな専門職の領域があったのだということを知った小説でもある。

 著者は、成長の一歩を踏み出し得た大地の姿を、同期の美由紀からの携帯電話への着信、応答の場面を描くことでこのオムニバス作品を締めくくっている。
 家裁調査員として正式に任官した後の望月大地のストーリーを、いずれ紡ぎ出してほしいと思う。

 ご一読ありがとうございます。
 
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本書に関係する事項を検索してみた。一覧にしておきたい。
裁判所  :「裁判所」
家庭裁判所 :「コトバンク」
京都家庭裁判所における手続案内  :「裁判所」
家庭裁判所調査官  :ウィキペディア
裁判所職員総合研修所  :ウィキペディア
25B-Q02 少年による犯罪   :「総務省統計局」
少年犯罪が12年連続の減少、戦後最低に :「ベネッセ 教育情報サイト」
家庭裁判所 平成28年版犯罪白書第3編
人事訴訟事件の概要-平成28年1月~12月-  :「最高裁判所事務総局家庭局」
 「家庭裁判所調査官の関与状況について」という項目とデータも掲載
種類別にみた離婚  :「厚生労働省」
統計から見る離婚訴訟の結末 :「厚木の弁護士事務所ブログ」
定着する中高年の離婚~多様化するライフコースの選択~
   :「三菱UFJリサーチ&コンサルティング」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
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『慈雨』 集英社
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