遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『蟻の菜園 -アント・ガーデン-』 柚月裕子  宝島社

2018-07-12 10:14:08 | レビュー
 このストーリーの中心人物は、フリーライターの今林由美。彼女は、栄公出版社が運営するニュース週刊誌「ポインター」の仕事を外注として受けている。
 この週刊誌の編集長は長谷川康子。由美が新入社員の頃からの付き合いでかれこれ20年になる。康子は出版社に留まりニュース週刊誌の編集長となる。一方由美は結婚で退職するがバツイチとなり、昔の職場のコネで外注フリライーターを生業とする。離婚後に購入した中古マンションのローン返済を抱え、収入の定まらないフリーライターの受注仕事で悪戦苦闘している。 
 由美はニュース週刊誌「ポインター」の「現代のヒューマンライフ」という連載ページを担当している。様々な分野で活躍している人物、事件や話題性で世間が注目している人間を追う特集である。それも、ひとりの人物の出生から現在に至るまでという観点での特集記事というスタイル。この企画ネタを探そうとして、パソコンをネットに繋ぎホームに設定している情報サイトのトップニュースを見て、由美は関心を惹かれる。
 『車中練炭死亡事件 結婚詐欺容疑で43歳女逮捕 複数の男性殺害に関与か』
容疑者は千葉県に住む介護士で、名前は円藤冬香。半月ほど前に、東京と千葉の県境の山中で、車内に練炭を引き込んでの自殺と見られた事件が起こる。だが不自然な点が多く、捜査過程で、死亡した50前後の会社員佐藤孝行が自分の口座から円藤容疑者の口座に、500万円に及ぶ金を振り込んでいた事実が出る。円藤容疑者が佐藤さんとの交際中、72歳の独り暮らしの男性とも交際していた。この男性は半年前に心不全で死亡。円藤容疑者と交際を始めた以降に、大金を幾度か引き出していて、死亡時点では預金額はゼロに近かった。他にも何人かの不審死疑惑が浮かぶ。そんな報道である。

 記事の横に載る容疑者の画像を拡大し、由美はその円藤冬香の姿を見て、「もう若くはないが、落ち着いた色香がある。彼女は万人が認める美しさを持っていた」と感じたのである。それが由美が疑問を湧き起こすトリガーになる。これほど魅力的な女性なら、幸福を掴める権利を人より多く持っていたはずだと。異性には不自由しないはずだし、本人が望もうと望むまいと男の方が寄ってきて、良縁の結婚話もあったはずだと。それが結婚詐欺容疑と複数の男性殺害への関与疑惑で逮捕されている。
 「いったい彼女に何があったのか」 由美は事件そのものよりも、容疑者の円藤冬香自身に関心を抱く。気持が昂ぶり、いい記事が書ける予兆を感じる。そこで特集の企画書を作成し編集長に提出する。康子は企画書を読み終えると即決し、ゴーサインをだす。企画書のタイトルは、『疑惑の美人結婚詐欺師-彼女はなぜ転落したのか-』である。

 刑事事件のスクープや事件捜査の進展経緯の即時報道性を追うニュース記者たちとは違い、由美は「彼女はなぜ転落したのか」という人物自体に疑問を抱き、着目していく。
 このストーリーは、女性のフリーライターが円藤冬香という女性を調べ、その過去を明らかにしていこうとする取材行動のプロセスを描き出していく。結婚詐欺事件と数名の不審死事件の事実追跡そのものではない。結果的に、車中練炭死亡事件・結婚詐欺事件・数名の不審死の背景と原因・経緯が明らかになっていく。
 このストーリーが読者を惹きつけるのは、由美が取材のための聞き込み調査をどのように展開し、取材行動の糸口を見出していくかにある。その糸口が彼女をどこに導いていくか・・・・その先を読みたいと思うところだろうか。由美は聞き込み調査をしていて、先が見えそうにないところで思わぬ糸口に出会う。聞き込み相手の一言が、その表情が、由美にとり次の行動のきっかけになる。一見無関係と思える情報、事実が繋がって行く。その連鎖反応がおもしろい。

 由美はフリーライターに成り立ての頃、友人を介して知った津田憲吾に事件の詳しい情報を持つ人物の紹介を依頼する。彼は都内で編集プロダクションを経営している出版プロモーターである。彼は長い編集経験を通じ、裏から表までの多岐にわたる独自のネットワークを持っている。津田が由美に紹介したのは、千葉の地方新聞、千葉新報の片芝敬だった。
 由美はまず片芝敬に面会を取り付けることから始める。迷惑がる片芝は、津田の紹介ということもあるが、由美が「十の事実があっても新聞には一しか載りません。でも、残りの九にこそ、当事者にしかわからない真実があると思います。私はその九を記事にしたいんです」と言ったことに対し、思うところがあったのか面談に応じる。
 事件自体の詳しい情報とその後の捜査経緯や由美の取材活動・聞き込み調査では崩すのがよういではない壁の向こうにある情報について、片芝が由美をサポートする重要な人物になっていく。片芝は、由美の視点と取材感性に関心を抱く。片芝自身が動き回れない部分での取材活動を由美に肩代わりさせる意図も含めて、ギブ・アンド・テイクの関係を深めていく。言葉には出さないが、由美の取材能力を認め、信頼感を持つようになる。
 
 由美は片芝との最初の面談で、事件に関わる基本的で詳細な情報を入手する。警察詰めの新聞記者なら入手し既に裏取りをしてしまった情報レベルなのだろうが、新聞記事にはそこまで報じられていない内容レベルである。
 車中練炭死亡事件では、車の鍵が現場に見あたらなかったこと。円藤冬香の現住所、勤め先の詳細情報。婚活サイトへの登録とそのサイトで知り合った男性たちの間で発生した婚活詐欺であること。警察側は円藤冬香を結婚詐欺容疑で逮捕し、その勾留期間中に殺人容疑を固めるシナリオでいること。だが、不審死の時期には円藤冬香にはそれぞれアリバイがあること。円藤の口座にかなりの金が振り込まれている事実はあるが使徒が不明であること。事件の裏に、冬香には別の男がいるのではないかという推測、などである。
 初対面の由美を適当にあしらわず、詳しい情報を片芝は提供した。なぜか?
 「百人中、九十九人が支持している映画がある。それを、つまらないと言い切るやつがいた。俺もつまらないと思っていた。そんなところだ」と由美に告げる。
 この後、由美の聞き込み調査が始まって行く。要所要所で由美は片芝と携帯電話で、あるいは実際に会う形で、情報交換を重ねていく。その情報交換が次の行動への強い梃子となる。

 由美の聞き込み調査は、ある意味では定石的な手順で始まって行く。円藤冬香の住居地周辺の聞き込み。円藤冬香の勤め先だった特別擁護老人ホームしらゆりの苑への取材。
 勤め先では、個人情報保護法を理由に円藤冬香の情報提供は拒否される。だが、施設職員の一人が由美の体当たり聞き込みに応じてくれる。なぜなら、笹岡と名乗る女性は、施設で入所者に対応する円藤の行動と日頃の姿から、「この事件は何か変です」という疑問を持っていたからである。それを由美にぶつけてきたのだ。
 由美は笹岡の話から、知られていない情報の糸口を得る。冬香が幼いとき両親を事故でなくし、施設で育ったと冬香が言っていたこと。入所者の一人、北陸訛が強い伊与マサという女性が職員を困らせていたが、冬香だけが伊与の言葉を理解し熱心に世話をしていたという。冬香は自分が千葉出身であり、北陸に行ったこともないとも言っていたという。これらがヒントになるか・・・・・細い糸の糸口が見えた。千葉県内の施設で育ったということが、円藤冬香の過去を調べる次の糸口になる。だが、ここにも再びいくつかの壁が立ちはだかる。どこの施設か? さらに個人情報保護法の壁である。
 由美はこの糸口を手繰り寄せることができるか? 北陸がどうからむのか?
 波紋が少しずつ、広がって行く。

 この小説は6章で構成されている。この章立ての構成がかなりユニークである。映画でいうあらすじレベルで少しご紹介しておく。

第1章
 円藤冬香を特集企画に取り上げるゴーサインをえた由美が聞き込み調査を始める初期段階のプロセスを描く。ほぼ上記の経緯である。由美は円藤冬香の中学時代の同級生・及川省吾にまで辿りつく。及川は近寄りがたい円藤にも、可愛い一面があったという。「ちぶたい」という言葉を使い、周りからからかわれていたと言うのである。及川はその土地コトバがどこのものなのか、由美にきっぱりとした表情で言った。「北陸です」と。

第2章
 場面は一転する。時期は不詳。季節は冬。場所は北陸の三国町。東尋坊の断崖の上に設置された公衆電話「いのちの電話」に絡まるストーリーが綴られる。
 自殺の名所として有名になった東尋坊。その不名誉なレッテルをそのままにしないために命の電話が設置された。三国町役場の児童福祉課に勤める与野井啓介は妻の勧めもあり、命の電話に応対する担当となることを名乗り出る。
 その与野井の自宅に命の電話からの電話が掛かる。与野井は嵐の中を電話ボックスまで行き、少女を保護する。自宅まで連れて帰り面倒をみるが、ちょっとした隙に、少女は抜け出てしまう。少女の名は沢越早紀、父親の名前は剛。妹がひとりいる、ということが聞き出せただけ。妻が濡れた服を着替えさせたとき、早紀の体に虐待の跡を見つけていた。 追いかけたが、早紀は与野井夫妻の前から姿を消してしまった。
 一週間後、陽が落ちた初冬の6時頃。雨が降り出していた。早紀から与野井に電話が掛かってくる。与野井は、電話ボックスからだと判断し、駈けだしていく。
 その日の夕方、三国町では一つの事件が起こっていた。その事件は、翌日の朝刊の地方欄に『父親を刺した少女 行方不明』と二段抜きで報じられていた。

第3章
 由美の聞き込み調査の続きに戻る。由美は及川から北陸言葉ということを教えられた。その後片芝と直接会っての情報交換で、由美は新たな情報を得る。車中練炭死亡のあったあ日の夜、円藤の携帯電話に、江田知代からの着信履歴が残っていたという。警察の調べでは、江田知代は鎌倉の由比ヶ浜に住み、レストランを数軒経営する実業家の妻。江田知代は、警察に対して掛け間違ったと言ったという。この江田の出身地が福井だった。
 由美は江田知代に聞き込み調査をかける。そして、福井に行く決断をする。江田が福井出身で、夫も承知していることなのだが、擁護施設育ちという情報について確認してみることにしたのだ。勿論ここでも、個人情報保護法の壁は厚い。だが、求めていけば、なにがしかの糸口が見つかってくる。どう繋がるかは不明瞭なまま、聞き込みのできる相手を紹介される。かつて三国町で警察官をしていた山村、今はソーレあわらに入所している与野井に細い糸が繋がることになる。それが波紋を広げていく。また、由美は福井の図書館で、30年前の三国町での事件報道の記事を見つけ出す。

第4章
 自分に対して「あなたは・・・・・」と語りかけてくる「私」の語りが綴られていく。それは、親と呼べる人間ではない男と姉のこと、自分が置かれてきた過去の経緯を順序立て整理し、回想させてくれる語りかけなのだ。

第5章
 その後、由美は最後の一人に聞き込み調査を続けるが、十分な成果が得られない落胆の思いにとらわれる。一方、片芝が、円藤冬香と北陸が繋がったと、由美の携帯に掛けてくる。由美は東京に戻り、片芝と会う。その場には海谷基樹と名乗る人物が同席していた。
 この章では、由美の行動プロセスと、第4章の「あなたは・・・」という「私」の語りかけの続きとが併行していく。この語りかけがこのストーリーの謎解きの一翼を担っていく。さらにこの語りかけ自体が重要な意味を持っていることが、終章で明らかになる。
 
終章
 このストーリーの総括が、片芝、海谷、由美の三人が千葉駅構内のドトールの一隅で行われる場面で行われる。一方、由美の特集記事内容を編集長は単発物から10回の長期連載に切り替える、その後に書籍化すると宣言することになる。由美の取材活動は、ある法律のあり方についての問題提起を行いたいという次元にまでその思いが深まっていた。

 最後に、この小説のタイトルに触れておこう。
 終章で、片芝が共依存という言葉を使う。その言葉から、由美は「蟻の菜園」を連想したのだ。そして、この特集原稿の出だしの文章にすると決めたという。蟻と植物の共依存によって成り立っている事象が南米に見られ、それが「蟻の菜園」と呼ばれるそうだ。本書のタイトルはそこに由来する。同時に、この推理小説を読み解くキーワードである。

 個別に分解してみると、それぞれが個々に新聞記事ネタになった事象が組み込まれている。それらの事象が換骨奪胎されて、巧みな構想のもとに一つのストーリーに結実し、ジグソーパズルのように再構築されていく。ストーリーの展開に人工的な不自然さを感じさせない。単なる机上のフィクションではなく、こんなことがあってもおかしくないという感じすら抱かせる。読み応えのある作品に仕上がっていると思う。

 ご一読ありがとうございます。

本書からの関心事の波紋を広げてみた。一覧にしておきたい。
ant gardens :「antwiki.org」
Ant Garden in a Tree: Smells Help Explain Rainforest Relationship Between Ants and Plants :「NC STATE NEWS」
共依存とは  :「アスク・ヒューマン・ケア」
共依存の人に多い性格の傾向と特徴を徹底解説します :「モンテッソーリ子どもの家」
気をつけて!婚活詐欺の手口と被害にあいやすい人の特徴 :「まりおねっと」
婚活女性を狙う結婚詐欺師の手口と見抜き方|騙されやすい人の特徴6つ :「あなたの弁護士」
東尋坊  :ウィキペディア
東尋坊 世界有数の柱状節理  :「Web旅ナビ」
東尋坊の絶景を見に来てね!  :「坂井市三国観光協会」
児童虐待の定義と現状  :「厚生労働省」
急増する児童虐待の「深刻な実態」 もはや税金だけでは守れない:「現代ビジネス」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『朽ちないサクラ』  徳間書店
『孤狼の血』  角川書店
『あしたの君へ』 文藝春秋
『パレートの誤算』 祥伝社
『慈雨』 集英社
『ウツボカズラの甘い息』 幻冬舎
『検事の死命』 宝島社
『検事の本懐』 宝島社


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