本書を通読した後、「あとがき」を読み、初めて知ったのだが、著者は「本書執筆の最中、私の愚行により、『鎌倉殿の13人』の時代考証を降板することになった。多くの方の心を傷つけ、多くの関係者にご迷惑をかけた以上、本書の刊行を断念することも考えた。」と記している。大河ドラマを見ないので、その関連報道にも注意していなかった。改めてネットで調べてみて、「愚行」の内容を知った。まさに愚行と思う。汚点を残したと言えよう。それはさておき、本書は2021年11月に刊行されている。
鎌倉幕府を開いたのは源頼朝であり、源氏三代の後には北条氏の執権政治に移行していく。実朝は鶴岡八幡宮境内で暗殺された。源義経の戦歴武勇伝や後鳥羽上皇は仕掛けた戦の結果、敗れて島流しになった。そんな大雑把なこと以外では、鎌倉時代の文化的側面を多少知るだけだった。頼朝については肖像画を見たことや東大寺大仏殿の復興に尽力した側面を知るばかり。頼朝以上に、義時は名前を記憶する程度・・・・。そんなお粗末さなので、上記のことなど知らないままに、本書を読んだ。
最初の三分の一くらいまでは、登場する人物たちの人間関係、その関係性の説明が分かりづらく、読みづらかった。ある意味、面白味を感じることがなかったが、その先で、時代が大きく動き出すあたりからは、史実としてのイベントの繋がりがわかるようになり、読みやすくなった。ほとんど知らなかった頼朝と義時について一歩深く踏み込めて、武家政権の創生にどのような役割を果たしたのか知ることが出来た。
読みながら思ったのは、頼朝の妻となった北条政子の果たした役割が如何に大きかったかという側面である。本書では北条政子についての記述は要所要所、まさに要のタイミングで出てくるに留まるのだが、北条政子の存在が続かなければ、鎌倉幕府は早期に瓦解していたかもしれないという印象を併せて持った次第。
本書は8章構成で、頼朝の伊豆流人としての時期から始まり、承久の乱後に義時が死ぬまでを語る。つまり、義時の死の後、鎌倉幕府が1世紀にわたり継続する基盤となった武家政権の誕生期の実態が明らかにされていく。章毎に少し、感想を交えてご紹介しよう。
<第1章 伊豆の流人>
頼朝の名を知っていても、頼朝が河内源氏の御曹司ということすら知らなかった。父の義朝が河内源氏の棟梁であり、頼朝は京都生まれの京都育ち。平治の乱で義朝が平清盛に敗れる。頼朝や義経は清盛の継母池禅尼(平宗子)の助命嘆願により、清盛の温情を得た結果、頼朝は伊豆への配流になる。知っていたのは、命が繋がり、伊豆の流人になったこととそこで北条政子と結婚したという断片だけ。義経のことはもう少し知っていたが。
次の点など、本書で初めて知った。
*頼朝が流人となった後、比企尼が夫とともに、頼朝挙兵まで20年間、最大の支援者とな
った。三善康信がもう一人の重要な支援者となった。
*頼朝は、伊豆国伊東の豪族、伊東祐親の娘の八重と結婚し、子を成したということ。
頼朝は、その後に北条時政の娘政子に言い寄り、男女の仲となる。父時政の在京中に。
治承元年ないし2年あたりで頼朝は政子と結婚する。
*時政は、貴種である頼朝を婿に取ることで、地域社会における北条氏の声望を高めよう
とした。初期の時政の意図はその程度と著者は判断している。
*北条氏は、小規模な武士団。当時の伊豆国の知行国主は源頼政。池禅尼の息子・平頼盛
-源頼政-源頼朝の提携という動きの中で、時政は牧の方と結婚した。
牧の方の父・牧宗親は平賴盛の所領である駿河国大岡牧の代官を務めていた。
*以仁王・源頼政の挙兵、「以仁王の令旨」が頼朝にとって挙兵の決断をさせた。
<第2章 鎌倉殿の誕生>
頼朝は以仁王令旨を都合良く解釈し、山木兼隆を討つという初戦で勝利を得た。現在の小田原市にある丘陵地、石橋山合戦では大庭景親の軍勢に敗れる。だが、安房国に向かい、房総半島を制圧していく。頼朝に従う武士が増えていく。頼朝は鎌倉を根拠地に定める。
鶴岡八幡宮は、1063年に源頼義が石清水八幡宮を勧請して鎌倉由比郷に社殿を造営したことに始まるということを本書で知った。頼朝は、父祖ゆかりの地であることを強調すると共に、鎌倉が相模国府から三浦半島を経由して房総半島に渡海する際に中継点になる交通の要衝地であることの重要性を勘案したという。なぜ鎌倉かには政治的・経済的に重要な意味があったのだ。
富士川合戦について、当時の歴史書『吾妻鏡』の記述と合戦の実情とのギャップについて詳論しているところがおもしろい。
<第3章 東海道の惣官>
時代は同時並行に進行している。平家は結果的に富士川合戦で敗北する。1181年2月に平清盛は突然の熱病で死ぬ。挙兵した木曽義仲は京都に躍進する。平家は都落ち。義仲と後白河法皇の関係もぎくしゃくと変転する。
そんな最中に頼朝は後白河法皇と交渉を進め、頼朝は「寿永2年10月宣旨」を得る。このあたりの経緯も初めて本書で学んだ。この宣旨の位置づけと歴史的認識が学界では論点の一つになっているそうだ。頼朝はこの宣旨により、東国支配権を永続的に得たと理解し、「東海道の惣官」と自称するに至ったという。頼朝は鎌倉に居て命令を発する立場になっていく。戦の表舞台に出てくることはない。それ故に、頼朝像がイメージしづらいのだろうと思った。
義経の京都進出が脚光を浴びていく。近江粟津での木曽義仲の滅亡、平家との一の谷合戦と「鵯越えの逆落とし」、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと戦は進展していく。義経サイドでの内容は比較的知っている時期であり、読みやすくなる。本書では、脚色された部分と史実の分別が明確になされていて、興味深く読めた。
本書で、頼朝の戦略構想は、範頼軍が本軍であり、義経の率いた軍には支援軍として脇役であることを期待していたという。範頼軍の活躍で頼朝の勢威を誇示していこうとしたようだ。だが、実際は範頼軍は先々で苦戦を強いられ、逆に義経軍はスタンドプレイ的な行動も含め、連戦連勝する。義経の戦上手が世間の耳目を引きつけていく。
著者の記述を引用しよう。
「義経が屋島を落としたら、頼朝は困るのである。旗揚げ以来、頼朝を支えた東国御家人たちの多くは範頼軍に参加しており、彼らの活躍によって戦争を終結させなければならない。範頼軍こそが主役であるべきで、義経軍は脇役でなければならない。」 p130
「(壇の浦での戦い)では義経の勝因は何か。単純に戦力で上回ったからと考えられる。・・・・・義経の水軍の中核は熊野水軍や河野水軍であるから、実質的に西国勢同士の争いである。」 p134
<第4章 征夷大将軍>
この章で学んだ興味深い点をご紹介しよう。私は知らなかった。ご存知だったでしょうか。
*義経は迅速な平家討伐を望む後白河法皇の意思を優先した。
*義朝軍は主に畿内・西国武士によって構成されていた。
*「腰越状」の逸話は後世の創作と考えるべきである。
*1185年10月、義経と源行家は後白河法皇に源頼朝追討の宣旨を求め、挙兵したが失敗
*義経の奥州への逃走は、頼朝に奥州藤原氏の殲滅実行の契機を与えることになる。
奥州合戦で頼朝は全国総動員体制を布いて実行した。御家人の範囲確定の側面を持つ。
頼朝が源氏嫡流としての権威を確立する一大デモンストレーションの機会だった。
*頼朝は「大将軍」に任官を要請した。1192年7月12日、征夷大将軍に任じられた。
頼朝は御家人たちとの関係を再構築した。そして在任2年余りで征夷大将軍を辞任した
*頼朝は娘を後鳥羽天皇に入内させる工作をしたが、大姫、三幡ともにその死で頓挫した
<第5章 頼朝の「家子専一]>
この章で視点を義時に移していく。頼朝が挙兵した時の義時との出会いから始めて、頼朝と義時の大筋の関係が時系列的に要約されていく。義時は頼朝の側近であり、重臣であることに終始したようである。義時と父時政の関係も明らかにされる。時政は第二の義経になり得ることを頼朝から警戒されていたともいう。
歌舞伎で知る「曾我兄弟の仇討ち」話がここに出てくるが、これは1193年に頼朝が駿河国富士野において巻狩を行った時の宴で発生した事件で、曾我兄弟は頼朝をも殺害しようとしていたことを知った。曽我兄弟の黒幕は誰かの諸説が論じられていて、おもしろい。一説に、時政黒幕説があるという。
<第6章 父との相剋>
頼朝の急死により、建久10年(1199)正月、頼家が鎌倉殿の地位を継ぐ。朝廷は「諸国守護」の権限を頼家に与え、世襲による鎌倉殿の国家的役割が確定した。しかし、政治機構としては「13人の宿老」による合議体制となる。頼家の独断専行は頭から抑止される。だが、この後、梶原景時の変、阿野全成の死、比企氏の変、時政の失脚、時政と牧の方との間に生まれた男子である北条政範の早世(京への途次に病死)、畠山重忠の乱、牧氏事件が語られて行く。頼家は頼朝の嫡男だが、最も深い関係を有するのは比企氏の一族であり、比企能員の娘・若狭局が頼家の子・一幡を産んでいた。
北条氏と対立する重臣たちは一族もろともに次々に滅亡させられていく。その経緯が述べられる。北条政子と弟の義時がタッグを組み、義時の時代を作り上げていく経緯が明らかになっていく。
第2代将軍となった頼家の人物像はほとんど語られない。そんな存在だったということか。
<第7章 「執権」義時>
建仁3年(1203)に12歳で実朝が第3代将軍に就任した。当初は北条時政が政治を代行し、時政失脚後は、政子・義時が実朝を補佐する体制に移行する。1209年に実朝は従三位に昇叙し、公卿として正式に政所を開設できる立場になった。これ以降に将軍親裁が本格化していく。実朝が公卿に列した数ヶ月後に、義時は政所別当に就任する。
実朝は王朝文化に傾倒し、貴族趣味に興味を抱き、後鳥羽天皇を理想の統治者とみなすようになっていく。そして、自立をはかり己の政治に取り組もうとする。義時との間に、軋轢が生まれることは必然だろう。その辺りの状況が明らかにされいく。
守護制度改革の失敗。1209年5月の和田義盛の訴え、1213年の泉親平の乱、同年5月2日の和田合戦の勃発。1213年5月5日、和田義盛に代わって義時が侍所別当に就任する。つまり、この時点で、義時は政所別当と侍所別当を兼任する形になる。これによって、実質的には、「執権」職が確立したことになるようだ。義時が執権という役職に就いたかどうかは疑わしいと著者は言う。
実朝は1219年正月27日、右大臣拝賀の儀式を鶴岡八幡宮で行う。この日境内で実朝は頼家の子である公暁に暗殺された。ここにもまた黒幕説が生じる余地が生まれてくる。「北条義時黒幕説」が提起されているという。
頼家については何も書かれていないに等しいが、実朝の人物像については、かなり書きこまれていて対照的である。現存する史料の差、在位期間の差によるのだろうか。
いずれにしても、北条氏が盤石の勢力を築く準備期間が、頼朝から実朝に至る源氏の将軍時代だった。それは周辺一帯で対抗する力を持ちうる有力な一族たちを排除、殲滅する段階だったことがよく分かる。
<第8章 承久の乱>
鎌倉幕府を維持するためにどうするか。後継者不在の実朝の時から重要な問題となった。そこに、親王将軍擁立構想が浮上する。それが実際の路線となるが、その初期の紆余曲折が、承久の乱の顛末とともに述べられていく。
本書を読み、興味深い点は、公武関係の悪化の過程で、後鳥羽上皇が挙兵したのは政権奪還ということではなく、打倒義時という意図だったという説明である。後鳥羽上皇が発したのは北条義時追討の官宣旨だったという。「幕府を滅ぼせ」とは言っていないというである。この経緯が詳論されていて、面白い。
ここに、有名な北条政子の演説が絡んでくる。この北条政子の演説で、ご恩を返すという意味を換骨脱退して、論理の巧妙なすり替えが行われているという分析がおもしろい。「専門的に言えば、もともとは人格的結合だった御恩と奉公の関係を、制度的結合に変えたのである。これは、御恩と奉公の変質である。」(p295-296)と説く。ナルホドと思う。ある種のタテマエの論理である。が、それを聞いた御家人たちには「したたかな現実的判断が働いていたことも忘れてはならない」というオチは、さらに納得がいく。
承久の乱は、後鳥羽上皇側の敗戦で終わる。鎌倉幕府が3人の上皇たちを配流するという前代未聞のことが実行された。それはまさに武家政権の威力と確立を具体的に示すデモンストレーションとなる。勿論、人々に反発心を抱かせる種にもなるのだが・・・・・・・・。
承久の乱(1221年)後、1224年に6月に義時は急死する。北条氏のお家騒動が起こる。その一因は北条政子自身にあるという側面もあるようだが、これを鎮圧したのも北条政子の采配だったという。
本書の最後の締めは、「義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである。」という一文である。
頼朝と義時の背後に政子あり、という実感が強い。歴史に「たら」「れば」は意味がないというが、もし北条政子が、かように聡明な女傑でかつ長寿でなければ、鎌倉幕府ははるかに短命で終焉していたのではないかという気がする。
頼朝と義時を軸にしながら、鎌倉幕府の誕生基盤とその構造、朝廷との関係を一歩踏み込んで考える上で、役に立つ一冊と言える。日本史研究者の様々な見解を織り交ぜながら、最先端の論議の一端も加えて、武家政権の誕生の実態を解説してくれていて、参考になった。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット情報を一部検索してみた。一覧にしておきたい。けっこう情報がある。
鎌倉幕府 :「コトバンク」
幕府ができるまでの道のり :「玉川学園」
源頼朝 :ウィキペディア
「冷淡な政治家」という評価は正しいのか? 源頼朝の真の顔とは?
:「ベネッセ 教育情報サイト」
北条政子 :「ジャパンナレッジ」
[歴史探偵] 悪女か?女傑か?北条政子の人物像に迫る!| NHK YouTube
北条政子とはどういう人物?性格を推測できる4つのエピソードを紹介
:「ベネッセ 教育情報サイト」
北条義時 :ウィキペディア
北条義時とは何をした人?義時が激動の時代を生き抜くことができた理由は?
:「ベネッセ 教育情報サイト」
源頼家 :ウィキペディア
源実朝 :ウィキペディア
第22回 鎌倉幕府の成立 :「歴史研究所」
第23回 鎌倉幕府の仕組みとは? :「歴史研究所」
変化する幕府の組織 :「玉川学園」
鎌倉幕府の財源 :「国税庁」
幕府のしくみ :「NHK for School」
第24回 承久の乱と権力基盤を固める北条氏 :「歴史研究所」
鎌倉幕府の執権、北条氏の最重要人物は誰? :「Britannica」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
鎌倉幕府を開いたのは源頼朝であり、源氏三代の後には北条氏の執権政治に移行していく。実朝は鶴岡八幡宮境内で暗殺された。源義経の戦歴武勇伝や後鳥羽上皇は仕掛けた戦の結果、敗れて島流しになった。そんな大雑把なこと以外では、鎌倉時代の文化的側面を多少知るだけだった。頼朝については肖像画を見たことや東大寺大仏殿の復興に尽力した側面を知るばかり。頼朝以上に、義時は名前を記憶する程度・・・・。そんなお粗末さなので、上記のことなど知らないままに、本書を読んだ。
最初の三分の一くらいまでは、登場する人物たちの人間関係、その関係性の説明が分かりづらく、読みづらかった。ある意味、面白味を感じることがなかったが、その先で、時代が大きく動き出すあたりからは、史実としてのイベントの繋がりがわかるようになり、読みやすくなった。ほとんど知らなかった頼朝と義時について一歩深く踏み込めて、武家政権の創生にどのような役割を果たしたのか知ることが出来た。
読みながら思ったのは、頼朝の妻となった北条政子の果たした役割が如何に大きかったかという側面である。本書では北条政子についての記述は要所要所、まさに要のタイミングで出てくるに留まるのだが、北条政子の存在が続かなければ、鎌倉幕府は早期に瓦解していたかもしれないという印象を併せて持った次第。
本書は8章構成で、頼朝の伊豆流人としての時期から始まり、承久の乱後に義時が死ぬまでを語る。つまり、義時の死の後、鎌倉幕府が1世紀にわたり継続する基盤となった武家政権の誕生期の実態が明らかにされていく。章毎に少し、感想を交えてご紹介しよう。
<第1章 伊豆の流人>
頼朝の名を知っていても、頼朝が河内源氏の御曹司ということすら知らなかった。父の義朝が河内源氏の棟梁であり、頼朝は京都生まれの京都育ち。平治の乱で義朝が平清盛に敗れる。頼朝や義経は清盛の継母池禅尼(平宗子)の助命嘆願により、清盛の温情を得た結果、頼朝は伊豆への配流になる。知っていたのは、命が繋がり、伊豆の流人になったこととそこで北条政子と結婚したという断片だけ。義経のことはもう少し知っていたが。
次の点など、本書で初めて知った。
*頼朝が流人となった後、比企尼が夫とともに、頼朝挙兵まで20年間、最大の支援者とな
った。三善康信がもう一人の重要な支援者となった。
*頼朝は、伊豆国伊東の豪族、伊東祐親の娘の八重と結婚し、子を成したということ。
頼朝は、その後に北条時政の娘政子に言い寄り、男女の仲となる。父時政の在京中に。
治承元年ないし2年あたりで頼朝は政子と結婚する。
*時政は、貴種である頼朝を婿に取ることで、地域社会における北条氏の声望を高めよう
とした。初期の時政の意図はその程度と著者は判断している。
*北条氏は、小規模な武士団。当時の伊豆国の知行国主は源頼政。池禅尼の息子・平頼盛
-源頼政-源頼朝の提携という動きの中で、時政は牧の方と結婚した。
牧の方の父・牧宗親は平賴盛の所領である駿河国大岡牧の代官を務めていた。
*以仁王・源頼政の挙兵、「以仁王の令旨」が頼朝にとって挙兵の決断をさせた。
<第2章 鎌倉殿の誕生>
頼朝は以仁王令旨を都合良く解釈し、山木兼隆を討つという初戦で勝利を得た。現在の小田原市にある丘陵地、石橋山合戦では大庭景親の軍勢に敗れる。だが、安房国に向かい、房総半島を制圧していく。頼朝に従う武士が増えていく。頼朝は鎌倉を根拠地に定める。
鶴岡八幡宮は、1063年に源頼義が石清水八幡宮を勧請して鎌倉由比郷に社殿を造営したことに始まるということを本書で知った。頼朝は、父祖ゆかりの地であることを強調すると共に、鎌倉が相模国府から三浦半島を経由して房総半島に渡海する際に中継点になる交通の要衝地であることの重要性を勘案したという。なぜ鎌倉かには政治的・経済的に重要な意味があったのだ。
富士川合戦について、当時の歴史書『吾妻鏡』の記述と合戦の実情とのギャップについて詳論しているところがおもしろい。
<第3章 東海道の惣官>
時代は同時並行に進行している。平家は結果的に富士川合戦で敗北する。1181年2月に平清盛は突然の熱病で死ぬ。挙兵した木曽義仲は京都に躍進する。平家は都落ち。義仲と後白河法皇の関係もぎくしゃくと変転する。
そんな最中に頼朝は後白河法皇と交渉を進め、頼朝は「寿永2年10月宣旨」を得る。このあたりの経緯も初めて本書で学んだ。この宣旨の位置づけと歴史的認識が学界では論点の一つになっているそうだ。頼朝はこの宣旨により、東国支配権を永続的に得たと理解し、「東海道の惣官」と自称するに至ったという。頼朝は鎌倉に居て命令を発する立場になっていく。戦の表舞台に出てくることはない。それ故に、頼朝像がイメージしづらいのだろうと思った。
義経の京都進出が脚光を浴びていく。近江粟津での木曽義仲の滅亡、平家との一の谷合戦と「鵯越えの逆落とし」、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと戦は進展していく。義経サイドでの内容は比較的知っている時期であり、読みやすくなる。本書では、脚色された部分と史実の分別が明確になされていて、興味深く読めた。
本書で、頼朝の戦略構想は、範頼軍が本軍であり、義経の率いた軍には支援軍として脇役であることを期待していたという。範頼軍の活躍で頼朝の勢威を誇示していこうとしたようだ。だが、実際は範頼軍は先々で苦戦を強いられ、逆に義経軍はスタンドプレイ的な行動も含め、連戦連勝する。義経の戦上手が世間の耳目を引きつけていく。
著者の記述を引用しよう。
「義経が屋島を落としたら、頼朝は困るのである。旗揚げ以来、頼朝を支えた東国御家人たちの多くは範頼軍に参加しており、彼らの活躍によって戦争を終結させなければならない。範頼軍こそが主役であるべきで、義経軍は脇役でなければならない。」 p130
「(壇の浦での戦い)では義経の勝因は何か。単純に戦力で上回ったからと考えられる。・・・・・義経の水軍の中核は熊野水軍や河野水軍であるから、実質的に西国勢同士の争いである。」 p134
<第4章 征夷大将軍>
この章で学んだ興味深い点をご紹介しよう。私は知らなかった。ご存知だったでしょうか。
*義経は迅速な平家討伐を望む後白河法皇の意思を優先した。
*義朝軍は主に畿内・西国武士によって構成されていた。
*「腰越状」の逸話は後世の創作と考えるべきである。
*1185年10月、義経と源行家は後白河法皇に源頼朝追討の宣旨を求め、挙兵したが失敗
*義経の奥州への逃走は、頼朝に奥州藤原氏の殲滅実行の契機を与えることになる。
奥州合戦で頼朝は全国総動員体制を布いて実行した。御家人の範囲確定の側面を持つ。
頼朝が源氏嫡流としての権威を確立する一大デモンストレーションの機会だった。
*頼朝は「大将軍」に任官を要請した。1192年7月12日、征夷大将軍に任じられた。
頼朝は御家人たちとの関係を再構築した。そして在任2年余りで征夷大将軍を辞任した
*頼朝は娘を後鳥羽天皇に入内させる工作をしたが、大姫、三幡ともにその死で頓挫した
<第5章 頼朝の「家子専一]>
この章で視点を義時に移していく。頼朝が挙兵した時の義時との出会いから始めて、頼朝と義時の大筋の関係が時系列的に要約されていく。義時は頼朝の側近であり、重臣であることに終始したようである。義時と父時政の関係も明らかにされる。時政は第二の義経になり得ることを頼朝から警戒されていたともいう。
歌舞伎で知る「曾我兄弟の仇討ち」話がここに出てくるが、これは1193年に頼朝が駿河国富士野において巻狩を行った時の宴で発生した事件で、曾我兄弟は頼朝をも殺害しようとしていたことを知った。曽我兄弟の黒幕は誰かの諸説が論じられていて、おもしろい。一説に、時政黒幕説があるという。
<第6章 父との相剋>
頼朝の急死により、建久10年(1199)正月、頼家が鎌倉殿の地位を継ぐ。朝廷は「諸国守護」の権限を頼家に与え、世襲による鎌倉殿の国家的役割が確定した。しかし、政治機構としては「13人の宿老」による合議体制となる。頼家の独断専行は頭から抑止される。だが、この後、梶原景時の変、阿野全成の死、比企氏の変、時政の失脚、時政と牧の方との間に生まれた男子である北条政範の早世(京への途次に病死)、畠山重忠の乱、牧氏事件が語られて行く。頼家は頼朝の嫡男だが、最も深い関係を有するのは比企氏の一族であり、比企能員の娘・若狭局が頼家の子・一幡を産んでいた。
北条氏と対立する重臣たちは一族もろともに次々に滅亡させられていく。その経緯が述べられる。北条政子と弟の義時がタッグを組み、義時の時代を作り上げていく経緯が明らかになっていく。
第2代将軍となった頼家の人物像はほとんど語られない。そんな存在だったということか。
<第7章 「執権」義時>
建仁3年(1203)に12歳で実朝が第3代将軍に就任した。当初は北条時政が政治を代行し、時政失脚後は、政子・義時が実朝を補佐する体制に移行する。1209年に実朝は従三位に昇叙し、公卿として正式に政所を開設できる立場になった。これ以降に将軍親裁が本格化していく。実朝が公卿に列した数ヶ月後に、義時は政所別当に就任する。
実朝は王朝文化に傾倒し、貴族趣味に興味を抱き、後鳥羽天皇を理想の統治者とみなすようになっていく。そして、自立をはかり己の政治に取り組もうとする。義時との間に、軋轢が生まれることは必然だろう。その辺りの状況が明らかにされいく。
守護制度改革の失敗。1209年5月の和田義盛の訴え、1213年の泉親平の乱、同年5月2日の和田合戦の勃発。1213年5月5日、和田義盛に代わって義時が侍所別当に就任する。つまり、この時点で、義時は政所別当と侍所別当を兼任する形になる。これによって、実質的には、「執権」職が確立したことになるようだ。義時が執権という役職に就いたかどうかは疑わしいと著者は言う。
実朝は1219年正月27日、右大臣拝賀の儀式を鶴岡八幡宮で行う。この日境内で実朝は頼家の子である公暁に暗殺された。ここにもまた黒幕説が生じる余地が生まれてくる。「北条義時黒幕説」が提起されているという。
頼家については何も書かれていないに等しいが、実朝の人物像については、かなり書きこまれていて対照的である。現存する史料の差、在位期間の差によるのだろうか。
いずれにしても、北条氏が盤石の勢力を築く準備期間が、頼朝から実朝に至る源氏の将軍時代だった。それは周辺一帯で対抗する力を持ちうる有力な一族たちを排除、殲滅する段階だったことがよく分かる。
<第8章 承久の乱>
鎌倉幕府を維持するためにどうするか。後継者不在の実朝の時から重要な問題となった。そこに、親王将軍擁立構想が浮上する。それが実際の路線となるが、その初期の紆余曲折が、承久の乱の顛末とともに述べられていく。
本書を読み、興味深い点は、公武関係の悪化の過程で、後鳥羽上皇が挙兵したのは政権奪還ということではなく、打倒義時という意図だったという説明である。後鳥羽上皇が発したのは北条義時追討の官宣旨だったという。「幕府を滅ぼせ」とは言っていないというである。この経緯が詳論されていて、面白い。
ここに、有名な北条政子の演説が絡んでくる。この北条政子の演説で、ご恩を返すという意味を換骨脱退して、論理の巧妙なすり替えが行われているという分析がおもしろい。「専門的に言えば、もともとは人格的結合だった御恩と奉公の関係を、制度的結合に変えたのである。これは、御恩と奉公の変質である。」(p295-296)と説く。ナルホドと思う。ある種のタテマエの論理である。が、それを聞いた御家人たちには「したたかな現実的判断が働いていたことも忘れてはならない」というオチは、さらに納得がいく。
承久の乱は、後鳥羽上皇側の敗戦で終わる。鎌倉幕府が3人の上皇たちを配流するという前代未聞のことが実行された。それはまさに武家政権の威力と確立を具体的に示すデモンストレーションとなる。勿論、人々に反発心を抱かせる種にもなるのだが・・・・・・・・。
承久の乱(1221年)後、1224年に6月に義時は急死する。北条氏のお家騒動が起こる。その一因は北条政子自身にあるという側面もあるようだが、これを鎮圧したのも北条政子の采配だったという。
本書の最後の締めは、「義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである。」という一文である。
頼朝と義時の背後に政子あり、という実感が強い。歴史に「たら」「れば」は意味がないというが、もし北条政子が、かように聡明な女傑でかつ長寿でなければ、鎌倉幕府ははるかに短命で終焉していたのではないかという気がする。
頼朝と義時を軸にしながら、鎌倉幕府の誕生基盤とその構造、朝廷との関係を一歩踏み込んで考える上で、役に立つ一冊と言える。日本史研究者の様々な見解を織り交ぜながら、最先端の論議の一端も加えて、武家政権の誕生の実態を解説してくれていて、参考になった。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット情報を一部検索してみた。一覧にしておきたい。けっこう情報がある。
鎌倉幕府 :「コトバンク」
幕府ができるまでの道のり :「玉川学園」
源頼朝 :ウィキペディア
「冷淡な政治家」という評価は正しいのか? 源頼朝の真の顔とは?
:「ベネッセ 教育情報サイト」
北条政子 :「ジャパンナレッジ」
[歴史探偵] 悪女か?女傑か?北条政子の人物像に迫る!| NHK YouTube
北条政子とはどういう人物?性格を推測できる4つのエピソードを紹介
:「ベネッセ 教育情報サイト」
北条義時 :ウィキペディア
北条義時とは何をした人?義時が激動の時代を生き抜くことができた理由は?
:「ベネッセ 教育情報サイト」
源頼家 :ウィキペディア
源実朝 :ウィキペディア
第22回 鎌倉幕府の成立 :「歴史研究所」
第23回 鎌倉幕府の仕組みとは? :「歴史研究所」
変化する幕府の組織 :「玉川学園」
鎌倉幕府の財源 :「国税庁」
幕府のしくみ :「NHK for School」
第24回 承久の乱と権力基盤を固める北条氏 :「歴史研究所」
鎌倉幕府の執権、北条氏の最重要人物は誰? :「Britannica」
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