遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『印象派はこうして世界を征服した』 フィリップ・フック 白水社

2022-06-15 23:03:25 | レビュー
 友人のブログ記事で本書を知った。印象派と称される画家たちや作品には関心を抱いてきたので、この翻訳書のタイトルに惹きつけられ読んでみることにした。
 表紙の翻訳タイトルの上に、How the Impressionist Painting Conquered the World と記されている。
 本書の末尾には、「訳者あとがき」が付記されていて、その冒頭で訳者の中山ゆかりさんは、ます原題に触れられている。
THE ULTIMATE TROPHY How the Impressionist Painting Conquered the World
その続きに、原題を直訳すれば『究極のトロフィー 印象派絵画はいかにして世界を征服したか』となる、と記す。つまり、翻訳本では副題にあたる部分がタイトルになっている。

 本書を読んで、結果としてやはりキーワードは「究極のトロフィー」に集約されると感じた。読後印象は、「はじめに」の第一パラグラフに回帰する。最初は、次の文をさらりと通読しただけで先に読み進んでいた。だが、このパラグラフが、本書の特質を明確に述べていたのだ。
「本書は、絵画と、その絵画を人々がどのように受け止めているかについて書かれた本である。人は絵を、ただ単にそこに描かれているイメージだけでとらえるのではない。自身のステータス・シンボルとして、また文化的あるいは社会的なトロフィーとして見ているのだ。とりわけこの本では、印象主義の受容の仕方が、この百数十年のあいだにどのようにかわってきたかを採りあげる。」

 本書は、印象派絵画についてその描法、美的本質・精髄を論じるのではなく、印象派絵画が社会の中でどのように受け入れられて行ったかという社会的文脈での評価の変転に目を向ける。印象派の絵画を購入し、手許に置くことが、自分自身にとってのステータス・シンボルになるという認識を持てるからこそ、印象派絵画を受容して行った。購入者に取っては己の存在を示すトロフィーになるからだ。時には、作品が投資対象として、マネーロンダリングの手段としても利用される副次的側面も生まれていった。この社会的なカラクリの側面が明らかにされていく。
 勿論、著者は印象派絵画の美的本質に感動し、共鳴し、先見性を持ちそのコレクションを始めた人々の存在に触れている。批評家テオドール・デュレ(p48-49)、フランス税関の官吏ヴィクトール・ショケ(p49-52)、英国の実業家サミュエル・コートルード(p184-188)などを例示している。
 だが、著者は印象派が世の中に受け入れられ、意識転換が生じて行くうえで、別の側面の重要性に目を向ける。印象派絵画に目をつけた画商たちが19世紀末から20世紀初めにかけて生まれてきた富裕層を重要な顧客として開拓していった活動事実を明らかにしていく。そして、その延長線上で、サザビーズやクリスティーズというオークション会社の競売人が美術界の舞台裏で活動をする様を明らかにしていく。

 印象派の作品は、トロフィーになり得たから、世界中で受容され、人々の美意識が転換して行った。つまり世界を征服するに至ったと著者は説いている。美術史論・芸術論ではなく、人間の社会的行動という側面を重視したこの分析はおもしろい。
 著者は、オークション会社サザビーズの印象派&近代美術部門のシニア・ディレクターであり、クリスティーズでもディレクターを勤め、30年にわたり美術業界で活動してきたというキャリアを持つ。それゆえ、美術業界の舞台裏のエピソードなどは説得力をもっている。

 著者の論点の幾つかをご紹介しておこう。
 1863年、パリの官展(サロン)への展示を拒否された画家たちは「落選展」を開催し反逆の試みを行った。批判的揶揄的な評価から、印象主義、印象派という呼び方が生まれてくる。
 著者は「印象派絵画の評価を押し進めてきたのは、ほとんど画商と個人コレクターであり、美術館ではなかった。」(p66)と断言する。イギリスの著名な美術館が印象派の絵画をどのように拒否していたかを詳細に説明している。印象派絵画の英国人コレクターの先駆者としてアイルランド人のヒュー・レーンが英国で最初の重要なコレクションをつくりあげた。レーンがそのコレクションの寄贈をダブリン市に、あるいは貸与をロンドンのナショナル・ギャラリーに申し出たときの先方の対応についてのエピソードを語っている。
 著者は、最初に印象派を評価した画家の一人として、ポール・デュラン=リュエルの活動を採りあげていく。彼は画家たちを支援するだけでなく、画家たちが有名になるように積極的に行動して行った。その経緯を描き出す。デュラン=リュエルは<画家の個展>というアイデアを最初に生んだ先駆者であり、同時に雑誌とカタログを刊行することもした。画商としての利益が出始めるのは1880年代の後半だという。1880年代半ばから、印象派絵画にとって商業的な流れも好転を始めたようだ。
 印象主義に反対した人々は、印象派の欠点として、「使用される色彩がまばゆく明るすぎること、仕上げがなされていないこと、主題がありふれていること」(p70)を挙げていた。だが、逆にその欠点が長所であると認識が転換されて行く。著者は、「第一次世界大戦が終結する頃には、印象派絵画はパリの裕福な美術愛好家の趣味にすっかり合致するようになっていた」(p70)「パリで印象派の絵画のピークに達したのは、逆説的なことに、第二次世界大戦中のドイツ占領下の時代だった」(p71)と述べている。
 著者は、アカデミー(官展)対印象主義という対立から始め、ヨーロッパ各国での印象主義への対応の温度差を明らかにしていく。その対応は各国各様であり、読んでいておもしろい。印象主義の受容は、画商たちの働きかけもあったのだろうが、やはりアメリカの新興富裕層が先行していたようである。
 
 さらに、興味深い指摘がある。「20世紀の初頭には、印象主義はもはや最先端ではなくなっていた。<前衛芸術(アバンギャルド)>の冠は、どこか別の流派へ移っていった」(p68)その結果「マティスやピカソといった画家たちによるはるかに挑戦的な作品がもつ過激さから逃れることのできる、安全で、美しい色彩に満ちた楽しい絵として見るようになっていた」(p113)という変化が生まれてきた。そして、アメリカの新興富裕層にとって「印象派のコレクションはアメリカの、むしろ<古い>富を象徴する魅力的な存在」(p114)とすら認識されるようになる。「印象派を<贅沢な日用品>としてとらえなおすことであり、さらには、印象派の時代を美術史の偉大な一時代として祭り上げる」「印象派のヴィジョンはポピュラーなもの」(p139)、「のちの前衛芸術に比べると安心できる美術となった」(p188)という形に認識が転換して行ったと言う。
 「『<贅沢な>所有物』・・・・・世界中のどこの豪勢な邸宅でも同じようにおこっていた。新しく生まれた富裕層は、自分たちの富を見せることが大好きだ。そのためには、ルノワールやモネの絵を壁に飾ることほどふさわしい方法はない。この方法は、美的な感性と巨大な経済力とを同時に示し、しかもその二つを強く結びつける。新たに財力を得たすべての世代が、まるで磁石に吸い寄せられるように印象派に惹かれる理由はおそらくそこにある。ここには不朽の神話がある。そしてそれは<進歩主義>の神話である。」と記す。(p143)
 
 「1960年代後半には、印象派絵画を多額の金銭と同一視する見方は、大衆の意識のなかにしっかりと、そしてときにおもしろがって受け入れられていた」(p226)という。「印象派の絵画を買うことは、自身が金持ちであることを証明するためになすべきことの一つになった」(p226)とも記す。「それらの作品は持ち主を、魅力的であると同時に文化的でもあるように見せてくれるから」(p226)つまり、トロフィーの役割を果たしてくれるのだ。「1970年代と1980年代には、超富裕層のあいだでは、印象派の絵画は持ち主の経済的かつ文化的ステータスを好ましいかたちで示すシンボルとして、その地位を確固たるものにしていた。」(p230)
 この側面と表裏をなすのが、後の時代となって出てくる印象派絵画の売り立てである。オークション会社の出番となる。個人コレクターの死あるいは何かの事情により、そのコレクションが売り立てに出ることにより、初めて超富裕層が印象派絵画を入手出来る機会が巡ってくることに。ここに、印象派の時代を位置づけていく舞台裏の話が結びついてくる。オークションは、印象派の絵画を己のトロフィーとして入手出来るチャンスとなるのだ。本書で語られてる美術業界の裏話は実にリアルである。興味津々というところ。そこには絵画の芸術的価値はさておいて、マネーゲームとトロフィー獲得の争奪戦が繰り広げられているとしか思えない。暴露話的にはおもしろいエピソードが多く語られていて読者としては楽しめる。1980年代のオークション結果の一事例として、日本人が出てくるが、結果的に悪例として登場するのはげんなりである。そう言えば、そんな報道があったなぁ・・・。

 なぜ過去の巨匠の作品より印象主義絵の画が美術市場の牽引役になれたのかについて、別の要因が説明されていて、なるほどと思った。「専門知識の蓄積によって信頼に足る鑑定が可能となった印象派の作品は、反論の余地のない真筆作品として認められうるものだからだ」(p212)という。なるほど、騙されずに済むということなのだ。投資対象と考える輩に取っては要の要因と言える。勿論真摯なコレクターにとっても当然安心できる。「過去の巨匠の作品は、たとえそれがどんなに重要なものであれ、画家の真筆であるかについては、常に批評にさらされる不確実性をもつ。」(p212)
 そこには、上記のデュラン=リュエルら初期の画商たちの先見の明と努力が寄与していた。「自身が扱った画家たちの作品を写真記録として包括的に残しておくことにこだわった」(p213)ことのおかげであるようだ。ナルホドである。

 印象派が世界を征服する、つまり、印象派絵画が世界の人々に受容され、楽しまれ、喜ばれている理由があったのだ。今後も、トロフィー効果を享受したい人々は享受すればいい。ただし、秘蔵せずに、一般公開する機会を設定してくれるならば。
 美術館に作品が所蔵され、公開され、一方美術展が開催され続けることが、我々にはうれしいことだ。原画をこの目で見るチャンスを持ち続けられるのだから。

 知らない事実が次々に明らかにされていく。裏話、暴露話的なエピソードが要所要所に盛り込まれている。印象派絵画の見えなかった側面が見えて来る。読んでいておもしろい。
 
 ご一読ありがとうございます。