遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『逆軍の旗』  藤沢周平   文春文庫

2022-11-15 00:27:50 | レビュー
 藤沢周平の小説は文庫本で集めた。どちらかというと、晩年に文庫本となった小説からランダムに読み始めている。本書は1985(昭和60)年3月に文庫化された。単行本が刊行されたのは、1976(昭和51)年6月、著者49歳の時である。

 この短編集を先に読もうと思ったのは、文庫のタイトルになっている「逆軍の旗」が明智光秀を扱っていることが動機だった。
 本書には、「逆軍の旗」「上意改まる」「二人の失踪人」「幻にあらず」の4編が収録されている。

 文庫の「あとがき」に著者はこんなことを書いている。
「ありもしないことを書き綴っていると、たまに本当にあったことを書きたくなる。この本には、概ねそうした小説をおさめている」と。
「歴史的事実とされていることを材料に、あるいは下敷きにした小説という意味」で創作された作品であり、「事実をたよりに人間を探る」ということが試みられた短編集という位置づけになる。 
「歴史には、先人の考究によって明らかにされた貴重な部分もあるが、それでもまだ解明されていない、あるいは解明不可能と思われる膨大な未知の領域があるだろう。そういう歴史の全貌といったものに、私は畏怖を感じないでいられない。そうではあるが、この畏怖は、必ずしも小説を書くことを妨げるものではない。むしろ小説だから書ける面もあると思われる」と。
 著者が本当にあった歴史的事実の中に、「むしろ小説だから書ける面」を書いたのがこの4つの短編ということになる。小説だからこそ書ける側面とは、これらの小説に現れる人々の行動を促す動因となるその人の考え、心理、思いを書き加えるということなのだろうと思う。

 収録された短編作品ごとに、読後印象を交えて少しご紹介したい。

<逆軍の旗>
 惟任日向守光秀が愛宕神社西ノ坊、威徳院で興行した連歌の会の進行描写から始まる。光秀の視点から描かれていく。信長との間にひややかな乖離の始まりの回想、現下のライバルである諸部将たちの戦闘状況の分析、秀満への己の決意の表明、主だった家臣への本能寺襲撃の意志表示へとストーリーは進展していく。本能寺の襲撃はごく簡潔に描かれ、それに続く光秀の政治的対処とその反響に重心が移っていく。
 そして、天正10年6月10日、洞ケ峠に陣を置いた光秀の最後の戦況の読み、その心理に焦点が当たっていく。調べてみると、山崎の戦いは6月13日に両軍が激突するので、この短編はその直前で終わる。6月10日、光秀は「順慶が来るか」の一点にかけていた。だが、順慶は参陣しないと見切る結果となる。この時点で光秀は負けを自覚した気がする。
 読者は、光秀の回想心理を含めて、彼の心理の動きに同期していく。そこが読ませどころとなる。
 光秀の思いを表出した箇所がある。「あてもない放浪だった」(p32)、「虫けらのように死にたくない」(p33)、「坐していても滅ぶ」(p34)、諜報結果を光秀に伝えた吉蔵を光秀は刺殺する(p62)、「俺一個は紛れもない叛逆者だ。だが将も兵も、望んだのは叛逆ではなく天下だった。」(p69)
 この小説に、著者が連歌師紹巴の視点から描いている箇所がある。それが光秀の心理を捉える上で奥行を与えている。
 「あとがき」に著者は興味深いことを一つ記す。「書き終わって、かえって光秀という人物の謎が深まった気がした」(p268)と。

<上意改まる>
 この小説について、「あとがき」で「郷里の歴史に材を借りたもの」と著者は記す。
 戸沢藩領内の中渡村の名主と百姓の間にその年の検見のことから争論が生じた。双方から藩に目安状が提出され詮議の対象となる。それを担当した家老戸沢四郎兵衛から引き継いだ片岡理兵衛は、自らは詮議することなく即座に1年超しの訴訟に、名主側を罷免することでけりを付けた。名主側は不満を持ち、百姓は大喜び。だがこれが原因の一つになる。
 理兵衛は頭は切れるが直情径行で我を張る性格であり、圭角が多く人と対立する。1700石の高禄で家中第一の勢力を持つ戸沢伝右衛門とは長らく反目している。名主側は、藩主の義母天慶院を頼り、詮議のやり直しを訴えた。政治好きの天慶院が動く。理兵衛は天慶院の要請をはねつける。さらにこの訴訟騒動に絡んで、21歳の藩主の誇りが傷つけられる事態も起こった。
 様々な要因と人間関係が複合され、それが勢力の確執と絡んでいく。片岡家に一旦閉門という上意が出され、その後に切腹を申しつける形へと上意が改められる。片岡家が断絶されるに至る顛末ストーリー。人はなぜ対立するのか・・・・。
 小藩内での濃密な人間関係が前提となった社会での人々の葛藤と心理を著者は描こうとしたのだろう。
 このストーリー、理兵衛が訴えられるという情報は、隣家の北条家の娘郷見が、理兵衛の弟藤兵衛に知らせる所から始まる。藤兵衛と郷見の関わりが、サブストーリーとして絡んでいく。哀切な余韻が残る。

<二人の失踪人>
 「あとがき」によれば、南部藩士横川良助が書いた「内史略」に拠った小説という。
 文永12年4月14日、南部藩の岩手郡雫石村雫石町で旅籠を営む孫之丞が殺された。彼は土地の百姓であるとともに、雫石代官所の目明かしを兼ねていた。殺害したのは仙台浪人と名乗る村上源之進である。孫之丞を刺殺すると逃走した。
 まず、刺殺されるに至る経緯が明らかにされる。孫之丞には2人の息子がいた。
 5年経った天保2年の春先、弟の丑太が家出した。その年の7月には、丑太を探しに行くと言って兄の安五郎も家を出た。二人は失踪人となる。
 天保7年3月、雫石村の検断善助の家に、常州那珂湊から飛脚が手紙を持参する。孫之丞の子供が親の仇を討ったという。このことが事実であるかどうかをどのように確かめるのか。どのようにこの仇討ちの措置をするのか。その顛末がこのストーリーである。
 事件が藩を跨がると、なんとその事後措置と手続きが煩雑なことか! というのが第一印象だ。庶民による仇討ちなぞ起こることがなかったことの裏返しだろうか。一方でその手続きプロセスは実に興味深い。

<幻にあらず>
 「あとがき」によればこの小説もまた「郷里の歴史に材を借りたもの」と著者は記す。
 中納言景勝は関ヶ原役の後、会津120万石から米沢30万石に減封されて移封となる。景勝は譜代家臣をそのまま連れて米沢に移った。この窮乏に際し、家老直江兼続が大変革の諸施策を講じた。寬文4年閏5月に藩主綱勝が急死。藩の存続をはかることが優先され、米沢藩は15万石に半減され、置賜15万石だけの藩となる。15万石で5000人の家中を養うという事になる。米沢藩の財政窮乏状態が描き出されて行く。
 宝暦8年に藩主重定は高鍋藩主秋月種実の次男松三郎を養子にとった。直丸勝興と改名されたこの少年が、後に米沢藩を継いで弾正大弼上杉治憲と名乗る。治憲を支え、藩の改革を推進するのが、藩主重定の頃に江戸家老だった竹俣美作当綱である。
 当綱は、藩主重定のもとで藩政を仕切っていた郡代頭取森平右衛門を排除することから改革を推し進めていく。
 治憲のもとで改革が進められて行く。一方で、七家騒動という米沢城下を震撼させる事件も起こる。
 このストーリー、米沢15万石の財政建て直し改革の内容と改革に邁進した人々の行動がテーマになっている。
 このストーリー、思わぬ結末を迎える。そこに人間の心理の一面が投げ出されている。 藩主の上杉治憲は、上杉鷹山という隠居後の号名の方が今ではよく知られている。

 おもしろいテーマが集められた短編集だと思う。共通点は人間の心理を掘り下げるという側面だろうか。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
里村紹巴  :ウィキペディア
愛宕百韻  :ウィキペディア
洞ヶ峠   :ウィキペディア
洞ヶ峠   :「コトバンク」
解題  内史略  :「岩手県立図書館」
米沢市   :ウィキペディア
上杉治憲  :ウィキペディア
現代の指針 上杉鷹山  :「置賜文化フォーラム」
九代目米沢藩主 上杉鷹山  :「伝国の杜」
米沢上杉藩の水を拓いた上杉鷹山 :「農林水産省」
竹俣当綱  :ウィキペディア
竹俣当綱  :「コトバンク」

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