著者は「古典エッセイスト」と自称されているそうだ。どこかの大学・研究所に籍を置く学者ではない。それ故か、源氏物語についてかなり大胆な指摘を加えながら、読み解いていく。学者ならここまで踏み込むことはないだろうと思える箇所もある。ユニークな見解が提示されていて、実におもしろい。勿論その見解には、説明のための事例、論拠が語られている。けっこう納得感を感じるし、文が読みやすい。
本書は、1996年6月にベネッセコーポレーションより同タイトルで刊行され、大幅に加筆された上で、2002年10月に文庫本となった。手許にあるのは2005年7月の第二刷。
かなり前に本は入手していて、書架に眠っていた。先般やっと瀬戸内寂聴訳『源氏物語』を通読できた。それで、火の見ヤグラーさんがブログで本書について触れておられたのを読み、刺激をうけて、この本の眠りをさました次第。
「はじめに」に著者は記す。
「・・・読めば読むほど、『これが果たして作り話なのか?』と疑問に感じるような物語だから、」と記し、「じっさい、皮肉なことに『源氏』をしっかり読んだ人のほうこそ、『源氏』の世界が歴史上に『実在した』と信じているかのように、『源氏』に、はまっていく」と。本書を読んだ印象として、まさに著者もその一人なのだと思う。
「あとがき」には、「光源氏はどんな声だったのだろう。『源氏物語』を読んでいると、ふと、そんな事が気になることがある」「声が想像できるくらい、光源氏のキャラクターは、生身の体温を感じさせるように描かれている」と記す。
私は瀬戸内訳『源氏物語』をやっと最近通読しただけなので、声や生身の体温を感じるほどの想像力とは程遠かった。逆に言えば、著者は『源氏物語』を相当に読み込まれているのだろう。本書を読んでいて随所でそう感じた。
「文庫版あとがき」には、本書の書き始めは、「娘を出産してほどない頃、私が最も自分のカラダを『感じていた』時分のことだ」と記す。
つまり、生身の人間の五感を働かせて『源氏物語』の世界をリアルに感じ、考察し、光源氏をはじめ様々な登場人物像を赤裸々に論じている。オブラートに包んだような書きっぷりではない。その視点を斬新に感じ、その読み解き方に関心が深まっていく。
<第一章 感じるエロス>では、まず『源氏物語』の特徴は「登場人物が、実によく病気に冒される」という点から論じていく。紫式部は「病気する体」を原点にし、「辛さ」(マイナスの要素)に光を当てるという意図を示しているとする。「はっきり言って、病に苦しむ人の姿まで美を見いだす視線は、残酷である。そして、エロティックだ」(p27)と。さらに、「それでなくても、男と女の恋の苦悩とすれ違いを描いた『源氏』では、性は中心テーマである。しかも『源氏』の性は、感じる。『源氏』は濡れるし、たぶん立つ。エロ本としても十分、実用的なのだ」(p32)とまで言い切っている。
仮に思っていても、ここまでズバリと書く『源氏』学者・研究者はいないだろう。学者・研究者は公にはエロ本とは言わないだろう。その差異がおもしろい。だから、学者の源氏物語解説本では得られない視点から『源氏物語』への理解を重ねていける書と言える。くだけた記述があるが、その考察は論拠を明確にした、いわば真面目な論及である。
恋の一段階となる「垣間見」の習慣、いわゆる「覗き」についてこんな説明をする。
「つまりセックスするまで名目上は『会えない』わけで、『俺はこの女で行くぞ』と男が心にゴーサインを出すきっかけは、垣間見にかかっているのである。一方、女側も、顔も見せないで男と会って、『僕の好みじゃなかった』などとヤリニゲられてしまうよりは、姿を見せて気に入ってもらったうえで男と会ったほうが、幸せにつながるため、『私はこんな姿形です。うちの暮らしぶりはこんなです』とアピールできる垣間見は必要なのである。もちろんその際、女側も、部屋の奥から男の容姿や物腰をチェックしたのは言うまでもない。その段階で『気に入らないわ』と思ったら、手紙に返事をやらなかったり、それとなく拒絶の歌を詠んでやれば済むことだ。容易に会えない時代だからこそ、男も女も、恋には『覗き』が必要だったのだ」(p39)実にわかいやすい説明である。
そして、古代、「見ること」=「セックス」だったと言い、「『源氏』の身体描写は、言ってみれば、セックス描写なのである」(p54)とリアルな身体描写について事例を挙げて語っていく。
さらに、ブスについて述べている。末摘花、空蝉、花散里について・・・。
「ブスに脚光を浴びせることで、美しさで光るような主人公という、絵空事になりがちなキャラクターの物語を、強い現実感に満ちたものにした紫式部」(p76)と紫式部の構想の巧みさ、リアリティの実現に気づかせる。
<第二章 源氏物語のリアリティ>では、リアルな人物設定と等身大に描かれた男達について語り、光源氏のコンプレックスに触れていく。
頭中将は、寝とられてしまう男であり、自分の娘の数さえ把握していず、「その場の感情につき動かされて、先の展望なしに行動する男」(p98)、律儀者で権威主義者と分析されている。夕霧は無神経な男。光源氏の実兄・朱雀院は比べられる男、妻の浮気を黙認する男。こんな分析が具体的に述べられる。それ故に等身大に人物を描き出すという。これだけでも『源氏物語』がかなり身近なものになるのでは・・・・。1000年以上の時を隔てた現代でもこのような類型にあてはまる男達が居るのではないか。
光源氏はコンプレックスを持っていたという。なんと29ページにわたってこの見出しのもとで説明が続く。『源氏物語』を読んでいるときそういう見方をしていなかったので、本書がおもしろかったし、なるほどと思うところもある。
*存分に学問出来なかった ⇒その反動が夕霧にまず学問を付けさせることに。
*「生まれてこのかた、一度たりとも愛が満たされたことはない」(p132)の思い
⇒自らの屋敷には、コンプレックスを持つ女ばかりを集めることに。
孤児同然の紫の上、ブスな空蝉・末摘花・花散里、身分の低い明石の君
つまり、光源氏もまた、絶世の美男で多才なのだが、そのキャラクターは等身大に「矛盾に満ちた私達の人生と、変わるところがない」(p147)人間として、紫式部は描いていると説く。「光源氏の輝くような経歴は、幸福感の達成ということでいえば、何の効力もない」(p146)とバッサリ判断しているところがおもしろい。そういう視点でみることもできるか・・・と。
その上で、著者は紫式部は『源氏』を書くにあたり、「物語はリアルでなくてはいけない」(p156)と考えていたと断定する。「ドキュメント的な要素を物語に取りこむ」手法をとっていると(p158)。だから、中世の『源氏』研究は、登場人物のモデル探しになった。それほどリアルな物語なのだと言う。現代の学者の研究スタンスはどうなのだろうか。そこにも関心が向いてくる。
<第三章 五感で感じる源氏物語>は、まさにカラダで感じる視点で書き込まれていく。ここでは『源氏』に視覚・触覚・聴覚・嗅覚・味覚の観点から切り込んでいる。
著者流の『源氏』の感じ方をいくつか引用してご紹介する。後は、本書をお読みいただくと良いだろう。読み解き方が参考になる。
*『源氏』では、美しい人は肌も美しいというのが必須条件だが、とくにセックスの比重が重い人物ほど、肌の美しさが強調されるのだ。 p172
*『源氏』には、食べ物の話が少ないうえに、食事のシーンは極端に少ない。 p199
*宇治十帖では、残り香が様ざまにエロティックな憶測を生んでいるのだが。そこには不思議と女性の香りは少なく、ほとんどすべて男の香りだ。 p192
*『源氏』の病のほとんどが、ストレスが引き金となっていて、・・・・・実は『源氏』の死は、これといった病気でもないのに、食欲のなくなる症状が続いた結果、引き起こされることが多いのが特徴だ。 p206
*『源氏』を書いた紫式部自身、受領階級の女房という、食欲旺盛な階級だった。それを思うと、食欲不振の貴婦人達を「美しい」と見る『源氏』の視線は、「賞賛」よりも、滅びゆく者への「哀れみ」だったとさえ思える。紫式部が『源氏』という傑作を書けたのも、食べる階級ならではの「底力」ゆえ、かもしれない。 p220
<第四章 失われた体を求めて -平成の平安化->が最終章。「感じる経済」「感じる不幸」「なぜ体で感じる源氏物語なのか」というセクションから構成されている。
紫式部は、没落貴族の末裔の末摘花を描いた。著者は末摘花の貧乏のディテールをリッチな光源氏の目を通して描いている点の意味とともに、経済力の意味に着目していく。優雅に見える宮廷生活も、人や冨という後ろ盾に支えられてこそ、実現しているという事実。「財力のあるなしで、人の境遇や心というのが、いかに変わっていくか」(p224)を紫式部は描いているという。末摘花の存在が様々な視点で考える材料になり、『源氏』の読み方のおもしろさを感じさせる。
「『源氏』の貧乏がリアルなのは、経済事情の変化による、体の変化をも、きちっと押さえている点だ」(p243)と述べ、『源氏』の登場人物の「体型」が経済事情と身分により書き分けられているという。
宇治十帖になると、さらに経済により人生を塗り替えられる人々が多数登場するようになる。『源氏』が経済と人の関わりを重視している点に触れ、それはその当時の時代の潮流を敏感に取り入れている紫式部の視点にあるとし、『源氏』は当時はきわめてトレンディな小説だったのだと著者は言う。これらの指摘と具体的な説明はナルホドである。
さらに「登場人物はすべてが孤独。誰にも理解されぬまま、悔いと苦悩の苦しみを、たっぷり味わった末に死んでいく」という姿を紫式部が描いたと展開し、紫の上と浮舟を事例を取り上げて論じている。
「なぜ体で感じる源氏物語なのか」は、著者の前著『「源氏物語」の身体測定』と『愛のしくみ-平成の平安化』を前提に記されているので、私には論理の流れが少し分かりづらかった。前著書を参照する課題が残ったといえる。
いずれにしても、この本、読んで損はしないと思う。『源氏物語』を多角的な視点から読んでみようと思う人には、お薦めの一冊である。
ご一読ありがとうございます。
[源氏物語ワールドへの誘い]
こちらもお読みいただけるとうれしいです。関連書を種々読み継ごうと思っています。
『源氏物語』全十巻 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫
= ビギナーの友に =
『源氏物語の京都案内』 文藝春秋編 文春文庫
『源氏物語解剖図鑑』 文 佐藤晃子 イラスト 伊藤ハムスター X-Knowledge
『初めての源氏物語 宇治へようこそ』 家塚智子 宇治市文化財愛護協会
= 教養書 =
『平安人の心で「源氏物語」を読む』 山本淳子 朝日選書
= 小説・エッセイなど =
『源氏五十五帖』 夏山かおる 日本経済新聞出版
『新・紫式部日記』 夏山かほる 日本経済新聞出版社
『月と日の后』 冲方 丁 PHP
⇒ 一条天皇の中宮となった藤原彰子を主人公にした小説。
紫式部により『源氏物語』が紡ぎ出される時代背景として関連する。
本書は、1996年6月にベネッセコーポレーションより同タイトルで刊行され、大幅に加筆された上で、2002年10月に文庫本となった。手許にあるのは2005年7月の第二刷。
かなり前に本は入手していて、書架に眠っていた。先般やっと瀬戸内寂聴訳『源氏物語』を通読できた。それで、火の見ヤグラーさんがブログで本書について触れておられたのを読み、刺激をうけて、この本の眠りをさました次第。
「はじめに」に著者は記す。
「・・・読めば読むほど、『これが果たして作り話なのか?』と疑問に感じるような物語だから、」と記し、「じっさい、皮肉なことに『源氏』をしっかり読んだ人のほうこそ、『源氏』の世界が歴史上に『実在した』と信じているかのように、『源氏』に、はまっていく」と。本書を読んだ印象として、まさに著者もその一人なのだと思う。
「あとがき」には、「光源氏はどんな声だったのだろう。『源氏物語』を読んでいると、ふと、そんな事が気になることがある」「声が想像できるくらい、光源氏のキャラクターは、生身の体温を感じさせるように描かれている」と記す。
私は瀬戸内訳『源氏物語』をやっと最近通読しただけなので、声や生身の体温を感じるほどの想像力とは程遠かった。逆に言えば、著者は『源氏物語』を相当に読み込まれているのだろう。本書を読んでいて随所でそう感じた。
「文庫版あとがき」には、本書の書き始めは、「娘を出産してほどない頃、私が最も自分のカラダを『感じていた』時分のことだ」と記す。
つまり、生身の人間の五感を働かせて『源氏物語』の世界をリアルに感じ、考察し、光源氏をはじめ様々な登場人物像を赤裸々に論じている。オブラートに包んだような書きっぷりではない。その視点を斬新に感じ、その読み解き方に関心が深まっていく。
<第一章 感じるエロス>では、まず『源氏物語』の特徴は「登場人物が、実によく病気に冒される」という点から論じていく。紫式部は「病気する体」を原点にし、「辛さ」(マイナスの要素)に光を当てるという意図を示しているとする。「はっきり言って、病に苦しむ人の姿まで美を見いだす視線は、残酷である。そして、エロティックだ」(p27)と。さらに、「それでなくても、男と女の恋の苦悩とすれ違いを描いた『源氏』では、性は中心テーマである。しかも『源氏』の性は、感じる。『源氏』は濡れるし、たぶん立つ。エロ本としても十分、実用的なのだ」(p32)とまで言い切っている。
仮に思っていても、ここまでズバリと書く『源氏』学者・研究者はいないだろう。学者・研究者は公にはエロ本とは言わないだろう。その差異がおもしろい。だから、学者の源氏物語解説本では得られない視点から『源氏物語』への理解を重ねていける書と言える。くだけた記述があるが、その考察は論拠を明確にした、いわば真面目な論及である。
恋の一段階となる「垣間見」の習慣、いわゆる「覗き」についてこんな説明をする。
「つまりセックスするまで名目上は『会えない』わけで、『俺はこの女で行くぞ』と男が心にゴーサインを出すきっかけは、垣間見にかかっているのである。一方、女側も、顔も見せないで男と会って、『僕の好みじゃなかった』などとヤリニゲられてしまうよりは、姿を見せて気に入ってもらったうえで男と会ったほうが、幸せにつながるため、『私はこんな姿形です。うちの暮らしぶりはこんなです』とアピールできる垣間見は必要なのである。もちろんその際、女側も、部屋の奥から男の容姿や物腰をチェックしたのは言うまでもない。その段階で『気に入らないわ』と思ったら、手紙に返事をやらなかったり、それとなく拒絶の歌を詠んでやれば済むことだ。容易に会えない時代だからこそ、男も女も、恋には『覗き』が必要だったのだ」(p39)実にわかいやすい説明である。
そして、古代、「見ること」=「セックス」だったと言い、「『源氏』の身体描写は、言ってみれば、セックス描写なのである」(p54)とリアルな身体描写について事例を挙げて語っていく。
さらに、ブスについて述べている。末摘花、空蝉、花散里について・・・。
「ブスに脚光を浴びせることで、美しさで光るような主人公という、絵空事になりがちなキャラクターの物語を、強い現実感に満ちたものにした紫式部」(p76)と紫式部の構想の巧みさ、リアリティの実現に気づかせる。
<第二章 源氏物語のリアリティ>では、リアルな人物設定と等身大に描かれた男達について語り、光源氏のコンプレックスに触れていく。
頭中将は、寝とられてしまう男であり、自分の娘の数さえ把握していず、「その場の感情につき動かされて、先の展望なしに行動する男」(p98)、律儀者で権威主義者と分析されている。夕霧は無神経な男。光源氏の実兄・朱雀院は比べられる男、妻の浮気を黙認する男。こんな分析が具体的に述べられる。それ故に等身大に人物を描き出すという。これだけでも『源氏物語』がかなり身近なものになるのでは・・・・。1000年以上の時を隔てた現代でもこのような類型にあてはまる男達が居るのではないか。
光源氏はコンプレックスを持っていたという。なんと29ページにわたってこの見出しのもとで説明が続く。『源氏物語』を読んでいるときそういう見方をしていなかったので、本書がおもしろかったし、なるほどと思うところもある。
*存分に学問出来なかった ⇒その反動が夕霧にまず学問を付けさせることに。
*「生まれてこのかた、一度たりとも愛が満たされたことはない」(p132)の思い
⇒自らの屋敷には、コンプレックスを持つ女ばかりを集めることに。
孤児同然の紫の上、ブスな空蝉・末摘花・花散里、身分の低い明石の君
つまり、光源氏もまた、絶世の美男で多才なのだが、そのキャラクターは等身大に「矛盾に満ちた私達の人生と、変わるところがない」(p147)人間として、紫式部は描いていると説く。「光源氏の輝くような経歴は、幸福感の達成ということでいえば、何の効力もない」(p146)とバッサリ判断しているところがおもしろい。そういう視点でみることもできるか・・・と。
その上で、著者は紫式部は『源氏』を書くにあたり、「物語はリアルでなくてはいけない」(p156)と考えていたと断定する。「ドキュメント的な要素を物語に取りこむ」手法をとっていると(p158)。だから、中世の『源氏』研究は、登場人物のモデル探しになった。それほどリアルな物語なのだと言う。現代の学者の研究スタンスはどうなのだろうか。そこにも関心が向いてくる。
<第三章 五感で感じる源氏物語>は、まさにカラダで感じる視点で書き込まれていく。ここでは『源氏』に視覚・触覚・聴覚・嗅覚・味覚の観点から切り込んでいる。
著者流の『源氏』の感じ方をいくつか引用してご紹介する。後は、本書をお読みいただくと良いだろう。読み解き方が参考になる。
*『源氏』では、美しい人は肌も美しいというのが必須条件だが、とくにセックスの比重が重い人物ほど、肌の美しさが強調されるのだ。 p172
*『源氏』には、食べ物の話が少ないうえに、食事のシーンは極端に少ない。 p199
*宇治十帖では、残り香が様ざまにエロティックな憶測を生んでいるのだが。そこには不思議と女性の香りは少なく、ほとんどすべて男の香りだ。 p192
*『源氏』の病のほとんどが、ストレスが引き金となっていて、・・・・・実は『源氏』の死は、これといった病気でもないのに、食欲のなくなる症状が続いた結果、引き起こされることが多いのが特徴だ。 p206
*『源氏』を書いた紫式部自身、受領階級の女房という、食欲旺盛な階級だった。それを思うと、食欲不振の貴婦人達を「美しい」と見る『源氏』の視線は、「賞賛」よりも、滅びゆく者への「哀れみ」だったとさえ思える。紫式部が『源氏』という傑作を書けたのも、食べる階級ならではの「底力」ゆえ、かもしれない。 p220
<第四章 失われた体を求めて -平成の平安化->が最終章。「感じる経済」「感じる不幸」「なぜ体で感じる源氏物語なのか」というセクションから構成されている。
紫式部は、没落貴族の末裔の末摘花を描いた。著者は末摘花の貧乏のディテールをリッチな光源氏の目を通して描いている点の意味とともに、経済力の意味に着目していく。優雅に見える宮廷生活も、人や冨という後ろ盾に支えられてこそ、実現しているという事実。「財力のあるなしで、人の境遇や心というのが、いかに変わっていくか」(p224)を紫式部は描いているという。末摘花の存在が様々な視点で考える材料になり、『源氏』の読み方のおもしろさを感じさせる。
「『源氏』の貧乏がリアルなのは、経済事情の変化による、体の変化をも、きちっと押さえている点だ」(p243)と述べ、『源氏』の登場人物の「体型」が経済事情と身分により書き分けられているという。
宇治十帖になると、さらに経済により人生を塗り替えられる人々が多数登場するようになる。『源氏』が経済と人の関わりを重視している点に触れ、それはその当時の時代の潮流を敏感に取り入れている紫式部の視点にあるとし、『源氏』は当時はきわめてトレンディな小説だったのだと著者は言う。これらの指摘と具体的な説明はナルホドである。
さらに「登場人物はすべてが孤独。誰にも理解されぬまま、悔いと苦悩の苦しみを、たっぷり味わった末に死んでいく」という姿を紫式部が描いたと展開し、紫の上と浮舟を事例を取り上げて論じている。
「なぜ体で感じる源氏物語なのか」は、著者の前著『「源氏物語」の身体測定』と『愛のしくみ-平成の平安化』を前提に記されているので、私には論理の流れが少し分かりづらかった。前著書を参照する課題が残ったといえる。
いずれにしても、この本、読んで損はしないと思う。『源氏物語』を多角的な視点から読んでみようと思う人には、お薦めの一冊である。
ご一読ありがとうございます。
[源氏物語ワールドへの誘い]
こちらもお読みいただけるとうれしいです。関連書を種々読み継ごうと思っています。
『源氏物語』全十巻 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫
= ビギナーの友に =
『源氏物語の京都案内』 文藝春秋編 文春文庫
『源氏物語解剖図鑑』 文 佐藤晃子 イラスト 伊藤ハムスター X-Knowledge
『初めての源氏物語 宇治へようこそ』 家塚智子 宇治市文化財愛護協会
= 教養書 =
『平安人の心で「源氏物語」を読む』 山本淳子 朝日選書
= 小説・エッセイなど =
『源氏五十五帖』 夏山かおる 日本経済新聞出版
『新・紫式部日記』 夏山かほる 日本経済新聞出版社
『月と日の后』 冲方 丁 PHP
⇒ 一条天皇の中宮となった藤原彰子を主人公にした小説。
紫式部により『源氏物語』が紡ぎ出される時代背景として関連する。