遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『盤上の向日葵』 柚月裕子 中央公論新社

2019-07-05 14:06:47 | レビュー
 「盤上」の盤とは将棋盤のことである。当然ながらこのストーリーには対局場面が時折登場して来る。そして、そこには棋譜の描写がある。将棋の門外漢である私には切り取られた対局場面の将棋盤上の局面状況が正確には理解できない。文字面を読み進め、描写から対局場面の迫真性を感じとるだけでスルーして読み通した。従って、将棋愛好者がこのストーリーを読むと、多分このあたりは一味違う読後感想となることだろう。この点、最初にお断りしておきたい。
 将棋について門外漢の私が読み通しても、このストーリーの構成が面白くて、最後まで一気に読んだ。少し変わった趣向の警察小説である。
 一方、このストーリーを読み、副産物として、対局プロセスのイメージとプロ棋士になる仕組みについての基礎的知識が学べたように思う。
 このフィクションの登場人物のキャラクター設定が多少特異であるので、一層面白さが加わり、一方不自然さを感じることがないのかもしれない。

 序章は、佐野直也と石破剛志の二人が平成6年12月に山形県天童市の新幹線の駅に降り立つ場面から始まる。二人は日本公論新聞社主催の将棋のタイトル戦、竜昇戦の第7局が行われている会場に向かおうとしている。
 石破剛志は埼玉県警の捜査一課を牽引する中堅刑事で警部補。刑事としての腕は第一級だが、上司部下を問わず、言いたいことをはっきり言う性格で、変わり者とみられている捜査官。佐野直也は大宮北署地域課に所属する。捜査本部が立った事件に加わえられたのだ。佐野は、元奨励会員だった。プロ棋士になれず志半ばで奨励会を去る立場になった。将棋との関わりを一切断ち、警察官に合格し転身したのだった。だが、皮肉なことに、元奨励会員という経歴が、彼を捜査本部に関わらせ、変わり者の石破と組む羽目になった。佐野は石破にしごかれて、殺人事件捜査員の体験を積むことになる。
 
 タイトル戦第7局の会場は神の湯ホテル。名人になるために生まれてきた男、と呼ばれる24歳の天才棋士・壬生芳樹竜昇に挑戦するのは、特異な経歴を持ち、特例でプロになった33歳の上条圭介6段である。上条は東大卒である。外資系会社に就職した後、3年で退職、ソフトウエア会社を起業し、年商30億を達成する。ITベンチャーの旗手となったが、その会社を売却し、実業界を引退。そしてアマチュアのタイトルを総嘗めする。プロ公式戦の新人王戦に出て、アマチュアでありながら指し盛りの若手プロを下し、前代未聞の快挙を達成したのだ。この時に、「炎の棋士」という異名が付いた。そしてプロ棋士となることが特例で認められたのだった。

 ホテルに到着した佐野と石破。だが大盤解説が行われているコンベンションホールには入れる資格がない。二人は警察官という身分を明かす訳には行かない。元奨励会員という佐野が偶然かつての同期に出会い、そのコネで関係者パスを何とか入手し、ホールに入ることができた。
 なぜ、二人がこの大盤解説が行われ、モニターを眺めることができる会場に入らねばならないのか?
 それは、モニターに写る上条の顔のアップを見た石破の囁きが示す。「いい面構えだ。人ひとり殺してもなんでもねえって面してやがる」(p27)
 上条は殺人事件の容疑者として絞り込まれたのだ。タイトル戦という状況を慮って、この対局が終了するのを待つという捜査本部の方針が出た。つまり、石破と佐野は身分を隠して、ひそかに上条を監視するために対局が行われているこのホテルまで来たのである。
 そこで、冒頭で容疑者が確定しているこの小説のどこがおもしろいのかである。
 それは、このストーリーの構成にある。二つの逆行する時間軸でのストーリーがパラレルに進行して行くというスタイルの語り口にある。

 警察小説として、当然ながらメインのストーリーは殺人遺体遺棄事件確認後の捜査展開にある。地域課所属の佐野がなぜ、殺人事件の捜査本部に組み込まれたのか、がこの事件の特異性にある。
 第1章は、平成6年8月3日、捜査本部会議は大宮北署3階大会議室で始まる。その1週間前に、白骨化した遺体が天木山中から発見されたのだ。遺産相続を放棄した人が山を手放し、その山を都内の企業が購入。事業目的のために、山林の伐採を引き受けた会社の社員が作業中に第一発見者となった。白骨化した遺体は人間の骨で、死後およそ3年が経過し、男、推定年齢40~50代等、大凡のことがまず会議で報告された。科捜研で残された頭蓋骨から復顔作業を行う段取りになっている。特異だったのは、遺留品である。駒袋入りの一組の駒が残されていた。それは初代菊水月作、錦旗島黄楊根杢盛り上げ駒であり、値段をつけるとおよそ600万円というもの。駒収集家には垂涎の品だったのである。なぜ、そんな貴重なものが遺留品なのか? 将棋の駒という遺留品が佐野を殺人事件捜査に巻き込んだのである。
 そして、石破に佐野がつき、二人でこの菊水月作の駒の出所を追跡捜査するということを師事される。とんでもない貴重な駒が殺人犯人を探求する重要な事件解明の糸口となる。このストーリーはこの特異な駒の出所、元の持ち主を丹念に探し求めていくという捜査プロセスとなる。所有者探しという形で時間軸を過去に遡っていく。将棋の駒については、佐野に格段の知識があり、捜査推理については石破に格段の経験とノウハウがあるというコンビがここに生まれたのである。佐野は石破から捜査員として、結果的に鍛えられる環境に投げ込まれる。佐野が刑事として成長していく物語という側面も描かれていき、楽しめる。ここに描かれるのは、駒の出所を探るという地道な捜査活動がどのように、事件解明に必要な情報を手繰り寄せていくかということの描写である。捜査プロセスは読者が同行していくというニュアンスで読み応えがある。

 もう一つのストーリーは、冒頭で容疑者と確定している上条圭介の人生物語である。
 こちらのストーリーは第2章から。昭和46年1月、元教師だった唐沢光一郎という高齢者が、諏訪湖氷上でのワカサギ釣りを終えて、帰宅の途につくシーンから始まって行く。一瞬話がどこに進むのかと戸惑うが、読み進めるとその展開がおおぼろげながら見え始める。唐沢の住む地域での古紙回収に絡んだ事がきっかけで、唐沢が小学生の上条圭介に将棋の手ほどきをするという関係ができる。そして、上条少年にとっては、将棋が生きることの支えとなる厳しい境遇から人生がスタートしていく。上条少年の境遇を知った唐沢は夫妻は、子供に恵まれなかったことから、上条を庇護する役割を進んで取るというところからまず話が展開していく。上条にとり少年時代の支えとなった将棋が、東大に入った上条のその後の人生は、将棋が縁となる人間関係が彼の人生を数奇な方向に動かしていくことになる。IQ140という上条の置かれていた境遇とその後の人生の紆余曲折が必然性という意味合いで読ませどころとなる。

 遺棄されて白骨化した遺体の犯人捜査で時間軸を溯って行くプロセスと、少年時代から始まった上条の人生の時間軸のプロセスとが遂に交差する。その鍵が初代菊水月作の駒と白骨化した頭蓋骨の復顔だった。天童市から上条が帰京する。上条が乗った新幹線に石破と佐野もまた同乗し、監視体制を敷く。東京駅での下車時点で、任意同行をかけよという指示が遂に出た。2つのストーリーが交わる。意外なエンディング! このストーリーを味わっていただきたい。

 ここまでのご紹介では、なぜ「盤上の向日葵」なのかはわからない。まず、向日葵は上条圭介の母の好きな花だったのだが、その向日葵にはさらに深い意味合いと秘密が潜んでいた。そしてまた、「炎の棋士」と呼ばれる上条自身の将棋にも向日葵が関係していたのである。明らかにされていく向日葵の意味とその意外性のインパクトが強く印象的である。
 向日葵がある意味でこのストーリーの方向を定めるキーワードになっている。そして、向日葵については、石破と佐野を初めとした警察官にとっては、捜査の埒外に留まった。私はそのように読み取った。
 なぜ高価な駒を遺体と一緒に埋めたのかの謎及び上条圭介が最後に選択した行動の真因は、上条以外の人々には永久に謎のままになる。そこに隠されたメッセージとしての余韻が残る。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、リアルな情報に関心を広げて少し検索した事項を一覧にしておきたい。
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こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
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『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』  講談社
『蟻の菜園 -アント・ガーデン-』 宝島社
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『あしたの君へ』 文藝春秋
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