遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『古都再見』 葉室 麟  新潮社

2018-07-19 10:54:28 | レビュー
 葉室麟は2017年12月23日死去した。享年66歳。これからの更なる活躍を期待していた「遅咲きの作家」がまた一人没してしまった。嗚呼・・・・・・ 合掌。
 本書は、2017年6月20日に出版されている。奥書を見ると、初出は週刊新潮に連載されたエッセイを1冊の単行本にまとめたものである。2015年8月13・20日号から2016年12月22日号の連載と記されている。当初予定の連載期間を終えて、1冊にまとめられたのだろう。単行本が発行された時点で、その半年後に著者が没すると誰が思ったことだろうか。
 
 冒頭「薪能」の末尾に2015年2月から京都暮らしを始めたと述べている。
「これまで生きてきて、見るべきものを見ただろうか、という思いに駆られたからだ。何度か取材で訪れた京都だが、もう一度、じっくり見たくなった。」とその理由を記す。そして、この随筆の最後は「幕が下りるその前に見ておくべきものは、やはり見たいのだ」と吐露している。
 著者は、己の人生の「幕が下りる」ことを予期していたのか? 「見ておくべきもの」を悉く見尽くしたのだろうか? 自ら「遅咲きの作家」の一人だと自認し、先に逝った同類の作家のことに触れる折りに、まだやることがあるならば・・・・と控え目に著作への意欲を記した心には、「幕が下りる」のは今しばし先という思いがまだあったのではないか、そう思いたい。だが、己に来る死の近づきと脳中に抱くテーマ、構想の広がりとの間のジレンマが著者の思いとして、深まっていたのだろうと思う。また、「見ておくべきもの」は未だ多く残されているという思いの中で著者は没したように感じる。例え連載期間は予定通りに終わったのだとしても、古都再見のテーマは無数だと思う故に。

 「心はすでに朽ちたり」(p193-196)では、『平家物語』に登場する斎藤別当実盛の最後の戦から、唐の詩人・李賀の詩「贈陳商」に話を転じた上で、末尾に次の文を記す。
「死を覚悟して最後の戦いに臨むとき、ひとは白髪になるのだ、と覚えておけばいいのではないか。わたしもそうなのかもしれない。」と。己の白髪のことを重ねながらも、ここに著者の思いが実盛、李賀の上に重ねられているように思う。

 「中原中也の京」(p213-216)では、夭折した詩人がしばらく京都に滞在した時期があることとその後のことを語り、最後に次の文で締めくくってる。
「ひとは輝かしい光に満ちた夢のごとき何かに駆り立てられて生き急ぐ。それが『青春』かもしれないが、近頃、同じものが『老い』の中にもあるのではないかと思わぬでもない。死を予感した心のざわめきが似ているからだ。」と。ここにも、著者の心境が現れている。

 本書の最後は「義仲寺」(p277-280)で終わる。このエッセイでは滋賀県大津市にある義仲寺で行われた、作家伊藤桂一との「お別れ会」に出席した経緯を取り上げている。そして、文末は次の通りである。
「このエッセイの連載は、 --幕が下りる、その前に、 とサブタイトルをつけた。
 幕が下りる前にしなければならないことがある。」
 幕が下りる前にしなければならないことを未だ残して、著者は逝ってしまった!!
 惜しい・・・・・。「遅咲きの作家」にせめてあと十年、作品を積み重ねて欲しかった。嗚呼。

 少し沈みがちなことを並べてしまった。このエッセイを通読して特徴的なところをいくつかご紹介しておこう。
 第1は、エッセイを通読すると、京都に仕事場を置いた著者の京都での日常生活が各所に触れられていることから、著者の京都での日常生活が垣間見えておもしろい点である。数年の間に京都での仕事場を変えていることがわかる。そして、日常生活での運動や・食・飲酒に関連して一部書き込んでいる。大凡の生活スタイルが見え始める。著者の読書遍歴の一端も見えて興味深い。本書からその箇所を探してほしい。葉室麟好きの読者の楽しみどころである。ああ、こんな一面もある人なのか(だったのか)・・・・と。

 第2は、京都再発見に繋がるちょっと好事家好みのミニ情報がけっこう織り込まれていることである。
 この『古都再見』を通読し、京都市に生まれ育ち、今はその隣接地に棲む私にとっては、京都再発見という部分が数多く含まれていて楽しく読めた部分が結構多かった。見慣れていて、考えてもいなかった視点で語られた箇所がある。いくつか例示する。末尾の括弧内はエッセイのタイトルである。
*漂泊の俳人尾崎放哉が知恩院塔頭の常称院の寺男になっていた時期がある。一方、荻原井泉水が今熊野剣宮に寄寓していた。放哉はその萩原の許に身を寄せた。(「尾崎放哉が見た京の空」)
*四条河原町の交差点から先斗町の入口に向かう途中に煙草店「栗山大膳堂」がある。その名前が福岡に関係し、著者が『鬼神の如く 黒田叛臣伝』で取り上げた栗山大膳との関わりがあったという。  (「京のゲバラ」)
*斎藤道三の息子のひとりは京に出て法華宗の僧、日饒となり、妙覚寺の貫主を務めた。信長が、足利義昭を奉じて上洛し、翌年の再上洛のおり、初めて妙覚寺を宿所とした。  (「本能寺」)
*1612年、徳川幕府がキリシタン禁令を発布した後、「京都の大殉教」があった。
 鴨川六条河原に二十七本の磔柱が立てられ、1本にふたりを結びつけるなどして52人が火あぶりに処せられた。 (「殉教」)
*東福寺の塔頭・同聚院にモルガンお雪の墓がある。(「モルガンお雪」)

 第3に、著者の見解、仮説が率直に語られている箇所がある。それは、書き残されなかった作品構想に繋がるネタ的視点だったかもしれない。あるいは、既に著者の作品に描かれた人物像の見方に関わる所見になるかもしれない。葉室麟の作品世界の研究材料にリンクする。これも、いくつか印象的なものを抽出例示してみよう。
*「一杯の茶に心の平穏を求める茶人が修羅の最後を遂げるのが不思議に思えた。だが、・・・・一期一会というが、血潮を浴びて生き抜いた男たちにとって、茶は常に末期の水に等しいだろう。」 (「大徳寺」)
*長禄・寛正の飢饉における京の惨状と御花園天皇が足利義政に贈った諫めの漢詩を紹介したうえで、著者は記す。
 「幽玄・わびなどの感覚を磨きあげた文化活動のパトロンであった義政の美意識は後世の日本人に大きな影響を与えた。それなのに、この人間離れした無慈悲さはどういうことなのだろう。」  (「首陽の蕨」)
*御池通の賀茂川に近い路傍に夏目漱石の句碑があると知って、その場所を見に行ったことがある。「春の川を隔てて男女哉」という句が刻まれている。森鴎外の『高瀬舟』の場面紹介から転じて、この句碑をエッセイに取り上げて、著者は末尾に記す。
 「多佳と待ち合わせて北野天満宮に行っていたとしたら、漱石は、そのとき何が言いたいことがあったのかもしれない。」  (「漱石の失恋」)
*「信長の持つ鮮烈な美意識は永徳を刺激したと思える。そんな永徳にとって信長の死は衝撃であり、絵師としても痛手だったはずだ。・・・・・・・
  永徳には、信長がいない世への失望と同時に織田家の天下を簒奪した秀吉への憤激があったのではないか。」   (「信長の目」)
*「利休の気魄は、一休に通じる禅者の反骨だったと考えたほうが、わかりやすいのではないか。」  (「利休の気魄、一休の反骨」)
*幕末に<人斬り彦斎>と呼ばれ恐れられた彦斎は、高瀬川沿いで佐久間象山を暗殺した。
 だが、「彦斎は斬るべき相手を間違えたのだ。」  (「彦斎」)  

 最後に、「三十三間堂」というエッセイを締めくくる一文が、私には謎を秘めたままの余韻とともに残る。
 「だが、わたしの人生での星野勘左衛門との出会いはまだ先のことだった。」という一文である。星野勘左衛門は三十三間堂の通し矢に関わるエピソードに出てくる人物として著者がこのエッセイで紹介している。エッセイのまとめとしては余韻を生み出す一文になっている。その一面で、著者の人生での出会いとして星野勘左衛門は誰のことで、それは何時だったのか、ということである。
 葉室麟はエッセイその他の文中のどこかで、この一文でいう「出会い」について書き残しているのだろうか? その謎が残る。

 葉室麟の文学世界と葉室麟という作家をより深く、より身近に感じるために役立つエッセイ集である。

 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『河のほとりで』  文春文庫
『玄鳥さりて』  新潮社
『津軽双花』  講談社
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

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