遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『万能鑑定士Qの事件簿 Ⅴ』  松岡圭祐  角川文庫

2014-09-23 09:43:27 | レビュー
 この作品は、初めて万能鑑定士Qの凜田莉子が自分の意志でフランスに個人旅行をし、たまたまそこで縁あって遭遇した食材フォアグラの不良品による食中毒事件(以下、フォアグラ事件と略称する)に関わりを深めていき、その事件の解明を独自に行うというものである。
 万能鑑定士Qの店を経営する莉子は、以前からルーヴルとかオルセー美術館の展示品を自分の目で見たいと思っていた。本物の作品群を鑑賞して鑑定能力に磨きをかけたいという思いなのだ。

 なぜフォアグラ事件に関わらねばならないのか? それは莉子の高校時代の同級生・楚辺瑛翔が波照間島からひとりパリに渡り、料理人になることをめざして生活していたことに端を発する。
 この作品の冒頭は、老舗のフォアグラ専門レストラン、ベランジェールに勤務する楚辺が、ロワール川流域にあるバベット精肉に食材のフォアグラを仕入れに行く場面から始まる。バベット精肉は、18世紀に創業されたフランスでも指折りの上質なフォアグラ食材の開発メーカーである。現在はヤニク・クストーが六代目の工場長となっている。食材出荷の最終品質検査は工場長のヤニク自身が全数検査するしきたりになっていて、不良品は一切無いことを誇りとしている。ヤニクは先日と同様に完成品60パックを準備してくれているのだが、楚辺は総料理長の指示で最低でも100パックは仕入れたいと申し出る。ヤニクは在庫が無くて即座に楚辺の要望に添えない。楚辺はクストーの工場と取引をしているので他のメーカーに声を直接かけるわけにはいかないと言う。放浪娘だった25歳のアンジェリークがその頃、父親のところで一緒に働いていた。アンジェリークはバベット精肉が同地域の信頼のおける他のメーカーから同品質の食材フォアグラを仕入れて、ベランジェールの要望に対応することを提案する。バベット精肉は後日、ヤニクとアンジェリーク父娘でパリのベランジェールに食材120パックを納品に赴くのである。

 凜田莉子は冒頭に述べた通り、パリに個人旅行をする計画を立て、そのことを波照間島の両親に連絡をしていた。その両親が、莉子のフランス出立の直前に東京に現れる。それはぎりぎりの成績でなんとか高校を卒業した莉子の3年の時の担任・喜屋武友禅先生が、莉子一人を外国旅行に行かせるのは実に心配だと、莉子の両親を説得して、自分がフランス旅行に同行すると言い始めたからだ。両親は莉子にその経緯を伝え、莉子の説得にきたのである。
 喜屋武先生は、東京に出た以降の凜田莉子の成長を知らない。感受性は強くても、学力の乏しい能天気な莉子のイメージをそのまま記憶しているばかりである。だが、莉子のことを心配する一方で、喜屋武先生自身にも、実は何らかの口実があればパリに行ってみたい一つの理由があったのである。莉子のためばかりではなかった。そのことは当初は喜屋武先生の内心に秘められた思いであり、建前はあくまで教え子・莉子への心配心である。

 そこで、このストーリーは2つの筋がパラレルに同時進行しながら、交点を持ち、そこから美術鑑賞個人旅行の筈が、事件解明に関与する形でフランスに滞在するウェイトが高くなっていくという展開になる。楚辺を軸にした話は、食材フォアグラの仕入れ数倍増という要望がどのように準備され、老舗レストランに納品され、その後食事に訪れた人々のテーブルに料理が運ばれたかのプロセス、そしてそこに料理人を夢見る楚辺が仕事としてどうかかわっていくがが導入ステップとして描かれて行く。
 もう一方で、喜屋武先生の同行で莉子がフランスに旅する行程がおもしろおかしく描かれる。莉子を無知のままと思い込む喜屋武先生の一人相撲と先生をがっかりさせないように、現在の成長した姿を極力見せないように気を遣う莉子の努力、そのギャップが描かれて行く。ピカリと光る莉子の発言・行動のエピソードが要所に入りながら、滑稽な旅行風景が描かれる。結果的に先生は、莉子の成長と現在の能力を認識していくのである。

 パリについた莉子と先生は、先生からあらかじめ連絡を受けていた楚辺の出迎えで、楚辺のアパートメントに向かい、そこに滞在することとなる。ベランジェールの見習いである楚辺は、店の近くのアパートを安く借りられ、またルームメートとシェアする形なのだが、ルームメートが丁度出てしまい、空室が利用できたのだ。そこはルーヴル美術館にも歩いて行ける距離だった。
 到着した日の夜は、楚辺がお店でホール係を手伝う日だったので、楚辺は莉子と先生にベランジェールでディナーを食べることにしたらどうかと提案する。だが、その夜レストランでは莉子たちが行く直前に、一騒動が発生してしまったのだ。それがフォアグラ事件という次第。
 店の従業員である楚辺も当初は捜査対象の一人になる。当日ホール係を手伝っていた楚辺は、初動捜査段階で調査対象から外されることになる。しかし、不可解な食中毒事件が解明されないと、老舗レストランは営業停止、ひいては店がつぶれる。楚辺は路頭に迷い、料理人になる夢が破れかねない。彼は窮地に落ち込んでいく羽目になる。
 これをなんとかしないと・・・・と莉子はこの事件の解明に首を突っ込んでいく。とはいえ、日本ではなく外国であるため、捜査に協力するという立場にはなれない。余計なお世話といわれるのがオチ。
 莉子は楚辺から得た情報をベースに楚辺、喜屋武先生とともに独自に事件解明への行動に歩み出す。

 この作品が興味深くて面白い点を列挙してみよう。
*今回は小笠原が主な登場人物としては姿を表さず、代わりに莉子の担任教師だった喜屋武友禅が登場してくること。喜屋武先生の秘めた思いが明らかになるとともに、そのことが、派生的に事件解決の手段に絡まっていくという意外性。
*莉子の現在像と喜屋武先生の記憶にある莉子像のギャップが生み出すフランス旅行珍道中の滑稽さ。
*莉子のフランス語独学法
*食材フォアグラの生産工程、品質管理、販売ルート、メーカーと顧客の関係など、フォアグラ関連知識とフランス行政のスタンスについて、蘊蓄が語られること。
*読後にふり返ると、如何にさりげなく事件への伏線が張られ、解決への糸口が仕組まれているかの巧妙さ。ストーリーを追いかけていると、その伏線に気づかない・・・・。
*ルーヴル美術館で「モナ・リザ」の絵を直に見た莉子は、なぜか感銘を受けない。莉子のあの感性に響いてくるものがないという。それはなぜか? 本作品では、莉子にとっては原因が不明のままで終わる。ただ、美術館側の意図と対応は描かれている。
 莉子にとって、その時の思いは、後の作品で理由が解明されることになる。シリーズの後の作品への伏線が張られていく。(これは順不動で読んだために、ああそうだったのか・・・と逆にリンクした次第)
*「動物の権利」という概念・思想の視点が作品の基底に置かれていること。
 宮沢賢治の作品名が出てくるという興味深さがある。
*帰国のために、莉子と喜屋武先生がゲートを通過した後に、喜屋武先生が一枚の絵葉書の裏面を私製の卒業証書として記載し、莉子に贈るという場面はちょっと感動的。

 万能鑑定士Qの面目、という点で、モナ・リザに関わる描写を抜き書きして置こう。

A:モナ・リザの間で莉子が絵に対面したときの描写から

 莉子はつぶやいた。「これって・・・・本物かなぁ?」
 ・・・・・・
 いや・・・・。『モナ・リザ』を所蔵する美術館を訪問しているのはたしかだ。けれども、いまこの瞬間、世紀の絵画をまのあたりにしているとは感じられない。胸の奥にまで沁みいってくるような情動がない。名画と呼ばれる物を前にして、自発的に昂ぶるはずの激情のようなものもない。無味乾燥。この空間に感じられるのはそれだけだった。

B:本作品の末尾に出てくるルーヴル美術館の学芸員の間での会話から

 分子レベルまで分析可能な科学鑑定。筆づかいの微妙な違いまで見極めるプロの観察。だが鑑定の基本中の基本は、その絵画の持つ抗いがたい魅力を理解し、心に感じることだ。感受性の強さが真贋を見極める。どんな知識も、そこに生ずる直感にはかなわない。
 ・・・・・・
 感受性のない人間に鑑定はできない。僕は絵と向き合うとき、画家の心と触れあう。本物は、向こうから語りかけてくる。

 この場面描写が、『万能鑑定士Qの事件簿 Ⅸ』の伏線にもなっていくのだ。
 このⅤが創作された時点で、Ⅸへの展開構想があったのかどうか、それは著者のみぞ知るところだが・・・・・。

 観光ビジネスを重視するパリの厳しさを垣間見させる側面を描く作品ともいえる。

ご一読ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。



本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
フォアグラ  :ウィキペディア
ロワール川  :ウィキペディア
ロワール川流域の地方 :「フランス地方料理 ビストロ・シェケン」
Restaurant de specialites du Sud-Ouest ホームページ
 ネットで知ったフォアグラ専門店の事例
Au petit sud ouest 絶品の鴨とフォアグラ料理を堪能出来る店:「パリのレストラン」

ルーヴル・ピラミッド  :ウィキペディア
ルーヴル美術館  :ウィキペディア
ルーヴル美術館 ウェブ・サイト(フランス語)
ルーヴル美術館 英語版のガイド資料  Plan/Information English Louvre

TGV  :「RAIL EUROPE」

宮沢賢治  :ウィキペディア
注文の多い料理店 :ウィキペディア
注文の多い料理店  :「青空文庫」
フランドン農学校の豚 :ウィキペディア
フランドン農学校の豚  宮沢賢治  :「青空文庫」

動物の権利  :ウィキペディア


  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)





万能鑑定士Qに関心を向け、読み進めてきたシリーズは次のものです。
こちらもお読みいただけると、うれしいです。

『万能鑑定士Q』(単行本) ← 文庫本ではⅠとⅡに分冊された。
『万能鑑定士Qの事件簿 Ⅲ』
『万能鑑定士Qの事件簿 Ⅳ』
『万能鑑定士Qの事件簿 Ⅵ』
『万能鑑定士Qの事件簿 Ⅸ』
『万能鑑定士Qの事件簿 ⅩⅠ』
『万能鑑定士Qの事件簿 ⅩⅡ』