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『孟子』巻第十一告子章句上 百四十九節、百五十節

2019-01-06 10:41:32 | 四書解読
百四十九節

孟子は言う。
「王が物事を知らないことを不思議がることはない。どんなに生育しやすい種子が有っても、一日だけ暖めて、十日冷やせば、順調に発芽するはずがない。私が王様にお目にかかるのはごく稀である。私が退出すると、私がせっかく暖めた王の心を、冷やす者が入れ替わり王のもとへやってくる。これではたとい王様の心に良心が芽生えたとしても、私にはどうすることも出来ない。あの囲碁の技などは大したものではないが、専心努力しなければ上達しないものだ。弈秋は国中に知られた囲碁の名人である。その彼が二人に囲碁を教えたとする。一人は専心努力して志を遂げようとして、ひたすら弈秋の教えを聴く。もう一人は弈秋の教えを聴いてはいるが、心はその事に集中しておらず、そろそろ白鳥がやってくる頃だろうと思い、射ぐるみでこれを射落とすことを考えていれば、共に学んでいても、もう一人にはとうてい及ばない。それは能力が及ばない為だろうか。決してそうではない。専心努力をしないが為である。」

孟子曰、無或乎王之不智。雖有天下易生之物也、一日暴之、十日寒之、未有能生者也。吾見亦罕矣。吾退而寒之者至矣。吾如有萌焉何哉。今夫弈之為數、小數也、不專心致志、則不得也。弈秋、通國之善弈者也。使弈秋誨二人弈、其一人專心致志、惟弈秋之為聽。一人雖聽之、一心以為有鴻鵠將至。思援弓繳而射之、雖與之俱學、弗若之矣。為是其智弗若與。曰非然也。

孟子曰く、「王の不智を或むこと無かれ。天下生じ易きの物有りと雖も、一日之を暴(あたためる)め、十日之を寒(ひやす)さば、未だ能く生ずる者有らざるなり。吾が見ゆるも亦た罕なり。吾退きて之を寒す者至る。吾萌すこと有るを如何せんや。今、夫れ弈の數為る、小數なれども、心を專らにし志を致さざれば、則ち得ざるなり。弈秋は、通國の弈を善くする者なり。弈秋をして二人に弈を誨えしむるに、其の一人は心を專らにし志を致し、惟だ弈秋に之を聽くことを為す。一人は之を聽くと雖も、一心には以為らく、鴻鵠將に至らんとする有りと。弓繳(シャク)を援きて之を射んことを思わば、之と俱に學ぶと雖も、之に若かず。是れ其の智若かざるが為か。曰く、然るには非ざるなり。」

<語釈>
○「或」、趙注:「或」は、「怪」なり。○「雖有天下易生之物」、趙注:生じ易きの草木五穀を種うるも、一日之を暴温し、十日陰寒して、以て之を殺せば、物何ぞ能く生ぜん。趙注の「暴温」の語から、「暴」を“あたためる”と訓ず。○「數」、趙注:「數」は技なり。○「鴻鵠」、白鳥。○「弓繳」、「繳」(シャク)は、いぐるみ。弓繳は、いぐるみを射ること。

<解説>
何事も努力がなければ成長しない。人間の本性は善であるが、それをなおざりにしていては善道を行うことはできない。それを妨げる外的条件は多々あり、それに侵されれば、不善に走り、邪を行うことになる。専心努力して善を行うことの重要性を説いている。

百五十節

孟子は言う。
「魚は食べたいと思う、熊の掌も食べたいと思う。しかしこの両方を得ることが出来ないなら、魚を棄てて熊の掌を選ぶ。生命も亦た欲することで、義も亦た欲することであるが、両方を得ることが出来ないなら、生命を棄てて義を取る。もちろん生命は私にとって大切なものであるが、それよりも大切なものが有るので、無理に生命を守ろうとしないのである。死も亦た避けたいと願うものであるが、それ以上に避けたいと願うものが有るので、死ぬ危険がある患いに出会っても敢て避けようとしない事もある。願う所のものが生命より大切なものがないとしたら、生命を守る為にはどんなことでもするだろう。避けたいと願うものが、死以上のものがないとしたら、死を避ける為にはどんなことでもするだろう。ところが実際には、人はこうすれば生きられるという時でも、そうしないことがあり、こうすれば患いを避けることが出来るのに、そうしないこともある。それは生命以上に望むものが有り、死以上に避けたいと願うものが有るからである。それは何も賢者だけにあるのではない。人は皆そのようなものを持っているのだ。ただ凡人はそれを見失ってしまうが、賢者はずっと持ち続けているだけのことである。少しの食べ物に一わんの吸い物という粗末なものでも、それがあれば生きられるし、無ければ死ぬ場合でも、おいこらと軽蔑したような口調で声を荒げてそれを与えたのでは、路上の下賤の民でもその無礼に怒って受け取らないし、足蹴にして与えれば、乞食でもそれをもらうのを潔しとしないだろう。ところが一万鐘もの俸禄ともなれば、礼儀に関係なく人は飛びつく。一万鐘もの大禄は独りで食べきれるものでく、己にとって何の足しになるのだ。立派な宮殿を造るとか、妻や妾に贅沢をさせる為とか、知り合いの窮乏者がやってくれば施しを与える為とかであろうか。さきには、たとい餓死しても義に適わないものは受け取らなかったのに、今は立派な宮殿を造る為に、一万鐘もの大禄を受け取り、餓死しても受け取らなかったのに、妻や妾に贅沢をさせる為に受け取り、餓死しても受け取らなかったのに、知り合いの窮乏者に施しを与える為に受け取る。このようなことが果たして止むを得ないことなのだろうか。決してそんなことはない。こういうのを、本来の心を失う、と謂うのだ。」

孟子曰、魚我所欲也。熊掌亦我所欲也。二者不可得兼。舍魚而取熊掌者也。生亦我所欲也。義亦我所欲也。二者不可得兼。舍生而取義者也。生亦我所欲、所欲有甚於生者。故不為苟得也。死亦我所惡、所惡有甚於死者。故患有所不辟也。如使人之所欲莫甚於生、則凡可以得生者、何不用也。使人之所惡莫甚於死者、則凡可以辟患者、何不為也。由是則生而有不用也。由是則可以辟患而有不為也。是故所欲有甚於生者、所惡有甚於死者。非獨賢者有是心也。人皆有之。賢者能勿喪耳。一簞食、一豆羹、得之則生、弗得則死。嘑爾而與之、行道之人弗受。蹴爾而與之、乞人不屑也。萬鍾則不辨禮義而受之。萬鍾於我何加焉。為宮室之美・妻妾之奉・所識窮乏者得我與。鄉為身死而不受。今為宮室之美為之。鄉為身死而不受。今為妻妾之奉為之。鄉為身死而不受。今為所識窮乏者得我而為之。是亦不可以已乎。此之謂失其本心。

孟子曰く、「魚は我が欲する所なり。熊掌も亦た我が欲する所なり。二者兼ぬるを得可からずんば、魚を舍てて熊掌を取る者なり。生も亦た我が欲する所なり。義も亦た我が欲する所なり。二者兼ぬるを得可からずんば、生を舎てて義を取る者なり。生も亦た我が欲する所なれども、欲する所生より甚だしき者有り。故に苟くも得るを為さざるなり。死も亦た我が惡む所なれども、惡む所死より甚だしき者有り。故に患も辟けざる所有るなり。如し人の欲する所をして生より甚だしきもの莫からしめば、則ち凡そ以て生を得可き者は、何ぞ用いざらんや。人の惡む所をして死より甚だしき者莫からしめば、則ち凡そ以て患いを辟く可き者は、何ぞ為さざらんや。是に由れば則ち生くるも、而も用いざること有るなり。是に由れば則ち以て患いを辟く可きも、而も為さざること有るなり。是の故に欲する所、生より甚だしき者有り、惡む所、死より甚だしき者有り。獨り賢者のみ是の心有るに非ざるなり。人皆之れ有り。賢者は能く喪うこと勿きのみ。一簞の食、一豆の羹も、之を得れば則ち生き、得ざれば則ち死す。嘑爾(コ・ジ)として之を與うれば、道を行くの人も受けず。蹴爾として之を與うれば、乞人も屑(いさぎよい)しとせざるなり。萬鍾は則ち禮義を辨ぜずして之を受く。萬鍾は我に於て何をか加えん。宮室の美・妻妾の奉・識る所の窮乏者の我に得るが為か。鄉には身の死するが為にして受けず。今は宮室の美の為に之を為す。鄉には身の死するが為にして受けず。今は妻妾の奉の為に之を為す。鄉には身の死するが為にして受けず。今は識る所の窮乏者の我に得るが為にして之を為す。是れ亦た以て已む可からざるか。此を之れ其の本心を失うと謂う。」

<語釈>
○「一簞食、一豆羹」、「簞」は竹で編んだ小さなかご。「豆」はたかつき、少しの食べ物に一わんの吸い物、○「嘑爾」、趙注:嘑爾は猶ほ爾と呼びて、咄啐するの貌。相手を見下して、おい、と呼びかけること。○「萬鍾」、「萬」は量の単位、一鐘は256升、一升はこの当時194㏄なので、一鐘約50リットル、一万鐘で500キロリットル。

<解説>
“身を棄てて義を取る”とか“義に死す”とかは、古より、志士仁人の口にする言葉として知られているが、この説で説かれていることは、それは何も賢者だけが持っているのではなく、人皆それを持っているということである。賢者と凡人との差はそれを意識しているかしていないかの違いである、と謂うのであるが、それも一理はあるが、義に死す為には勇気も必要であろう。

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