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『中庸』第七節

2014-01-25 17:00:25 | 漢文
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       『史記』、『戦国策』の解読を載せています

              中庸第七節

孔子が言われた、「世に現れない隠れた節理を求めて、目新しい事を行えば、後世に名を残すことになるかもしれないが、私はそのような事はしない。君子は道に従って事を行い最後までやり通す。我々は道半ばで疲れて止めてしまいたくなるが、私は止めるようなことはしない。君子は常に中庸を拠り所にしている。世を隠れて知られなくても、人や運命を怨まず、中庸の道を全うすることが出来るのは、唯だ舜のような聖人だけが能く行うことができるのである。君子の道は広大であるが、その節理は奥深くて微である。匹夫匹婦の愚かな者でも、その君子の道の一端は知ることが出来るが、その道の極みについては、聖人と雖も知ることは難しい。匹夫匹婦の不肖の者でも、道の一端なら行うことができるかもしれないが、その極みについては、聖人と雖も実行することは難しい。天地は誠に至大で、何一つおろそかにしていないが、それでも人は天地を恨むところがある。それだからこそ君子は大きいことを論ずれば、天下の人々が束になっても及ばないような大きな事を論ずるし、小さいことを論ずれば、天下の人々が力を合わせて細かく分析するよりも、更に極微な事を論ずる。『詩経』には、鳶飛んで天に戻(いたる)り、魚淵に躍る、と書かれている。乃ち君子の道は天下にあまねく行われているものである。その道は、小さいところでは、最も身近な夫婦に行われ、それはやがて天地にまで及ぶもので有る。それだからこそ人は常に君子の道を目指して、努力しなければならないのである。」


子曰、「素隱行怪、後世有述焉、吾弗為之矣。君子遵道而行。半涂而廢、吾弗能已矣。君子依乎中庸。遯世不見知而不悔、唯聖者能之。君子之道費而隱。夫婦之愚、可以與知焉。及其至也、雖聖人亦有所不知焉。夫婦之不肖、可以能行焉、及其至也、雖聖人亦有所不能焉。天地之大也、人猶有所憾。故君子語大、天下莫能載焉。語小、天下莫能破焉。詩云、鳶飛戾天、魚躍于淵。言其上下察也。君子之道、造端乎夫婦、及其至也、察乎天地。」

子曰く、「隱を素めて怪を行えば、後世述ぶる有らんも、吾は之を為さず。君子は道に遵いて行う。半塗にして廢するも、吾は已むる能わず。君子は中庸に依る。世を遯(のがれる)れて知られざるも悔(うらむ)みず。唯聖者のみ之を能くす。君子の道は費にして隱なり。夫婦の愚も、以て與り知る可し。其の至れるに及びてや、聖人と雖も亦た知らざる所有り。夫婦の不肖も、以て能く行う可し。其の至れるに及びてや、聖人と雖も亦た能くせざる所有り。天地の大なるも、人猶ほ憾(うらむ)む所有り。故に君子大を語れば、天下能く載する莫く、小を語れば、天下能く破る莫し。詩に云う、『鳶飛んで天に戻(いたる)り、魚淵に躍る。』其の上下に察(あきらか)らかなるを言うなり。君子の道は、端を夫婦に造す。其の至れるに及びてや、天地に察(いたる)るなり。」

<語釈>
○「素隱」、鄭は「素」を“むかう”と解し、「隠所に向かい、害を避けて身を隠す」と解し、朱子は「素」を“もとめる”と解し、「深く隠僻の理を求む。」と解す。ここは朱子の説の方が是であると思う。○「半涂而廢」、此の句の主語は君子と孔子の二説があるが、孔子とするほうが下の「吾弗能已矣。」の句に入りやすい。「廢」は鄭注に、廢は猶ほ罷れて止むがごときなり、とある。○「費」、鄭注:「費」は猶ほ「佹」のごときなり、道費ならざれば則ち仕う。「佹」はもとる。朱子は、費用の廣なりと注し、多用の意に解す。朱子説を採用し、君子の從う道は広大であると解す。○「憾」鄭注:「憾」は「恨」なり。○「破」、事理を細かく分けて分析すること。○「察」、鄭は、「著」あきらかの意に解す。王念孫は「至」に解す。上文の「察」はあきらかに、下文の「察」は「至」に解するのがよい

<解説>
君子の道といえば、遠くて深いものであると思われがちで有るが、その道は普く広がっているものであり、その端は我々の日常から発するものである。それ故に道の極みを行うことは難しいが、その一端ならば我々凡人でも知ることが出来、実行することが出来る。そこから日々努力をして高みに上ることに勉めることが大事なのである。君子聖人だけでなく、夫婦の愚、夫婦の不肖も「鳶飛魚踊」となることが出来るのである。

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