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『孟子』解読、解説

2015-08-05 10:44:33 | 漢文解読
                         『孟子』解説

                         孟子とその時代
 孟子、姓は孟、名は軻、字は子輿、又は子車、子居と言い、孔子の没後約100年後に魯の芻に生まれ、八十歳前後で亡くなっており、没年については諸説が有る。世は当に戦国時代中ごろ、遊説の徒は合従連衡の策を説き、諸侯は富国強兵に務め、それらの遊説の士を重用した。このような利己的な欲望をひたすら追及した時代の中で、孟子は、「王何ぞ必ずしも利を曰んや、亦た仁義有るのみ。」と述べて、自己中心的な利益追求を批判し、仁義を自我の中心に置き、人間の欲望の克服に務めることを主張したのである。しかしながら、このような学説が弱肉強食、富国強兵の時代に於いて、諸侯に採用されることがないのは自明の理であった。このあたりの事情については、『史記』の孟子列伝が刻銘に述べている。
孟軻は、騶の人なり。業を子思の門人に受く。道既に通じ、斉の宣王に游事し、宣王、用うる能わず。梁に適く。梁の恵王、言う所を果たさず、則ち見て以為らく、迂遠にして事情に闊(とおい)し、と。是の時に当たり、秦、商君を用いて、国を富まし兵を彊くす。楚・魏は呉起を用いて、戦い勝ち敵を弱む。斉の威王・宣王は孫子・田忌の徒を用い、而して諸侯は東して斉に朝す。天下方に合従連衡に務め、攻伐を以て賢と為す。而るに孟軻は乃ち唐・虞・三代の徳を述ぶ。是を以て如くする所の者合わず。退きて萬章(孟子の弟子)の徒と、詩書を序し、仲尼の意を述べ、孟子七篇を作る。
更にこの時代の自己中心的な利益追求が、いかに世の中を乱しているかを、司馬遷は孟子評の中で、的確に捉え、嘆いている。
 太史公曰く、「余、孟子の書を読み、梁の恵王の何を以て吾が国を利せんとするか、と問うに至りて、未だ嘗て書を廃して(書を下において目を外す)歎ぜざることあらず、曰く、嗟乎、利は誠に乱の始めなり、と。夫子(孔子)、罕(まれ)に利を言えるは、常に其の原(乱の源)を防ぐなり。故に曰く、『利に放(よる)りて行えば、怨み多し。』天子自り庶人に至るまで、利を好むの弊、何を以てか異ならん。」
かくの如く利の追求に走った戦国時代に於いては、孟子の仁義に基づいた人間の欲を克服する実践論は用いられることはなかったが、その思想は『孟子』という書に残されたのである。
私のホームページから、孟子荀卿列伝を参照してください。
http://www.eonet.ne.jp/~suqin


                          『孟子』とその注釈書
『史記』によれば、上に紹介した通り、七編の著であったが、後漢の趙岐が各篇を二篇に分けて十四篇にして注釈本を著して以来、今日に至るまで『孟子』十四篇として伝えられている。『孟子』は1000年以上の長きにわたり諸子百家の一つの学問に過ぎなかったが、南宋の朱熹が『論語』・『大学』・『中庸』と共に『孟子』をとりあげ、四書として大いに尊び、その名を定着させたことにより、以後経典としての権威を確立したのである。
注釈書については、現存する最も古いものは、後漢の趙岐による『孟子注』である。それ以外にも後漢の学者たち、程曾、鄭弦、劉熙、高誘等も注釈書を作ったとされているが、全て亡佚しており、趙岐の注のみが残存しているのである。趙注以外で代表的なものは、朱熹の『孟子集注』であり、これ以後は多くの注釈書が世に現れている。わが国に於いても、江戸時代に優れた注釈書が作られている。江戸末期の大儒学者安井息軒の『孟子定本』や伊藤仁斎の『孟子古義』などである。
今回の解読には、冨山房刊行の漢文大系に収められている安井息軒の『孟子定本』を使用した。

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