ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

渡来人とのつながり

2014年07月29日 17時20分26秒 | 県全般
渡来人とのつながり

「渡来人」という言葉は、最近ではあまり耳にしない。今の言葉に直せば、政治的亡命者ということになろうか。

朝鮮半島は7世紀、「三国時代」のただ中にあり、百済、高句麗、新羅が鼎立、覇を競っていた。

中国を支配していた唐と結んだ新羅が台頭、まず日本と結んだ百済が滅び(663年)、ついで高句麗がそれに続いた(668年)。

国を失った百済や高句麗の王族や貴族は続々日本を頼って亡命してきた。

今の政治的亡命者と違うのは、朝鮮半島は当時、まだ白鳳時代だった日本より先進国で、文化的にも技術的にも進んでいた。亡命者は、日本が欲しがっていた文化と技術を背負って、日本に移住してきたのである。

日本はまだ、国らしい体裁も整っておらず、文化・技術の程度も低かった時代だったので、亡命者は迫害されるどころか歓迎された。

これに先立つ6世紀の飛鳥時代、百済から仏教が伝来(538年)したことからも分かるように、文化の伝来は文化人、技術者が担った。高句麗からも新羅からも文化人や技術者はやってきた。

武蔵国の北武蔵に、渡来人でつくる高麗郡(716年)、新羅郡(758年)ができたのは、その技術力、文化で、都からは辺境に当たるこの地を開拓・開発させ、東北(蝦夷)への前線基地にするためだったのだろう。

高麗郡は、今の日高市が中心で、飯能と坂戸市の西部にあり、新羅郡は現在の新座、志木、和光、朝霞市の辺りにあった。新羅郡は後に新座(にいくら)郡になった。高麗は高句麗の別称だ。

渡来人とのかかわりを思わせるのは、この2郡にとどまらない。

北武蔵には幡羅(はら、後に、はんら)という郡もあった。熊谷、深谷市あたりの新羅系の居住地で、「幡」は「秦」に通ずるので、渡来系の大氏族・秦氏が開発に当たった地域と考えられている。

渡来人の武蔵国への移住は、高麗郡、新羅郡の設置以前の6世紀末から行われていたようで、男衾(おぶすま)郡には、その郡長に渡来人の壬生吉志(みぶのきし)氏が当てられていた。

「吉志」は、百済の王の和訓「こにきし」の同意語だという。

男衾郡は、荒川中流域の南方にあって、現在の寄居、小川、滑川、嵐山、ときがわ、鳩山などにまたがる地域だった。男衾郡は8郷からなる武蔵国で最も大きい郡だったという。

壬生吉志の中でも福正(ふくしょう)は、富豪として知られ、自分の二人の息子が生涯に納める税金を一括前払いしたり、武蔵国分寺の七重塔が落雷で焼失したままになっていたのを、修復、寄進したことが記録に残されている。

男衾郡内には台地向けの灌漑用溜池が多く、水田や魚類の養殖池に利用され、大規模な須恵器生産の窯があり、和紙の生産や養蚕業も盛んだった。

もう一つ注目されるのは、郡内の今のときがわ町に武蔵国で最古の天台別院慈光寺が開かれたことである。

開山は釈道忠(しゃくのどうちゅう)と伝えられるが、道忠も渡来系の出身者だったのではないかと推定されている。

秩父黒谷で奈良時代初頭、わが国初の銅(和銅)鉱脈を発見したのは、新羅系渡来人の金上无だったという説や、「羊」という名の渡来人が関わっていたという説もある。

この頃にはすでに秩父にも渡来人が入り込んでいたことを物語っている。

思いつくものを上げただけで、古代の北武蔵は、渡来人の縦横に活躍する場だったようだ。




北武蔵15の郡

2014年07月29日 17時16分13秒 | 県全般
北武蔵15の郡

誰でも知っているとおり、埼玉県は武蔵国に属していた。

昔は「无邪志」とか「胸刺」と表現されていた。これに知知夫国造(ちちぶのくにのみやっこ)が支配していた知知夫が加わり一つの国になった。

645年の大化改新と701年の大宝律令によって大和朝廷による中央集権の律令国家が確立され、国、郡などの地方組織が整備された後、現在の埼玉県、東京都のほとんどと、神奈川県の横浜、川崎市にまたがる国として「武蔵」の国名が使われている。

以前は「東山道」だったが、「東海道」に転属した。「道」と言っても道路の名前ではなく、道路を中心とする地方の名前である。

武蔵国は21(後に22)の郡(こおり)で構成されていた。陸奥国の40郡に次いで多かった。

21郡は一度にできたのではなく、それぞれが出来た年代ははっきりしない。「続日本記」によると、朝鮮半島からの渡来人による「高麗郡」が716年、新羅(しらぎ)郡(のち新座=にいくら=郡)が758年に追加された。


21の郡のうち、北武蔵に当たる現在の埼玉県には15の郡があった。郡の数では北が圧倒的に多いのに、国を治める国府は埼玉県内ではなく、南の現東京都府中市に置かれていた。武蔵国分寺も現東京都国分寺市にあった。

平安中期に編纂された律令の施行細則(延喜式)によると、国力の格は「大国(たいこく)」で、都の京都からの距離は「遠国(おんごく)」とされているというから面白い。

15の郡は、足立、新座(にいくら)、入間、高麗、比企、横見、埼玉(さきたま)、大里、男衾(おぶすま)、幡羅(はら)、榛沢、那珂、児玉、賀美(かみ)、秩父である。

郡の中にはいくつかの郷(ごう)があった。その数は、武蔵国全体で121、埼玉県域で75あった(平安時代中期の辞書・和名類聚抄)。

郷の戸数は50戸と定められ、1戸の平均人数は25人前後だから、当時の人口は武蔵国で約15万人、埼玉県域では約9万人と推定している本もある(「埼玉県の歴史」小野文雄著・山川出版社)。

足立郡には、現在のさいたま市(岩槻区を除く)、川口、戸田、蕨、上尾、桶川、北本、鴻巣市などが入っていた。

横見郡は吉見町の辺り、埼玉郡は、さいたま市岩槻区、春日部、越谷、久喜、八潮、蓮田、行田、羽生、加須市など、榛沢郡は熊谷、深谷市と大里郡辺り、那珂郡と賀美郡は本庄市、児玉郡の辺りだったという。

竜巻にご用心

2014年07月21日 16時41分19秒 | 県全般
竜巻にご用心

竜巻なんて、米国のロッキー山脈東側の米中西部から南部を襲う災害とタカをくくっていたら、13年から埼玉県越谷市についで熊谷市、14年にはさいたま市でも大規模なのが発生するようになり、にわかに身近なものになってきた。

歴史的には大水害こそあったものの、台風や地震もそれほど深刻な被害をもたらしたことはない。比較的大災害には縁が薄いと見られてきた埼玉県の重大なリスクになろうとしている。

関東平野北部の埼玉、群馬、茨城県は、西側に冷たい西風をもたらす秩父山地、南側に暖気を送り込む東京湾がある。その地形がロッキー山脈と南側にメキシコ湾がある米中西部と似ていると専門家は指摘している。(毎日)

熊谷市や館林市など関東北部に定着しようとしている猛暑が、積乱雲を発達させ、竜巻などの突風を生むのではないかとも言われる。

竜巻は寒気の下に暖気が入り込み、大気が不安定になると発生しやすくなるからである。

13年9月2日午後2時過ぎ、越谷市など県東南部を襲った竜巻では、県の調べで越谷市では負傷75人、建物被害は住宅全壊27、大規模半壊57を含む1585棟に及んだ。

台風の接近に伴い、同月16日未明の午前1時半過ぎ、熊谷市など県北西部を襲った竜巻では、熊谷市で負傷6人、住宅全壊10、半壊21を含む1211棟が建物被害を受けた。

気象庁によると、竜巻は夏から秋、7~11月に全体の約7割が発生、台風シーズンの9月に最も多いという。

さいたま市の場合は、発生が14年4月4日午後3時20分ごろで、住宅など約20棟の被害で済んだが、季節はずれで、「想定外」だったのが住民を驚かせた。

英語で「トルネード」と呼ばれる。気象庁などによると、米国では世界の竜巻の約8割、年間800~1000個前後が発生する。

竜巻が頻発するカンザス、オクラホマ、ミズーリ、アーカンソー州などは「トルネード・アレー(竜巻街道)」と呼ばれるほどだ。

これに比べ、日本の陸上での竜巻は年間20~25個程度。

1991~2013年の都道府県別発生確認数は、多いほうから沖縄(42)、北海道(38)、高知(29)、宮崎(23)、鹿児島(22)の順で、埼玉は14で8番目。海なし県では全国最多という。近県では千葉(11)、茨城(10)、栃木(7)、群馬(4)となっている。

異常気象で来年も夏の猛暑はおさまりそうにない。埼玉が「日本の竜巻街道」と呼ばれることのないように祈るほかない。

その風土4 「暑いぞ!  熊谷 」

2014年07月20日 17時09分02秒 | 県全般
風土4 「暑いぞ! 熊谷」

アフリカや中東にざっと7年もいて、暑さには慣れきっているので、「暑いぞ!  熊谷」という、暑さを逆手にとったキャッチフレーズも、その原因に挙げられる「熱風の交差点」という言葉も気に入っている。

最近は暑さのニュースに、隣県・群馬の館林や伊勢崎市なども登場することが多く、専売特許ではなくなった感があるとはいえ、熊谷が日本の暑さの記録に残ることは間違いない。

07年8月16日午後2時42分、気温40.9度を観測、2分前の20分に同じ気温を記録した岐阜県但馬市とともに、暑さの日本最高を記録、13年8月12日に高知県四万十市で41.0度が観測されるまで最高を保持した。

熊谷、但馬市の前は山形市の40.8度(33年7月25日)だった。いずれも0.1度の差で、何かオリンピックの100m競争を連想させる僅差の争いである。

暑さの記録はこれだけではない。10年には、年間猛暑日(35度以上)日数が、館林とともに41日と国内最多を記録している。

この暑さの原因の説明に使われるのが、「ヒートアイランド現象」と「フェーン現象」である。

「ヒートアイランド(熱の島)現象」は、東京都などの大都市で、エアコン、車、アスファルト、ビルなどの熱が放出されて、都心の方が郊外より暑くなる人間が作り出した高温だ。

「フェーン現象」は、風が山を吹き降りてくる際、下の地上は上空より気圧が高いので、降りるに従って、空気が圧縮されて、温度が上がる現象である。

地図を見ると明らかなとおり、東京都の北にある熊谷は、秩父山地と関東平野の境目にある。

太平洋高気圧の海風(南風)に乗って北上してくる「ヒートアイランド」の熱風と、秩父山地を降りてくる「フェーン現象」による熱風が、日中の最高気温となる午後2時過ぎに熊谷の上空付近で交差する。

これが「熱風の交差点」だ。館林や伊勢崎の暑さ仲間もほぼ同じような位置にある。

ここまでは通説だが、筑波大の研究チームが最近、スーパーコンピューターを使って、新しい知見を加えた。

比較的低い高度の山を越える気流、「第3のフェーン」と呼ぶべきものがあり、下降しながら地表の高熱を吸収する。熊谷市に流れ込んだ熱風の約6割が、標高1000m以下の地表の熱を吸収しているというのである。

「ヒートアイランド現象」と従来の「フェーン現象」に加えて、地表の熱を吸収した「第3のフェーン」が加わって、日本一が発生したというわけだ。

「彩の国だより」15年6月号の「知事コラム」によると、熊谷市の夏日(最高気温が25度以上)の日数は、1975年から84年までは年平均108日だったが、最近の10年間の平均は129日。熱帯夜(夜間の最低気温が25度以上)の日数は、1975年から84年の年平均2.9日が、最近は平均13日と4倍以上に増えている。




その風土3 快晴の地

2014年07月19日 14時04分24秒 | 県全般
その風土3 快晴の地

冬の関東平野は太平洋側気候で、晴れた日が多い。東北や日本海側は雪に閉ざされているというのに、こんな好天続きで申し訳ないと常々思っている。最初の赴任地が青森市だったので、なおさらだ。

中でも埼玉県は「快晴」の日が多く、宮崎県などと日本一を競っている。

「快晴」と「晴れ」とどう違うのか。気象庁の定義によれば、雲量、つまり雲の量の違いである。

雨や雷などが無い天気は、「快晴」、「晴れ」、「曇り」で表される。空全体が雲で覆われていれば、雲量は10、雲が全くなければ雲量は0である。

雲量が1以下の状態を「快晴」、2以上8以下の状態を「晴れ」、9以上を「曇り」とするのだという。

「雲一つ無い晴天」とか「日本晴れ」が「快晴」に当たる。真夏の快晴は、最近では熱中症や35度以上の猛暑日、夜にも25度以下に下がらない熱帯夜を連想し、またかと疎まれる。

一方、真冬の晴天は、暖かいし、洗濯物もよく乾くので、埼玉県住まいがうれしくなる。埼玉住まいの良さ一つは、冬季の好天だとつくづく思う。

県の総務部統計課が毎月1回のペースでネットに掲載している「統計ア・ラ・カ・ル・ト」というページがある。統計を通じて埼玉の多彩な姿を面白く、分かりやすく伝えているもので、最近気がついてアクセスし始めた。

埼玉県の快晴日数については、ネット上でも多くの情報がある。数字の専門家のページだから最も信用できそうだから、12年1月11日の第46号「埼玉県は快晴日数日本一」を引用してみよう。

「快晴日数が多いのは、埼玉県の大きな特徴です。平成13年~平成22年(01年~10年)の10年間で、なんと7回も日本一になっています。気象庁のデータによると、平成22年の快晴日数は、埼玉県(観測地点:熊谷市)が49日で日本一となっています。2位は宮崎県で47日、3位は静岡県で42日と続いています」とある。

観測地点が熊谷市になっているのは、埼玉県の地方気象台がさいたま市ではなく、熊谷市にあるからだ。熊谷は、夏に日本で最高の気温を記録したこともある所で、埼玉県の気候を代表するわけではないが、歴史的な事情でそうなっている。

銚子、彦根、下関の3市が熊谷同様、県庁と地方気象台の所在地が異なっているらしい。

「平成22年の快晴日数を月別に見ると、1月が15日(全体の31%)で最も多く、次いで12月が10日(全体の20%)となっており、冬場に快晴日数が多いというデータが出ています」

「昭和56年~平成22年(1981年~2010年)の30年間の日別の天気(晴、曇、雨、雪の4区分)を見ると、12月後半から1月前半までは、晴れの確率が8割前後になっています」

毎年日本一というわけではないものの、冬場のこのような好天続きが、埼玉県が700万人を超す大県になり、さいたま市が120万人を超す全国第9位の政令都市になった大きな要因だと思われる。

その逆で、気象庁のデータを使った「年間雨日数ランキング」というのを見ると、埼玉県は37.4日で、39位で下から数えたほうが早い。雨日とは、降水量10mm以上の日だという。

晴れた日が多く、雨の日が多い結構な県なのだ。2012(平成24)年の快晴日数は56日で日本一だった。

その風土2 「川の国」

2014年07月18日 16時03分14秒 | 県全般
その風土2 「川の国」

「埼玉県は川の国」だと言っても、信じてもらえるだろうか。初めて聞いた時は私も「エーッ」と驚いたものだ。

埼玉県はその面積約3800平方キロ㍍の中で、河川が3.9%の面積を占め、日本一だというのだ。

河川に湖沼、用水路の面積を加えると、5.0%で、琵琶湖のある滋賀、霞ヶ浦のある茨城県、水路や運河が交錯して「水の都」と呼ばれてきた大阪府に次いで、全国4位に後退する。

「川の国」であることは間違いない。地図を見れば明らかなように、埼玉と言えばまず、「母なる川」と呼ばれる荒川である。

埼玉、山梨、長野3県の境が交わる甲武信ヶ岳(こぶしがたけ 甲州 武州 信州の頭文字を集めた 2475m)から秩父盆地、長瀞、寄居を経て熊谷から南下、荒川低地を流れ下り、東京都北区の岩淵水門で、本流の荒川放水路と隅田川に分かれる。

荒川放水路は東京の下町を洪水から守るため、1911(明治44)年着工、難工事の末17年かけて1930(昭和5)年完成した。総数300万人を動員、30人近くの犠牲者が出た。

荒川の流域面積は、県内だけで2440平方km、県面積のほぼ3分の2を占める。

流域面積とは、分かりにくい言葉だ。河川の幅の総面積ではなく、河川に対して雨や雪の降水が流れ込む範囲が流域で、その面積を流域面積という。「集水面積」ともいう。

河川の幅とは、水が実際に流れている幅ではなく、堤防から堤防の間の距離を指すようだ。

西から流れ落ちる荒川とともに、忘れてはならないのは、北の群馬、栃木、東の茨城県との境を流れる利根川だ。日本一の流域面積を誇り、関東平野の大半を流域とする。

県内には、一級河川で荒川水系が98本、利根川水系が63本ある。合わせて161本。県の全面積がこの二つの水系の流域に覆われている。

言われてみれば、川の数は多い。目ぼしいものだけでも、西から入間川、高麗川、越辺(おっぺ)川、都幾川、新河岸川、綾瀬川、元荒川、古利根川・・・。

大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)という長く難しい名の川もある。徳川家康が江戸に入る前には、利根川の本流だったこともあるようだ。落しとは「農業排水路」のことで、大落古利根川は排水路になっている。

それに中川、千葉県との境界を流れる江戸川・・・。

こう言われると、「埼玉県は川の国」であると実感できるような気がする。観光資源が乏しい埼玉県では、これをなんとか活用できないかと模索が続いている。「川の国埼玉魅力100選」という小冊子さえできているほどだ。

県央部から東部へかけての平坦地が売り物ながら、県土の3分の1は荒川が作った山地である。

荒川は秩父の西部山地を下った後、秩父盆地を経て、台地・丘陵地を抜けて、荒川低地を流れ下る。県の地形の顕著な特徴の一つである、県北や県央部から東部へかけて広がる平坦地は、県土の3分の2を占め、荒川と利根川の合作だ。

日本はざっと7割が山間地とされる。埼玉県の山地と丘陵は、県土の3分の1ぐらいだからちょうど逆だ。

荒川は、「荒れ川」の名のとおり、史上何度も大小の氾濫を繰り返してきた。それは農産物への被害を与えた反面、流域に肥沃な土壌をもたらし、農民への恵みにもなった。

江戸時代まで、河川交通や物資流通の大動脈にもなった。その時代の荒川やその支流・新河岸川の河岸場の地図を眺めると、その数の多さに驚く。

河岸場は、単に船が発着するだけではなく、河岸問屋があって、交易の拠点だった。利根川中流の中瀬河岸(現・深谷市)は、秩父方面からの荷も寄居を経て、運ばれてきて、この付近最大の中継河岸だったという。

江戸時代の深谷のにぎわいの理由がこれで初めて分かった。

江戸へ特産の藍玉や蚕種、米、麦、上りは塩、醤油、酒、海産物、肥料用の干鰯などが主要な荷だった。

県の南部では肥船も重要な比重を占めていた。貴重な肥料だったのだ。肥船と言っても若い人には見たことも聞いたこともない人が多いに違いない。人糞が売買されていたのだ。大名屋敷から出る人糞は、食べるものが滋養に富むので値が高かった。

「埼玉県謎解き散歩」によると、大正半ばになっても県内には「埼玉病」というのがあり、死亡率は他の県より高く、体格も劣っていたという。

人糞を肥料に使っていたことによる「十二指腸病」で、水田の多い地方に多かった。駆虫剤の投与などで減ってきたのは大正10(1921)年以降だったとか。

肥桶を担いで肥料にしていた経験が、鹿児島で過ごした少年時代にあるので、糞尿譚(スカトロジー)には今でも大いに興味がある。

学校で検便があったので、持ってくるのを忘れると友達のを分けてもらった記憶が懐かしい。

英語を勉強するようになって、進駐軍が肥車(こえぐるま)を「ハニーカート」と呼んでいたのを読んで、「なるほど」と思ったものだ。

今でも付き合っている親友の一人は、アフリカ経験が長いので、駆虫剤を飲んでみたら便器一杯、サナダ虫が出たという話をしていた。

「寄生虫を腹に飼っていた方がいい」という寄生虫博士もおられるようだ。スカトロジーのねたは尽きない。



その風土1 西高東低

2014年07月16日 18時08分36秒 | 県全般
その風土1 西高東低

小さいころから地図を見るのが好きだ。方向音痴なのだから仕方がない。地図を見ても間違うから滑稽だ。右と左も、手を上げてみなければ分からないのだから。

埼玉県の北隣の群馬県にいた頃、有名な上毛カルタの中に「鶴舞う形の群馬県」というのがあったのを覚えている。この句には、群馬県人の誇りが秘められているように見える。

それでは、わが埼玉県は何の形に見えるか?  小さな東京都にのしかかっているように見えるずんぐりとした埼玉県は、どこから見ても鳥には見えない。

ぱっと思いつくのは、動物ならネズミやモグラ、それに水中なら魚、植物なら、江戸時代、庶民の大好物だった川越産のサツマイモである。

朝日歌壇に

 さつまいもの形と揶揄される埼玉県1都6県に囲まれ温(ぬく)し

という句が載っていたことがある。

何の形に見えるにせよ、東西103、南北52kmと東西に長いこの県は面積3800平方km。日本の都道府県の中では、広さでは39番目。狭い方から9番目といった方がいいだろう。日本の約百分の一の面積である。

NHKの夕方の天気予報で見て分かるように、東京都よりは大きい。面積では、東京都は45位、大阪府は46位なのだ。

秩父地方は、埼玉県でも別世界で大好きなので,何度出かけたことだろう。

埼玉県を西の方に行けば行くほど、「西高東低」だとつくづく思う。

日本の冬型の気圧配置で、大陸に高気圧、東の太平洋に低気圧がある型で、北西風が吹き、日本海側は天気が悪く、太平洋側は晴天乾燥が続く。

私の言う「西高東低」はもちろん、気圧配置のことではなく、埼玉県の地形のことである。地図を見れば歴然としているように、この県は西に行くほど標高が高くなる。

奥秩父にある埼玉、長野、山梨の県境にまたがる甲武信ヶ岳(甲州、武州、信州の頭文字をとる、2475m)が、埼玉県の最高峰だと思いこんでいた。本当は、そのすぐ北にある三宝山(2483m)が8mの差で高いらしい。

甲武信ヶ岳は、東に下ると入川(次いで荒川)、北に下ると千曲川(次いで信濃川)、南に下ると笛吹川(次いで釜無川、富士川)の源流だ。

日本の最高峰富士山は、富士山を水源とする湧水は数多くあっても、富士山を源流とする川は一本もない。

そう考えると、わが甲武信ヶ岳の偉大さが分かる。









全国最低 人口10万人当たり医師の数

2014年07月13日 17時41分23秒 | 医学


埼玉県には全国最高のものもあるが、最低のものもある。

非常に気にかかるのは、人口10万人当たりの医師の数が全国最低であるという事実である。それが今年に始まったことではなく、1984年末から連続して全国最下位だというから驚く。

厚生労働省は1954年以来、2年に一度、「医師・歯科医師・薬剤師調査」の結果を発表する。18年末の埼玉県の医師の数は1万2443人。全国最下位で、10万人当たり169.8人だった。

18年までの10年間で2489人増え、増加率は25.0%と全国でトップだったにもかかわらずである。

首都圏の医師数が少ないのは、医師の卵が魅力のある東京の病院に惹かれてしまい、周辺県に勤務せず、東京に定着してしまうからである。東京都周辺の各県は総じて少ない。

この医師不足が県民の生活にどれほど影響を与えているか、119番・救急への対応状況をみるとよく分かる。

典型的な例は、13年1月の午前零時前、久喜市で一人暮らしの老人が「呼吸が苦しい」と119番した。救急車はまもなく来たのに、市内の4つの病院を手初めに、さいたま市、春日部市、さらに県を越えて茨城県古河市などを含め14の市町の25の病院から36回にわたって拒否された。

翌午前2時前2度目の要請に応えて、茨城県境市の病院がOKした。病院に着いたのは通報から約3時間後の午前2時15分。すでに心肺停止状態で、死亡を確認するだけだった。

拒否の理由は「処置困難(人員や設備がない)」16件、「ベッド満床」7件、「他の患者治療中」5件、「専門医不在」4件、「その他」4件だった。.拒否というより「受け入れ困難」と言ったほうがいい。

医師だけでなく、人口10万人当たりの救急用のベッドの数も、本県は全国の7割しかないという数字もある。

本県は、高齢化のスピードが今や全国で最も速くなっている。

県が実施した県民世論調査では、県民の要望は第1位が「高齢者福祉の充実」、第2位が「医療体制の整備」となっている。

無医村とは、辺地の問題というのがこれまでの常識だった。それが首都の隣の県で、実質的な医療の空洞化が進行している事実を直視する必要がありそうだ。

県は医師確保のため、10年から奨学金制度を設け、医師になった後、最低9年間、県内の医師不足地域の医療機関か、産婦人科や小児科として勤務すれば、返済を免除される仕組みになっている。

しかし、医師免許を取得した後、「初期研修医」から専門知識を深める「後期研修医」に移行する際に約5割の医師が県外に流出するのが現実で、この流出に歯止めをかけるかが課題になっている。


犯罪と交通事故も屈指

2014年07月12日 15時32分55秒 | 県全般
犯罪と交通事故も屈指

都道府県人口ランキング5位、720万人を超す人口を持つ埼玉県は、犯罪も交通事故もけっこう多い。

犯罪統計では、犯罪発生件数は「刑法犯認知件数」と呼ばれる。「認知」とは、「警察が犯罪について、被害の届出などで、その発生を確認した」という意味で、その件数というわけである。

14年の県内の刑法犯認知件数はピークだった04年から10年連続で減少、7万6859件だった。認知件数は、東京、大阪、愛知に次ぐ4位。警察官100人あたりの認知件数は、大阪に次ぐ全国2位で678.1件と依然として高かった。

窃盗の認知件数は、ピークだった02年から12年連続で減ったものの、詐欺の増加が著しく、殺人や強盗などの重要犯罪も増えた。

14年の交通事故は、死者173人で、都道府県別では多いほうから、愛知、神奈川、兵庫、千葉に次ぐワースト5位。前年より7人減り、1956年以降最少だった。

死者の内65歳以上の高齢者は78人(前年と同数)で、07年以降8年連続で全体の4割を超えた。自転車乗車中の死亡事故が減ったのが特徴で、前年より11人少ない31人だった。

死者数が最も多かったのは、1970年で実に845人だった。

交通事故では気になることが二つある。

一つは、泥酔するなどして路上に寝込んだ人がひかれて死ぬ「路上寝込み」による死者数が多いことだ。

08年から11年まで14、15、16、18人と全国ワースト1位を記録した。

12年は15人で2位、13年は5人で6位と減ってはきているものの、14年はどうなるか。(数字は産経新聞)

もう一つは、自転車乗用中の死傷事故発生率で全国で最高の市が2つあることだ。14年11月6日の毎日新聞が調査報道によって社会面トップで報じている。

12年までの10年間の10万人当たりの死傷事故発生率を「交通事故総合分析センター」のデータを基に毎日が調べたところ、草加市が307.7、戸田市が306人と、埼玉県の2市が1、2位を占めているというのだ。

草加市は、06、08、09年、戸田市は05、10、11年にワースト1位になっていて、10年間でワースト5に入った回数は、草加市、戸田市とも8回。この2市が突出しているのが分かる。

10年間のワースト10に入っているのは、関東では、東京都台東区(4位)と前橋市(9位)だけである。

ちなみに草加市は、14年3月の内閣府発表で、草加駅前の放置自転車台数が全国2位だったという。

数字が多すぎたが、いずれも考えさせられる数字である。

首都直下地震時の帰宅困難

2014年07月11日 16時41分35秒 | 県全般

首都直下地震時の帰宅困難

いつ起きてもおかしくない首都直下地震。「東京湾北部地震」とも呼ばれるこの地震(マグニチュード7クラス)は、今後30年に発生する確率は70%だとされる。(県危機管理防災部危機管理課)

交通機関が麻痺、頼みの電車がストップした場合、東京へ出ている埼玉都民はどうして家までたどりつくか

東日本大震災の際、首都圏で約515万人の帰宅困難者が発生、その日のうちに帰宅できなかった。首都直下地震では、ざっと2倍の約989万人、1000万人に膨らむと、内閣府は推定している。

「帰宅困難者」とは、内閣府の定義では、自宅から10km以内では徒歩で全員が帰宅でき、10~20kmまでは自宅から1km離れるごとに10%が帰れなくなり、20km以上離れると、全員が帰れなくなると推定している。

その中に埼玉から東京都に出かけている94万人(うち通学生10万)の埼玉都民がいる。逆に埼玉に来ている都民は約13万人。

埼玉都民だけではない。平日の真昼に大地震が起きた場合、県消防防災課は、買い物や観光、訪問など県外にいる県民は136万人と推定している。そのうち東京23区は88万人だという。

千代田区が11万と最も多く、新宿区が8万5千、港区が8万4千、中央区が6.8万、豊島区が6.3万人と続く。

問題はこの埼玉都民の「帰宅難民」をどうして無事に帰宅させるかである。

この帰宅難民は、自宅と家族の無事を確認しようと、一刻も早く徒歩ででも帰りたい一心だ。「帰心矢の如し」なのである。

ところが、これだけの人数が一斉に帰宅するにはいくつかの問題がある。

まず挙げられるのは、地震発生直後の火災や倒壊事故の発生が予想されるため帰路の安全が確保されないことである。このため「むやみに帰らず、その場にとどまること」「一斉帰宅の抑制」を、政府も東京都、関係各県でも呼びかけている。

もし留まることにした場合、どこに収容するか、食料や水、トイレをどうするか。課題はつぎつぎに発生する。

交通機関による往復に慣れきっているため、勤務先や出先から自宅まで歩いた経験を持つ人は極めて少ない。

このため県では迷子にならないよう、主な道路に案内標識を置くことにした。「ここは○○市○○○3丁目」「○○駅まで12km ○○交差点まで23km」とセットにした標識を立てるのである。

停電も予想されるので、蓄電式の照明灯も必要になる。コンビニなどの「帰宅支援ステーション」には、地図も欲しいところだ。

平時から災害時に備えて訓練しておく必要もある。各市町村で多くのマラソンやハーフ・マラソン、ウォーキングのイベントが催されている。

観光の宣伝や体力向上だけでなく、例えば日本橋から自宅まで歩いてみる災害対策ウォーキングを何度か開催したらどうか。

17号線で日本橋からさいたま市浦和区まで約20km、大宮まで約30km。決して歩けない距離ではない。一度歩いておくと非常時にも必ず役立つはずだ。

ここまで東京からの帰宅について述べてきた。忘れてならないのは、埼玉県内でも帰宅困難者は発生することである。

東日本大震災では、大宮駅前は5千人以上の帰宅困難者であふれた。県は近くのさいたまスーパーアリーナを開放、毛布や飲料水も備蓄があったので、翌朝JR線が動くまで、約5300人が一晩をしのげた。内閣府によると、この大震災で県内には約33万人の帰宅困難者が発生した。

13年の県の推計では、首都直下地震が起これば、県内にいて自宅に帰れない帰宅困難者は74万7千人に上ると推定される。

その居住地の内訳は、県内37.5万、東京都12・9万人。発生市別ではさいたま市14.2万、川越市4.4万、川口市3.2万、熊谷市3.1万といった順である。


子どもの塾や教育費が大変

2014年07月09日 16時40分13秒 | 県全般
子どもの塾や教育費が大変

県の総務局統計課がつくっているホームページ「統計からみた埼玉県のすがた」(統計からみた埼玉県の地位)は、国のあらゆる統計資料から、色々な項目の中で埼玉県が全国で数字的にどのような地位を占めているかを明らかにしていて、眺めていると非常に面白い。

人口動態などもさりながら、国の総務省統計局がつくる「家計調査年表」に基づくものは、項目別の都道府県県庁所在地の数字もあって、その数字から県民性までもうかがわれる。

県民性についてはいろいろ書かれているが、主観的なものが多い中で、客観的なものとしては一番信用が置けそうな気がする。

14(平成26)年版の「学校」の部を開いていると、「中学生の塾等の費用は全国第1位」というコラムが目に入った。

「家計調査年報」によると、12年のさいたま市の中学校補習教育費は、1世帯当たり年29,980円で、全国の都道府県庁所在市の中で第1位。「中学校補習教育費」は、塾の月謝や家庭教師への月謝・謝礼、補習のための通信添削の費用(教材費を含む)など、中学校の補習のための費用。全国の平均支出額が年間13253円であるのに対し、さいたま市では2倍以上。

幼児から高校・予備校までの世代を含む「補習教育費」全体でも、さいたま市の1世帯当たりの支出額は年間70,29円で、徳島市の76105円に次いで全国第2位。

というのである。

「さいたま市 もう『ダサイたま』とは呼ばせない!」(09年 マイクロマガジン社)でも、「南浦和(駅前)は“塾銀座”と呼ばれている」と題する2ページの記事の中に、「駅前には東口、西口とも学習塾が軒を並べ、全国でも有数の学習塾密集地帯、誰が呼んだか“塾銀座”」と書いてあり、驚いたことがある。

中学受験の御三家は、日能研、四谷大塚、SAPIX。この御三家が勢揃いしている南浦和駅はJRの京浜東北線と武蔵野線が交差するので、交通が便利。仕事帰りに塾帰りの小学生と電車の列に並ぶことが多い。学習塾、予備校が約30あるという新聞報道を見たこともある。

高校、大学受験の進学塾、予備校はもちろん、ピアノ、バレエ、習字、そろばんなど習い事教室も県南部には多い。

サラリーマンがほとんどの、埼玉県に寝に帰るだけの”東京都民“にとって、子供への教育投資が子供に残す最大の遺産なのだ。

旧制浦和高校以来の文教都市の伝統の中で、浦和高校、浦和一女などと公立の名門校もある。京浜東北線に乗れば、私立の名門開成中・高校もある。

SAPIXの入り口の合格者校のリストを見てみても、小学校から塾通いをしないと合格できないところばかりだ。親の高学歴やこの子にもという思いが重なってこのような数字が出てくるのだろう。

「教育熱心」はまぎれもなく埼玉県民の県民性の一つと言えそうだ。

ついでながら、14年の同じ家計調査によると、他の都道府県庁所在市と比べて、さいたま市の勤労者世帯の教養娯楽費は東京都区部についで2位である。収入が比較的に多いので、教育費や教養娯楽費に回せる余裕があるということなのだろうか。 


パパは働き者

2014年07月08日 17時28分44秒 | 県全般
パパは働き者

毎日、“民族移動”のような規模で東京都へ長時間往復を繰り返す埼玉県の男性は、どのような生活を送っているのだろうか。

10年の国勢調査では、県の昼夜間人口比率は全国一低く、県外に通勤・通学する人口が90万人を越すことが判っている。

まず思い浮かぶのが、通勤の混雑「痛勤」である。最近は急激に進む高齢化で通勤族が減りつつあり、一昔前のような殺人的な混雑は姿を消してきたようだ。

それでも例えばJR埼京線上りは、“最強線”のはずが、混雑のため“最恐線”、“最凶線”、“痴漢線”とさえ呼ばれ、JRの中で始めて女性専用車両が導入された。

赤羽駅で京浜東北線の乗客が乗り換えてくる上り板橋―池袋間の混雑率は、200%近く、混雑ぶりは首都圏で5指に入っている。

埼京線武蔵浦和駅の朝のラッシュの7時から8時ごろまでの混雑は、次々に高層マンションが建設されているので、緩和の兆しは見えない。

総務省の11年の「社会生活基本調査」に基づき、県がまとめた埼玉の男性の生活実態によると、「仕事と通勤に全国一長い時間を使いながら、家庭では育児にも熱心」という結果が出た。新聞報道で見るこの結果には、埼玉都民の実態が投影されている。

この基本調査は、5年に1度、全国で実施しているもので、全国で約20万人、県内では約6400人が対象になった。

15歳以上の男性有業者で見ると、「通勤・通学時間」と「仕事」を足した時間は8時間6分で、全国1位。「通勤時間」は1時間9分で、47都道府県で神奈川県についで2位。育児の時間は10分と全国一だった。

通勤時間は千葉県と東京都で上位4位を占めており、首都圏の長さが目立った。

通勤時間が長くなると、睡眠や休息時間にしわ寄せが来る。睡眠時間は東京都と同じ7時間24分で44位。休養など自由時間は3時間9分で45位だった。

6歳未満の子供のいる夫婦世帯の生活時間を見ると、通勤と仕事の合計時間が9時間26分と全国2位と長いので、睡眠時間は7時間と全国2位の短さ。

こんなに忙しい毎日を送っているのに、男性の育児時間は1日当たり1時間3分と全国3位、大都市圏1位で、「イクメン県」と言える。涙ぐましい努力と言えよう。

県版で、朝日は「埼玉男子よく働きよく育児」、「仕事・通勤・子育て全国最長」「睡眠・休養は最下位クラス」、読売は「本県のパパ働き者」、「通勤・仕事も育児時間も全国一」と見出しをつけた。

見出しとは、本文を読まなくても分かるようにつけるもので、細かい数字が苦手な人は、この見出しだけで埼玉都民の生活実態がよく分かる。


若年女性の半減で消滅?  県内21市町村

2014年07月05日 17時59分50秒 | 人口(外国人)

  

中央公論が14年6月号に掲載した「消滅する市町村523全リスト」は、市町村名が列挙されているので、人口急減に直面している全国の市町村に衝撃を与えた。

企業や労働組合の幹部らでつくる有識者の研究機関「日本創生会議」(座長・増田寛也元総務相)の「人口減少問題検討分科会」が、40年までに全国の市町村の約半数49.8%に当たる896市町村で、20~39歳の出産適齢の若年女性が半分以上減るとの試算に基づき、「消滅する可能性がある市町村」523の名前を公表したからである。

本県関係では、63ある市町村の中で秩父地方などの21、つまり3分の1が「消滅する可能性がある市町村」に該当し、うち人口が1万人を切る9町村は「消滅の可能性が高い」とされた。

若年女性が半分以上減る市町村は当然、総人口も減るわけで、社会保障の維持が困難になり、雇用も確保しづらくなるので、消滅の可能性が出てくると予測されている。

県内では、「消滅する可能性がある」とされる21市町村の中に、市でも東部の幸手、北部の行田、中部の北本、東南部の三郷、比企地方の飯能、秩父地方の秩父の6市が含まれている。

「消滅する可能性が高い」とされる1万人を切る9町村には、秩父郡の横瀬、長瀞、皆野、小鹿野町、東秩父村、比企郡の鳩山、ときがわ町、児玉郡の美里町、入間郡の越生町が入っている。

上田清司知事は「この予測は、地方から大都市への人口流出が現状のまま続くと仮定している。人口流出は落ち着きつつあり、正しいかどうかは疑問」と語っており、県計画調整課が自治体間の人口移動のデータを精査して検証する。

人口の増減には、移動による「社会増減」と出生と死亡の差の「自然増減」がある。この予測は「社会増減」の人口流出に伴う若年女性の人口減にスポットライトを当てたものだった。

県では、社会減とともに自然減も始まっている。

総務省が発表した住民基本台帳に基づく人口動態調査(13年3月末)によると、自然減は2356人だった。出生者5万6881人に対し、死亡者は5万9237人である。

一人の女性が何人の子供を産むかという合計特殊出生率は、全国平均を下回る状態が続いている。

他県からの転入者が転出者を差し引いた社会増が9076人あったので、かろうじて人口増を支えた。

この調査では外国人人口も初めて対象になった。11万6081人で、加須市の人口とほぼ同じ数だというから驚きである。

市町村別では、川口市が2万1682人で最も多く、さいたま、川越市が続いた。今後転入者という場合、日本人と外国人を分けて考える必要がありそうだ。

消滅の危機をすでに肌で感じている市町村は、存続のために転入者を呼び込み、現住民を留めるためのあの手この手を考え出そうとしている。

県がまとめたその対策によると、行田市では、若い世帯が市外から転入して1年以内に住宅を取得すれば最高60万円、施工業者が市内なら特別割引、エアコンの無償設置などの特典もあり、最大で100万円の補助になることもある。

川島町では、町内で住宅を購入した40歳未満の人は固定資産税を減免、ときがわまち町では、若者に売買や賃貸可能な空き家を紹介する「空き家バンク事業」を始めているという。(産経)。

市町村が存続をかけて頭をしぼる時代が到来したのである。


埼玉都民 低い投票率

2014年07月03日 18時40分43秒 | 県全般
埼玉都民 低い投票率


約94万人の埼玉都民の存在は選挙にどのような影響を与えるだろうか。

土、日、休日を除いて、夜しか居住地におらず、周りの住民との接触もほとんどなく、東京都で暮らしているような平均的な埼玉都民が、地元の選挙に関心を持つはずがない。

地方選だけでなく、衆院、参院選も地元で展開されているわけだから、関心が薄くなるのは当然だろう。

埼玉都民の選挙への無関心の上に、一般的に結果が分かりきっている選挙の場合、投票率は極端に下がる。

11(平成23)年の県議選と知事選の投票率はそれを雄弁に物語っている。

4月10日の県議選は39.54%(前回より4.15ポイント減)、7月31日の知事選は24.89%(前回より2.78減)は、いずれも本県で過去最低、全国でも最低の投票率となり、他の都道府県と比べ投票率の低さには慣れっこになっている県民を驚かせた。

15年4月12日の統一地方選の県議選では、37.68%と本県の過去最低を更新した。下には下があるもので、全国41の道府県議選で千葉県が37.01%と本県より低く、ワースト2位だった。

国政では、1991年の参院埼玉県選挙区補欠選挙では、17.80%という全国最低の投票率の記録もある。

さかのぼって07年以降の投票率を見ても、惨たる結果が残っている。

07年4月の県議選では43.69%(全国平均52.25%)で全国ワースト2位。同年8月の知事選では27.67%で、県内で過去ワースト2位、全国で過去ワースト4位。

09年の衆院選小選挙区では66.25%(全国平均69.28%)で全国ワースト3位。

地方選だけでなく、衆、参院選でもワースト3位以内の記録を残しているわけである。

県選挙管理委員会は11年の県議、知事選の翌年、投票率の低さについて調査報告書を発表した。

低さの理由の第一に、有権者に占める20~39歳の若年層の割合が10年の国勢調査で32.6%と全国6位の高さで、その投票率が極端に低いことを挙げている。

確かに若年層、特に最近の大学生の政治意識の低さは、反安保時代に学生生活を送り、毎日のようにデモに明け暮れた私にとっては信じられないほどだ。

これは東京の大学でも3か所で教鞭をとった経験からすれば、埼玉県だけではなく、全国共通の問題と考えられる。

理由の第二に埼玉都民が多いことを挙げる。「地域への関心の高まりは生活の場であるかどうかということにある程度比例するものと考えられ、就労・就学の場ではない場合は、地元の候補者や選挙への関心が高まらないこともあるのではないかと考えられる」と控えめに述べている。

私個人の場合を振り返ってみれば、「ある程度比例する」どころか、「大いに」、「関心が高まらないこともある」どころか、ずばり「高まらない」、「少ない」だった。

10年に実施した県選管の意識調査で「関心のある政治」を尋ねたところ、「国政」93%、「市町村政」43.5%に対し、「県政」28%と、県政に対する関心が著しく低いことが分かっている。

また、この知事選では、現職に民主、自民、公明が事実上相乗り、圧倒的に有利で、わざわざ信任投票のために投票所に行かなかったのだろうと分析されていた。

13年10月31日の朝日新聞は、同年行われた県内の12市長選で、投票率と「埼玉都民」の割合を分析した結果を報道した。

その割合が最も高い朝霞市長選では、投票率は22.69%で最も低く、比較的割合が高いさいたま市や川口市は3~2割台にとどまった。一方、割合が最も低い秩父市長選は投票率が一番高かった。

このため「埼玉都民 割合が高いと低投票率」という見出しをつけている。

個人的な話をすれば、「どこもかしこも埼玉県」に住み「24時間サイタマン」になった今では、投票日に旅行や取材で支障がないように、不在者投票を利用しいて事前投票することにしている。

学生時代から選挙そのものには関心が高いからだ

減り始めた「埼玉都民」

2014年07月01日 15時51分45秒 | 人口(外国人)

減り始めた埼玉都民

「埼玉都民」、「東京県民」という言葉がある。同じ言葉を埼玉県から見たのと、東京都から見たのとの違いである。

70過ぎになって東京都への通勤を止めて、“24時間サイタマン”になるまで、まさしくその一人だったので、その実態はよく分かる。

朝早く(これは仕事の都合で、朝早い時もあれば、午後になることもある)家を出て、大混雑の電車に飛び乗る。時間が不規則な仕事だったため、帰宅時には酒が入り、ほとんどが午前様。家では寝るだけで、睡眠不足は出先の職場のソファーで補った。

土、日、休日は疲れがたまっているので、ひたする眠り、小さな子供へのサービスはほとんど出来なかった。

家では「パパはお休み中」で、近所や町内会との付き合いはまずない。だから、住んでいる地域のことは知らないし、関心もない。

地方選挙で誰が知事をやろうが、市長をやろうが無関心で、名前もうろ覚え。投票にもほとんど行かない。

衛星都市とかベッドタウンという言葉がある。私には文字どおりベッドタウンだった。

私ほど極端な例はそれほど多くないだろうが、程度の差があるだけだろう。

5年ごとの国勢調査に、「昼夜間人口比率」(夜間人口100人当たりの昼間の人口)、他市町村への通勤・通学比率があると知ったのは、東京通いを終えた後だった。

他市町村への通勤・通学が多いと、昼間の人口が少なくなるので、昼夜間人口比率が低くなるわけである。

最新の10年の国勢調査によると、昼夜間人口比率で埼玉県は88.6%と全国で最も低かった。東京都や大阪府周辺の県が低く、埼玉に続いて、千葉、奈良、神奈川、兵庫の順だった。

人口の1割以上が昼間は埼玉県を空にしているわけで、昼夜間人口の全国最低は、1990年の国勢調査から5回連続で続いている。

県内総人口(10年当時約719万人)に対する県外への通勤・通学者の比率は17%で、前回調査についで全国で最高だった。

比率ではなく実数では、県外に通勤・通学する15歳以上の県民は約106万人で、神奈川に次いで全国2位だった。比率では神奈川より高いのは、神奈川の方が人口が多いからだ。

県外への通勤・通学者のうち東京都への流出者は約94万人(就業84万人、通学10万人)だった。前回05年の国勢調査では、100万人超だったので、1990年から続いていた大台を割り込んだ。

1985年には約86万人だったが。90年に約109万人と大台を突破、95年に115万人のピークを迎えた後も、減少傾向ながら大台を維持していた。

もっとも混雑率が高いとされる山手線と京浜東北線は、首都圏トップクラスの200%を超していたが、16年には160~170% と「広げて楽に新聞を読める」150%に近づいたというから、うらやましい限りだ。

前回と比べると、就業者が5万人余減っている。高齢化で定年を迎え、退職し始めたのものとみられる。

今後も減少すると見られるものの、94万人は大げさに言えば、“民族移動”とも言える。これだけの数の人が毎日、東京との間を往復しているわけである。

この民族移動が埼玉県に与える影響は大きい。