「渡来人」という言葉は、最近ではあまり耳にしない。今の言葉に直せば、政治的亡命者ということになろうか。
朝鮮半島は7世紀、「三国時代」のただ中にあり、百済、高句麗、新羅が鼎立、覇を競っていた。
中国を支配していた唐と結んだ新羅が台頭、まず日本と結んだ百済が滅び(663年)、ついで高句麗がそれに続いた(668年)。
国を失った百済や高句麗の王族や貴族は続々日本を頼って亡命してきた。
今の政治的亡命者と違うのは、朝鮮半島は当時、まだ白鳳時代だった日本より先進国で、文化的にも技術的にも進んでいた。亡命者は、日本が欲しがっていた文化と技術を背負って、日本に移住してきたのである。
日本はまだ、国らしい体裁も整っておらず、文化・技術の程度も低かった時代だったので、亡命者は迫害されるどころか歓迎された。
これに先立つ6世紀の飛鳥時代、百済から仏教が伝来(538年)したことからも分かるように、文化の伝来は文化人、技術者が担った。高句麗からも新羅からも文化人や技術者はやってきた。
武蔵国の北武蔵に、渡来人でつくる高麗郡(716年)、新羅郡(758年)ができたのは、その技術力、文化で、都からは辺境に当たるこの地を開拓・開発させ、東北(蝦夷)への前線基地にするためだったのだろう。
高麗郡は、今の日高市が中心で、飯能と坂戸市の西部にあり、新羅郡は現在の新座、志木、和光、朝霞市の辺りにあった。新羅郡は後に新座(にいくら)郡になった。高麗は高句麗の別称だ。
渡来人とのかかわりを思わせるのは、この2郡にとどまらない。
北武蔵には幡羅(はら、後に、はんら)という郡もあった。熊谷、深谷市あたりの新羅系の居住地で、「幡」は「秦」に通ずるので、渡来系の大氏族・秦氏が開発に当たった地域と考えられている。
渡来人の武蔵国への移住は、高麗郡、新羅郡の設置以前の6世紀末から行われていたようで、男衾(おぶすま)郡には、その郡長に渡来人の壬生吉志(みぶのきし)氏が当てられていた。
「吉志」は、百済の王の和訓「こにきし」の同意語だという。
男衾郡は、荒川中流域の南方にあって、現在の寄居、小川、滑川、嵐山、ときがわ、鳩山などにまたがる地域だった。男衾郡は8郷からなる武蔵国で最も大きい郡だったという。
壬生吉志の中でも福正(ふくしょう)は、富豪として知られ、自分の二人の息子が生涯に納める税金を一括前払いしたり、武蔵国分寺の七重塔が落雷で焼失したままになっていたのを、修復、寄進したことが記録に残されている。
男衾郡内には台地向けの灌漑用溜池が多く、水田や魚類の養殖池に利用され、大規模な須恵器生産の窯があり、和紙の生産や養蚕業も盛んだった。
もう一つ注目されるのは、郡内の今のときがわ町に武蔵国で最古の天台別院慈光寺が開かれたことである。
開山は釈道忠(しゃくのどうちゅう)と伝えられるが、道忠も渡来系の出身者だったのではないかと推定されている。
秩父黒谷で奈良時代初頭、わが国初の銅(和銅)鉱脈を発見したのは、新羅系渡来人の金上无だったという説や、「羊」という名の渡来人が関わっていたという説もある。
この頃にはすでに秩父にも渡来人が入り込んでいたことを物語っている。
思いつくものを上げただけで、古代の北武蔵は、渡来人の縦横に活躍する場だったようだ。