ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

吉見百穴 吉見町

2011年07月29日 09時58分40秒 | 名所・観光

吉見百穴 吉見町

やはり行ってみるものである。「百穴」は音読みで「ひゃっけつ」と読むと思い込んでいた。地元では訓読みで「ひゃくあな」と読むらしい。そうルビが振ってある。百の横穴があると思っていたのも間違い。現在219残っているという。

ここを訪ねたのは、国指定天然記念物のヒカリゴケが、横穴墓地内に自生しているのをぜひ見たいと思ったからである。武田泰淳が残した小説「ひかりごけ」の題名だけが頭にこびりついていているせいだ。

小説は、「日本で裁判で裁かれた唯一の食人事件」をモチーフにして書かれた。真冬の知床岬で遭難した船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延び、後に逮捕され、死体損壊として懲役1年の判決を受けた事件があったのだ。

岩山に向かって左手の最下層の2つの横穴(鉄格子で保護されている)で、コケがかすかな緑色の光を放出しているように見えるというので、何度かのぞいてみた。残念ながら、この日は曇天で光の具合が悪かったのか、コケが黄金色に光るのを目にすることはできなかった。

しかし、この地を訪ねて、1887(明治20)年、当時24歳の東京大学院生、坪井正五郎が発掘、この横穴群を、日本の先住民族である土蜘蛛人(コロボックル)の「住居」だと発表したーーその気持ちだけは十分に理解できた。

坪井は日本の人類学・考古学の創始者の一人。その3年前の1884年の大学生時代、同窓の白井光田郎らと日本人類学会を創設していた。

坪井の発掘は、卒業論文の一環で、地元の資産家で貴族院議員、近くの「黒岩の横穴」を発掘したこともある郷土史家、根岸武香が財政的に支援した。6か月かかって、230余の石室が掘り出された。

日本の考古学は、この発掘から始まったのである。

発掘を終えて、坪井は

 これはこれはとばかり穴の吉見山

という句をものした。

コロボックルとは、アイヌの伝承に登場する小人。アイヌ語で「フキの葉の下の人」という意味だという。

坪井の説は、「住居としてはサイズが小さすぎるが、コロボックルが住居として使用した後、古墳時代に墓として利用された」というものだった。同志の白井は「最初から墓だ」と学会誌で反論した。「住居か墓か」の論戦は、当時の一大論争となった。

発掘と論争で百穴は評判となり、明治24年には、正岡子規も訪れ、

 神の代はかくもありけん冬篭り

という句を残している。

エジプトに4年近くいたので考古学には興味がある。実際は、砂まみれ、汗まみれの難行だが、「夢がなくてはやっていけない」ことは、よく分かる。

岩山に多くの穴が開いている姿は異様だし、この雰囲気は確かにいろいろ想像力をかきたてる。

大正時代に考古学も発達、古墳時代の後期(6~7世紀)の死者を埋葬する「墓穴」と分かった。坪井のコロボックル説は、単なる伝承とされ、1913(大正2)年、ロシアのペテルブルグで50歳で客死した。「住居説」はこうして消えた。

吉見百穴は、このような遺跡としては日本最大の規模なので、1923(大正12)年、日本の代表的な横穴墓穴群として国の史跡に指定された。

論争に勝った白井は、1884年、坪井らとともに、東京・本郷の向ヶ岡弥生町で「弥生式土器」を発見したほど、考古学にも造詣が深かった。後に日本の植物病理学の権威になった。

同じ横穴ながら、もう一つ興味をひくのは、第二次戦争の末期、1945(昭和20)年の初頭から8月に至るまで、18 の穴を壊して地下軍需工場用に掘られた巨大な洞窟である。


当時わが国最大だった中島飛行機の大宮工場エンジン製造部門を、この地下に移転しようとするものだった。全国から集められた3000~3500人の朝鮮人労働者による人海戦術で、昼夜を問わず突貫工事が進められたが、本格的な生産が始まる前に終戦になった。

冷たい風が立ち入り禁止になっている広大なトンネルの奥から吹いてくることもある
ついでながら、この墓穴は一人一穴ではなく、追葬が行われたようだという。

参照:『吉見の百穴』(吉見町役場)


森林公園 滑川町

2011年07月28日 18時26分15秒 | 名所・観光

森林公園 滑川町

12年の冬、世界も日本も異常な寒さに見舞われた。こんな寒さは記憶にないほどだ。その寒さの底が、2月18日の土曜日前後だったらしい。

「何を好き好んで」と言われよう。この日、後期老齢者が多いわが歩く会は、東武東上線の森林公園駅で降りる「国営武蔵丘陵森林公園」へ梅見としゃれ込んだ。

なぜそんなときに出かけるのか。勤め人も交じっているので、日程の都合で毎月第3土曜日と決まっているからだ。

ありったけの防寒具をずんぐりと着込み、背をかがめて歩く、女性の多い8人の仲間は、風流な花見客というよりどこかの避難民のように見えたことだろう。

私は前日、所定の会合の前の時間つぶしに、大宮公園の梅林を訪ねたら、紅梅がほんのちょっぴりほころんでいただけだった。

この日は、風があって冷たいものの、抜けるような快晴。雪国の人たちには申し訳ない埼玉の冬日和である。

森林公園と呼ばれても、比企北丘陵にあるので「武蔵丘陵公園」と呼んだ方がふさわしい。ゆるやかな起伏のある典型的な武蔵野の雑木林である。国木田独歩が歩いたら、「武蔵野」の続編が書けたろうな、と思うほどだ。

日当たりのいい広場に県木に指定されている高いケヤキ、雑木林にはコナラを筆頭に、アカマツ、クヌギ、イヌシデと武蔵野の林のお膳立てはそろっている。

それがすべて葉を落とし、背の高い樹肌をさらしているのだから、厳冬期の雑木林の魅力を満喫できる。これまで見たことのない光景だ。

この公園には何度来たか。だが、酷寒の季節に訪れたのは初めてで、葉を落とした林の“ヌード姿”の美しさに感激した。

森林公園駅から歩いて2.6kmの南口の入り口から、ありがたい老人割引で200円で入場。「♪ 春は名のみの風の寒さや ♪ 」と口ずさみ、「咲いてるかしら」と話しながら、入り口に近い梅林に向かう。

鶯どころかすべての鳥も、「時にあらずと声も立てず」の状態なので、耳に入る歌声はない。

房総半島ではないのに、まず目に入ったのは、菜の花だ。葉はさすがに寒さでいじけていた。霜を受けたのだろうか。だが、パンジーも咲いていたから、寒さに強い花はあるものだ。

紅白120品種、600本あるという梅林の斜面には、梅の花こそまだちょっぴりながら (写真)、根元には福寿草がいくつも咲いていた。日の光を受け、黄色に輝いている。寒さのせいか、まだ開ききっていないのも多かった。1万5千株あるとか。

私の好きな昔からの唱歌「早春賦」には、「春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急(せ)かるる、胸の思(おもい)を いかにせよとのこの頃か」という一節がある。この気持ちにぴったり沿ったウォーキングで、「早春賦」の歌詞の意味が歩きながら実感できた。

レンギョウもユキヤナギも、桜林も寒さの中でつぼみを膨らませていた。森林公園は春とともに、まもなく盛りを迎えようとしている。

森林公園は、四季さまざまな姿で我々を迎えてくれる。

桜はソメイヨシノ500本、山桜、大島桜などを含め、園内には全部で1千本。4月には約5千平方mの花畑一面にアイスランドポピー。5月下旬には約6万本のルピナス、7月には自生しているヤマユリ1万株のうち3千株が開花する。秋には日本一といわれるコリウスガーデンもある。

11月の、50品種、500本あるカエデの紅葉の季節にはライトアップが行われ、紅葉狩りの人でにぎわう。年間の来園者は約87万人(09年度)。

1974年、国の明治百年記念事業の一環として、全国初の国営公園として開園した。南北約4km、東西約1kmあり、総面積約304ha。東京ドーム65個分。子どもに人気の日本一大きいエアトランポリン「ぽんぽこマウンテン」もある。15年5月3日で開園以来の累計入園者数は4000万人を超した。


園内を一周する全長17kmの自転車専用道路が整備されていて、レンタサイクルのほか、持ち込みも可能。


忠七めし  小川町

2011年07月27日 11時34分48秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・


11年7月24日(日)。小川町では七夕だという。東武東上線に乗って、この“和紙のふるさと”に、割烹旅館「二葉」に有名な「忠七めし」を食べに出かけた。

一人なので、日曜日では一番安い「忠七めし御膳(椿)」(2100円)を頼んだ。小川町は、和紙の産地なので水が豊富でいい。水がいいところにはいい酒ができる。

“関東灘”の異名があったほどで、今でも「晴雲」「帝松(みかどまつ)」「武蔵鶴」の三つの酒蔵がある。昼間ながら、ビールではなく地酒の熱燗もつけてもらった。「帝松」が出た。

ご覧のとおり、のりをまぶしたご飯に、ワサビとさらしネギと小川のユズをのせ、かつお節のだし汁のきいた秘伝のつゆをかけるお茶漬けだ。

のりは瀬戸内海産、それを焼き上げたのは、日本橋山本海苔店、米は有機栽培のこしひかり、かつお節は土佐沖でとれたカツオの血合い部分を除いた極上品だとか。

東京・深川の「深川めし」、岐阜の「さよりめし」、大阪の「かやくめし」、島根・津和野の「うずめめし」と並ぶ「日本五大名飯」に一つに数えられる。どこも行ったことはあるのに、食べたのは「深川めし」と「かやくめし」だけ。

この「忠七めし」には由緒がある。

なにしろ、江戸城無血開城の西郷隆盛・勝海舟会談のお膳立てをした無刀流の創始者、山岡鉄舟が忠七に「禅味を盛ってみよ」と注文して作らせ、「我が意を得たり」と喜んで、その名をつけたのだから。

忠七とは、小川町の創業260年になる「二葉」の八代目の館主で、140年前の話である。

この歴史的な会談にも同席、この二人と並び幕末・明治の三大巨頭と称される鉄舟は、剣の他に禅にも造詣が深く、書道も達人で多くの書を残している。剣・禅・書、三道に熟達したとされる人物だ。

書は依頼が多く、一日千枚以上も書いた日もあり、写経は死の前日まで欠かさなかったという。

「二葉館」には、鉄舟の「二葉楼」の額とともに「忠七めしの釜と讃」が残っている。

 此釜を日々にたきなば福禄寿中よりわきて盡くる期はなし

明治天皇の侍従も10年務め、元老院議員にもなり、明治21(1988)年、坐禅のまま往生した。墓は自分で建立した東京・谷中の「全生庵」にある。

西郷隆盛は後年、鉄舟を「命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、といった始末に困る人ですが、あんな始末に困る人でなくては、共に天下の大事を誓いあうわけには参りません」と評した。

なぜ、「命も金も名誉もいらぬ男」鉄舟がこの旅館に来ていたのか、いつも疑問に思っていた。600石取りの旗本だった鉄舟の父の知行地(領地)が小川町竹沢(JR八高線竹沢、東武竹沢駅がある)にあり、鉄舟は来る度に「二葉」で飲食していたからである。

こんなパンフレットを片目で読みながら食べていると、代わりのご飯のおひつはすぐ空になった。大食漢なだけで舌には自信はからきしない。私にとって由緒や歴史は見事な味になる。

鉄舟は、身長188cm,体重105kgと力士並みの堂々とした体格。無類の酒好きで、一晩4升飲んだと書かれているから、酒に合うお茶漬けを求めていたのだろう。

鉄舟のことを詳しく知るようになったのは、現役時代、清水で次郎長の生家を訪ねた時だった。

明治治維新後、幕臣だから静岡に下った時、次郎長と意気投合したと伝えられる。

次郎長は、「死者には官軍も賊軍もない」と、新政府軍と交戦して殺された咸臨丸の乗組員の浮いている遺体を、小舟を出して回収して葬った。鉄舟はこれに感謝し、次郎長と付き合うようになった。

次郎長がこれほど世に知られるようになったのは、ヤクザの親分ながら、鉄舟や咸臨丸の艦長だった榎本武揚と交際出来るようになったからと言われている。

「二葉」では19年9月、鉄舟の書を時代順に並べた常設展示をオープンした。江戸・東京に隣接している埼玉では、幕末や明治の歴史を勉強することが多い。

ナマズの里 吉川市

2011年07月18日 18時59分55秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・


吉川市と言ってもどこにあるのか知らない人が多いに違いない。同じ武蔵野線の駅の利用者で、乗れば20分ぐらいでいけるのに、これまで行ったこともなかった。

地図を見ると、現在、埼玉県出身としては最も有名な若手プロゴルファー、石川遼選手の出身地松伏町の南隣の市と言った方が分かりやすい。いずれも千葉県と境界を接しているので、埼玉県人より千葉県の野田や流山市の住民の方が馴染みが深い。

この市は、養殖ナマズで町おこしを図ろうとしている。食べたことがないので、いつか食べに出かけようと思っていた。11年7月17日、この市では、神輿の上げ方がちょっと変わった、4百年の歴史を誇る八坂神社の夏祭りがあるとのことで、猛暑の予想にもめげず出かけてみた。。

この市は広報に力を入れている。市のホームページを見れば、どこに行けばいいかよく分かる。便利である。

それと、私が注目していたのは、「サイクリング立県」を目指す埼玉県が、JR、東武、西武、秩父鉄道の協力で出している「レンタサイクルで気軽におでかけ!駅からチャリマップ」と題する小冊子である。

この中に、近くにレンタサイクルがある駅が載っていて、長瀞、秩父、川越、行田などに並んで、吉川も入っていたからだ。それも無料とあるから一度試してみない手はない。

市がやっている吉川駅北第一自転車駐車場で、観光用途に限られ、身分証明書があれば貸してくれる。地元の自転車店から寄贈された新品同様のもので、私がふだん乗っているものより、乗りやすい。

さっそく、小冊子の地図通りに走ってみる。この市は、西に中川、東に江戸川があり、平坦そのもの、埼玉県中、東部を代表するようなところだ。

万葉集の昔から早生米の産地として知られていたというのもうなずける。それが大きな団地や住宅地に変わっている。永田公園には、高さ16mの「よしかわ富士」があり、市内を見渡せ、天気が良ければ、富士山や筑波山も見える。

さて、ナマズ料理。レンタル駐車場で聞くと、一番歴史が古いのは、創業400年の料亭「糀家(こうじや)」。葛飾北斎や安藤広重などの肉筆や、有名画家の作品が廊下に展示されているという。

「料亭で昼食か」とちゅうちょしたものの、ランチメニューもあるとのことで、「ナマズ天ぷら御膳」とビールを注文した。早く行けば、広い料亭の入り口近い一室で一人で昼食を食べるのだから、悪い気はしない。

名物のナマズのたたき揚げのほか、ナマズ天ぷら、汁にはナマズのたたき、突き出しにはナマズの卵の煮付けが入っていた。

名物は、ナマズの身を包丁でたたき、味噌などを練りこみ、丸めて揚げる郷土料理だ。「フグよりうまい」と触れ込みのポン酢で食べるナマズの刺身もある。

北斎や広重の肉筆は、その上に別の絵がかかっていて、見えなかった。廊下の突き当たりにある谷文晁のなまず絵は、なるほどという作だ。

近藤勇や勝海舟、板垣退助のほか、戦後では佐藤栄作、福田康夫、中曽根康弘も来たそうだ。

中川沿いの料亭「福寿亭」には、“ナマズの天丼”ともいうべき「鯰丼」がある。

他にもナマズ料理を出す料亭や店は何軒もあり、駅の南口には、世界で一番大きい親子ナマズの金色のモニュメントがあり、「ナマズの里」をPRしている。親ナマズは、約5m。人間国宝の漆芸家の手になる。

ナマズの饅頭、最中、煎餅、サンドイッチに「なまず御前」という名の純米酒もあり、ナマズ尽くしのまちである。4月上旬には「吉川なまずの里マラソン」も行われる。

江戸時代初期には、「吉川に来て、ナマズ、ウナギ食わずなかれ」と言われるほど有名で、川魚料理を売り物にした料亭が軒を連ねていたという。

この市で出すナマズは市内で養殖しており、“地産地消”であるのが泣かせる。

八坂祭りの神輿かつぎは、単に担ぐだけでなく、一時放り上げたりする「あばれ神輿」と呼ばれるもので、中川の舟運でにぎわった往時をしのばせる。

日本最大の道教のお宮「聖天宮} 坂戸市

2011年07月14日 17時18分04秒 | 寺社
日本最大の道教のお宮「聖天宮」 坂戸市

道教のことは、さっぱり分からない。坂戸市に異国風な大きな宗教施設があることは、東武東上線の駅のホームの写真で気づいていた。訪ねてみようという気になったのは、「日本で最大」という話を聞いて、持ち前の好奇心がうずいたからである。

東上線若葉駅東口から一直線に伸びる駅前通りを、団地群を越え、工業団地を越え、歩いて30分余、坂戸市塚越に入ると、左手に誰もが「ありゃりゃ」と叫びたくなるお宮が眼に入る。

反り返った黄色い瓦屋根に、龍、鳳凰、麒麟などの神獣のガラスとタイルでできた屋根飾りを頂いている。

拝観料300円を払い、天門(天宮への門)から前殿を経て本殿に至る。前殿の左右に太鼓のある鼓殿と鐘のある鐘楼が付いている。

「寺」ではなく、「お宮」だという。何と読むのかと思っていたら、「せいてんきゅう」とのこと。道教は、どうやら天宮、つまり天球、宇宙に関係があるようなのだ。

「陰陽道(おんみょうどう)、八卦、風水とかにかかわる中国古来の民間信仰ですよ」。私がわずかに知っている老子、荘子については、「その中から哲学的な部分をまとめた人です」――と、案内の人が教えてくれた。

中国では黄色い屋根瓦は、皇帝の建造物と道教のお宮にしか使われない。龍の彫刻もふんだんにあるが、前殿の九龍柱は、一枚の岩から彫られた九頭の龍。九という龍の数は最高位の神、これも皇帝しか用いることができないという。前殿や本殿の天井は、木の彫刻が釘なしで組まれている。

金箔と黄青白赤黒の原色を使った、きらびやかで豪華絢爛な創りである。それもそのはず、聖天宮は、道教の伝説にある天界の宮殿なのだから。

これまで全国、いろいろ日本の寺社を訪ねてきた。こんなけったいなお宮を見たことはない。

本殿の中央に、人間界の運勢を司る道教最高位の三神「三清道祖」が鎮座している。中央が天地創造の神「元始天尊」、左に万物の魄を司る「霊寶天尊」、右に万物を道徳へ導く「道徳天尊」だ。「元始天尊」は、豪華な頭の飾りを付けている。いずれも髭を長く伸ばしているのが特徴だ。

この「三清道祖」にお線香を上げ、こと細かにお願いごとをすると、ご利益があるというのである。

なぜこんなお宮が坂戸に出現したのか――。建てたのは、康国典大法師(故人)。台湾人で、貿易で財をなした。40歳半ば、膵臓をわずらい、医者から「不治、余命いくばくもない」と宣告された。

東京のガンセンター、慶応病院、その他外国の病院などで7年余治療したが、うまく行かなかった。「三清道祖」に願かけしたところ、一命をとりとめ、完治した。

感謝の念にかられ、他の人もご利益にあずかれるお宮を建てようと建造の地を探していたところ、台湾ではなく、日本のこの地に建てよというお告げを授かった。

最寄りの若葉駅も、前の道もない雑木林だったこの地に、一から整地し、1981(昭和56)年に着工、14年かかって、1995(平成7)年に竣工した。

台湾の観音山から龍などを彫る観音石を運び出し、木彫用の木は台湾の楠。台湾の宮大工に作らせて、ここまで運び、台湾の職人を呼んで組み立てさせたというから、総費用は億どころか数十、数百億円かかっているのはなかろうか。

きらびやかな中華風の建物に惹かれて、コスプレの聖地として若者に人気が出てきたようだ。







下総皖一 加須市大利根町

2011年07月12日 16時30分28秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 


「しもおさ・かんいち」。こんな名前の作曲家を知っておられるだろうか。名前に心覚えがなくても、小学校の頃習った「たなばたさま」

♪笹の葉さらさら軒端に揺れる お星様きらきら金銀砂子♪ 

あの「たなばたさま」を創った人ですよと付け加えれば、年配の人なら知らない人は少ないだろう。

「野菊」「かくれんぼ」「ゆうやけこやけ」「ほたる」「花火」「兎のダンス」なども作曲した。

11年の七夕も近い7月のある朝。さいたま市北浦和の「県立美術館」の構内を散歩していたら、やぶの中に、「下総皖一先生を称える碑」が立っているのに初めて気づいた。

その顔も彫ってあり、「たなばた」(この石碑には「さま」はついていない)の楽譜も添えられているので、やっと「あゝあの人だ」と気づいた。

この構内は、「旧制浦和高校」の跡地で、北浦和では私が一番好きな場所だ。

名前も歌も知ってはいたものの、碑を読んでいると、大変な人だと分かってくる。1898(明治31)年、渡良瀬遊水池に近い、埼玉県北の現在は加須市になっている原道村(後に大利根町)に生まれた。


尋常小学校時代は自宅から1里以上の道を往復した。14歳まで加須市で暮らしている。

埼玉師範、東京音楽学校を首席で卒業、各地の師範学校などで教えた後、ドイツに留学、東京芸術大学音楽部教授になり、音楽部学部長も務める。

他にもいろいろ読んでみると、音楽のことはよく分からないものの、「日本の近代音楽の基礎をつくった」とか、「和声学の神様」という賛辞もある。器楽、協奏曲、合唱、校歌、三味線に至るまで作曲した数は、64歳で没するまで2千から3千曲。中でも校歌は、1千曲もあるというから驚いてしまう。

埼玉県なら、県立浦和西、県立蕨、県立川口工高、さいたま市岩槻中、川越市初雁中、久喜市久喜中などもそうらしい。一度も聞いたことがない「京都大学学歌」も今度、京大出の友人に歌わせてみよう。

芸大時代の教え子に團伊玖磨、芥川也寸志らがいる。

今は、加須市に合併された大利根町は、かつて「童謡のふる里 おおとね」と名乗った。氏の銅像も立っている。

下総皖一 童謡のふる里 加須市大利根町

2011年07月11日 18時37分06秒 | 文化・美術・文学・音楽
下総皖一 童謡のふる里 加須市大利根町

一度、この町を歩いてみたかった。太極拳を献身的なボランティアから習っていた中学校の体育館の壁に校歌がかかっていた。よく見ると、作曲・下總皖一(しもおさ・かんいち)とあった。さいたま市立白幡中学校である。

この人の名前は、その字も読み方も難しい。このため「童謡のふるさと」を自認するこの町では「しもおさ」とわざわざルビを振っている。有難いことである。

この季節によく耳にする童謡の「たなばたさま」の作曲者に敬意を払うため、最近はやりの表記法「7・7」(七夕)の次の日の11年7月8日に訪ねた。東隣の旧栗橋町で「静御前の墓」を訪ねた足を延ばした。

さすが「大」がつくだけあって広い町である。利根川の大堤防の南側に整然と区画された水田が広がる。さすが「埼玉一の米どころ」である。「草いきれ」ならぬ青々とした″稲いきれ“といった風情である。

田んぼの中では、アメンボウもオタマジャクシも元気に動き回っていた。かつて、日本の水田地帯にはこんな広大な風景がどこにも広がっていた。

大利根町は利根川とともに生きてきた。今も生きているのは、カスリーン台風の記憶である。

町を歩くと、電信柱の中腹に、利根川上流河川事務所による1947(昭和22)年の浸水の記録が貼られている。2.3mとあるのもあるから、普通の人間なら溺れてしまう水位だ。

利根川河畔のカスリーン公園にある「大利根防災センター」の掲示によれば、利根川は大利根町などで決壊、大利根町側の決壊で東京の葛飾区、江戸川区まで洪水が及んだ。家屋の浸水約30万戸、倒半壊3万1000戸、死者は1100人を超えたとある。決壊口跡には記念碑が残る。

大利根町に入ると、「童謡のふる里 おおとね」の掲示がどこにも目に付く。午後6時になると、防災放送で田んぼの上を「たなばたさま」「かくれんぼ」「野菊」の曲が流れた。朝8時、昼、夕6時の三回だ。

大利根水防センター内の「おおとね童謡のふる里室」には、作曲した500曲もの校歌のコピーなどの資料が展示されている。開館は土、日、祝祭日だけ。そこから遠い「童謡のふる里図書館『ノイエ』」の一室には、愛用のピアノなどが展示されていた。ここには09年の開室から15年5月までに来場者が1万人に達した。

童謡だけでなく、ドイツ留学後、日本の近代音楽の基礎を作った人で、「和声学の神様」といわれる。

筝、三味線など日本の伝統音楽も作曲し、全作曲数は2~3千曲に上るという。埼玉県北には、こんなケタ外れの人が何人か生まれている。