ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

アルメニア 渋沢栄一は「国の恩人」

2021年07月24日 16時18分00秒 | 偉人①渋沢栄一
東京五輪に合わせて来日中だったアルメニアのサルキシャン大統領は21年7月23日、約百年前にオスマン帝国(現トルコ)による迫害を受けていたアルメニア難民を人道支援した功績をたたえ、渋沢栄一記念財団にメダルを贈った。
  
大統領は、東京・王子の博物館「渋沢資料館」に栄一のひ孫雅英さん(96)を訪ね、「渋沢さんは国の恩人。多くの難民を助けた」と感謝した。

渋沢が当時会長を務めていたこの団体は、「餓死を待つ子ども40万人」を救うため、寄付集めに尽力、多額の資金を届けた。寄付金は病院などこどもや女性らの支援に使われた。

百年前と言えば、第1次世界大戦中、アルメニアの民族根絶を目的にした虐殺があり、約150万人が犠牲になったとされている。

渋沢栄一 一万円札の肖像画に登場 「論語の里」に人気 深谷市

2019年08月14日 16時53分26秒 | 偉人①渋沢栄一

 

渋沢栄一 一万円札の肖像に登場 「論語の里」に人気 深谷市

24年に発行される新1万円札の肖像に「日本の資本主義の父」とされる実業家の渋沢栄一を起用すると、麻生財務相が19年4月9日の会見で発表して以来、地元の深谷市の「論語の里」の人気が高まっている。

同市下手計(しもてばか)にある渋沢栄一記念館、7歳の頃から論語を学んだ10歳上の従兄弟で義理の兄、尾高惇忠(じゅんちゅう)が漢学の塾を開いていた下手計の記念館に近い惇忠の生家周辺、栄一が初代頭取を務めた第一銀行を喜寿で辞任した際、行員たちが出資を募って建てた近くの誠之堂、栄一の生家旧渋沢邸のある「中の家(なかんち)」(血洗島)といった栄一ゆかりの地が、深谷市がPRしている「論語の里」である。

記念館には19年度の来館者が20年1月22日、18年度の6倍を超える10万人を突破した。
21年のNHK大河ドラマが渋沢の生涯を描いた「青天を衝(つ)け」に決まったことが拍車をかけた。深谷公民館には「大河ドラマ館」が新設される。

栄一は、惇忠を尊敬していて、後年「藍香(らんこう 惇忠の号)ありて青淵(せいえん 栄一の号)あり」と語っている。栄一は、論語の精神に則り、単なる利益追求ではない「道徳経済合一説」を唱え、約500社の企業の創設や育成に関わる一方、身寄りのない子どもや高齢者のための東京市養育院の院長を務めるなど約600の社会福祉・教育活動にも関係した。「論語と算盤(そろばん)」という著書もある。これも惇忠の論語教育の影響とされる。惇忠は維新後、富岡製糸場初代場長を務めた。

深谷市は人口減少が進み、観光客数も伸び悩んでいる。降ってわいたこのブームを一過性のものに終わらせまいと、市は「生誕の地」として売り出そうとしている。新一万円札の裏面のデザインである「東京駅丸の内駅舎」で使用されたレンガの一部は、深谷市上敷面にあった日本煉瓦製造株式会社で製造されたレンガを使用しており、新一万円札は表も裏も深谷市ゆかりの人とモノが採用されているからだ。日本煉瓦製造は国指定重要文化財になっている。

新札の発行は、24年度上期からだが、市では栄一ゆかりの施設巡回バスの運行を始めたほか、ふるさと納税のサイトにアクセスが殺到しているので、返礼グッズに、栄一の似顔絵と文字がなつ印できるスタンプ型印鑑や写真を使ったお札型のセット、雅号が入った純米酒とグラスのセットなどを用意している。栄一のロゴマークも91種制作した。

「道の駅おかべ」には、栄一にちなんだ食品やグッズの渋沢コーナーが設けられ、菓子店ではフードプリンターで顔を描いた「渋沢栄一最中」が登場、駅近くでは栄一の顔をミルクの上に描いたカフェオレを飲める店もある。栄一のネーム印、写真を印刷した手作り封筒などもよく売れている。市では観光客が毎年400万人前後と伸び悩んでいるので「観光の起爆剤に」という期待も高い。

深谷市は、容姿や動きを精密に再現し、遠隔操作などで動く栄一のアンドロイド(人間型ロボット)2体の製作にとりかかった。

同市出身のドトールコーヒー創業者の鳥羽博道名誉会長(81)からの寄付金1億円によるもので、一体は新1万円札の肖像に近い、70歳ごろの洋装で立ち姿で等身大の1m53cm、もう一体は和服でくつろいだ80歳ぐらいの座り姿にする。

洋装のアンドロイドは、新札の肖像決定からほぼ1年後の20年6月30日に除幕(写真)、渋沢栄一記念館(同市下手計)の2階講義室で 7月3日から「論語と算盤(そろばん)」に代表される「道徳経済合一説」などの栄一思想の講話を肉声の録音をもとに身振り手振りを交えて始めた。

和装の方は、22年春完成、旧渋沢邸「中の家(中んち)」で生い立ちや家族の話をする予定。遅れるのは、「中の家」が改修に入るためだ。

アンドロイド制作の第一人者とされ、二松学舎大が16年に作らせた「夏目漱石アンドロイド」を手掛けた石黒浩・大阪大教授が監修、アンドロイド制作会社「エーラボ」(東京都千代田区)が現存する栄一の写真や音声を参考にして作業に当たる。

紙幣の刷新は04年以来、20年ぶり。1万円札の人物変更は聖徳太子から福沢諭吉に代わった84年以来。1963年、千円札の顔を選ぶ際、栄一は伊藤博文と最終選考まで残ったものの、当時の技術では、ひげがないと偽造されやすいという理由で伊藤博文が選ばれた・・・など話題も豊富だ。

 


渋沢栄一  "小さな巨人”  深谷市血洗島

2019年08月13日 12時00分00秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 “小さな巨人” 血洗島 

血洗島――。なんと凄まじい名前だろう。

「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれた。1840(天保11)年に生まれ、1931(昭和6)年、91歳で没した“小さな巨人”渋沢栄一(写真は深谷駅前の像)。米国の経営学者ピーター・ドラッカーが「最も尊敬する人物」として挙げたこの人は、埼玉県だけでなく、全国に知られている。

義太夫、囲碁、将棋、なんでもござれ。それに女性も大好き。身長は150cmしかなかったので、礼服のフロックコートの銅像を造ろうとしたら、見える足が余りに短いので坐像に変えたという逸話の持ち主。ビジネスマンとして初の子爵になった。

資料を読んだり、足跡を訪ねたりし始めて、一年を超す。まず驚いたのが、生まれ故郷の「武蔵国榛原郡血洗島村」という地名のおどろおどろしさだった。

昔の地名が、あっさり現代風に改名される浅薄な風潮の中で、「血洗島」は深谷市の大字として残っているのが本当にうれしい。埼玉県の「彩の国お出かけMAP」の上にも、「渋沢栄一生家」「渋沢栄一記念館」の所在地名として明記されている。

二度ほど生家付近を歩き、全国に知られる深谷名物のネギの香りが、風に漂うのをかいだ時もこの地図を手にしていた。

地図を見れば明らかな通り、血洗島は、埼玉の北の果て、県北中の県北、群馬県と境を分ける利根川の近くにある。

若い頃、群馬県で2年ほど仕事をしていたので、利根川にはひとしお思い入れがある。群馬・埼玉県境、茨城・千葉県境をつくり、銚子で太平洋に注ぐ信濃川に次ぎ日本で2番目に長い川である。

演歌狂いなので、利根川といえば、田端義夫が歌う「大利根月夜」が好きだ。道場仕込みの侍ながら、ヤクザの用心棒に身をやつした平手造酒の舞台は、もっと下流だ。

軽率な思い込みが身上だから、血洗島もヤクザ同士の血で血を洗う血戦が展開されたのだろうと勝手に思っていた。

これはとんでもない思い違いで、利根川の氾濫で土地が洗われるので、「チアライジマ」、土地が荒れているから「チアレジマ」が転じて「チアライジマ」と呼ばれるようになったというのが、最も有力な説のようだ。無知ほど怖いものはない

この他にも、赤城山の地霊(ムカデ)が日光の山の地霊(大蛇)と戦場ヶ原で闘って、片腕をくじかれ、その血を洗った。平安時代、八幡太郎義家の奥州遠征の際、この辺で合戦があり、家臣の一人が切り落とされた片手を洗った。アイヌ語で「ケッセン」は「岸、末端、」という意味で、その当て字「血洗」から・・・といったいろいろな言い伝えがある。

ところが、合理主義者だった栄一は「田舎者の話であることは言うまでもない」と、にべもなくこだわらなかったという。

「血洗島」の「島」は、利根川の氾濫原に4つの瀬と8つの島があったからだという(以上、深谷市のホームページによる)。

実際、私のような好奇心の持ち主は、いつの時代にもいるようだ。栄一も各地で「よく由来を聞かれた」と語っており、辟易していたことだろう。

赤城山と日光の山が戦ったという言い伝えは、群馬でも聞いたことがある。この言い伝えにはストーリーとしての魅力はあるものの、氾濫説やアイヌ語説の方に説得力がありそうだ。

血洗島は赤城山を仰ぎ、冬には「赤城おろし」をまともに受けるところにある。栄一の生家の裏には「十六文たんぼ」という赤城おろしが吹き抜ける田んぼがあったという。十六文出して酒を一杯ひっかけても、通るとたちまちさめてしまうほど寒いのでその名があったとか(「埼玉の偉人 渋沢栄一」韮塚一三郎著による)。

栄一とともに埼玉県の誇る「群書類従」を編んだ全盲の大学者、塙保己一の生まれた現在の本庄市児玉もやや西側だが、同じ県北で「赤城おろし」にさらされるところだった。

この二人に日本初の公認女医、荻野吟子を加えて、「埼玉出身の三偉人」と称えられる。吟子の出身地も、現在の熊谷市俵瀬で、利根川からわずか南の県北中の県北。この三人がいずれもぎりぎりの県北出身なのは単に偶然だったのだろうか。

ところが、講演などを聞いていると、渋沢一族は1500年代に、現在は山梨県の小渕沢近くの渋沢村から移住して来たのだというのだ、生粋の武蔵人ではないらしい。

藍づくりや質屋も営む豪農、渋沢市郎右衛門の長男として生まれ、幼名市三郎。19歳で結婚、栄一と改名。22歳で江戸に出て塾に通い、剣道は千葉道場で北辰一刀流を学んだ。

尊王攘夷派として24歳で高崎城乗っ取りを図るが、説得されて京都に逃れ、一橋慶喜に仕官した。28歳で慶喜の弟の徳川昭武の随員でパリの万博に参加、新しい世界に触れ、新しい人生が始まる。

渋沢栄一 旧渋沢庭園 東京・飛鳥山公園

2010年09月05日 17時45分28秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 旧渋沢庭園 東京・飛鳥山公園

東京都立飛鳥山公園を猛暑の盛りに訪れた.JR京浜東北線の王子駅沿いのこの公園に桜の時に来ることはあっても、真夏に来ることはまずなかった。

現役時代は通勤の通過駅だった。八代将軍吉宗が桜を植えさせ、庶民用の花見公園にしたこの公園(隅田川沿いの墨堤は武士用だった)には、上野の花見の後に近くの立ち飲み屋で「ちょっと一杯」とよく立ち寄った。

今度わざわざ来たのは、栄一のことを調べていて、彼の別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」がこの公園内にあったと知ったからである。

難しい名前だ。漢学に強い栄一らしく、中国の詩人陶淵明の詩の一節「曖々遠人村、依々墟里煙」によるものという。漢語林を見ると、「遠く人が住む村は霞み、寂れた村落の煙がぼんやり見える」という意味のようだ。

案内板によると、1879(明治2)年から、この地で亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは接待用別荘、後には本邸として使われた。

王子には、「名主の滝」などがあり、王子稲荷神社には関東一円の狐が集まり参詣したと伝えられる。落語「王子の狐」で名高いこの地は、当時は閑静で別荘向きだったのだろう。

公園の上中里駅寄りの角の敷地は約2万8000平方mの広大さで、日本館、西洋館をつないだ母屋など総建坪約1千900平方mのほか、茶室などがあった。

空襲で焼失、今では建物としては大正期の「晩香盧(ばんこうろ)」と「青淵文庫(せいえいぶんこ)」(いずれも国指定重要文化財)が残されている。

民間外交に力を入れた栄一が、インドの詩人タゴールや米国の第18代大統領グラント、中国の蒋介石などをもてなした場所である。

その庭園が無料で一般開放されている「旧渋沢庭園」である。鬱蒼と古木が茂っていて、夏の猛暑も遮り、快い風も行き交う。エアコン入らずの名所だ。

朝9時開門。私と違って、こんなことは熟知の近くの老人たちが、この涼しさとベンチや座り場を求めて、飲み物や本を手にやってくる。蚊取り線香を焚きながらで、本を読んで寝そべっている人もいて、「さすが」と恐れいった。

この地で、死ぬまで東京の養育園の面倒を見た栄一の「忠恕(ちゅうじょ)=まごころと思いやり=」の精神が、今なお生きているのをまざまざと見た。

庭園より一時間遅く開く「渋沢史料館」も素晴らしい。一階でビデオを見た後、二階に上がると、本で読んできたものの実物を見ることができる。

フランスを訪れた時のシルクハットをかぶった栄一の写真と、初めて作った株式会社「第一国立銀行」の錦絵が出迎えてくれる。

パンフレットによると、栄一は小柄で、私もこれよりちょっと大きいぐらいなので、親近感が増して来る。栄一の達筆ぶりに、いつも感心する。

関連の本も売っていて、私は、末子の渋沢秀雄著「渋沢栄一」(財団法人渋沢栄一記念財団)を買った。入門書としては一番読みやすく、面白い。これも米国仕込みの、倫理のかけらもない経済学者や財界人にも読んでほしいものだ。


渋沢栄一 世界遺産になった富岡製紙場

2010年09月04日 16時15分37秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 世界遺産になった富岡製糸場 


14年6月に群馬県富岡市の「富岡製糸場」が、世界遺産に指定された。

2年間いた群馬県も、その後半世紀以上住んでいる埼玉県も、昔は養蚕県だった。「お蚕さん」と敬称がつくのも、2階建ての家の2階に蚕を飼い、家族と共存しながら暮らしてきた歴史があるからだ。

思えば、博徒・国定忠治が賭場に出入りできたのも、明治の初め秩父事件という新政府に公然と反抗する農民の反乱が起きたのも、お蚕のためだった。

「富岡製糸場」には、現・深谷市の偉大な先人二人が関わっていたことを、この機会に振り返っておきたい。

一人は、渋沢栄一で、もう一人は、栄一のいとこ尾高惇忠(じゅんちゅう)である。

明治の新政府は出来たものの、外貨を稼ぐ手だてがない。大隈重信や伊藤博文が目をつけたのは、当時の日本お家芸だった生糸製造である。

ヨーロッパの事情を知っていた栄一に、官営製糸工場建設が一任された。生糸生産の先進国だったフランスから来ていた政府の法律顧問から、技師ポール・ブリュナを紹介され、栄一は工場建設の契約書を結んだ。

その時、頼りにしたのが惇忠である。ブリュナとともに敷地選定から現場の実務にも当たり、1872(明治5)年、製糸工場の初代場長になり、4年間1876年まで務めた。

惇忠は、栄一のいとこで、栄一の実家の深谷市の血洗島の近くの下手計(しもてばか)に住んでいた。

独学ではあったものの、漢学を修め、その名を知られた秀才だった。父親から5歳の時から学問の手ほどきを受けていた栄一は7歳から、10歳上で17歳だった惇忠の所に毎晩1、2時間通い、15歳頃まで「論語」を手始めに漢学を学んだ。

栄一の読書の幅は広く、「三国志」なども読みふけった。「この師にしてこの弟子あり」という感じだった。

後日、栄一が企業倫理を重んずる「論語資本主義者」と呼ばれるようになった基礎はこの時に培われた。

栄一は10歳上の師を、日本の資本主義の始まりとも言えるこの事業の遂行に委嘱したわけである。栄一は19歳で、惇忠の妹千代と結婚している。

明治政府は、製糸場の操業開始の見通しがついた1872(明治5)年、製糸場で働く工女の募集を始めた。

ところが、外国人技術者が飲むワインを生き血と勘違いして、「生き血を吸われる」と5か月間も応募者はゼロ。そこで、惇忠は14歳になる長女の勇(ゆう)を第1号の工女とした。勇の住む下手計(しもてばか)村から5人の少女が行動を共にした。

それでも工女は集まらず、10月4日に操業開始した時も、第1次操業に必要な400人の約半分だったという。勇はフランス人女工から手ほどきを受け、1等工女になり、17歳で富岡を去った。

翌73年1月には工女は404人になり、出身地は13府県に及んだ。地元群馬が228人、入間(埼玉県)が98人と,両県で全体の8割を占めていた。

勤務時間は、季節によっていくぶん違うが、日の出から日没30分前で、朝7時に就業、9時に30分休み、12時に昼食、1時間休み、4時半宿舎に帰るといった具合だった。

毎週日曜日は定休で、休日は夏休み10日を含め年間76日。後の民間製糸工場で見られた「女工哀史」のような労働条件ではなかった。

この工場で働いた工女たちは、全国各地の工場でその技術を伝え、紡績日本の基礎を築いた。

深谷市は来訪者が増えたことから、下手計にあるを毎日公開している。また、惇忠の生家や栄一の生家「中の家(なかんち)」の周辺を整備、観光客誘致を図る。

同市では、この二人に製紙場の赤れんがを作った韮塚直次郎をくわえて、「舞台は富岡、主役は深谷の三偉人」というキャッチフレーズに、三人の顔写真を並べたポスターを駅などに掲げてPRに努めている。

富岡製糸場を通じて、富岡(群馬県)と深谷市の距離はグンと近づいた。

参照:「富岡製糸場事典」(富岡製糸場世界遺産伝道師協会編 シルクカントリー双書⑧ 上毛新聞社)など。

渋沢栄一 東京駅のレンガ

2010年09月02日 07時14分04秒 | 偉人①渋沢栄一

渋沢栄一 東京駅のレンガ

栄一は世界や日本のことに目を配りながら、郷土愛も強く、埼玉県や深谷市、血洗島のためにも奔走した。

JR深谷駅に降り立つと、ホームに「青淵深沢栄一生誕の地」と横書きで大書してある。「青淵」とは栄一の号。自宅近くの淵にちなんだもので、その碑が立っている。駅前に栄一の像が立っているのは当然だ。(写真)。

この駅は、堂々とした赤レンガづくりで、東京駅をしのばせる。「JR日本の駅百選」にも選ばれた。それもそのはず、深谷市上敷免にある「日本煉瓦製造株式会社」で作られたレンガを模して(レンガ風のタイルを貼って)造ってあるからだ。

1996年、旧駅の老朽化で改築の際、耐震性から本物のレンガが使えず苦肉の策である。

この工場は栄一が郷土のために誘致したものだった。この地は、利根川が堆積した土砂に恵まれ、古くから瓦の産地として知られた。明治22年(1889)に完成、敷地約19万平方m、日産5万個の製造が可能。明治末期には国内最大級の年3500万個を製造した。

人手に変えて機械力を使った日本初の洋式レンガ工場で、ドイツ製のホフマン式焼き窯三基などを備え、明治35年には従業員461人、日本鉄道(現JR)大宮工場についで県内第二位の大工場だった。

工場から深谷駅までの4.2kmの専用鉄道も引かれ、ここから出荷されたレンガは、東京駅を初め、日本銀行、赤坂離宮(現迎賓館)、旧司法省の本館、丸の内煉瓦街、東大、慶大図書館など多くの建築物に使われた。

赤レンガは、欧米の近代文明の象徴だったから、盛んに使われた。だが、大正大震災で大被害をこうむると、熱は急激に冷めた。

初めて栄一の足跡を訪ねたのは、国の重要文化財に指定されているこの煉瓦製造会社の「ホフマン輪窯(わがま)6号窯」などが、09年1月、初めて一般公開された時だった。この会社は06年まで約120年存続した。

「産業遺産」にはかねがね興味を持っている。英国の産業革命の発祥地マンチェスターをそのために訪ねたこともある。窯の中に入って、説明を聞くと、窯の頭上や壁面から粉炭を吹きこんで、約1千度の温度で焼いたとのことだった。

栄一の郷里への貢献の数々は、これまた数えきれない。秩父セメント、秩父鉄道、埼玉銀行の前身、武州銀行などの創立のほか、まだ交通機関が整っていなかった頃、埼玉県出身の在京大学生のために埼玉学生誘掖(手をとって指導する)会会頭として、東京・市ヶ谷に寄宿舎を設け、学資を貸与した。埼玉県人会会長に選ばれるのは当然ながら、旧制浦和高校の浦和誘致、埼玉会館の建設、郷土出身の塙保己一の遺徳をしのぶ温故学会会館(東京・渋谷)の建設にも力を尽くした・・・などなどである。

これほどの人物を、埼玉県はもう一度生み出すことができるだろうか。




渋沢栄一 青い目のお人形

2010年09月01日 11時28分33秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 青い目のお人形

♪青い目をした お人形は
アメリカ生まれの セルロイド・・・

1921(大正10)年にできた有名な童謡である。野口雨情作詞、本居長世作曲の当時の最高のコンビによるもので、小さい頃によく聞き、歌ったものだ。

栄一は、計4回渡米した。この訪問で、東京商工会議所会頭を務めていた栄一は、ルーズベルト、タフト、ウィルソン大統領と面会するなど多くの知己を得た。

身長150cm,小柄で太っていた栄一は、スピーチも機知に富んでいた。「グランド・オールド・マン」の愛称で呼ばれ、親しまれた。第4回目の訪問の際は、すでに82歳になっていた。

当時、米国では西岸で日本人移民排斥の動きがしだいに高まっていた。栄一の願いもむなしく、1924(大正13)年、排日移民法が成立した。

栄一の米国人の知己の中に、シドニー・エル・ギューリック博士がいた。宣教師で日本に20年も滞在していた親日家で、ニューヨークの日米関係委員会の幹事を務めていた。博士は、日米親善のため、「ひな祭り」の日に米国の児童から日本の児童へ人形を贈る計画をたてた。

栄一は、日本側の受け入れ組織、日本国際児童親善協会の会長に推され、1927(昭和2)年3月3日、東京青山の青年館で贈呈式が行われた。

出席した栄一はすでに88歳になっていた。送られた人形を抱く栄一の写真が残っている。その総数は1万2千体。日本全国の小学校や幼稚園に贈られた。答礼として、日本側からも各州に一体ずつ日本人形58体が送られた。

米国から送られたのは、歌のようなセルロイドではなく、素焼きのものが多かったという。当時のNHKは、親善人形を受け入れに合わせ、「人形を迎える歌」を創り、全国に放送したが、あまり人気がでず、数年前にできていた「青い目をしたお人形」の方が歌い継がれて、この二つが混同されたのだった。

栄一は中国とも共存共栄を唱え、三回訪中、蒋介石とも親しかった。国際連盟協会長も務め、このような功績でノーベル平和賞の候補に挙がったこともあった。

戦時中、送られてきた人形はどのような運命をたどったのか。敵国の人形だというので、文部省は「壊すなり、焼くなり、海へ捨てたりする」ことを勧めた。焚刑に処せられたり、竹槍で突かれたりと無残に処分される受難の憂き目にあった。

心ある人が隠して、戦争を生き延びてこれまで見つかっているのは300余体。米国に贈られた人形は44体が残っているという。

参考文献:「埼玉の先人 渋沢栄一」 韮崎一三郎著 さきたま出版会など


渋沢栄一 追悼の和歌

2010年08月31日 07時32分14秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 追悼の和歌

1931(昭和6)年、栄一が死去した後、短歌誌「あららぎ」に次のような一首が寄せられた。

資本主義を罪悪視する我なれど 君が一代は尊くおもほゆ

この年、日本は満州事変を起こし、中国との泥沼戦争に突入した。東北地方は大凶作で、プロレタリア運動も高まりを見せていた。こういう背景を知ると、この歌の真意がよく分かる。

「日本資本主義の父」として栄一の業績はあまりにも大きい。巨人としか呼びようがない。92年間の人生で、500以上の会社を興し、600余の社会事業に関係した。谷中墓地の葬儀には三万人の参列者があった。

会社では、第一国立銀行(現・みずほ銀行)を皮切りに、東京証券取引所、東京ガス、王子製紙、帝国ホテル、帝国劇場(現・東宝)、日本郵船、日本鉄道(JR東日本の前身)、石川島造船所(IHIの前身)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、秩父鉄道、大阪紡績(東洋紡)、東京海上日動火災保険、アサヒビール、清水建設・・・など、文字どおり枚挙にいとまがない
一つの会社の経営さえ大変なのに、栄一は「日本社会福祉事業の草分け」でもあった。1874(明治7)年、当時の東京市から養育院の委嘱を受けたのを手始めに、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、聖路加国際病院初代理事長など、関係した非営利の社会事業もまた数えきれないほどだ。

名誉職で務めたのではない。死ぬまで院長を続けた養育院を引き受けたのは、35歳の時だった。

養育院は、親も親戚もない不幸な少年少女や、身寄りのない老人を養う施設である。栄一は毎月、菓子を持って院を訪ね、この施設の元々の基金を作った寛政の老中松平定信の命日には毎年、話をしに出かけた。これを死ぬまで56年余続けたのである。

栄一の母親は慈悲深い人で、郷里の共同浴場に癩患者の女性が入ってきた時、入浴者は気味悪がって逃げ出したのに、一緒に入浴して、背中まで流してやった逸話が残っている。死去する年に癩予防協会会頭を引き受けたのも、この話に関係がありそうだ。

栄一が生涯の信条にしたのは、論語にある「忠恕」、つまりまごころと思いやりの心だった。この信念と母親の遺伝子が栄一を社会福祉への道へ進ませたのだろう
当時、商人に社会教育は要らないと考えられていたのに、栄一は商業教育の必要を唱え、一橋大学や東京経済大学の設立に協力した。国学院大學や東大新聞研究所、理化学研究所にも関与した。

不要視されていた女子高等教育にも力を入れ、日本女子大学や東京女学館の設立にも携わった。

栄一は、70歳で大半の営利事業の役職、77歳で第一銀行頭取などを辞し、実業界から引退した後も、養育院などの社会事業は続けた。「財なき財閥」と呼ばれるゆえんである。

明治の文豪幸田露伴は栄一を「時代の児」と呼んだ。栄一が自称していた「血洗島の農夫」は、幕末から昭和初めにかけての日本の激動の時代にもまれ、まさしく「時代の児」として生きた。

参考文献
「評伝 渋沢栄一」藤井賢三郎 水曜社
「澁澤栄一」山口平八 埼玉県立文化会館

渋沢栄一 岩崎弥太郎

2010年08月29日 20時20分30秒 | 偉人①渋沢栄一


海運にも手を伸ばそうとしていた栄一の生き方を考える際、最も印象的なのは、海運業の独占を狙っていた三菱財閥の岩崎弥太郎との物別れに終わった大論争である。

明治11年の夏の終わり、その岩崎弥太郎が栄一を隅田川の舟遊びに招待した。“清談”をしようというのである。舟遊びは当時、最高の接待の一つだったようだ。

大川端(大川とは隅田川のこと。埼玉県人から見れば荒川の下流にしか過ぎない)の料亭で芸者総上げの宴会、屋形船遊びの後、料亭に戻ると、弥太郎が、「二人で手を握り、海運の富を独占しよう」と持ちかけた。いかにも弥太郎らしい発想である。

栄一は激論の挙句、きっぱりと断った。栄一は一歩も譲らず、中座した。弥太郎は当然、立腹し、その後長く反目が続いた。

高崎城襲撃をきっかけに、横浜を焼き討ちし、外国人皆殺しを真剣に考えていたほどの過激な尊王攘夷派だった栄一は、本来は不倶戴天の敵とも言うべき第十五代将軍徳川慶喜の庇護を受けるようになる。

栄一は、慶喜の弟である清水昭武を代表として幕府が万博に参加するためパリに向かう際、庶務担当として同行することになった。27歳。それから一年半、フランスを始め、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどの先進国を訪問した貴重な経験が栄一を根底から変えた。

当時は船しか外国訪問の道はなかったので、帰国した際には幕府は倒れていた。大隈重信に説得され、今の大蔵省に入る。ところが、大蔵卿・大久保利通との予算編成に関する意見の食い違いから大蔵大輔(たゆう)井上馨とともに3年余で野に下る。33歳。1873(明治6)年のことである。

ここから官尊民卑を改め、商工業者の地位を引き上げようとする生涯の戦いが始まる。初めての仕事は「第一国立銀行」だった。国立銀行と言っても日銀のことではない。今のみずほ銀行の前身である。「バンク」を「銀行」と訳したのも栄一だった。

次に手がけたのは、株主の協調の場にしようと「東京商法会議所(後の商工会議所)」を設立。明治11年、発会式には大倉喜八郎、安田善次郎、岩崎弥太郎などが集まり、栄一は会頭に推された。

船会社を持っていたので明治7年の台湾出兵や10年の西南戦争で、巨利を得た「政商」である。

明治11年の夏の終わり、その岩崎弥太郎が栄一を隅田川の舟遊びに招待した。“清談”をしようというのである。舟遊びは当時、最高の接待の一つだったようだ。

大川端(大川とは隅田川のこと。埼玉県人から見れば荒川の下流にしか過ぎない)の料亭で芸者総上げの宴会、屋形船遊びの後、料亭に戻ると、弥太郎が、「二人で手を握り、富を独占しよう」と持ちかけた。いかにも弥太郎らしい発想である。

栄一は激論の挙句、きっぱりと断った。栄一は一歩も譲らず、中座した。弥太郎は当然、立腹し、その後長く反目が続いた。


。そもそも二人は考え方が違うのである。「論語と算盤」の著書があるとおり、道徳と経済は両立しなければならないという「道徳経済合一論」が、栄一が終生貫いた立場だった。

栄一は、よく議論した。直接議論ができない場合は「建白書」を提出した。栄一が野に下ったのは、富を独占せず、株式会社を作り、国民全体の利益にするのが目的だった。
栄一の論争の根底にあるのは、徹底的に学んだ漢学、特に「論語」の素養がある。二人を比較すると、その違いは幼児からの教育と、ヨーロッパを見た体験である。

つけ加えておきたいのは、アメリカや日本のマスコミ好みの「テロリスト」という言葉である。栄一は若い頃にはれっきとした「テロリスト」だった。それが機会が与えられることによって、見事に変身したのである。