ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

「細川紙」がユネスコ無形文化遺産に 小川町、東秩父村

2014年10月31日 14時20分14秒 | 市町村の話題


14年11月ユネスコ無形文化遺産に登録された「細川紙」。と言われても、すぐわかる人は少ないだろう。手漉きの和紙のことである。

和歌山県の高野山近くの「細川村」から幕府の命で江戸時代、現在の小川町と東秩父村にその技術が伝えられたため、その名がついた。

この一帯の和紙づくりは1300年前、当時の武蔵国に渡来した高句麗人が伝えたという説もある。

「細川紙」はコウゾだけでつくる。繊維がやや粗く、頑丈で水に濡れても長持ちするので、江戸商人に大福帳用に好まれた。今でも障子紙、版画用紙、凧や着物の型紙などに使われている。

小川町と隣の東秩父村の「細川紙」だけが単独で登録されたのではなく、同様にコウゾだけでつくる島根県浜田市の「石州(せきしゅう)半紙」、岐阜県美濃市の「本美濃紙」とこみで登録された。

ユネスコが同じ国の似た候補は「グループ化」する方針を打ち出しているため、09年に登録された「石州半紙」に、「細川紙」と「本美濃紙」を追加、1グループの「和紙」として推薦し直したもので、「拡張提案」と呼ばれる。

この3つの和紙は、国の重要無形文化財に指定されている。

この登録は、昨年の「和食」に次ぐもので、日本の無形遺産登録は22件となった。「石州半紙」に追加したのだから、件数に変わりはない。

この拡張提案方式を使って、秩父市の「秩父祭の屋台行事と神楽」も、09年に登録された「京都祇園祭りの山鉾行事」と合わせて、今年、合計32件の「山鉾・屋台行事」として推薦されているので、その審査が楽しみだ。

地元は今度の登録に大喜び。だが、この伝統技術をどう継承するかが問題だ。

東秩父村の場合、細川紙をすく家は昭和初期に80戸あったのに、今では東秩父村で4戸、小川町で6戸だけ。細川紙は高価なので、一般の和紙も漉いている。

両町村の細川紙の技術者でつくる「細川紙技術者協会」では15年以上研さんを積むと正会員になる。

10月28日に開かれた臨時総会で、10~20数年の男女3人が正会員に昇格した。だが、6人が高齢で特別会員になったので正会員は11人に減った。

後継者の育成に努める協会長の鷹野貞三さんは79歳になる。東秩父村では最近、女子中学生が和紙作りに取り組んでいて、期待されている。

小川町では「伝統工芸会館」、東秩父村では「和紙の里」で、手漉きの実演を見ることができる。

「風船爆弾」 小川町

2014年10月28日 13時43分25秒 | 市町村の話題



「風船爆弾」という珍妙な爆弾が、第二次大戦末期、日本の陸軍によって実用化され、米大陸攻撃用に飛ばされたことを知っている人も少なくなってきた。

大陸間弾道弾ならぬ、“史上初の大陸間攻撃兵器”で、この大戦で使用された兵器の中では、到達距離は一番長かったという。

太平洋の1万㍍の高層を吹く冬季に強い偏西風(ジェット気流)に乗せて運ぶのである。直径10mに水素で膨らませた気球に15kg爆弾1個と焼夷弾2発を吊るし、茨城県五浦海岸など三か所から、製造された1万のうち9300発が放たれた。1割ほどが米西岸に到達したと推定されている。

1944年11月から45年3月まで発射(放球)され、着弾地が確認できたものは361発だったという。

高度を保つ装置はついていたものの、無誘導だから風まかせ。実害は少なく、1945年5月、オレゴン州で、ピクニックに来た民間人6人(妊婦1,子供5)が、不発弾に触れ、爆死したのが、唯一の人的戦果だった。

犠牲者6人の慰霊碑が立っているのをテレビで見たことがある。

「ふ号兵器」、「気球爆弾」とも呼ばれたこの兵器は、直径約10m、約200キログラム。外側は和紙5枚をこんにゃく糊で貼りあわせた。その作業には女子学生が動員された。直径が大きくかさばるので、東京の日劇や東宝劇場、国際劇場、国技館などが作業に使われたとある。

心臓部ともいえる高度維持装置、微妙な高度差を検知するアネロイド気圧計は、現在自衛隊大宮駐屯地(さいたま市北区日進町)となっている「陸軍造兵廠大宮製作所」で作られた。

開発・研究が進められたのは陸軍登戸研究所(神奈川県川崎市)。その敷地の半分が明治大学・生田キャンパスになっている関係で、この兵器にもかかわった関係者らによる「登戸研究所から考える戦争と平和」(芙蓉書房出版)という本もある。細かな数字はこの本による。

この和紙が小川和紙だったと知ったのは、七夕祭りと「忠七めし」のために小川町を訪ねた時だった。

「和紙のふるさと」を自認するだけあって、小川町の手すき和紙の歴史は、1400年以上前にさかのぼる。正倉院の文書にも8世紀に「武蔵紙」の寄進があったとの記録がある。

和紙は、コウゾ、ミツマタ、ガンピなどを原料とする。小川町にはコウゾが自生していて、和紙作りに欠かせない水は、槻川と兜川にふんだんに流れていた。

小川町では、コウゾは「かず」と呼ばれた。その繊維が太くて長く、強度に優れるので、この皮をむいて作る小川和紙は、強靭さで定評があった。

平安時代から隣のときがわ町の慈光寺から写経用の注文があった。江戸時代には、紙の大消費地が近距離にあるわけだから、最盛期には750軒もの紙すき家があり、一大産地となっていた。

大福帳に使うと、火事の際、井戸に投げ込んでも再び使えるほどの耐久性があった。障子紙、傘紙、提灯、合羽などの生活必需品のほか、この地域は、一大養蚕地帯で、狭山茶の産地でもあるので、蚕卵台紙や製茶用焙炉(ほいろ=製茶用の乾燥炉)紙と大量の農業用需要もあった。

この町には「ピッカリ千両」という言葉がある。紙干しによい晴天(ピッカリ)に恵まれると、天日乾燥がはかどるので、いくらでももうかるという意味だ。そういう時代があったのだ。

戦争中、紙の強靭さに目をつけた軍部が、「砲兵紙」と呼ばれた砲弾火薬包装紙に利用した。和紙の吸湿効果で砲弾や火薬を湿気から守るのである。

1943(昭和18)年、「ふ号作戦=風船爆弾作戦」が始まった時、小川和紙が使われたのは自然の成り行きだった。戦争末期には小川和紙の8割は軍需用だったという。

平和時の写経や大福帳から、戦時の砲弾火薬包装紙、爆弾気球紙と、小川和紙の用途の変遷を思うと感慨無量である。

コウゾを100%使った小川和紙の銘品は、「細川紙」と呼ばれる。細川とは、人名ではなく、紀州(和歌山県)高野山麓の細川村のこと。ここでは、武家社会で公文書用に使っていた厚いコウゾで作った奉書紙「細川奉書」を作っていた。

幕府はお膝元近くで同じものを求めていた。江戸時代には他藩への技術移転を禁じていたのに、細川村から小川に技術者を移住させ、高級紙を作らせたのである。

1978(昭和53)年、国の重要無形文化財に指定され、その技術は継承されている。今でも手に入る。

町には「埼玉伝統工芸会館」や「和紙体験学習センター」があり、和紙の手すきを体験できる。12月には「小川和紙マラソン大会」も開かれる。

しかし、洋紙や機械に押されて、手すきを続けているのは10戸ぐらいで、コウゾの栽培も県内ではほとんど行われていないという。

小川和紙に興味ある人は、竹崎里砂さんが作っている「小川和紙 ネット」にアクセスするといい。そのすべてが分かる。この記事でも大いにお世話になった。


東秩父 県内唯一の村

2014年10月26日 12時21分30秒 | 市町村の話題


平成の大合併も終わって、全国の都道府県から村の数がめっきり減った。14年1月時点で、全国で残っているのは183と希少価値になった。

村なし県は13。東北から九州にかけて栃木、石川、福井、静岡、三重、滋賀、兵庫、広島、山口、香川、愛媛、佐賀、長崎県である。

逆に10以上の多い順で並べると、35の長野が群を抜き、19の沖縄、15の北海道、福島、12の奈良県と並ぶ。原発報道を聞くたびに「福島には村が多いな」と思っていた。

埼玉県の東秩父のように1つだけ残っているのは、12府県。宮城、千葉、神奈川、富山、京都、大阪の両府、和歌山、鳥取、島根、徳島、大分だ。

関東1都6県に絞ってみると、東京と群馬が8で、茨城が2、埼玉、千葉、神奈川が1で並び、栃木が0。

群馬はまだしも東京に8つあるのは、多摩地域西部の檜原(ひのはら)と島しょ部に7つあるからだ。

日本の村の数について、前置きが長くなった。埼玉県には、この1つの村のほか町が22、市が40ある。市の数は日本1だ。全部で63市町村あるわけだ。

このブログを書き始めて以来、どうせなら県内の全市町村を訪ねてみようと思っていたから、この県内最後の村にも行くつもりで、資料も少しずつ集めていた。

14年4月17日、天気も良かったので、東武東上線の小川町駅からバスで村が売り出している「和紙の里」を目指した。約25分で着く。

東秩父村は槻川の最上流域にある。その下流の小川町同様、「細川紙」の生産で知られる。

和歌山県の高野山の麓の「細川村」で作られていた「細川奉書」の手漉(す)き技術が、江戸時代になってからこの地にもたらされたもので、その技術は国の重要無形文化財、道具類は有形民俗文化財に指定され、里の倉に保存されている。

文化庁はユネスコ(国連教育・科学・文化機関)の無形文化遺産にしようと、その技術をユネスコに提案した。指定を呼びかける赤い幟が「和紙の里」の入り口に翻っていた。

楮(こうぞ)だけを原料にするので、強靭な紙質が売り物。小川町同様、戦時中には風船爆弾用の気球の紙に使われた。

この近辺に小川町同様「ぴっかり千両」という言葉が残っている。ぴかっと晴れ上がると天日乾燥の良い和紙ができ、高価で売れたからである。今では火力による鉄板乾燥だ。

村といえば、寒村、貧村のイメージが強い。ところが、この村の車道を歩いていても、そういう感じはしない。空き家もあまり目立たない。

この村は、5年連続で納税率が県内1位で、2年連続で個人住民税の納税率が100%だったので、知事から特別表彰されたという記事を読んだ記憶がある。

大内沢観光みかん農園、県営の彩の国ふれあい牧場(秩父高原牧場)、それに花桃の里、虎山桜で知られる。

しかし、現実は厳しい。人口は年々減っていて、1970年の国勢調査で5千人を超えていたのに、2010年には3348人、14年4月には3192人。65歳以上の高齢化率は31%を超し、県内で一番高い。

秩父郡に属してはいるものの、秩父盆地から山を越えて東側にあることから、広域行政では比企広域市町村圏組合に入っている。

これまで比企地区8町村、6町村、東松山市との3町村飛び地合併の話はあったが、さたやみになっている。

山林面積が8割を超す、花の美しいこの村はいつまで独立を保てるのだろうか。

「テレ玉」 テレビ埼玉

2014年10月09日 17時52分30秒 | 県全般



「あなたにカンケイのあるテレビ」がキャッチフレーズのテレビ埼玉(愛称テレ玉)が14年、開局以来35周年を迎えた。

東京県民だった時代にはほとんど関心を持たなかったものの、東京通いを止めて、埼玉歩きを始めてから、関心が少しずつ深まってきた。

地元局なので、埼玉関係のニュースをこまめに拾っていて、東京を拠点とする局では期待できない番組が見られるからである。

私が興味を持っているのは、特番(特別番組)で、14年10月には、「2014ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムパーフェクトガイド」や「川越まつり」を見た。

これまでにも、戸田橋花火大会、寄居玉淀水天宮祭、日光御成道まつり、朝霞市民祭り彩夏祭など、さまざまなお祭りや催しが放映されてきた。

私は「何でもみてやろう」精神で、現地に出かけるのをモットーにしている。後にビデオで見直すと、いろいろ教えられることが多い。なにしろ当方にとっては初めての体験だからだ。

県広報紙「彩の国だより」(月間)に掲載される「知事コラム」には啓発されることが多いので、「知事定例記者会見」も見てみたい番組だ。

スポーツ関係では、埼玉がフランチャイズのプロ野球の埼玉西武ライオンズ、サッカーJリーグの浦和レッズ、大宮アルディージャ、なでしこリーグの浦和レッズレディースのほか、アマチュアの高校の野球、サッカー、ラグビー、中学のラグビー、県農協年金友の会のグラウンドゴルフまでカバーしている。

ライオンズの試合の前には、テレ玉のシンボルキャラクター「テレ玉くん」が歌い、踊る。

埼玉県は、公営賭博が競馬(浦和)、競輪(大宮、西武園)、競艇(戸田)、オート(川口)とセットで揃っていることで知られる。

テレ玉では毎夜、「バッハプラザ」で、各レースのダイジェストを放送している。「バッハとはこれいかに」と思っていたら、Boat、Auto、Cycle、Horseの頭文字をとり、BACHとドイツ語読みしたもので、楽聖バッハもびっくりである。

もう一つ面白いのは、「自主制作の歌謡番組の数が地上波で日本一多い」ということだ。

新聞のテレビ番組でテレ玉(地デジ3ch)を見ると、朝5時半から歌謡、8時から心の演歌とある。

番組ガイドによると、5時半からは日替わりで「歌謡最前線」、「歌謡音楽館」、「ここ一番の歌謡曲」、「さわやか歌謡曲」・・・。

8時台には、これも日替わりで「こちら最新歌謡曲」、「歌日記」「心の演歌」「歌の散歩道」・・・と続く。各30分。

朝から歌謡曲番組があるということは、埼玉県民は歌謡曲好きということなのだろうか。

さすがに朝番組ではないが、カラオケファンには、「カラオケ1ばん」という1984年来という長寿番組もある。

毎年元日には、「埼玉政財界チャリティ歌謡祭」も放映される。12月初旬に大宮ソニックシティ大ホールで収録され、知事やさいたま市長も参加する。

多くのニュース番組が埼玉関係を満載しているのは言うまでもない。

FM NACK5

2014年10月09日 07時59分20秒 | 県全般



定年後10年間、PR業界に身を置いていたので、業界用語は素人よりは分かる。

「差別化」という用語がある。「差別」という語が嫌いなので、決して好きな言葉ではないが、さいたま市大宮のJACK大宮の11階を本拠とするこのFM局は、さしずめ“差別化の塊”と言っていいだろう。

「差別化」とは、「ライバル社と差別、つまり違っている」ということ。他の社と比べて「特徴がある」という意味である。

何がライバル社と違い、特徴があるのか。この局のホームページなどをのぞいて見るとよく分かる。

1988年に放送開始した当時は、「エフエム埼玉」と称していた。FM局としては全国で29番目。FMは県内には、NHK・FMしかなかった頃である。

西武鉄道が設立に深く関わり、今でも筆頭株主。埼玉県や読売東京本社、朝日、日経、中日、ニッポン放送、埼玉りそな銀行も株主だ。

2001年に「エフエムナックファイブ」と改称した。周波数が「79.5MHz」で開局当初からこの愛称で親しまれていたからである。「79.5」は確かに「ナックファイブ」と読める。

普通のFM局は音楽中心だ。この局では「しゃべり(トーク)」を重視していて、アナウンサーもおしゃべり上手である。

トーク番組は通常AM局に多いのに、この局では番組全体の7、8割を占め、FM局では異色である。

流す音楽の選択も他の局は、外国の曲「洋楽」が多いのに、この局では日本のJ-POPなど「邦楽」の割合が高い。演歌・歌謡曲をテーマにした番組もある。

プロ野球の西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)が関係していることもあって、1989年日本のFM局で初めてライオンズのスポーツ中継をした。

年間を通じて定期的にスポーツ中継をするFM局はほとんどないという。スポーツ情報番組も何本かある。

野球だけではなく、埼玉県にフランチャイズを置くサッカーのJリーグ「浦和レッズ」や「大宮アルディージャ」の実況中継もする。

さいたま市大宮公園サッカー場の命名権を取得していて、「NACK5スタジアム」と呼ばれる。

「大宮アルディージャ」のホームスタジアムであるこのサッカー場は、日本初のサッカー専用球技場で、現存するものとしては国内最古というから驚く。

県内で発行部数が一番多い読売東京本社が、西武鉄道に次いで持ち株が多いので、この局は愛県精神が極めて高い。

系列局ではなく、独立系局なのに、報道局「ニュースルーム」を持ち、ミニニュース番組や時事解説番組があるのも珍しい。

アナウンサーも局専属ではなく、他局番組にも出演するため、番組出演契約に近い形になっている。

インターネット・ラジオ「radiko」の配信地域は関東1都6県。14年4月から「radiko jp プレミアム」で日本全国へ配信されている。

このような特徴と配信地域の拡大で、18年10月31日で開局30周年を迎えたこの局はJ-WAVEとともに関東のFM局聴取率で1、2位を争うほどに成長した。特に東京駅を中心とする半径35km圏内では、男女20~34歳の聴取率はAM、FM曲中で1位だという。


木曽御嶽神社の分社 さいたま市田島

2014年10月08日 16時45分50秒 | 寺社
木曽御嶽神社の分社 さいたま市田島

長野・岐阜県境にある木曽の御嶽山(おんたけさん)の突然の噴火は、山頂(剣ヶ峰=3067m)付近にいた登山者をなぎ倒し、ちょうど100年前1914年の鹿児島・桜島の噴火の犠牲者(58人)をしのごうとしている。

今はのんびりと

♪ 木曽の御嶽さんはナンジャラホイ ♪

と歌っている場合ではない。

さいたま市の日本住宅公団の大型団地「田島団地」の近く、田島公民館の通りの斜め向かいに「御嶽神社分社」があることには、かなり昔から気になっていた。

さいたま市の天然記念物になっているイヌマキの高木(樹齢350年)が本殿の後ろにそびえる美しい神社である。

掲示板によると、江戸の天明年間、この神社で修行した埼玉県にゆかりの深い普寛という修験道の行者が、今度の噴火ですっかり有名になった登山口「王滝口」を開いたというのである。

神社には珍しく「ホームページを開設しました」と、そのナンバーまで明記してあるので、他のホームページとともにのぞいてみると

「木喰(もくじき)普寛」とも称した普寛行者は1731(享保16)年、秩父市大滝生まれ。三峰山で天台、真言両義の奥義を極め、江戸に出て、修験者の長になった。

1792(寛政4)年、江戸の信者を連れて、険しくて至難とされた王滝口から登り、御嶽開山の端緒をつくった。

と書いてある。

御嶽山は、神聖な山として、昔から100日間精進潔斎した者しか登山が許されなかった。

ところが、普寛行者はこの潔斎方式を無視して、軽い潔斎だけで強行登山、御嶽山を一般信者も登れるような道を開いたのだった。

江戸や北関東に御嶽信仰が広まったのはこのためだった。

これには先例があった。尾張の覚明という行者が1782(天明2)年、軽潔斎による登山を願い出たものの却下されたので、3年後、無許可で水行潔斎だけで多くの信者を率いて黒沢口から登拝していた。

御嶽山が一般にも開かれたのは、この二人の行者のおかげである。

普寛行者一行は、登山中道に迷ったが、雷鳥が現れて、頂上まで道案内したと伝えられ、今でも雷鳥は神鳥としてこの分社に祭られている。鳥居の前にいるのが雷鳥だ。(写真)

 ありがたや 神の御恵み 浮きいでし 武蔵の国の 雷の鳥かな

という歌も残されている。

普寛行者は王滝口開山の後、この地を訪れ、木曽御嶽神社の分社として、開山御礼の掛け軸を奉納した。この掛け軸は社宝として保存され、さいたま市有形文化財に指定されている。

新潟の八海山、群馬の武尊山も開山したと伝えられる。

1801(享和元年)、秩父へ帰る途中、71歳で死亡した。

この分社には「田島一心講」があり、毎年夏、冬の二回、御嶽山に登拝している。

秩父市大滝の御嶽普寛神社の境内に普寛導師碑があり、県指定史跡になっている。


にじのパレード 日高市

2014年10月06日 12時19分29秒 | 祭・催し



日高市は、昔この地域にあった「高麗郡(こまごおり)」が、16年に建郡1300年を迎えるのを記念して、さまざまな記念事業を実施、まちおこしに役立てようとしている。

その一つに「にじのパレード」がある。14年10月4日、有名なマンジュシャゲの季節も終わった巾着田で、5月についで2度目のパレードが行われた。

「高麗郡」とは、1300年前の716(霊亀2)年、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)から日本に移住、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7か国に散らばっていた渡来人1799人を、朝廷が武蔵国に集め、新しい郡を創ったものである。唐・新羅の連合軍に破れ、高句麗が滅亡した約50年後だった。(続日本紀)

高麗郡は、1896(明治29)年に入間郡に編入され、1180年の歴史を閉じた。当時、1町14村あったという。

日高市だけでなく、飯能、鶴ヶ島、入間、狭山、川越各市の一部も含まれていた。

高句麗が残した文化の一つに「高句麗古墳壁画」があり、世界ユネスコ遺産に指定されている。

その壁画で最も有名なのは馬に乗って矢を射る騎射姿だが、虹のように七色の鮮やかな色彩の古代衣装も印象的だ。

騎射姿のほうは、「馬射戯(まさひ)」と呼ばれ、記念行事の一つとして騎射競技会として復元されている。

これと双璧をなすのが、高句麗の古代衣装をよみがえらせたこの「にじのパレード」である。

日高市や高麗郡建郡1300年記念事業委員会では、1300年記念式典を行う16年5月21日には、新しい郡に集められた1799人にちなんでその数を集めて大パレードをやりたいとPRを進めている。

10月4日の「2014秋 にじのパレード」には、第1回の高麗神社から舞台を移して、巾着田とその外周道路に、谷ヶ崎照雄市長以下ざっと200人が古代衣装をまとって参加した。

「高麗川マロン」というブランド栗が市の名物なので、市のマスコットキャラクターになっている「くりっかー」と「くりっぴー」を先頭に、市の幹部や市会議員の姿もあった。

目立ったのは、揃いの高句麗衣装に身を包んだ「よさこい」のグループで、大きな旗と鳴り物で人気をさらった。

沿道のコスモス畑は満開で、希望者には摘み放題で無料提供された。

日高市では、キムチ味、地場産野菜、高麗人参の使用を条件とする地元のB級グルメ「高麗鍋」を名物にしようと、毎年「高麗鍋コンテスト」を開いている。

パレードが集まった広場の屋台には、狭山茶や日本酒などのほか「まんじゅしゃげ」をもじった「まんじゅう」も売られていた。