ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

角川武蔵野ミュージアムで妖怪展

2021年06月02日 13時16分39秒 | 祭・催し
所沢は、京の都や最初の幕府が開かれた鎌倉に通ずる道が開かれていた。このため、さまざまな妖怪伝説が語り継がれていることでも知られていた。

このミュージアムでは、さっそく2021年には9月20日まで売り物の妖怪をテーマにした特設展が開かれた。全国47都道府県のご当地妖怪300点を紹介する「ご当地妖怪」や3D映像のろくろ首が迫ってくる「覗(のぞ)きからくり」、雷や噴火といった自然現象から妖怪が生まれた変遷をたどれる「妖怪回廊」などが見られた。

埼玉県関係では、僧侶の姿で子どもを連れ去る「夜道怪(やどうかい)」、毛むくじゃらで人とも獣ともつかない「血塊」、壁穴からのぞき込むと「世にもおぞましい女性に出会える」のぞきからくりもあった。
















第7回全国ご当地うどんサミット2017 熊谷市

2017年11月24日 11時26分41秒 | 祭・催し

第7回全国ご当地うどんサミット2017 熊谷市

「第7回全国ご当地うどんサミット」が17年11月18,19両日、熊谷市の熊谷スポーツ文化公園にぎわい広場で開かれた。2日間で10万人がつめかけた。

札幌市から熊本の大津市までの全国の30店が参加、投票でアサリ漁獲高が全国一の三河湾のアサリを使った「ガマゴリうどん」(愛知県蒲郡市)が優勝、地元の「熊谷うどん」が2位に入った。

来場者は3枚つづりのチケット&投票券(1200円)を買い、好きなのに投票する。「ガマゴリうどん」は、「全国ご当地うどん」など全国大会で2度グランプリを得ている。1819票を獲得、「熊谷うどん」(1811票)を8票差でおさえた。

熊谷うどんは、熊谷産のうどん粉「さとのそら」と「あやひかり」をブレンド、収穫、製粉、製麺まで「すべて熊谷産」にこだわっているのが特徴。

県内からはこのほか、「加須うどん」(加須市)、「武州煮ぼうとう」(深谷市)、「濃トロ!肉牛うどん」(所沢市)が参加、「武蔵野うどん」は東京都世田谷区の店が出品した。東京都青梅市からは「トウキョウX肉うどん×熊谷小麦」と青梅のブランド豚と熊谷の小麦をブレンドしたうどんも参加した。

熊谷市で開かれたのは、埼玉県のうどん生産量(生めん、ゆでめん、乾めん)、小麦消費量(うどん、らーめん、そーめん、パン、マカロニなど)が全国第2位なのと、「麦栽培中興の祖」と呼ばれ、麦踏みを全国に広めた”麦翁”(麦王とも)権田愛三の出身地だからである。熊谷は、小麦の生産高が県内トップ(6730t 16年)である。市町村では北海道を除けば本州では1位。埼玉県は約1万9200tで全国6位。県内には23種類もの名物うどんがある。

麦踏みとは、したことのない人のために説明すると、春先に麦の芽を足で踏み、霜柱で浮き上がった土を押さえ,麦の不必要な生長を抑えて根張りをよくするためで、昔は春の風物詩の一つだった。

19年のラグビーワールドカップが同じスポーツ文化公園にある熊谷ラグビー場でも開かれるので、世界にうどんの魅力を広めたいという思惑もある。うどんサミットは同じ場所で3年連続で開かれるので都合がいい。「全国ご当地うどんサミット」はこれまで滋賀県東近江市、秋田県湯沢市で開かれてきた。

「日本三大うどん」という言葉がある。「讃岐うどん(香川県)」、「稲庭うどん(秋田県湯沢市)」、「水沢うどん(群馬県渋川市)」である。

「水沢うどん」は前橋支局にいたことがあるので、何度も口にした。讃岐と稲庭は東京で食べただけで、本物を味わったことはない。このため熊谷のサミットを心待ちにしていた。

JR熊谷駅から無料のバスに乗って、会場に着くと、子ども連れの家族が目立った。「第13回熊谷市産業祭」なども同時開催されていて、熊谷の故郷の味やB級グルメも楽しめた。

来年はどんな大会になるか楽しみだ。


入間航空祭 航空自衛隊入間基地 狭山市

2014年11月04日 18時13分01秒 | 祭・催し


県内のお祭りや催しにはほとんど出かけた。これまで、これほど混んだ催しに出会ったことはない。

13年は約32万の人出。14年は29万人だったというが、なるほどとうなずける。

JR武蔵野線から西武池袋線に乗り換える秋津駅で、駅員が改札の外に出て、臨時列車が出ていることや、降車駅の稲荷山公園駅では臨時改札口が設けられていることをマイクで知らせていた。

駅に着いて改札口を出ると人、人、人であふれていた。

基地の敷地内に駅があるというから、降車するとすぐ混雑が始まるわけだ。ボディや荷物のチェックもすぐ始まるので、混雑に拍車がかかる。

池袋から電車で40分のこの駅は、首都圏で最もアクセスが良いので、「日本一混雑する航空祭」だと基地のホームページにも書いてある。

広大な基地ではない。総面積は約3平方km。滑走路は約2千mで一本だけ。入間基地と呼ばれていても、9割が狭山市、1割が入間市だという。昔、両市とも入間郡に属していたからである。

住宅地に隣接しているので、地元との協定で戦闘機の訓練はしていない。輸送や救難などの任務が主なので、常駐しているのは輸送機やヘリコプターの類が多い。

この航空祭の目玉である「ブルーインパルス」も、本拠地のある宮城県松島基地から飛来したものだ。

この基地では東日本大地震で28機が水没した。ブルーインパルス関係機は、ほとんどイベントのための出張や定期修理で基地にいなかったので、1機が使用不能になっただけで済んだ。

この日午後1時半ごろから始まった、T4練習機6機による曲芸飛行では、編隊を組みながら急上昇や急旋回したり、青空をバックに白煙を吐きながら、ハートマークや大輪を描くと、朝から敷物をしいて待ち受けていた観衆から歓声があがっていた。

このほか、各種航空機のデモンストレーション飛行や地上展示が行われた。地上展示はできるだけ多くを見たかったのだが、混雑で半分ぐらいしか見られなかった。

観客の中にはバスツアーで茨城県から見物に来ている人もいて、ファンの広がりに驚いた。

この基地は、首都圏の防空の要でもあるので、地対空誘導弾ペトリオットPAC―3防空システムが、航空自衛隊基地では初めて配備された。

終戦後米軍に接収されて、「ジョンソン基地」と呼ばれていたので、その名で覚えている人も老人の中にはおられるかもしれない。

にじのパレード 日高市

2014年10月06日 12時19分29秒 | 祭・催し



日高市は、昔この地域にあった「高麗郡(こまごおり)」が、16年に建郡1300年を迎えるのを記念して、さまざまな記念事業を実施、まちおこしに役立てようとしている。

その一つに「にじのパレード」がある。14年10月4日、有名なマンジュシャゲの季節も終わった巾着田で、5月についで2度目のパレードが行われた。

「高麗郡」とは、1300年前の716(霊亀2)年、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)から日本に移住、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7か国に散らばっていた渡来人1799人を、朝廷が武蔵国に集め、新しい郡を創ったものである。唐・新羅の連合軍に破れ、高句麗が滅亡した約50年後だった。(続日本紀)

高麗郡は、1896(明治29)年に入間郡に編入され、1180年の歴史を閉じた。当時、1町14村あったという。

日高市だけでなく、飯能、鶴ヶ島、入間、狭山、川越各市の一部も含まれていた。

高句麗が残した文化の一つに「高句麗古墳壁画」があり、世界ユネスコ遺産に指定されている。

その壁画で最も有名なのは馬に乗って矢を射る騎射姿だが、虹のように七色の鮮やかな色彩の古代衣装も印象的だ。

騎射姿のほうは、「馬射戯(まさひ)」と呼ばれ、記念行事の一つとして騎射競技会として復元されている。

これと双璧をなすのが、高句麗の古代衣装をよみがえらせたこの「にじのパレード」である。

日高市や高麗郡建郡1300年記念事業委員会では、1300年記念式典を行う16年5月21日には、新しい郡に集められた1799人にちなんでその数を集めて大パレードをやりたいとPRを進めている。

10月4日の「2014秋 にじのパレード」には、第1回の高麗神社から舞台を移して、巾着田とその外周道路に、谷ヶ崎照雄市長以下ざっと200人が古代衣装をまとって参加した。

「高麗川マロン」というブランド栗が市の名物なので、市のマスコットキャラクターになっている「くりっかー」と「くりっぴー」を先頭に、市の幹部や市会議員の姿もあった。

目立ったのは、揃いの高句麗衣装に身を包んだ「よさこい」のグループで、大きな旗と鳴り物で人気をさらった。

沿道のコスモス畑は満開で、希望者には摘み放題で無料提供された。

日高市では、キムチ味、地場産野菜、高麗人参の使用を条件とする地元のB級グルメ「高麗鍋」を名物にしようと、毎年「高麗鍋コンテスト」を開いている。

パレードが集まった広場の屋台には、狭山茶や日本酒などのほか「まんじゅしゃげ」をもじった「まんじゅう」も売られていた。



坂戸よさこい 坂戸市

2013年08月18日 15時12分47秒 | 祭・催し


高知から始まり全国を風靡して、埼玉県でも人気が高まっている「よさこい踊り」は、県内では坂戸(さかど)市のが最もにぎやかで、人口10万の市に初回から人口をゆうに超す人出がある。関東はもちろん、全国有数のよさこいまつりに成長しているという。

2001年、市制25周年を記念して「坂戸市民まつり」として始まった「坂戸よさこい」は、毎年8月の第3土、日曜日に開かれ、13年に第13回を迎えた。

気になっていたイベントの一つなので、8月17日の土曜日午後見物に出かけた。

東上線の坂戸駅北口で降りると、駅前から北に向かって、広い「駅東通り」が伸びる。

坂戸よさこいは、今年93チーム、約5000人の踊り手が参加、約19万の人出があったという。

路上の8か所の演舞場とステージの計9か所でチームがそれぞれの歌と踊りを披露する。

市文化会館大駐車場に設けられたステージ会場は、舞台も広く、客席も長イスが十分に置かれている。後ろで福島、岩手、宮城、新潟の東日本名産・グルメ展が開かれていた。

ここに座っていると、チームが入れ替わり、立ち替わり登場するので、路上で待っている必要がなく、飲み物や食べ物を片手にのんびり見物できる。

よさこいと言うと、若く元気なお姉さんやお兄さん、それに元気な中高年女性のものというイメージが強い。

ところがここでは、まだ日が高いせいもあって、子供や幼児たちも多数登場して、男性も含めて三世代そろった連もあった。子供連れのお母さんグループの中には、腹式呼吸や発声法も習いながら、よさこいも健康法の手段という感じもする連もあった。
 
ステージ会場に隣接する地元の坂戸小学校では、校長先生を始めとする先生、お母さんたち、1年から6年までの生徒たち計80人が、「坂小みどり連」の小さな緑の旗を振って、路上の各演舞場でも元気に踊りを披露した。(写真)

13回を迎えた坂戸よさこいは、人集め、観光客誘致というよりも、市の老若男女に愛され、市民の中に溶け込み、すでに市民のまつりになっているという印象を受けた。

記録的な猛暑の中というのに、時おり涼しい風が祝福するかのように渡って、さわやかな午後だった。

農民ロケット 秩父市下吉田

2013年08月18日 00時08分48秒 | 祭・催し



予告の花火が上がり、ハヤシの太鼓が響く。「東西東西(とざいとうざい)、ここにかけおく龍の次第は・・・」で始まる伝統の口上が、奉納者や龍の名、流派の名などを披露する。「・・・椋(むく)神社にご奉納」で終わると、「ドーン」と白煙をたなびかせ、龍のような勢いで手作りロケット「龍勢」が打ち上がる――。

秩父市下吉田の”農民ロケット”の名で知られる龍勢祭(椋神社例大祭)は、江戸時代以前から400年以上の歴史を持ち、全国に5,6か所ある農民ロケットのなかで最大の規模を誇るという。

10年10月の第二日曜の10日。朝方まで残っていた前日の雨が止んだので、電話すると「やりますよ」との返事。JR熊谷駅乗り換えの秩父鉄道で皆野駅下車、バスに乗り継いで現地に着いたのはお昼前だった。

椋神社と道路を隔てた芦田山の麓に建てられた打ち上げ櫓の神社側には、多数の見物人が、有料と書かれた桟敷席にあぐらで座り込み、昼飯、酒盛りの最中だった。一升瓶やビール缶が並ぶ。その後ろには屋台も多く出て、秋祭りの雰囲気だ。7万5千の人出だったという。

龍勢は戦国時代の「のろし」から発展したとされる。それを次々に打ち上げるこの祭りは、実りの秋に神に五穀豊穣を知らせ、感謝する儀式だと言うからうなずける話だ。秩父地方では床の下の土から火薬の原料となる硝石を採集する硝石生産方法が盛んだった。

龍勢は、真っ直ぐに飛ばすため、「矢柄」と呼ばれる長さ約15mの真竹を使う。松の木を二つに割って中をくり抜き、火薬を詰めた筒を根元に取り付け、櫓に運んで点火、発射する。2~300mの高さまで上り切ると、「背負い物」という色とりどりの落下傘や唐傘が開いて、ひらひら、ふわふわと降りてくる。夜の花火とは一味違う楽しい昼間の煙火である。

驚いたことに27もの流派がある。プログラムによると、近くの山にちなんで「城峰瑞雲流」とか「開祖昇雲龍」とか「青雲流」、「秋雲流」と雲の名をつけた名前が多く、それぞれの幟がはためいている。

龍名には「龍頭 唐傘 煙火 獅子の舞」(舞天流)、「青龍煙火 破風翔龍秋彩の舞」(巻神流)と凝ったものから、「中島家御夫妻 金婚式祝の龍」(光和雲流)というのもあった。

奉納者は、「耕地」と呼ばれる各集落、地元の企業や農協などで、「秩父氏一族」というのもあって地域を感じさせる。

地元の小、中学校も寄せ書きやパラシュート装着で協力していて、「与五郎流」(奉納者・出世頭の会)では、中学生が堂々と口上を述べた。地域ぐるみの祭りなのだ。

奉納者たちは、打ち上げに先立ち、幟、矢柄を担いで成功を祈って、そろって神社に参拝する。名前は立派ながら、手仕事なので全部が打ち上げに成功するわけではない。爆音と白煙だけで終わるのもある。それもご愛嬌で、この祭りに繰り込まれている。プログラムからこのような名前を拾ってみるだけで、地域ぐるみの祭りの楽しい雰囲気がうかがえるだろう。

青空のもと15分間隔で30頭の龍が打ち上げられた。同じような農民ロケットの伝統があるタイのヤソトン市との交流も毎年あり、5、60人のタイの人々もタイ語で挨拶を書いて、小屋掛けして打ち上げを見守っていた。秩父山中の年中行事も国際化している。

戦国時代の狼火が祭りに取り入れられたらしい。

椋神社は、東征の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が道に迷った際、持っていた鉾の先から一条の光が走り、大きな椋の木に当たった。その下にいた猿田彦命(サルタヒコノミコ)が道案内して、戦に勝ったので、命を祀ったのが始まりという。秩父地方では、延喜式神名帳に「秩父まつり」で有名な秩父神社と並んで記されている由緒ある古社である。


秩父夜祭

2013年08月17日 14時58分45秒 | 祭・催し

秩父夜祭 

秩父夜祭は毎年決まって12月2日と3日に開かれる。10年は木曜と金曜日だった。夜祭だから山車のぼんぼりと花火が売り物。2日は宵宮(前夜祭)、3日は大祭。

夜出かけるのが筋なのに、2日夜から3日朝にかけて雨との予報だったので、大事を取って2日の昼間から花火が上がるまでの昼間だけ見た。


秩父夜祭は冷え込みがきついのが相場なのに小春日和で、着込んでいったセーターを脱いだほど。陽も当たっていて、豪華絢爛な屋台や、屋台の後ろの舞台で女の子が演ずる「曳き踊り」もじっくり観察できた。

秩父夜祭は、京都祇園祭、飛騨高山祭ととともに日本三大曳山祭と呼ばれる。この歳になって三つとも実物は見たことがないので、まず地元の秩父を見ようという魂胆である。

西武秩父駅前の秩父観光情報館で秩父観光協会発行の「秩父夜祭をたのしむ」(100円)や夜祭のパンフレットなどの資料を手に入れ、まず近くの秩父神社に向かう。この神社もその前にある秩父まつり会館には前に来たことはある。

読んでみて驚いたのは、江戸・寛文年間以来三百数十年の歴史を誇る夜祭は、神社の例大祭そのものだと思い込んでいたのに、実は例大祭の「付け祭り」だということだった。

秩父地方は古代から、「知知夫(ちちぶ)絹」の産地として知られた。江戸時代には秩父絹として例大祭に合わせて「絹大市(きぬのたかまち)」が開かれ、3~4千両の取引があった。夜祭はこの大市の最終を飾る、江戸の商人をもてなす行事として発展したのだそうだ。

明治後期から昭和初期にかけて、平織りで裏表がないのが特徴の「秩父銘仙」は、女性の手軽なおしゃれ着として全国的な人気を集めた。秩父市の約7割が織物関係の仕事をしていた時期もあったという。

この絹による潤沢な資金が、“動く陽明門”と呼ばれるほど豪華な屋台や山鉾をつくれた背景にあった。全国的に知られる私の好きな「秩父音頭」には、「秋蚕(あきご)仕舞うて 麦蒔き終えて 秩父夜祭 待つばかり」というくだりがある。夜祭はまさに蚕と絹が生んだ祭なのだ。

祭で曳かれる山車(だし)は、国の重要有形民俗文化財に指定されている屋台4と笠鉾(かさぼこ)2の6基。祇園祭の山鉾32基、高山祭の屋台(春12、秋11各基)に比べると少ない。

屋台は豪華な屋根のある山車。笠鉾は屋根の上に、秩父では飾り金具が垂れ下がる美しい三層の笠をつける。1914(大正3)年に電線が架設されたため、引っかかるので、曳く時は笠をはずす。

秩父で一番大きい「下郷笠鉾」は、高さ7m、笠を付けると15・5m、重さ20t。下郷は6町会の連合体だといっても、曳くのは大変だ。

2日は、中心街の4つの屋台(宮地、上町、中町、本町)の曳き回し。後幕(うしろまく)の猩々(しょうじょう=酒飲みの伝説上の動物)が目立つ宮地、屋根の一番大きい上町、屋根の前後の両端を飾る鬼板が一番大きく、日本神話を題材にしている中町、後幕の達摩(だるま)が目立つので「ダルマの屋台」と言われる本町(もとまち)と、それぞれ特徴があって面白い。

秩父神社から目抜き通りに繰り出していくので、解説を読みながら見るとよく分かる。4つの屋台は左右に張り出し舞台をせり出すと、屋台芝居が楽しめる構造になっていて、3日の午後には歌舞伎を楽しめるという。

3日は、6台が一斉に出る。夜は秩父鉄道の踏切を越え、市役所前の御旅所(おたびしょ)へ向かう短い団子坂の「曳き上げ」で祭りは最高潮に達する。午後7時半から日本花火芸術協会加盟の花火師による4号玉やスターマインが、春はシバザクラでにぎわう羊山(ひつじやま)公園から約6千発、冬の夜空に打ち上げられる。山車と冬花火のコラボレーションだ。花火が上がるようになったのは大正時代からだという。


昼間見ていて面白かったのは、屋台の前面の柱にとりついて、扇子を振りかざしながら「ホーリャーイッ」「ホーリャーイッ」とかけ声をかける4人のイケメンの「囃(はや)し手」だった。聞けば、町内在住で20歳以上、町会への貢献者との条件があるそう。一生に一度だけしかできない。まさに夜祭の花形で、「一生一代の晴れ舞台」。

昼間の屋台には、幼稚園の子どもたちも大挙して長い縄にとりついていた。よちよち歩きの赤子も祭り衣装で走り回っていた。「祭りキチ」は大人に限らない。伝統は確実に継承されつつある。

曳き子は1台を曳くのに約150人。団子坂の曳き上げには400人近く必要だという。このため市街地の空洞化が進む中で、最近は曳き子に若い女性が急増している。

秩父神社の女神(妙見菩薩)と武甲山の男神(蔵王権現)が年に一度逢い引きする祭事とされる。秩父盆地はこの祭りで、一年を総決算し、来年への歩みを始める。

「秩父祭の屋台行事と神楽」は16年12月1日、東北から九州までの33の「山・鉾・屋台行事」の1つとして、ユネスコ(国連教育科学文化機構」の無形文化遺産に登録された。これで無形文化遺産は世界で336件、日本からは歌舞伎や能楽、小川町の和紙、和食など21件が登録されている。

12月4日の秩父夜祭には、前年を13万人上回る33万人が詰めかけた。


秩父音頭まつり 皆野町

2013年08月16日 11時41分06秒 | 祭・催し

秩父音頭まつり 皆野町

♪ ハアーアーア アーエー 鳥も渡るか あの山越えて 鳥も渡るか あの山越えて・・・♪

埼玉県を代表する民謡「秩父音頭」は、学生時代から好きだった。踊りも現地で一度は見たいものだと思っていた。

13年も8月14日に皆野町で「秩父音頭まつり」が開かれるというので、喜んで出かけた。45回を迎えるという。町の花にあやかって「合歓(ねむ)の盆」と名づけられている。

秩父鉄道の皆野駅で降りるとまもなく、「秩父音頭発祥の地」と書いた看板があって、植え込みの中に「秩父音頭家元碑」が立っている。

流し踊りコンクールが毎年開かれ、人口1万1千の町で、今年は15人から50人程度の大小77チーム約1500人が参加した。

出場チーム一覧表を見ると、近隣の長瀞町や寄居町のチームもちらほらあるが、ほとんどが地元。

中でも、皆野中は運動部がそれぞれ参加していて、子ども会、青少年育成会のチームも目立った。

盆踊りと言えば、中高年齢層の参加が多い。この町では、子供たちの姿も多く、秩父音頭のふるさとの伝統は若者に着実に引き継がれている印象を受けた。民謡の歌い手も、女子中学生ら若い女性が自慢ののどを張り上げる姿が多く見られた。民謡を肉声で聞くのはなかなかいいものだ。

町役場の「新鮮組チーム」を先陣に駅近くのバスターミナルを出発、午後5時ごろから高いやぐらが組んである役場庁舎前の「おまつり広場」に集結、輪になって踊る。(写真)

秩父音頭は、日本俳句会の長老、金子兜太(とうた)氏の実家で、今も街の中心部にある「金子医院」(以前は壷春堂医院)が中心になってできた。

その縁で、弟で家業を継いだ金子千侍(せんじ)氏が家元を務めている。

秩父音頭は、この地に伝わる盆踊りが基になっている。200年の歴史があるとされるものの、昭和初期には歌詞も踊りも卑猥そのものに堕し、踊りは「ボウフラ踊り」、歌は「助平唄」と言われた。警察も禁止していたほどだ。

これを再興しようと図ったのが、兜太氏の父親、医師で俳人(号は伊昔紅=いせきこう)の金子元春だった。上海の同文書院の校医をしていたが、故郷に帰ってきたばかりだった。

伊昔紅は、俳句誌「馬酔木(あせび)」を出した水原秋桜子と現在の独協中・高時代の同級生で、同人だった。当時の県知事とも大学時代、東京にあった埼玉県人の学生寮「埼玉誘掖会」で一緒だったことから、秩父音頭づくりも知事から依頼を受けたものらしい。

1930(昭和5)年、一般から新たに歌詞を募集、自分でも作詞した。節は「秩父木挽き唄」では右に出るものがないとされた名人吉岡儀作に唄わせて、粋な趣味人だった元春の父親の金子茅蔵が妹に踊らせて振り付けた。踊りの身振り手振りに生糸を紡ぐ糸車の様子などが織り込まれている。

この年の11月3日、明治神宮の遷座十年記念祭に招かれて「秩父豊年踊り」の名で奉納され、全国の注目を浴びた。翌日には愛宕山にあったNHK放送曲から全国放送された。

明治神宮には、男21、女10の31人が参加、男性は花笠を背にして踊ったという。

1933(昭和8)年、帯広市で開催された全国レクリエーション大会に「秩父音頭」として出場して1位、1950(昭和25)年の全国レクリエーション大会で民謡部門優秀1位に選ばれた。群馬の「八木節」、栃木の「日光和楽踊り」とともに、関東三大民謡の一つに数えられている。

秩父音頭の生みの親、金子元春の銅像は、桜で有名な美の山公園の山頂近くにある。

俳誌「馬酔木(あせび)」の同人で、皆野町の俳句会の主宰者だった元春は

♪ 秋蚕仕舞うて 麦蒔き終えて 秩父夜祭 待つばかり・・・♪
♪ 花の長瀞 あの岩畳 誰を待つやら おぼろ月・・・♪
♪ 炭の俵を 焼く手にひびが きれりゃ雁坂 雪かぶる・・・♪
♪ 一目千本 万本咲いて 霞む美の山 花の山・・・♪

を秩父音頭の歌詞に残している。

四番目の一目千本は、元春の最後の作品で、銅像の隣の歌碑に刻まれている。

歌い出しの ♪ 鳥も渡るか・・・♪ は別人の作である。このように何度も募集され、何番もある歌詞は合作になっていて、特に歌う順番は決まっていない。


水天宮祭 寄居町

2013年08月06日 17時09分53秒 | 祭・催し


人口3万5千人の寄居町にとって、13年は記念すべき年になった。

日本の自動車工場の海外移転が相次いでいる中で、ホンダの埼玉製作所寄居工場が、新工場建設表明から約7年を経て、四輪車の生産を始めたからだ。

東京ドーム約20個分に相当する敷地で、従業員約2千人。年産最高25万台。地元の寄せる期待は大きい。

例年8月の第1土曜日に「関東一」を自称する水天宮祭(花火大会)が開かれるので、3日の土曜日、東武東上線の終点・寄居駅に降り立つと、さっそくホンダにお目にかかった。

ホンダは今年5月、英国のレーシング・チーム「マクラーレン」にエンジンを供給する形で15年からF1(フォーミュラ1)に復帰すると発表した。

フォーミュラは英語で「規定」という意味。排気量、タイヤ、車体重量などの細かな規定にのっとり、一人乗りのマシンで競う世界最高の自動車レースである。

1980年代後半から90年代初期、ホンダのエンジンを搭載した「マクラーレン・ホンダ」には、“音速の貴公子”と呼ばれた「史上最高のF1ドライバー」アイルトン・セナ(ブラジル人)が乗り、3度F1ワールドチャンピオンを獲得、ファンを湧かせた。

セナは別なチームに移籍、94年サンマリノグランプリで事故で落命した。ブラジルは国葬で彼の死を悼んだ。

そのセナが乗った「マクラーレン・ホンダMP4/5」など2台が、駅近くの駐車場でコンパニオン付きで特別展示されていて、「ホンダが寄居に来た」ことを印象づけていた。

埼玉県産のホンダカー「新型FIT」は9月にデビューした。

祭の開会挨拶で島田誠町長もホンダが来たことを強調した
「寄居玉淀水天宮祭」の会場になる玉淀河原はゆかた姿の市民らで埋まっていた。4月第2日曜日に催される「寄居北条まつり」を上回る人出だ。

日本百名城の一つ、鉢形城址の断崖直下の「玉淀」と名づけられた、長瀞の下流の美しい荒川の河原に、地元の五つの町会の、ぼんぼりや提灯で飾った五台の舟山車が並ぶ。(写真)

夜7時、辺りが暗くなると、後ろの城山から次々打ち上げ花火が上がる。城山の仕掛け花火に火がつくころには祭りは最高潮を迎える。

なにしろ、田山花袋も絶賛した県の「史跡天然記念物・玉淀」で行われるのだから、舞台装置としては申し分はない。

川風でも吹けば最高と思ったが、あいにく風はなく、しきりにウチワを使う姿が目立った。

始まったのは1931(昭和6)年と新しい。この年、この景勝地が「玉淀」と命名されたので、何かお祭でもと考えていたところ、川沿いに漁師たちが水難除けの水神様として祭っている石の洞が見つかった。

そこに水天宮を祀り、社も寄付され、祭が始まったのだった。

市長の挨拶によると、町では11月16日(土)に金尾山県有林で、「第37回全国育樹祭」が皇太子夫妻が出席して開かれる。

寄居町では、「一年中桜に出会える町」づくりを目指して、実行委員会が中心になって08年から開花時期が違う桜を全域に植えている。

目標は300品種1万本。13年8月までに95か所に105品種2150本を植えたという。約60品種は花が楽しめるほど成長、「桜マップ」も作られた。全部植わったら、町中が”桜の植物園”になるだろう。

落城した鉢形城の城主だった北条氏邦の墓がある正龍寺には、落城後、加賀で没したのにちなんで、300以上の花びらがあるので有名な「兼六園菊桜」、「君恋し」の作曲家・佐々紅華の旧邸の料亭旅館には、八重咲きで濃紅色、開花期が長い「紅華」を植える、といった具合に場所にあわせて品種を選んでいる。


寄居北条まつりと佐々紅華 寄居町

2013年05月17日 11時31分25秒 | 祭・催し
寄居北条まつりと佐々紅華 寄居町


寄居町にある「玉淀河原」の「玉淀」とは、「玉のように美しい水の淀み(よどみ)」という意味だ。

「玉淀河原」は、戦国期の平山城で、関東屈指の名城といわれた「鉢形城」の本丸下にある荒川の河原。明治の小説家・田山花袋がその景観を絶賛したことで知られる。「ひらやまじろ」と読み、平地にある丘陵を利用して作った城である。

「鉢形城」は1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家を総大将とする上杉景勝、真田昌幸らの豊臣勢3万5千に包囲された。城に籠もった城主・北條氏邦はわずか3500の兵力で1か月持ちこたえた後、開城した。

この戦いを再現する「寄居北条まつり」は13年5月12日、第52回を迎えた。

この籠城戦に加わった北條家の遺臣の子孫らが供養祭をしたのが始まり。武者のパレードや合戦が始まったのは30年前からという。

五月晴れに恵まれたこの日、当時の武者姿に扮した約500人が、市街地をパレードした後、両軍に分かれ、河原で轟音とともに大筒(大砲)を交えた攻防戦(写真)や、大将同士や武者同士の一騎打ちを展開した。

北条ゆかりの小田原、相模原、八王子市などから甲冑隊の“援軍”に加え、地元の外人部隊や小学生の幟もあり、女性武者の姿もちらほら。

会場には「北條五代を大河ドラマに」という幟も見られた。

♪ 宵闇せまれば悩みは涯(はて)なし みだれる心にうつるは誰が影 ♪
(作詞 時雨音羽) 

低音歌手フランク永井がリバイバルさせた「君恋し」が、ジャズと日本情緒を融合させた寄居ゆかりの作曲家・佐々紅華(さっさ・こうか)がつくったことを知る者は、年々少なくなってきた。

1961年の第3回レコード大賞を受けたこの曲は、1929年にジャズ歌手で、レコード歌手第一号と言われた二村定一が歌ってヒットさせたものだった。

河原に至る道筋に、紅華の別荘跡の割烹旅館「京亭」がある。一度訪ねてみたいと思っていたところだ。運よくこの日、「第2回佐々紅華展」と「君恋し音楽会」が開かれていて、一石二鳥の喜びだった。

紅華は1886年、東京根岸生まれ。蔵前工業高校(現・東京工大)の工業図案科を卒業した。

小学生の頃から音楽好きで、オーケストラでピアノ、一流の芸者の前で三味線を弾くといったたいへんな器用人。浅草オペラに入り、浅草オペレッタの創始者の一人になった。

二村とは浅草オペラで知り合い、二村が「君恋し」を歌うのは当然の成り行きだった。

このほか、昭和初期に作曲した「祇園小唄」や「浪花小唄」「唐人お吉小唄」(いずれも歌は藤本二三吉)などが大流行した。

♪ 月はおぼろに東山 霞(かす)む夜毎(よごと)のかがり火に ♪

と始まる「祇園小唄」」は、それこそ一世を風靡した。 

夫人のいゑさんが寄居の出身。紅華は玉淀河原に臨むこの地が気に入って、自分が設計した見事な数寄屋造りの高級料理旅館を「京亭」と名づけて、夫人に経営させ、1932年から亡くなる61年まで住んだ。


「京亭」の建築費は、1930年に時雨音羽と共に、日本ビクターから日本コロンビアに移籍した際の契約金でまかなわれた。

「京亭」の中では、紅華の愛用のピアノが70年ぶりに公開展示された。18世紀創業の英国最古のピアノメーカーのもので、同社のピアノはベートーベンらも愛用したものだという。

12日は、「京亭」の美しい庭園で、声楽家、女性ジャズボーカル、女性邦楽ユニットによる「君恋し」が披露されて、昔をしのんだ。

「まちかど雛めぐり」 さいたま市岩槻区

2013年02月26日 13時35分40秒 | 祭・催し

「まちかど雛めぐり」 さいたま市岩槻区

厳しい寒さに震えながら、12年ももう3月。ひな祭りのシーズンである。生産量・額とも日本一の人形の町、さいたま市岩槻区で「まちかど雛めぐり」(第9回)が開かれた。

♪お内裏さまと おひなさま 二人ならんで・・・♪を口ずさみながら、寒さがいくぶん和らいだ日に訪ねた。

神社やコミュニティセンターなど12か所の特別展示場のほか、人形店、飲食店、銀行など86の店で人形を展示したという。

雛めぐりには何度か来ているので、まっすぐ「お人形歴史館」に向かった。駅からちょっと遠いが、人形師でもある福田東久館長が、60年以上かけて集めたひな人形約4千体のうち2300体余飾られている。

最近各地で、全国に呼びかけて集めた、古いひな人形の数や飾る段数の高さを誇る展示が目立つ。ここのは量より質である。

圧巻は、館に1千体あるという「かみしも(裃)雛)」だ。館では「岩槻元祖かみしも一千体雛」と呼んでいる。約500体が展示されている。

幕末に岩槻・久保宿に住んでいた人形師橋本重兵衛が考案したと伝えられる岩槻の伝統工芸品で、かみしもを着ていて、目が大きく童顔なのが特徴。

かみしもを着ているのだから男の子である。衣装の赤色は魔除け。女の子が成長して、こんな裃を着るような立派な男性と結婚できるようにという願いを込めて、贈られた。

内裏雛と違って、男雛、女雛一対ではなく、一体でも飾る。冠や杓など持ち物はない。

岩槻人形が知られるようになったのは、江戸末期の文化・文政期。このかみしも雛によるところが多い。

着物に綿を使ったので、西陣などを使ったものより安く、明治、大正時代に関東中心に流行、埼玉、群馬県に多く残っているという。

珍しいのは、一対(二体)ある寛永年間に作られた「寛永雛」である。日本最古の座り雛とされ、国内に5体ほどしかないといわれる。

雛人形の源流ともいえるものだが、その小ささに驚く。女雛は両腕を開いた姿ながら、両手先がついておらず、着ている衣服も小袖に袴の略装で、男雛に比べ見劣りする。

「寛永雛」に続いて年代順に、女雛に両手先がついて、衣服も十二単衣になる「元禄雛」、面長で大型、豪奢、「贅沢すぎる」と幕府から取締りをしばしば受けた「享保雛」、丸顔の「次郎左衛門雛」、宮中の装束を忠実に再現した「有職(ゆうそく)雛」、面長で現在の雛人形につながる「古今雛」・・・と、岩槻の「雛めぐり」はその変遷を眺めているだけで楽しい。

段飾りも年代とともに豪華で段数も増えていくことが分かる。

岩槻の人形作りは、日光東照宮の造営とかかわりがある。寛永年間、三代将軍家光が造営のため全国から集めた工匠の中で、日光御成街道の宿場町だった岩槻に住み着いた者も多かった。数多く生えていた桐を使ってタンスなどの製品を作ったり、その際に出る桐の粉を糊で固めて人形作りをはじめた者もいた。

元禄年間、京都の仏師恵信が、桐のおが屑と正麩糊(しょうふのり)を使って、土製の人形より軽い人形づくりを伝えたともいわれる。

それが旅のお土産として人気が出て、岩槻藩の専売品に指定され、現在のような産地に成長した。

岩槻では3月3日に「おひな様パレード」、4月29日には「流しびな」、7~8月には「人形のまち岩槻まつり」、11月3日には「人形供養祭」が行われる。

江戸時代は徳川の譜代大名が城主として統治、埼玉県の初の県庁が置かれたこともある。05年、さいたま市と合併、区になった。

昔の日光御成街道沿いの城下町らしい町である。

17年の雛めぐりには、土、日曜日に東武野田線岩槻駅近くの愛宕神社の27段の階段に、家庭で使わなくなった人形約300体を並べた「大ひな段飾り」がお目見えした。

県内では、この市のほか鴻巣、越谷や所沢市でもひな人形や節句人形が作られていて、10年の出荷額は全国首位、シェアも約5割と圧倒的だ。



 


雛めぐりサミット さいたま市岩槻区

2013年02月25日 16時39分14秒 | 祭・催し


3月が近づくと、「人形のまち」として日本一名高い岩槻は、雛人形一色になる。

13年2月23日から3月17日まで恒例の「まちかど雛めぐり」が始まった。その10回目を記念して、24日(日)には市民会館いわつきで「第1回全国雛めぐりサミット」が開かれた。

日本は、世界に冠たる人形王国なのだそうだ。その中で「人形王国埼玉県」の雛人形・節句人形の出荷額は、全国で50%超のシェアを誇り、日本一なのに、バブル崩壊以降、ざっと三分の一に落ち込んだ。岩槻も例にもれない。

まちかど雛めぐりが始まったのも、さいたま市への合併で「岩槻」の名が忘れられないようにとの願いが込められていた。このサミットも同じ狙いである。

雛めぐりで、「まちおこし」を推進しようとしている全国の市や町から10団体が参加、それぞれの取り組み方や体験を発表した。

2月2日から3月3日までの、「せともののまち」愛知県瀬戸市の「瀬戸のお雛めぐり」は、今年で12回目。伝統的な雛より、お手のものの陶磁器やガラスで作った独創的なお雛さまを、“街角ギャラリー”38軒などに展示している。

メイン会場の「瀬戸蔵」には、ピラミッド型の「ひなミッド」(高さ4m11段)に、約1千体の創作雛が並び、瀬戸蔵のらせん階段を使って、さまざまな角度から楽しめる。「ひなミッド」は、地元の方言を模して「まるっと(まるごと)ひな壇かざり」の別名も持つ。

ディズニーが「オズ誕生」の物語を映画化、3月8日全世界で同時公開されるのを記念して、「オズ陶雛人形」を「ひなミッド」に特別展示した。

38店舗では、「お雛ランチやスイーツ」の特別メニューがある。週末には、「陶磁器のお雛さまつくり」を体験できる場所もある。

このようなアイデアのおかげで昨年は9万2千人が訪れた。

伝統的な紀州漆器の技法を使って作られた「紀州雛」を、全国にPRしようと始めた和歌山県海南市の「紀州海南ひなめぐり」(今年で3回目)は、海南市が日用家庭用品の国内最大の産地で8割のシェアを占めることから、その製品や技術を、雛人形を媒体にして全国PRすることも狙っている。

日用家庭用品のスポンジやタワシ、ホウキを利用した変わり雛もあって見ていて楽しい。

もちろん、伝統的な雛をみせる元城下町や紅花の産地もある。

鍋島35万7千石の城下町佐賀市に、春を告げるのが佐賀城下ひなまつり。鍋島家の博物館「徴古館」では侯爵鍋島家の歴代夫人所用の雛人形・雛道具による大ひな壇飾りが展示される。宮家と華族に縁のある鍋島家なので、豪華さと格式の高さに目を見張る。

佐賀市歴史民俗館や旧家では、佐賀に残る伝統工芸、手織り佐賀錦や鍋島小紋をまとったお雛さまも見られる。

新潟県最北の城下町村上市では、約80軒の「町屋」が、家々に受け継がれてきた雛人形を見せる「町屋の人形さま巡り」が約1か月開かれる。村上町屋商人(あきんど)会の主催で、今年で14回目。

「おらっこの人形さま」を見てもらうというわけで、「人形」ではなく、「人形さま」と敬称つきで呼ぶのがミソ。町屋の家の中のたたずまいも含め、五月人形なども一緒に4000体余の人形が見られる。

山形県の中央部にある河北町は、紅花の生産で知られ、全国で唯一「紅花資料館」がある所。高価で取り引きされた紅花の財力をバックに、谷地地区では、天正時代(1573~91年)から、「節句市」「ひな市」が開かれていた。

河北町が「ひなまつり発祥の地」を自認するゆえんである。上方からの時代雛も多数残っていて、紅花資料館では1月中旬から、旧家の5か所でも4月2~3日の「谷地ひなまつり」で、時代雛が特別公開される。

お雛さまは、見に来るのではなく、「会いに来る」という言葉が使われているという。「人形さま」同様、長い雛人形文化の一端をしのばせる。

このほか、奈良県高取町の「町屋の雛めぐり」、宮城県塩竃市の「塩竃deひなめぐり」、群馬県みなかみ町の「たくみの里 つるし雛・ひなめぐり」、埼玉県の「飯能ひな飾り展」の代表が参加、しんがりは「人形のまち岩槻まちかど雛めぐり」が務めた。

最後に、①雛めぐり・ひな祭りネットワークの創造②住む人も訪れる人も癒しの空間を提案できるまちづくり③人形文化による「まちおこし」の推進――を目指すという「岩槻宣言」が採択された。

作って売るだけでなく、多くの人が訪れたくなるような人形文化を、各地の経験を基にどう定着させていくかが、今後の岩槻の課題になるだろう。





浦和おどりで「よろよろ」踊る

2012年11月03日 17時53分49秒 | 祭・催し
浦和踊りで“よろよろ”踊る      

どういう風の吹き回しか、12年7月15日(日)の浦和踊りで踊るハメになった。

はげ頭。白髪が脇にだけは生えている。はげ隠しの帽子は必需品で、室内でもかぶっていることが多い。背は低く、手はかがんでも地に着かないほど短く、足はさらに短い。お腹だけは出ている。

こんなメガネの後期高齢老人が、36回もの歴史ある踊りの列に加わってもいいものだろうか。

密かに待っていた「梅雨の最後雨」も降らなかったので、実際に踊ったのだから驚きだ。猛暑の予想を裏切って、午後5時過ぎ、踊る時間には快い風さえ吹き、最高の踊り日和になった。

わがさいたま市のシニアユニバーシティ北浦和校第10期10班は、今や男性3、女性4のわずか7人ながら、大学院卒業生でつくる校友会の男女の副会長が二人もいる“大班”だ。

女性の副会長さんは、楽譜も読める経験の持ち主。浦和踊りなど朝飯前。各班二人の割り当てだから、「男性も一人」と物好きな私にお鉢が回ってきたのだろう。

6月22日、初めて皆が集まった。校友会の踊り手は第3期から第11期(まだ大学院)までの105人。第10期からは踊り手は男女合わせて14人。

女性が多いのは当然ながら、男性も4人。北浦和10期の校友会の会長さん、各班の班長さんと肩書きで無理やり“人身御供”にされたような方が多い。「無役御免」は私だけ。

男性連は踊りなどほとんど初めて。それは私も同じだ。

愚妻方の三姉妹の、存命の二賢夫も同じ酒好き。一年に一度車好きの義弟の運転で全国各地を車や時にはレンタカーで回る。一夜の座興でお座敷で「安来節」も「阿波踊り」も習った。

ハンドルさばきが玄人はだしの義弟の踊りのうまさに比べ、「よろよろ」「ゆらゆら」とついていく運動神経皆無の私の下手振りー。その対照がおかしいと、いつも爆笑、という酒の最高の肴になる。

この浦和踊りの男性軍、最初は愚痴が多かったのに、やがて皆が豹変し始めた。

著しいのは会長さんである。練習の打ち上げ会で聞くと、会社時代、全国大会にも出場した合唱団で奥さんにめぐり合ったとのこと。もともと音感がある人なのだろう。

全6回の練習を待たず、あっという間に上達された。聞けば、寝ていてフトンの中でも手足を動かし、夢にまで踊りを見たとか。「ハマッテしまった」のだ。

あまりにも楽しそうに踊られるので、後ろのほうでピノキオよろしく、ぎこちなく動いている私にはまばゆいばかりの存在だった。

すっかり浦和踊りのファンになられた会長さんは、「校友会の例会では、皆で浦和踊りをやろう」と提唱されている。

ご承知のとおり浦和踊りは、都はるみが歌っている。美空ひばりなき後の演歌歌手の中で、私が一番好きな「はるみチャーン」なのだ。曲は、はるみを世に出したあの市川昭介である。

クラッシク以外で、演歌をわざわざ会場に聞きに行ったのはこの人だけだ。

カラオケもない深夜の暗い酒場ではるみの歌を、何度歌ったことだろう。一緒に歌った何人かはすでに他界した。

この踊り、わずか400mを、4、50分で踊るのだからと、タカをくくっていた。ところが、半分ぐらい過ぎると疲れて足ももつれ、「よろよろ」してくる。

後ろの女性の厳しい叱咤の声も何度も聞こえ、まるで針のむしろだ。

それでも倒れもせず、完歩ならぬ“完踊”したのだから、後でみんなで飲んだ酒は実にうまかった。


 恥を覚悟はるみを踊るよき日かな
 
 立っているの踊っているのと孫が聞く 柳三

浦和おどりと都はるみ

2012年09月14日 06時40分36秒 | 祭・催し
浦和おどりと都はるみ

美空ひばりなき後、「一番の演歌歌手は?」と聞かれたら、ためらいも恥ずかしさもなく都はるみと答える。

好奇心だけは人一倍旺盛なので、夏の浦和おどりには毎年見物に出かける。いつも気になっていたのだが、歌詞も曲も歌もなかなかよく出来ていて、一度聞けば、覚えてしまうほどだ。

どこかで聞いた声だと、潜在意識下で思ってはいたが、歩き仲間の女性が「あの歌は、都はるみのよ」と教えてくれた。「えっ、ほんと」と、いつもの図書館に駆け込んだ。

浦和市史や浦和おどりの資料をめくってみると、浦和おどりの歌は、昭和51(1976)年、昭和を西暦に直すには25を足せばいいのだと図書館のレフェレンスの担当者に教わった。10月1日に浦和市観光協会が制定、都はるみと大川栄策が、コロムビア合唱団とコロムビア・オーケストラをバックに歌っている。

♪ ハァ 花のつぼみに 心もなごむ 春は荒川 田島ヶ原に 咲いてやさしい さくら草 ♪

で始まり、5番まで。荒川沿いの田島ヶ原には野生のさくら草の自生地があり、さくら草は浦和の花になっていた。現在はさいたま市の花だ。

作曲は故市川昭介氏。はるみを国民歌手にした「涙の連絡船」「好きになった人」「大阪しぐれ」、大川栄策の「さざんかの宿」も氏の作曲。三人そろい踏みというわけで受けないはずがない。

歌詞は市民から公募、216編の応募の中から海老川充江さんのが選ばれた。当時の市長、中川健吉氏は浦和の祭りを推進し、「お祭り市長」と称された人だが、その遺産である。





浦和よさこい

2012年09月13日 19時01分27秒 | 祭・催し
浦和よさこい

徳島市の阿波踊りに対抗して高知市で始まったよさこいは、全国的な広がりを見せている。派手で特異な衣装を着こみ、大きな旗を打ち振り、民謡的な踊りとは違うダイナミックな動きを見せる集団の踊り、よさこいは主に若者に支持されて、伝統的な祭りにも進出してきた。

浦和おどりとみこしパレードをメーンとする浦和まつりは、10年で30回を迎えた。この二つは旧浦和市の目抜き通りの旧中山道で催されるのに対し、団地で知られた南浦和の駅の東西の通りを会場にして、浦和よさこいが第7回目を迎えた。

浦和おどりに1日付き合ったのだから、よさこいも見ておこうと朝から南浦和駅前に出かけた。浦和おどりは7月18日の日曜日、みこしパレードとよさこいは1週間後の25日。よさこいは朝から始まる。毎週、朝からまつり見物だ。

25日は、朝からの猛暑続きで、午前中から南浦和図書館の入口には、「光化学スモッグ発令中」の看板が立っていた。朝のニュースや新聞では、「埼玉県では熱中症で全国最多の死者が出た」というニュースが流れているのに、お祭り好きはいるもので、歩道の箱に無造作に積んであるうちわをせわしなく使いながら多くの人が詰めかけた。

小さな子供が多い埼玉市では小学校が多い。浦和おどり同様、まず小学校の金管パレード。最後尾に白い巨大なホルンのような楽器を持つ小学校もある。小学生では一人で担げないので、先生と二人がかりだ。先生が後ろを支え、吹くのは小学生だ。

浦和おどりの時も、「何という楽器だろう」と気になっていたので、先生に聞いてみたら、「スーザフォン」と言い、「スーザはいろんな行進曲をつくった米国人です」とのこと。40万円もするとか。

パレードを見ているうちに、よさこい連が到着する。浦和おどりと違って、厚手の立派な衣装なので、踊り手に「暑いでしょうね」と同情の声をかける半ズボンで軽装の見物人もいる。

若い人ばかりかと思っていたら、中年のおじさんやおばさんも混じっており、おばさんたちが主のグループもあった。小さな子供も後ろからついて行く。お母さんに連れられて参加しているのだろう。

浦和おどりが単調な所作の繰り返しなのに対し、よさこいは振付が自由で大胆なところが魅力なのだろう。浦和おどりは、埼玉市民中心だが、よさこいには東京の池袋や中目黒、県内では坂戸や所沢、越谷、お隣の朝霞、県北の熊谷と外来組の方が多そうだ。

主催者によると、昨年の35が7チーム多い42チーム(約1700人)に増えた。浦和おどりの連がちょっと減ったと話していたのと対照的だった。東口の会場が終わると、西口の会場に移動(その逆も)、夕方まで踊りに踊った。

「よさこい」はもともと「夜さ来い」が語源だという。それを白昼に猛暑の中、厚い衣装で楽しそうに踊りまくる人々を見て、老人としては羨望の念を禁じえなかった。