ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

「植木の里 安行」 お寺めぐり 川口市

2012年09月28日 15時28分19秒 | 寺社


安行のお寺めぐりは、安行の地名や植木の開祖にゆかりのある「金剛寺」から始めた。

この寺には開祖の墓や記念碑のほか、小さいけれど趣が深い茅葺の山門がある。江戸初期にできたもので、川口市内でも最古の部類に属する。山門に向かって左手には樹齢400~500年とされるキャラボクが威容を誇っている。

金剛寺は「お灸の寺」としても知られる。幕末にこの寺の第19世住職海牛禅師が始めた「弘法の灸」で、今でもお灸をすえてもらいに訪れる人が多い。

お灸はまだ経験がないので、一度このような寺ですえて欲しいと思っている。季節には川口で一番長いという参道の紅葉も美しい。

次に金剛寺に近い、川口市で最古という「宝厳院(慈林薬師)」を訪ねた。本堂はコンクリート製に改築されているので堂々としている。

安行原の「密蔵院」は、約30本の早咲きの安行桜で有名。ソメイヨシノより早く咲き、花期も長い。花びらはソメイヨシノより小ぶりで、ピンクが濃い。

ここの山門は、薩摩藩島津家の江戸屋敷の門を移築したもので、その山門の前を中心に各所に咲き、シーズンには多くの人でにぎわう。

安行桜は、「沖田桜」とも呼ばれる。昭和20年初頭、この桜を安行で見つけて育てた沖田雄司氏の名にちなんでいる。

密蔵院のホームページ上の沖田氏とのインタビューによると、この桜は、ソメイヨシノより1週間から10日開花するのに、花期が長いので、ソメイヨシノと一緒に見られる。

「安行大寒桜」と呼ぶ人もいるが、「安行緋寒桜」の名で桜図鑑に掲載されたという。

桜にありがちな「天狗巣病」になりにくく、枯れ枝にならない。桜は切り口から腐りやすいので、「桜切るバカ、梅切らぬバカ」と言われているのに、この桜はいくら切ってもかまわない、というから面白い。

桜の時期には、日本全国ソメイヨシノ一色で、一斉に咲き、一斉に散る。この桜の画一ぶりにうんざりしているので、こんな一風変わった桜が安行にあるのは非常にうれしい。

本堂手前には四国88か所霊場の砂を埋めた砂踏参道があり、88か所巡礼のご利益があるとされる。庭園には、ヒイラギ(樹齢300年)やツゲ(同500年)などの古木もある。

最も親しまれている、四季の花が美しい「花の寺」興禅院ももちろん訪ねた。「野鳥の森」「ふるさとの森」で、「紅葉の森」としても知られる。

12月上旬にはこの院の山全体が紅葉で赤く染まる。参道にスダジイの大木が何本かそびえ立ち、境内に茂る木々が「野鳥の森」だ。

裏の雑木林の斜面林のふもとには、湧水がある。350年前にできた弁財天が祭られ、木道沿いに十三石仏が散在する。初夏はアジサイ、秋の彼岸にはマンジュシャゲが咲き、素晴らしい湿地の散歩道だ。

本堂左の墓地のスダジイの大木の根元にお地蔵様が抱えられているように見えるのも可愛い。

最後は、埼玉高速鉄道の戸塚安行駅に近い西福(さいふく)寺を訪ねた。ここには美しい三重塔があり、三代将軍の長女千代姫が奉建した。高さ23m、埼玉県では一番高い木造建築だ(写真)。

西立野にあるこの寺には西国(33か所)、坂東(33か所)、秩父(34か所)の百札所の観音像を納めてある百観音堂がある。

ここを参詣すれば、100の観音霊場を回っただけの功徳があるわけだから、江戸から近いこともあって、江戸時代からにぎわった。


























「安行桜」 川口市

2012年09月27日 06時15分13秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

安行はもう花盛りだった。前日に続いてめっきり春めいた10年3月14日(日)の植木の里、川口市安行。梅ではない。れっきとして桜である。あまり知られていないものの、県内一早咲きの「安行桜」が七分咲きで盛りを迎えようとしていた。

安行桜は、「安行寒桜」(大=おお=寒桜)ともいい、地元の沖田雄司氏が見つけて育てたもので「沖田桜」とも呼ばれる。普通の寒桜より花弁が大きく赤みを帯びていてあでやか、開花期は長い。染井吉野よりも早く咲く。

その中心地が60年前から植えている真言宗豊山派の古刹「密蔵院」。広大な境内や参道沿いにある約50本はあり、これを知る地元の人たちでにぎわっていた。

ヒヨドリが喜んで大挙して蜜を吸いに来ている。小さいのもいるので、望遠レンズ付きのカメラを構えている人に確かめたら、「メジロじゃない。確かにヒヨドリの子供だ」とのことだった。

日本の桜は、染井吉野一辺倒なので、こんな桜があるのはうれしい。知ったのは数年前で見に来たこともあるが、盛りに近いのを見たのは初めてだった。

ママチャリでの帰途、安行原の県道103号線(埼玉県花と緑の振興センターの前を通る)沿いの畑の中に、河津桜より遅いが、安行寒桜より早咲きの新種「谷古田(やこだ)桜」8本が満開になっているのを見た。まだ3mぐらいだが、その名は江戸時代にこの一帯が「谷古田」と呼ばれていたからだという。

朝日新聞の埼玉版で大きく伝えられているもので、桜研究家でもある「県花と緑振興センター」の関根家松所長が15年ほど前、地元で見つけ、植木業者の中山謙二郎さんと共同研究を進めている。農林水産省に品種登録申請を予定している。

花は下向きで、濃紅、沖縄の緋寒桜にそっくり。申請から認定まで通常2年ほどかかるとのことだが、安行から新しい桜が発信されるのが楽しみだ。

安行ではこの時期、桜の他、レンギョウやユキヤナギ、ヒュウガミズキなどの春の花が一斉に開こうとしており、ギンヨウアカシアは満開。見物の客も増えている。




「植木の里 安行」 金剛寺 川口市

2012年09月26日 14時17分46秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
「植木の里 安行」 金剛寺 川口市

国内有数の植木産地で、「植木の里」で知られる川口市の安行には、これまで何度も植物観賞で出かけた。

12年9月24日、ちょっと趣向を変えて自転車で安行のお寺めぐりを試みた。これまで訪ねた寺がほとんどだったが、その由緒を説明板で読んで、自称「寺社奉行」も十分に満足した。

突然、信仰心が目覚めたわけではない。22、23の両日、「第5回きらり川口ツーデーマーチ」があり、これに参加したのがきっかけだった。

22日は小雨が降ったものの、日光御成道ルート20kmコースに参加して、23日の安行ルートを楽しみにしていた。

ところが、朝から隣のさいたま市に大雨注意報が出るほどの大雨で、二日目の参加はあきらめた。

「この雨の中1029人が歩いた」と共催の翌日の朝日新聞には書いてあった。ウオーキング愛好者は、かなりの雨にもへこたれないらしい。「雨天決行」の意味がよく分かった。

皮肉なもので、24日は朝から好天。おまけにあの長く暑い夏も突然終わって、秋の気候に変わっていた。「暑さ、寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。

この好天に出かけない手はないと、ママチャリでお寺参りに出かけたというわけである。

まず目指したのは、安行の地名の発祥地として知られる金剛寺。室町時代の1496年、当時この地方を支配していた豪族中田安斎入道安行(やすゆき)により開創された。

安行(あんぎょう)の地名は、この入道の名にちなむ。群雄割拠の戦乱の世にあって自分の殺傷を悔い改め、禅僧に会ったのがきっかけで仏門に入った。寺名は帰依していた金剛経にあやかった。

金剛寺には、もう一つ、安行にゆかりの深いものがある。

「安行植木の開祖」吉田権之丞の墓と記念碑である。

権之丞は若い時から草花や盆栽に興味を抱き、苗木、植木を栽培、安行村の名主役も務めていた。

江戸で有名な「明暦の大火」(通称振袖火事)が起きたのは、1657(明暦3)年である。

天守閣を含む江戸城本丸が消失、江戸の6割が焼け、10万人以上の焼死者を出した。日本史上最大の大火災で、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つにも数えられる。

その復興のために必要になったのが、植木である。

江戸の巣鴨や駒込の植木商人を通じて、切り花や植木を取り引きしていた権之丞に、注文が殺到したのは当然だった。

権之丞に刺激されて、村人も苗木作りを始めた。明暦の大火で「植木の里安行」の第一歩が築かれたようだ。

権之丞は「花屋」と呼ばれ、今でも子孫は「花屋」の屋号を使っているという。

金剛寺の墓の中ほどにある権之丞の墓は小さい。説明板がなければ、気がつかないほどだ。

これと対照的に寺の境内に「安行植木の開祖 吉田権之丞翁記念碑」という堂々とした石碑が、没後300年を記念して建てられている(写真)。

川口市史によれば、幕末の頃、安行で植木業を営んでいたのは、吉田家など十余戸で、本格的な展開を見せたのは日露戦争前後だった。

果樹の苗木や江戸時代から出荷されていた、「赤山物」とか「赤山切り花」として知られた観賞用の切花類も著しく発展した。

1930(昭和5)年頃には、栽培戸数千数百戸、面積300haに達し、日本最大の植木産地になっていた。

安行がこれほど植木の里として発展したのは、土壌の赤土(関東ローム層)が樹木の栽培に適しているうえ、台地が起伏に富むことから、地下水の流れがよく、台地、傾斜地、低湿地が交錯、日当たりを好む木から日陰を好む木まで、いろいろな樹木を育てられることが挙げられる。

日本列島の中央部にあることから、寒い地方、暖かい地方、さらには亜熱帯の木も育ち、多種類の木や苗の生育に適している利点もある。

この台地の起伏は自転車で走るとよく分かる。大消費地東京に隣接し、地形と風土に恵まれたのが最大の要因だった。

浦和おどりと都はるみ

2012年09月14日 06時40分36秒 | 祭・催し
浦和おどりと都はるみ

美空ひばりなき後、「一番の演歌歌手は?」と聞かれたら、ためらいも恥ずかしさもなく都はるみと答える。

好奇心だけは人一倍旺盛なので、夏の浦和おどりには毎年見物に出かける。いつも気になっていたのだが、歌詞も曲も歌もなかなかよく出来ていて、一度聞けば、覚えてしまうほどだ。

どこかで聞いた声だと、潜在意識下で思ってはいたが、歩き仲間の女性が「あの歌は、都はるみのよ」と教えてくれた。「えっ、ほんと」と、いつもの図書館に駆け込んだ。

浦和市史や浦和おどりの資料をめくってみると、浦和おどりの歌は、昭和51(1976)年、昭和を西暦に直すには25を足せばいいのだと図書館のレフェレンスの担当者に教わった。10月1日に浦和市観光協会が制定、都はるみと大川栄策が、コロムビア合唱団とコロムビア・オーケストラをバックに歌っている。

♪ ハァ 花のつぼみに 心もなごむ 春は荒川 田島ヶ原に 咲いてやさしい さくら草 ♪

で始まり、5番まで。荒川沿いの田島ヶ原には野生のさくら草の自生地があり、さくら草は浦和の花になっていた。現在はさいたま市の花だ。

作曲は故市川昭介氏。はるみを国民歌手にした「涙の連絡船」「好きになった人」「大阪しぐれ」、大川栄策の「さざんかの宿」も氏の作曲。三人そろい踏みというわけで受けないはずがない。

歌詞は市民から公募、216編の応募の中から海老川充江さんのが選ばれた。当時の市長、中川健吉氏は浦和の祭りを推進し、「お祭り市長」と称された人だが、その遺産である。





浦和よさこい

2012年09月13日 19時01分27秒 | 祭・催し
浦和よさこい

徳島市の阿波踊りに対抗して高知市で始まったよさこいは、全国的な広がりを見せている。派手で特異な衣装を着こみ、大きな旗を打ち振り、民謡的な踊りとは違うダイナミックな動きを見せる集団の踊り、よさこいは主に若者に支持されて、伝統的な祭りにも進出してきた。

浦和おどりとみこしパレードをメーンとする浦和まつりは、10年で30回を迎えた。この二つは旧浦和市の目抜き通りの旧中山道で催されるのに対し、団地で知られた南浦和の駅の東西の通りを会場にして、浦和よさこいが第7回目を迎えた。

浦和おどりに1日付き合ったのだから、よさこいも見ておこうと朝から南浦和駅前に出かけた。浦和おどりは7月18日の日曜日、みこしパレードとよさこいは1週間後の25日。よさこいは朝から始まる。毎週、朝からまつり見物だ。

25日は、朝からの猛暑続きで、午前中から南浦和図書館の入口には、「光化学スモッグ発令中」の看板が立っていた。朝のニュースや新聞では、「埼玉県では熱中症で全国最多の死者が出た」というニュースが流れているのに、お祭り好きはいるもので、歩道の箱に無造作に積んであるうちわをせわしなく使いながら多くの人が詰めかけた。

小さな子供が多い埼玉市では小学校が多い。浦和おどり同様、まず小学校の金管パレード。最後尾に白い巨大なホルンのような楽器を持つ小学校もある。小学生では一人で担げないので、先生と二人がかりだ。先生が後ろを支え、吹くのは小学生だ。

浦和おどりの時も、「何という楽器だろう」と気になっていたので、先生に聞いてみたら、「スーザフォン」と言い、「スーザはいろんな行進曲をつくった米国人です」とのこと。40万円もするとか。

パレードを見ているうちに、よさこい連が到着する。浦和おどりと違って、厚手の立派な衣装なので、踊り手に「暑いでしょうね」と同情の声をかける半ズボンで軽装の見物人もいる。

若い人ばかりかと思っていたら、中年のおじさんやおばさんも混じっており、おばさんたちが主のグループもあった。小さな子供も後ろからついて行く。お母さんに連れられて参加しているのだろう。

浦和おどりが単調な所作の繰り返しなのに対し、よさこいは振付が自由で大胆なところが魅力なのだろう。浦和おどりは、埼玉市民中心だが、よさこいには東京の池袋や中目黒、県内では坂戸や所沢、越谷、お隣の朝霞、県北の熊谷と外来組の方が多そうだ。

主催者によると、昨年の35が7チーム多い42チーム(約1700人)に増えた。浦和おどりの連がちょっと減ったと話していたのと対照的だった。東口の会場が終わると、西口の会場に移動(その逆も)、夕方まで踊りに踊った。

「よさこい」はもともと「夜さ来い」が語源だという。それを白昼に猛暑の中、厚い衣装で楽しそうに踊りまくる人々を見て、老人としては羨望の念を禁じえなかった。


浦和おどり

2012年09月13日 11時49分46秒 | 祭・催し
浦和おどり

♪ハァ 花のつぼみに 心もなごむ
 春は荒川 田島ヶ原に
 咲いてやさしい さくら草

「浦和おどり」を都はるみが歌っていること(大川栄策も)を知ってから、浦和踊りにいっそう興味がわいてきた。

このような踊りは生まれてやったこともないのに、よく通っている岸町公民館で、在留外国人の日本語学習の手伝いをするボランティア・グループ「くすのき」が、浦和踊りに先駆けて、お師匠さんを呼んで生徒におどりを教えると言うので、勇を鼓して参加してみた。

習い始めてはみたものの、いっこうに上達しない24式太極拳と違って、動きははるかに少ないし、それを何度も繰り返すだけ。生まれつき運動神経にはからきし自信がなくても、練習すればなんとかやれるのではないかとの感触を得た。

梅雨が明けたばかりの10年7月18日、旧中山道の旧浦和市の目抜き通りで第34回が開かれるというので真っ昼間から見物に出かけた。日差しは早くも真夏並みだが、風があるのが救いだった。

皮切りは、小学校の金管バンドによる音楽パレード。浦和にはこんなに小学校が多いのかと思うほど、次々に行進してくる。神田小学校と東京並みの校名や、なんと読むのかなと首をひねる道祖土(さいど)小学校と眺めているだけで楽しい。

バトンを持ったリーダーはたいてい女子。高校生並みの背の高さだ。バンドのメンバーもなぜか女子が多い。みんなおそろいの帽子、制服でカッコいい。どのドラムにも「YAMAHA」の文字があるので、まるで「YAMAHA」の宣伝パレードのよう。

バンドの前進に合わせて、歩道の動きもあわただしい。お母さんたちがわが子の晴れ姿を撮ろうと、小型のビデオカメラを頭上にかざして移動しているからだ。

音楽の授業もピアノじゃなくオルガン。小沢昭一の歌にあるとおり「ハーモニカが欲しかったんだよ」の時代に育った目からみれば、「日本もお金持ちになったもんだ」という感慨が湧いてくる。

おどりは午後4時から始まった。車椅子や、児童福祉施設のグループもある。一緒に踊りの基礎を習った外国人の学生たちも「国際交流市民の会連」の中でお師匠さんとともに上手に踊っていた。

「見沼通船舟歌保存会」の連もある。「コミカルダンスの仲間達連」の楽しい踊りもあった。驚いたのは、私も通っているシニアユニバーシティの北浦和と東浦和校の校友会連が背中に「祭」のそろいの法被を着て大挙参加していたことだ。

「流」や「会」が下に付く踊りのプロの連は、衣装はもちろん、手さばき、足さばきもさすがに見事である。一回だけ習っただけなのに早くも評論家気取りだ。

最後は、常連の伊勢丹の山車とコルソ連。コルソ連の山車に載せた怪獣は、白い煙を吐いて観客を喜ばせた。主催の「さいたま観光コンベンションビューロー」によると、踊ったのはざっと2500人。清水勇人市長も、席を立って通り際で手拍子をとる姿も見られた。

夜8時近くまで、踊りも浦和見沼太鼓の音も撥さばきも十分堪能させてもらった。来年は、見物だけでなく踊ってみようかなという気にさせる地元の祭りだった。