ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

すいごう越谷

2015年06月30日 18時11分52秒 | 川・水・見沼
すいごう越谷

半世紀近く前、越谷市の北に接する春日部市の団地に住んでいたのに、越谷市が昔から「水郷越谷」と言われ、市の出している文化総合誌は「川のあるまちーー越谷文化」という名だと知ったのは、ほんの最近のことだった。恥ずかしい話である。

晩学ながら市のホームページを見ていると、「こしがや川学」というのがあった。小さいころには、「川のまち大阪」に住んだこともあり、若いころから川や水の問題に人一倍関心が深く、原稿も書いてきたので、大変興味深かった。

この「川学」によると、市の周りには大落(おおおとし)古利根川、中川、綾瀬川があり、中央を元荒川、葛西用水、新方川が流れる。葛西用水を除けばいずれも国の一級河川だというから、「水郷」も「川のあるまち」も決して誇張ではない。

「舟運」と言えば、埼玉県では荒川や利根川、それに川越が基点の新河岸川くらいしか思い浮かばない。

ところがどっこい、江戸時代、越谷市内の元荒川、古利根川、綾瀬川には荷を積んだ高瀬舟や荷船が行きかい、活況を呈していた。

荷船の発着施設の河岸場は、元荒川の瓦曽根河岸、綾瀬川の藤助(とうすけ)河岸などが有名だった。

瓦曽根は、元荒川を上下する荷船の積み替え場所で、堤には河岸問屋が軒を並べていた。藤助は旧日光街道と綾瀬川が交差する地の利を生かして、綾瀬川一の河岸場として栄えたーーという。

現在の蒲生大橋の近くにあった藤助は、荷の積み降ろし小屋の一部が復元されて保存され、県の文化財になっている。

添付の地図を見ると、越谷市は川だらけのまちだとよく分かる。

「水郷」を実感しようと、15年5月末の梅雨の切れ目、夏には花火大会を初め、いろいろな親水の行事が催される越谷市役所周辺を訪ねた。目の前に「葛西用水」と「元荒川」が平行して流れ、市役所わき(東側)に接する葛西用水沿いに約180mの「ウッドデッキ(木橋)」が出来ている。(写真) 

同じ用水沿いの越谷駅前通り道路を隔てたすぐ近くの「中央市民会館」が、年季を経て余りにも堂々とした建物なので、てっきり市役所だと勘違いしそうになった。これほどの市民会館を見たのは県内で始めてだ。

葛西用水は、農業用水なので4月下旬から9月上旬まで水を流し、この用水の噴水が上がると「越谷に夏が来る」のだという。

ウッドデッキの頭上には藤棚があり、近くの久伊豆神社の藤まつりが来たのを知らせる。

ウッドデッキのスペースを使って、キャンドル・ナイトやハワイアンバンドとフラの夕べも夏の行事になっている。

葛西用水にも元荒川にも、それぞれ緑道が整備されていて、散歩やジョッギング、犬の散歩、サイクリングに最適。二つの川を渡ってくる風が心地よい。

それが、下流の越谷のシンボルである「しらこばと橋」の下流まで延びている。この橋は、「県鳥しらこばと」が羽を広げているイメージでデザインされていて、県東部で初の斜長橋だった。

行田市の利根大堰から取水する葛西用水は、この橋の近くで元荒川に合流、元荒川は東隣の吉川市との境界になっている中川に注ぐ。

川にはそれぞれ緑道がついている所が多く、無料で貸し出している自転車に乗れば、越谷の水郷ぶりを満喫できそうだ

「子の権現」 飯能市

2015年06月11日 16時23分34秒 | 寺社


いい年をしていながら、十二支や干支(えと)に弱い。「子の権現(ねのごんげん)」と言われてもすぐにピンとこないのはそのためだ。

子の権現を創建したのは「子の聖(ひじり)」である。和歌山県生まれで、誕生日が「子年・子月・子日・子刻」だったから、「子の日丸」とも呼ばれていた。

832(天長9)年(平安時代)のことである。

子年(ねどし、ねずみどし)は西暦を12で割って4が余る年だから、そのとおりである。

子月(ねづき、ねのつき)は旧暦11月、子日(ねのひ)は1か月に2、3回あり、子刻(ねのこく)は23から01時、ちょうど00時を指すこともある。

子は十二支の最初だから縁起がいい。古代中国では冬至を含む月(旧暦11月)に北斗七星の取っ手の先が真下(北の方角)を指すため、十二支の最初の月にしたという。

7歳で仏門に入った子の聖が、出羽羽黒山など各地で修行の後、標高640mのこの「子の山」の山頂に、11面観音を祀り、草庵を結んだのは911(延喜11)年。

弟子の恵聖聖人が子の聖を「大権現」と崇め、「子の聖大権現社」を建立したのが1012(長和元)年である。

「子の権現」は通称で、正式には天台宗の大鱗山雲洞院天竜寺である。

初めて登山した際、山麓で鬼に襲われ、腰から下に火傷を負って苦労したことから、「足腰の病に悩める者、必ず霊験を授けん」という遺言を残した。このため火防、足腰守護の神として知られ、信仰されている。

江戸時代には飛脚や力士、明治の頃には、人力車組合、荷車組合、今では足腰の大切なスポーツ選手や中高年に人気があった。

本堂の近くに重さ2tの日本一の鉄のワラジや、大きな下駄が奉納されているのは、その信仰のシンボルである。(写真)

境内は、1万2千平方mと広大。山門前にある二本杉は、台風や落雷などで損傷してはいるが、子の聖が開山の折り、箸代わりに使った杉の枝をここに刺したところ、成長して大木になったもので、樹齢約1千年とも言われる。

山門に次ぐ黒門に立つ二体の大きな仁王像は、屋根のない「露座」で極めて珍しいという。

江戸時代末期に建てられた本坊の屋根は、茅と杉で何層にも葺かれていて、名物の一つだ。

毎年6月10日が「開山日」になっていて、二本杉にちなむ箸立ての儀が行われる。

東京スカイツリーとほぼ同じ高さなので、眺望が素晴らしく、ハイキングにも人気がある。

車でも登れるが、徒歩なら、西武新宿線の吾野駅または西吾野駅から1時間半程度。吾野駅から登り、西吾野駅へ下りてみたが、西吾野駅の方がいくぶん近い感じだった。


鳥居観音 飯能市

2015年06月08日 18時13分58秒 | 寺社


JR高崎線が高崎駅に近づくと、西側の丘陵に大きな観音様が立っているのが見える。

「高崎白衣大観音」(高さ41.8m)で、地元の建設会社の創業者が1936年、旧高崎城内に置かれた高崎連隊の戦没者の霊をなぐさめるとともに、観光の拠点にという願いを込めて建てられた。

15年5月の飯能新緑ツーデーマーチに参加した際、飯能市の旧名栗村にも同じ頃、地元の実業家が建てた観音様があると初めて知ったので、早速見物に出かけた。

飯能駅からバスで約40分。白雲山にある白く流麗な3体の救世(ぐぜ)大観音。ここは白雲山の鳥居の地にあるので「鳥居観音」と呼ばれる。真ん中の観音様は33mの高さという。優雅なお姿である。(写真)

白雲山は全山が鳥居観音の境内になっていて、救世大観音だけでなく、麓の本堂・観世音センターを初め、三蔵法師の遺骨を納める「玄奘三蔵塔」や納経塔、平和観音など多くの建物があり、徒歩でも車でもお参りできるようになっている。

三蔵法師のお骨は、さいたま市岩槻区の慈恩寺にもあり、訪ねたことがある。「埼玉県に2か所もあるのか」とびっくりした。

この鳥居観音を築いたのは、西川材の中心的な生産地であるこの地に生まれ、白雲山を所有する素封家・平沼家の当主平沼弥太郎だった。

弥太郎は、家業の林業経営をバックに、飯能銀行会長など経て1949(昭和24)年には埼玉銀行の頭取となり、日本一の地方銀行に育て上げ、「埼玉銀行中興の祖」と呼ばれた人である。

1937(昭和12)年、日支事変の勃発を機に、戦没将兵の慰霊と観音信仰の篤かった母・志げ子の菩提を弔うため、自宅前の白雲山に観音堂を建てることを決意した。

母親は「私に代わって観音様のお堂をこの地に建てておくれ」と弥太郎に遺言していた。

1940(昭和15)年に観音堂(現在の恩重堂)を完成させ、これが観音信仰の霊場鳥居観音の母体になった。

それから1985年に93歳で死去するまで30年余、営々と作り続けたのが白雲山・鳥居観音である。救世大観音ができたのは、1971(昭和46)年のことである。

この鳥居観音が他と違うのは、弥太郎は観音堂を建てようと決意すると同時に、自ら仏像彫刻を志し、仏像彫刻の第一人者に弟子入りし、「桐江」という名を持つほど上達したことである。

「桐江」の作品は、本堂や鳥居文庫などに7観世音菩薩や大黒天などとして残されている。

鳥居観音に三蔵法師遺骨があるのは、孫文や蒋介石といった当時の中国の要人と交流のあった水野梅暁が病気静養のため平沼邸を訪れたのがきっかけだった。

梅暁は、中国国民政府から三蔵法師の遺骨を分贈され、日本に遺骨を納める塔を建設するのを使命としていた。

弥太郎は1947(昭和22)年、第1回の参議院議員に選ばれたが、1961(昭和36)年、武州鉄道汚職事件で逮捕、起訴され、辞任している。

聖俗併せ呑む大人物だったようだ。

鳥居観音は、紅葉が美しいので知られる。


飯能新緑ツーデーマーチ 宮沢湖 吾妻峡

2015年06月05日 18時03分13秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング



このマーチに初めて参加したのは、11年第9回目の「天覧山 多峯主山」コース10kmのコースだった。

マーチの主催者の朝日新聞を眺めていたら、15年は第13回目になり、前年は工事でコースからはずされていた人気の宮沢湖ルートも復活したと書いてある。当日申し込みは1日ごとに1千円の参加費も設定されたという。

飯能市は何度も訪ねたものの、宮沢湖には行ったことがないので、4月23日、10kmのコースに参加した。

短い手ごろなコースだから、先生に連れられた小学生のグループも多い。中央会場の飯能市役所出発時に、しんがり付近にいたら先頭が見えないほどの盛況だった。

「飯能桜の森」などを抜けていくコースである。夏日になったものの、新緑が輝くような山道を歩くのは素晴らしい。

宮沢湖は、灌漑用の人造湖だが、今では冬はワカサギ、年間を通じてヘラブナ釣りで親しまれている。周回道路を散策するのも楽しい。

驚いたのは、各所に設けられた接待所の「ご接待」だった。たいした距離を歩いているわけではないのに、中学生を主にしたボランティアが至れりつくせりのサービスをしてくれる。


接待所には、狭山茶の製造販売の老舗や、地元の企業も参加していた。狭山茶の新茶を、女性のプロが丁寧に何度も小出しについで出してくれた。狭山茶の新茶を飲んだのは今年初めてで、狭山茶の本当のうまさを堪能した。

電気関係会社のノボリのあるテントで飲んだなめこ汁は実にうまく、思わず感嘆の声が上がるほどだった。この二つの接待は、ツーデーマーチが飯能市の住民すべてのものになっていることを実感させてくれた。

吾野中学校のボランティアが作った「緑のバンダナ新聞」も参考になった。接待の内容も書いてあり、市内にある駿河台大学の接待所では、広いキャンパス内で、疲れた足をクールダウンする「足水コーナー」を設けたり、昼食をとる参加者のためにお囃子を演奏した、とあった。

2日目の24日は、続いて天気に恵まれたので、天覧山・吾妻峡コース15kmにも出かけた。新聞に吾妻峡は実行委お勧めの名勝とあったからで、同じマーチに2日連続参加したのは初めてである。

前橋にいたことがあるので、群馬県の吾妻川の国の名勝「吾妻渓谷」には何度も行ったが、入間川の「吾妻峡」は初めて。

ここでも「バンダナ新聞」にお世話になった。奇岩が多く赤岩、兎岩などと呼ばれる岩があって、兎岩は片方から見ると上を向いているように見え、もう片方から見ると、水を飲んでいるように見えるという。

ドレミファ橋という丸い飛び石があり、飛んで渡れるようになっている。(写真)

旅の歌人若山牧水も大正時代2度ここを訪ねていて、市民会館前の碑に

 志らじらと流れて遠き杉山の峡の浅瀬に河鹿鳴くなり

という句を残している。

飯能市は05年に「森林都市宣言」を出していて、「エコツーリズム」のまちとして知られる。この宣言どおり新緑の候、どこを歩いても気持ちがよく、市民のもてなしも温かい。

2日間の延べ参加者は目標としていた2万人を初めて突破し、過去最大規模の大会となった。