埼玉と北関東の群馬、栃木県との境界はてっきり利根川だと思っていた。
足尾銅山の鉱毒事件で知られる渡良瀬遊水地とその中にある渡良瀬貯水池(谷中湖)のことを調べていたら、利根川の北側(左岸)に埼玉県東北部の突端にあたる旧北川辺町(10年に加須市と合併)が突出していて、狭い谷田川を挟んで栃木県側の谷中湖に面し、西に群馬県、東に茨城県と接していることが分かった。
渡良瀬遊水池の池畔に立つと、その広大さに圧倒される。それもそのはず、この遊水地は、関東平野のほぼ中央部にあり、栃木、群馬、埼玉、茨城4県の県境にまたがる日本最大の遊水地だからだ。
この遊水地には、第1から3までの三つの調整池があり、谷中湖は第1調整池の中にある。
遊水地の総面積は33平方km(3300ha、東京ドームの7百倍)、周囲延長30km、総貯水容量1億7680万立方m。谷中湖は面積4.5平方km,周囲延長9.2km、総貯水量2640万立方m。
谷中湖は洪水防止と、現在の日光市の足尾銅山(旧足尾町)から群馬県の桐生、栃木県の足利、佐野市、群馬県の館林市を経て、渡良瀬川で流れ下ってくる鉱毒を沈殿・無害化させる目的でつくられた。
足尾銅山は明治維新後、古河財閥を築いた古河市兵衛が運営した銅山で、新鉱脈が見つかったため、20世紀初頭には全国の銅生産量の4分の1を産出、日本最大、東アジア一の銅山だった。
足尾銅山の公害は、排水中の鉱毒(硫化銅など)と精錬所から出る亜硫酸ガスによる。精錬用の薪炭向けに立木が切られたうえ、亜硫酸ガスの煙が山林を枯死させた。このためハゲ山に雨が降るとたちまち洪水が起き、それが繰り返され、鉱毒を拡散させた。
渡良瀬川沿岸では、1877(明治10)年代から稲や桑が立ち枯れたり、魚が住まなくなったりする現象が始まった。1896(明治29)年の大洪水の頃には、農産物の収穫が激減、被害人口は50万人を超えた。川沿いの住民の死亡率の増加、出生率の低下、死産、乳幼児の死亡率の増加も伴った。
埼玉県内で最大の被害を受けたのは、渡良瀬川が利根川に合流する地点に面する川辺と利島(としま)の隣接する二つの村だった。洪水になると二つの川が氾濫する。両村は後に合併して旧北川辺町になる。鉱毒被害が明らかになったのは、1887(明治20)年頃からで、桑や麦、ヨシズなどに使うアシの収量も激減した。
1896年(明治29年)の大洪水は両村など沿岸の村を鉱毒の水で覆った。これを機に「押し出し」と呼ばれる、被害激甚地の栃木、群馬、埼玉、茨城の農民数千人が東京に集団で上京して、被害の救済、鉱業停止を求める請願が1897(明治30)年から六回実施された。その度に警官が力づくで制止に当たった。
そのリーダーになったのが、栃木県佐野市出身の衆議院議員田中正造だった。1901(明治34年)、議員を辞し、東京・日比谷で明治天皇に直訴しようとしたのは有名な話である。鉱毒を告発、谷中村に移住してその遊水地化に死ぬまで反対を続け、今でも義人として慕われている。
両村は02年にも洪水に見舞われた。埼玉、栃木県では、堤防が弱くすぐ洪水になるこの両村や谷中村の堤を復旧するより、この両村を買収・廃村にして游水地化を検討した。
これに対し両村では、田中正造の指導を受け反対運動が展開された。利島村では青年を中心に「利島村相愛会」が結成された。同年10月、両村は村民大会を開き、①県が堤防を築かなかったら村民の手で築く②従って国家に対し納税・兵役の二大義務を負わないと決議した。
強硬な反対でこの問題は、12月の臨時県議会で「遊水地にしない」という知事の答弁で決着した。地元のこのような強硬な反対運動がなかったら、この両村も水没したかもしれないのである。
両村のすぐ上流域にある栃木県の谷中村(戸数450戸、人口2700人)の遊水地化計画は着々と進んでいた。両村は、遊水地ができると、堤防に囲まれた両村には洪水時に逆流現象が起こり、大被害を受けると反対した。
田中正造が反対運動に奔走中、1913(大正2)年に73歳で没すると、4万5千余人が葬儀に参列、その骨は行動を共にした関係村民らの要望で栃木、群馬、埼玉3県の6か所に分骨された。その墓地の一つは、北川辺西小学校(元利島村)の裏にある「故田中正造翁之墓」である。(写真)
この稿は、「新編埼玉県史 通史編 現代」、「埼玉平野の成り立ち・風土」(埼玉新聞社)、田中正造と行動を共にした相愛会の活動家石井清蔵氏の著作「義人田中翁と北川辺」などを参照。この著作は、神岡浪子編「資料近代日本の公害」(新人物往来社 昭和46年刊)に収録されている。
巨大な“地下神殿” 首都圏外郭放水路 春日部市
「川の県」と自称する埼玉には、さまざまな河川関係の地上施設がある。地下空間にも春日部市には、国交省江戸川河川事務所が管理する“地下神殿”と呼ばれる貯水・排水能力が世界最大級の巨大な地下排水路がある。
同省では春日部市とともに、公募で選んだ提携事業者の東部トップツアーズを交え、防災施設では日本初という民間運営による見学システムを導入、月間受け入れを拡大しようと実験を始めている。社会資本を観光に活用しようとする「インフラツーリズム」である。観光地の少ない県の新たな観光スポットだ。
「首都圏外郭放水路」――。周辺の中川、大落古利根川などの5つの中小河川で洪水が起きると、あふれた水を最大で内径30m、深さ70mの5ヶ所の立坑から取り込み、巨大な水勢を弱める調圧水槽(写真)にため、国道16号の地下50mに掘られた直径約10mの全長6.3kmの水を流していくトンネル(地下の人工河川)を通じて、水を排出するポンプ施設で川幅が広い江戸川に排出する。排水用の巨大な羽根車「インペラ」は直径3.7m、重さ約35tある。
地下放水路全体で、東京ドームの半分の約67万立方mをためることができる。19年10月の首都圏などを襲った巨大な台風19号では、12~15日までに稼働以来3番目の約1150万立方mを排出、周辺の中川・綾瀬川流域を水害から守った。
首都圏の洪水を防ぐのが主目的で、2300億円を投じて13年かけ、06年に完成した。浸水に悩まされていた周辺地区の被害は大幅に軽減された。
圧巻は、江戸川に最も近くポンプの手前にある「調圧水槽」と呼ばれる庄和排水機場下の巨大空間である。トンネルを流れてきた水の勢いを弱め、江戸川へスムーズに流し込むため、地下約22mに造られた長さ177m,幅78m,高さ18mの巨大な水槽である。広さはほぼサッカー場2面分ある。ポンプ運転に必要な水量の確保と逆流の水圧を調整するのが役割だ。
116段の階段を下りたこの巨大水槽が“地下神殿”と呼ばれる。59本の高さ18m、幅78m、重量500tの支えの円柱が林立する光景は、荘厳な雰囲気を漂わせているので、この名がある。(写真)
「アテネのパルテノン神殿のようだ」という人が多い。エジプトに3年余いた経験からすると、むしろルクソール宮殿を思わせる。ルクソールには直径3.6m、高さ21mの巨大な石柱12本が立つ。パルテノンは高さ約10m。
見沼代用水ができて、田んぼに変わる前の見沼には、竜が住み着いていたらしい。
関東郡代の伊奈忠治は1629(寛永6)年、現さいたま市緑区附島と川口市木曽呂の間に長さ約870m(8町)の堤防「八丁堤」を建設して、水を溜め、この灌漑用ダムを「見沼溜井」と呼んだ。平均の水深2.7m、周囲は40kmもあった。
この見沼周辺には、竜にまつわる20近い伝説が残っている。
その1 夜な夜な鳴り響く怪しい笛の音。奏でるのは、妖艶な美女で、その音を追って若者たちが次々姿を消してしまう(見沼の笛)
その2 美しい笛の音をたどると、古井戸があり、中には無数のホタルが舞っていた(ホタルの御殿)
その3 悪さをする竜がいたため、日光帰りの左甚五郎に竜の像を彫ってもらい、国昌寺(緑区)の山門に封じ込めた。葬式の際、棺桶の中の遺体が消えるので、開かずの門にして、この竜も釘付けされた(開かずの門)
といった具合である。
見沼を干拓した井沢弥惣兵衛為永のもとにも夜、夢の中に美女に扮した竜神が現れ、工事中止を哀願した。行灯の明かりにゆれる女の影は竜だった。
弥惣兵衛が過労で病に倒れると、女は夜な夜な現れた。「新しい住みかが見つかるまで工事を中止してもらえまいか」という訴えだった。ある晩、家来が弥惣兵衛の寝床をのぞくと、蛇女が真紅の炎を吐きながら、弥惣兵衛の身体をなめまわしていた。
さすがに恐くなり、工事の詰め所を天沼の大日堂(大宮区)から、片柳の万年寺(ばんねんじ 見沼区)に移して、工事を完成させた。万年寺には弥惣兵衛の頌徳碑が残っている。
緑区宮本の武蔵一宮「氷川女体神社」では、14世紀頃から神輿を乗せた船を沼の最深部に繰り出し、沼の主である竜神を祭る「御船(みふね)祭」を行ってきた。
女体神社は、奈良時代以前に見沼のほとりに創建され、現在の本殿は、4代将軍徳川家綱が建立した由緒ある神社である。
1728(享保13)年に、干拓が完成し、御船祭ができなくなると、神社の前に丸い島を築いて、祭祀場を設け、「磐船祭」が行われるようになり、明治初年まで続いていた。
さいたま市の誕生などを機に「さいたま竜神まつり会」や神社が中心になって05年から5月4日に「祇園磐船竜神祭」が始まった。
「竜神まつり会」では01年、さいたま市誕生を機に、新たな市のシンボルにしようと、ヘリウムガスで膨らませる風船で巨大な「昇天竜」(50m位の高さに昇る)を作った。
これが人気を呼んで、04年以来ハワイのホノルルのフェスティバルに毎年参加、10年には上海万博の日本デーにも出演、12年には、会津若松市、13年には郡山市の「ふくしまフェスティバル」にも参加、弘前ねぷたや花笠踊り、浅草サンバ、沖縄エイサーなどと競演する。
12年10月20日には政令都市になったさいたま市の人口にちなんで、ギネスの公式認定員を招いて副都心のスーパーアリーナ前で4体のうち125mのを膨らませ、「世界最長の膨らむ像」としてギネスブックに登録された。
Longest Inflatable Sculpture(最長の膨らむ彫刻)。
さいたま市に待望の「世界一」が生まれたのである。
13年5月4日の竜神祭には、一目見ようと朝から出かけた。ところが、世界的なヘリウム不足で病院でも手に入らないほどで、自粛して、ギネスの10分の1の大きさの12mの竜(写真)を女体神社前で膨らませた。
この日は、弥惣兵衛の銅像が立つ見沼自然公園を振り出しに、万年寺、国昌寺、女体神社を巡る「見沼の竜伝説をたどって歩く会」も開かれた。
考えてみれば、巨大竜の出番は多い。125mの竜が堂々と空に昇る姿を一度見てみたいものだ。
さいたま市の「見沼田圃(たんぼ)基本計画」がまとまり、11年1月31日夜、浦和ロイヤルパインズホテルでそのフォーラムが開かれ、その報告と関係者によるパネルディスカッションがあった。
基本計画は、従来の取り組みでは、農地の耕作放棄や荒地化の進行、開発による侵食を防止できないと、新たな取り組みの方向として「見沼田圃を活用しながら保全する」という視点を打ち出した。来年度から具体的なアクションプランづくりを始める。
見沼田圃の約4割は農家が所有する農地である。耕作者・土地所有者や行政だけの環境保全では限界があるとして、市民や市外からの来訪者の意見も取り入れ、「土地利用」、「自然環境」、「農」、「歴史・文化」、「観光・交流」、「教育・市民活動」の6つの分野で、その現状を踏まえつつ、10の地区に分けて、特に重点的に取り組むべき施策を中心に、具体的な内容や方法を定めたアクションプランづくりを目指す。
見沼田圃は広大で問題も複雑なので、その全貌を知る人は少ない。この基本計画の「現況と課題」、「参考資料」は、見沼に関心を持つ人に取っては貴重な資料になるだろう。この計画書から要点をピックアップしてみよう。
見沼を田圃の名に惹かれて訪れたら、失望するのは間違いない。昔は広大な水田が広がっていたのに、今では水田は全部の6%程度。大都市近辺の立地条件を活かしてほとんどが畑作に転換、サトイモ、ヤツガシラなどの野菜や植木、苗木を作っているほか、ブルーベリー、梨、ブドウなどの観光農園に変わっているからだ。
見沼田圃は東西はまちまち、南北約14km、外周約44km,さいたま市がほとんどで計1261ha(うち南隣の川口市は58ha)。さいたま市が約1200ha、川口市が60haとすれば覚えやすい。さいたま市にとっては市の中央部に広がり、市の面積の約5.5%を占める。
見沼田圃の田、畑を合わせた農地は全体の4割の520ha、公園・緑地が128ha、河川(芝川)・水路(見沼代用水東、西縁)が96haで合計745ha。「緑と水」の空間は、合計すると全体の6割を占める。
荒地のほか、道路、調整池、公共施設、宅地、裸地(空地)、駐車場が残りの4割を占める。
公共施設や公園・緑地は増えている一方、農地は平成19年度までの10年間で100ha減少した。畑のほうが圧倒的に多い。畑443ha、水田76haである。耕作放棄地などの荒地が83haと水田の面積より多い。荒地は9ha増加した。
ここでもご多分にもれず、農家人口の減少、農業従事者の高齢化、後継者不足などで、遊休農地や耕作放棄地が増加し、農地の荒地化が進んでいる。残土置き場や資材置き場に変わったり、荒地には廃棄物が不法投棄されている所もある。
見沼田圃の魅力の一つだった見沼代用水沿いの斜面林も減少しており、「開かずの門」と呼ばれる山門に左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻があり、見沼の龍神伝説を伝える「国昌寺」からボタンの名所、総持院に至る斜面林約1haが「さいたま緑のトラスト保全第一号地」として買収されたのは、代用水東縁の斜面林を守ろうとする一つの動きだった。
区域内の農地所有者を対象にした19年度のアンケート調査によると、見沼田圃のイメージは、「自然」、「みどり」、「散歩道」などプラス面の一方で、「不法投棄」、「抜け道」などのマイナス面も多い。
約半分は、農業を止めたい、農地以外の土地利用をしたい、農地を売りたい意向を持つ。見沼田圃の将来については、将来は農地以外の土地利用をすべきだと考えている人が約4分の1いた。
見沼田圃の緑は、農家の犠牲で支えられているのが現実だ。
実際、東京からわずか20~30kmしか離れていないのに、首都圏最大の大規模緑地空間が残されているのは奇跡のように見える。JR京浜東北線や武蔵野線、宇都宮線、東武野田線の駅からも1~2kmでアクセスも便利なのに。
荒っぽく言えば、見沼田圃を開発から救ったのは、1958(昭和33)年の狩野川台風だった。狩野川台風は、その名のとおり、天城山を源流として沼津市付近で駿河湾に注ぐ狩野川流域に死者・行方不明約930人、全壊・半壊家屋1300戸という未曾有の大災害を引き起こした。
東京では気象庁開設以来という1日400mm近い豪雨を伴い、浸水家屋は33万戸近くで、静岡県全体の20倍に達した。見沼田圃は全域が湛水、川口市市街地の大半も浸水した。
この時の見沼田圃の湛水量は約1千万立方mと言われた。その游水機能が注目され、1965(昭和40)年、宅地化や開発は原則として認めない「見沼三原則」が制定され、治水の観点から開発抑制策がとられている。
1995(平成7)年には県が「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」を策定、土地利用を「農地、公園、緑地等」に制限、1998(平成10)年から荒地化の拡大や新開発を防止するため、土地の買い取りや借り受けによる公有地化推進事業が始まっている。
このような保全の流れの中で、基本計画とアクションプランは見沼に新時代を切り開くことができるかどうか。(歴史は別項の「見沼 移り変わり」参照)