ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

山吹の里 太田道灌 越生市

2012年10月30日 07時37分44秒 | 中世


 七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき

大田道潅のこの故事が残る山吹の里は、池袋からの東上線越生駅の終点越生町にある。越生町は花の町である。越生梅林で知られる梅を皮切りに、山吹、つつじ、あじさいと春から夏にかけて花の季節が続く。

ゴールデンウイークも終わった10年5月9日の日曜日、仲間と、「五大尊のつつじ」見物の帰りに「山吹の里」を訪ねた。「五大尊」とは、厳めしい名だ。真言宗でいう仏法護持の不動明王など五明王のことで、祭られている寺があるからだ。

つつじ、山吹とも盛りを過ぎていた。山吹の里を訪ねたのは何十年ぶりのことだろう。水車が回る茅葺の小屋と山吹が3千株あるという。小高い丘を登ると開かれた展望台があり、越生の町と遠くさいたま新都心のビルも見える。(写真)

前の越辺川(おっぺがわ)にかかる橋が山吹橋なら、近くの料理屋は「山富貴」、マンションの名も山吹にちなんだ名をつけている。

この地は、山吹が自生していることから山吹と呼ばれていた。中世には武蔵武士団児玉党に属する越生氏一族の山吹氏の拠点だった。越生の地名はこの越生氏に負っているわけだ。

父太田道真の館「三枝庵」跡もあれば、三枝庵に近い龍穏寺には二人のものと伝えられる墓もある。建康寺の隣には道真が引退後、居館自得軒を構えた旧跡があり、越辺川には道灌橋の名が残る。

東京都の豊島区高田、荒川区町屋など7,8ヶ所も山吹の里として名乗りを上げている。道真の居館や父子の墓に近いことなどから、埼玉県や越生町の主張も納得できるような気がする。

山吹の里の伝説は、道灌が武蔵野で狩りをしていた際、にわか雨に遭い、茅葺の農家に蓑を借りようと立ち寄ったら、若い娘が蓑を「実の」にかけて、「蓑一つさえありません」と古歌を書いて差し出したというものだ。

こんな片田舎に後拾遺和歌集の兼明(かねあきら)親王の歌を知っている女性がいたことが驚きだ。よほど文化の程度の高い地だったのだろう。

道灌の幼名は鶴千代丸。9歳から11歳まで鎌倉五山で学び、英才として知られた。道真同様、連歌や和歌を愛し、師について勉強した。

 我庵は 松原つづき海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

後花園上皇が道灌に武蔵野のことを尋ねられた時に答えた有名な歌である。道灌にはこのほかにも名歌が多く、関東屈指の歌人とうたわれた。江戸城の櫓上で創ったとされている。

その江戸城、河越(川越)の二城を、主君扇谷(おおぎがやつ)上杉家のために、道真の指導で築いたのが1457年、26歳の時だった。2007年は、江戸城(皇居)築城から550年で、皇居の近くにその小さな碑が立っていたのを思い出す。

扇谷上杉家の家宰(執事)、武将としても東奔西走、数々の功績を挙げ、道灌の名声は関東に響き渡った。これを快く思っていない上杉定正は、謀反の噂を信じて、現在の神奈川県伊勢原市の居館に招き、風呂場から出てきた道灌を斬殺させた。

道灌は「当方滅亡」(こんなことをすると滅びるぞ)と叫んで息絶えたが、予言どおり扇谷上杉家はまもなく滅んだ。道灌55歳のことである。当時、謀殺は珍しいことではなかった。

道灌の銅像は川越市役所に立っているが、道灌の遺骸、首塚は伊勢原市の寺にあるとする学者もいる。






鉢形城跡 寄居町

2012年10月29日 16時40分13秒 | 中世



天守閣などはないものの、戦国時代の平山城(ひらやまじろ)の面影を濃厚に伝えるという鉢形城跡を12年の秋晴れの日に訪ねた。

東武東上線の終点の寄居駅から入り口まで歩いて20分余。荒川を越え、城跡に通ずる正喜橋から眺める峡谷下の玉淀河原の眺めが素晴らしい。

「田舎教師」で知られる田山花袋が、紀行文で「東京付近でこれほど雄大な眺めを持つ峡谷はない」と激賞しているというのがうなずける。花袋の漢詩を刻んだ大きな石碑が、荒川を見下ろす本曲輪(くるわ)の跡に立っている。

鉢形城は、「遺構の残存状況が極めて良好」な戦国時代の代表的な平山城の跡として、1932(昭和7)年、国の史跡に指定された。(写真)

06(平成18)年には、「日本100名城」の一つに選定されている。

正喜橋から荒川の上流の西岸に広がる城郭跡は約24万平方m。関東で有数の規模を誇る。荒川と、荒川に合流する深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれ、荒川側は天然の要害になっている。正喜橋から見ると良く分かる。

1476年、関東管領(政務を総括)だった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春が築城したと伝えられる。小田原にいた北条氏康の四男氏邦が整備拡充、関東屈指の名城といわれた。

上州や甲斐、信濃をにらむ交通の要衝でもあり、後北条氏が北関東支配の拠点とした。

戦略的に重要な拠点なので、戦国時代の有名な武将もこの城を攻めている。大田道灌、武田信玄、上杉謙信。道灌を除けば攻め落としていない。それは整備拡充の前である。

最も有名なのは、1590年、前田利家や上杉景勝ら豊臣勢5万の連合軍による城攻めである。豊臣秀吉の小田原征伐の際、小田原の北条早雲の重要な支城だったからだ。

城に籠もった総兵力は3千500。1か月余の攻防戦の後、氏邦は城兵の助命を条件に開城した。

毎年5月中下旬の一日、鉢形城に縁のある人や町民ら約500人が、当時の鎧武者姿で町内をパレードした後、荒川を挟んで攻防戦を展開する。

「寄居北条まつり」と呼ばれる。

8月の第一土曜日には、この河原で数百の提灯で飾られた船山車が川面に浮かべられ、花火が打ち上げられる「玉淀水天宮祭」もある。「関東一の水祭り」と呼ばれる。

城跡は、「鉢形城公園」として整備されていて、エドヒガンの古木や、ソメイヨシノの並木、花木約210種が植えられた花木園、カタクリの群生地もあるので、雑木林の下を歩くのは楽しい。

北西端の三の曲輪には、四脚門と約200mの石積土塁が復元されている。城の内堀だった深沢川沿いは激しい渓流が岩盤をけずり、多くの淵を造っていて、「四十八釜」という町指定名勝になっている。夏など時間があれば、訪ねてみたい。

散歩の前か後に「鉢形城歴史館」に立ち寄ると、この城の構造や歴史などが映像で良く分かる。

県立自然の博物館 長瀞町

2012年10月28日 14時49分53秒 | 博物館




改修工事で休館していた長瀞町の「県立自然の博物館」が12年10月6日、1年1か月ぶりにオープンした。

秩父地域1市4町(秩父市、横瀬町、皆野町、長瀞町、小鹿野町)は2011年、国内で15番目の「日本ジオパーク」に認定された。その拠点になるはずの施設なので、期待して出かけた。

長瀞駅から一つ秩父寄りの上長瀞駅(秩父鉄道)で降りるのは初めてだった。駅からすぐ近くの荒川を臨むところにある。

荒川の館側(左岸)には、虎の皮の模様に似た有名な「虎石」があり、それを詠んだ宮沢賢治の歌碑が館の近くに立っている。

「日本地質学発祥の地」と大書した大きな石碑もある。東京帝国大学地質学科が設立された翌年、ドイツ人の初代教授エドムント・ナウマン博士が長瀞で調査したのがきっかけで、重要な研究拠点となり、多くの地質学者を育てたのを記念するものだ。

県内に自生する21種40本のカエデを移植した「カエデの森」も前庭に新たにできていた。道路の向こうには「月の石もみじ公園」もある。

天文学ほどではないが、地質学は地球の誕生以来をテーマとし、何億年とか何千万年というとてつもなく長い時間を対象にするので、歳をとればとるほど面白くなって来る。

館の目玉は、巨大ザメと恐竜の復元模型だ。

入ると、天井に巨大ザメの全身模型が吊るされ、正面にそのあごの復元模型が置いてある。

1986年、深谷市菅沼の約1千万年前の荒川河床の地層から、歯の化石がまとまって全部で73本見つかった。一尾のサメの歯で、上下の歯列がほぼそろっていた。これだけの数の歯が発見されたのは世界でも初めてだった。

これに基づいて、高さ約1.8m、幅約1.6m、奥行き1.3mのサイズで復元されたのがあごの模型である。

あごから全長を推定、天井に吊るしているのが約12mの全身。学名は「カルカロドン メガロドン」。ギリシャ語で「カルカロドン」は「ギザギザの歯」、「メガロドン」は「大きな歯」を意味する。

この模型を見ると、ギザギザに並んだ三角形の鋭い歯が印象的だ。あごは大きく開き、クジラなどを捕らえて食べていたらしい。

この巨大ザメは、今から400~2500年前に世界の暖かい海に生息していた。日本は元、大陸の一部だったが、日本海の形成が始まり、関東から新潟にかけて太平洋と日本海をつなぐ海ができていた。

約1500万年前には埼玉県の大部分は海で、奥秩父の山すそまで海が広がり、秩父盆地は東方の開く入り江で、「古秩父湾」と呼ばれていた。

海なし県の埼玉の秩父に暖かい海があり、このような巨大サメが泳いでいたとは、想像するだけで楽しい。

秩父市大野原の約1500万年前の地層から「チチブクジラ」と呼ばれる体長4~5mのヒゲクジラも見つかっている。

もう一つの見ものは恐竜である。1975、77年に秩父市大野原の荒川右岸で、頭骨、肋骨、背骨などが発掘された。これも1500万年前と推定され、「歩く」「泳ぐ」「食べ物をあさる」の3体の骨格が復元されている。(写真)

学名は、「パレオパラドキシア」という海獣で、ラテン語で「昔の変わり者」という意味。臼歯が海苔巻きを束ねたようになっている。

歯の生え方や骨格の発達状況からまだ成長途上だったと考えられ、体長約2.3m、体高約1mと推定されている。

この仲間は、長い間正体不明で、「幻の海獣」、「世界の奇獣」と呼ばれていた。

歯の形から海辺の海草や貝、ゴカイなどを食べていたらしい。カバのような身体をしていたと考えられている。海獣だから泳ぐこともできた。

この二つのほか見逃せないのが、アケボノゾウの骨格復元である。現存するアジアゾウ、アフリカゾウとは全く別の系統で、約60万年ほど前に姿を消したとされる。

約60~250万年前に生きていたゾウで、狭山市笹井で化石が発見された。埼玉にかつて巨大ザメが泳ぎ、海辺に恐竜がのし歩き、時代こそ違えゾウまでいたと思うと思わず楽しくなる。


「植木の里 安行」 花と緑の振興センターと樹里安

2012年10月06日 19時54分05秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
「植木の里 安行」 花と緑の振興センターと樹里安 川口市

安行を訪ねる際、立ち寄りたくなるのが、埼玉県の「花と緑の振興センター」である。昔から植物園歩きが好きなので、約2千種5千本の樹木のあるこの展示園は、どの季節に来ても面白い。興禅院のすぐ近くだ。

1953(昭和28)年、「県植物見本園」として開園、2003(平成15)年に「植物振興センター」から現在の名前に変わった。

園内は、「花木園」「コニファー(針葉樹)園」「カラーリーフ(紅葉)園」などに別かれ、最も有名な梅園をはじめ、ツバキ・サザンカ、ツツジ、サクラソウ、ハーブなど各種の花が楽しめる。

ホームページを見ると、ツバキ・サザンカ450種、サクラソウ300種、ハーブ40種とあり、名前と写真がついているので花の名を同定するのに役立つ。サクラも見たこともない珍しいものもある。次々眺めているだけでうれしくなる。

ホームページには、その月の見どころや園内の見頃情報も載っているので、出かける前にチェックできる。

「道の駅 川口・あんぎょう」を併設している「川口緑化センター」も見逃せない。1996(平成8)年に緑化産業の拠点としてオープン、「樹里安(ジュリアン)」というバタくさい名前がついている。(写真)

10月初めの3連休には「安行花植木まつり」が開かれ、庭木、苗木、鉢物、草花などが展示販売される。園芸資材も展示即売するほか、専門家による園芸相談もある。

盆栽展も同時に開かれ、女性や外国人の姿も増えてきた。夏には「アサガオ・ほおずき市」が開かれ、風物詩になろうとしている。

学会も開かれる。08(平成20)年11月のシーズンには、「国際もみじシンポジウムinジャパン」があった。もみじの研究成果の発表や品種展示などが実施され、国内外から多くの関係者が参加した。

安行の植木の伝統技術の一つに「根巻き」がある。樹木を移植する際、根についている土が落ちないようわらや縄で巻く技術である。安行の根巻きは、縄の造形美が特徴で、仕上がりが美しいのが誇り。その根巻き技術の講習会も開かれた。

安行にはこのほか、「安行流」という仕立物の技術、「ふかし」という花の開花を早める技術など長い伝統が培った技術が生きている。

このセンターでは、「樹里安だより」という美しいカラーの広報誌などを出している。技術の話は、その中の一冊「植木の里 川口安行 緑化産業の概要」というパンフレットに書いてあった。

訪ねる度に新しいのが出ていないかと探すのがくせになった。この安行シリーズを書くのにも歴史や数字などいろいろ引用させて頂いた。

このパンフレットの「安行植木の歴史」によると、1982(昭和57)年、オランダのアムステルダムで開催された花の万博フロリアード(国際園芸博物会)に、日本を代表して川口市から植木5千本、苗木、盆栽などを出品、日本庭園が最高賞を獲得、安行の名を世界に知らしめた。

安行の植木のそもそもの起源は、390年前の1618(元和4)年、安行の赤山に城を構えた関東郡代第3代伊奈半十郎忠治が、植木や花の栽培を奨励したのが始まりという。

第二次大戦中は、陸稲や麦、甘藷などの畑に転換され、8件の農家と母樹園5haが残っただけで、壊滅状態になった。

1950(昭和25)年頃、朝鮮戦争の特需景気で、植木の生産が本格的に再開され、1960(同35)~1973(同48)年には、今度は高度経済成長の波に乗り、未曾有の緑化ブームが到来、需要が飛躍的に拡大した。

植木産業が景気に大きく左右されることがよく分かる。

10年から川口市造園協会が中心になって造園業者が作った庭や苗圃(びょうほ=植木の畑)を公開する「安行オープンガーデン」も、「安行花植木まつり」に合わせて始まった。この時に訪れれば、安行の全貌が分かる。

一輪草まつり 川口市安行

2012年10月05日 17時25分26秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
一輪草まつり 川口市安行

寒冬の影響で13年は、花のスケジュールが大きく狂った。先に安行をじっくり歩いた際、安行にイチリンソウの自生地群落があって、「一輪草まつり」が毎年催され、多くの人が見物に訪れるという話を聞いていた。

里山歩きの途中、ときおり、足元にニリンソウを見かけることはあっても、イチリンソウにお目にかかることはほとんどなかった。まして群落を目にしたことはない。

一度見てみたいものだと思っていたところ、今年は4月20、21の土日曜日とのこと。

念のために川口緑化センター「樹里安(じゅりあん)」に電話して確かめると、案の定、満開は1週間早い13、14日ごろになるという。

20日には、NPOの主催で「イチリンソウの咲く安行を歩こう」というのがあり、これに参加しようかと思っていたのだが、「善は急げ」とママチャリで急行した。

自生地は、川口市安行原にある。「樹里安」から北に向かって突き当たりの赤堀用水沿いの斜面林「ふるさとの森」(川口市保存緑地)の中で、「万葉植物苑」の裏側にある。安行中学校にも近い。

イチリンソウは昔、県内各地で見られたのに、しだいに少なくなり、県の準絶滅危惧種に指定されている。川口市の指定天然記念物になっていて、ここは、県東部の数少ない生息地の一つである。

1995年、植物調査を実施した際、生育が確認され、「安行みどりのまちづくり協議会」の会員らの手で保存活動が続けられ、06年には第1回一輪草まつりが開かれた。

NHKなどにも取り上げられ、花愛好者が訪れるようになっていたのに、10年には花泥棒にごっそり盗掘される事件も起きた。

それでも今、木の柵に囲まれた3か所に元気に育っている。約千輪が開花しているとか。イチリンソウがほとんどだが、よく見ると、ニリンソウもちらほら。

ニリンソウと比べるとイチリンソウの5弁の花びらはずっと大きく見栄えがする。サンリンソウもないかと目を凝らしてみたがなかった。

柵の中には、葉の中央に花が咲き、実がなるハナイカダやウラシマソウ、ジュウニヒトエなどもある。花はつけていないものの、ヒトリシズカやフタリシズカの表示もあった。

ここには小さな流れもあり、夏にはホタルも飛ぶ。

イチリンソウは、英語では Spring Ephemeral(スプリング・エフェミラル)と総称される花の一つである。

Ephemeral とは「はかなく短命」という意味。愛好者の多いカタクリと同じ仲間で、落葉樹である雑木林の林の縁に、樹の葉が開く前に早春に花を開き、晩春に葉が茂ると地面に消えてしまう。

見ていると、「美人薄命」という言葉が浮かんでくる美しさである。

安行は公共交通が不便なところだった。埼玉高速鉄道ができたおかげで、戸塚安行駅から徒歩で35分。駅から自生地まで「イチリンソウ」の旗のぼりが立っていた。

安行はどの季節に来ても花が素晴らしいところだが、春では安行寒桜(密蔵院など)に次ぐ第2弾である。安行寒桜は、早咲きで有名な河津桜よりちょっと遅れるようだ。

安行はPR不足のようで、まだ観光客が少ない。高速鉄道とも協力して誘致に力を入れたらどうだろうか。

新市の誕生 白岡市

2012年10月04日 16時31分42秒 | 市町村の話題


全国的に人口減少の折、埼玉県では合併によらず、自然増で単独の新しい市が誕生した。ナシの産地として知られる「白岡市」である。

市のマスコットキャラクターは「なしべえ」「なしりん」で、今回、特別住民票を交付された。

町になったのは1954(昭和29)年。県内で市に昇格したのは吉川市に次いで16年ぶり。鳩ヶ谷市が川口市と合併したため39になった埼玉県内の市の数は、再び40に戻った。日本の都道府県の中で一番多い。

50年近く埼玉県に住んでいながら、一度も訪ねたことはなかった。地図をみると、北に久喜市、東に東武動物公園のある宮代町、西に蓮田市、南にさいたま市(岩槻区)に挟まれた所である。

さいたま市から行くには東北本線、それとも「東京スカイツリーライン(東武伊勢崎線)」がいいのかなと迷った。東北線の方が市役所に近そう。町だったにしては、東北線に白岡と北白岡の二つも駅があることも分かった。

開市に立ち会った経験はないので、2012年10月1日、前日の台風一過、新市の将来を祝うように晴天に恵まれたこともあって、列車に飛び乗った。

白岡駅から市役所まで、歩けばけっこう距離があるので、残念ながら開市式典は終わっていた。

小島卓市長らが市役所入り口の「白岡市役所」の名盤を除幕、小中学生らがクス玉を割ったという。記念撮影をしていたので、とったのがこの写真。

記者会見があり、ブログ記者として紛れ込んでみると、NHKの女性記者が市に昇格できた理由について質問した。市長は「都心から40kmの地にあり、東北線に二つの駅、11年に圏央道の久喜白岡JCTと白岡菖蒲ICの間が開通するなど交通の便がいい」と、地の利と交通の便、それに伴う人口増を理由に挙げた。

東北自動車道が南から北へ貫通していて、南の蓮田SAや北の久喜ICにも近い。

都心からJR線で約40分。三つの土地区画整理事業がほぼ終わり、1987(昭和62)年に開業した新白岡駅周辺にニュータウンができるなど、戸建てやマンション建設が進み、ベッドタウンとして人口が増えたほか、西部の白岡菖蒲ICの側に工場が集積し始めた。

国道122号線沿いで、釣りの名所「柴山沼」にも近い「白岡西部産業団地」には市販医薬品、化粧品、日用品などの国内最大手の卸「PALTAC」(大阪市)の物流センターの進出が決まっている。

人口は12年9月1日現在で5万860人で、県内の40市のうちで最も少ないとはいえ、隣接市の人口は減少しているのに、白岡は増加している。

すでに10年の国勢調査では5万272人で、市になる条件の一つ5万人をクリアしていた。

人口や企業進出の増加で、税収にも恵まれる。「白岡美人」の名で親しまれたナシの栽培は、後継者不足から栽培農家が減り、県内一を誇った収穫量もトップの座を譲ったようだ。

東洋経済新報社の14年の「全国都市住みよさランキング」では、県内1位、関東地域10位、全国70位に選ばれた。

全国790市を安心度、利便度、快適度、富裕度、住居水準充実度の5つの観点から比較したもので、県内ではふじみの市、羽生市が白岡市に
続いた。

江戸時代中期、6代将軍家宣の政治顧問で「正徳の治」を指導した新井白石は1709(宝永6)年)、白岡市の野牛村500石の領主となり、水路を掘り、収穫を向上させた。今でも「白石堀」、「殿様堀」と呼ばれる水路が残っている。