ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

活断層「綾瀬川断層」

2015年04月26日 16時47分26秒 | 県全般



「綾瀬川」は、桶川市を基点に県内を南東に流れ、東京都葛飾区で中川に合流する。延長48km。主な水源が農業用水や都市排水なので、日本一汚染された川として知られる。

15年4月25日の新聞を見ると、今度は地震を引き起こす可能性のある活断層「綾瀬川断層」として登場した。

地震の原因には、「南海トラフ」のような海底深くにあるプレート(岩板)の沈み込みで内部や境界で起き、広い範囲に被害を与える海溝型地震の「岩板型」と地表に近い浅い場所で起き、大きな被害をもたらす内陸直下型の「活断層型」に別れる。

政府の地震調査委員会は1996年以降、長さ20km以上の活断層(マグニチュード7相当の地震を引き起こす)の危険性を分析してきた。

ところが、04年の新潟県中越地震(M6.8)を教訓に、10km以上の活断層(M6.8相当を引き起こす)まで対象を広げた。

13年に第一弾として「九州全体」について発表したのに続いて、24日は第2弾として「関東地域」の大地震を引き起こす可能性のある活断層を発表した。

対象の活断層は、従来の15から9つ多い24に増えた。埼玉県内では、越生断層(越生、ときがわ、毛呂山町地域の約14km)も新断層に加わった。

埼玉県北西部を南東に走る「綾瀬川断層」の存在は、これまでも知られていた。その南部を占める伊奈町―川口市間19kmは活断層とは認定されていなかったのに、今度新たにM6.8級の地震を起こす可能性があると認定された。

この間には、人口が密集するさいたま市や川口市もある。

地震調査委員会は、群馬県から埼玉県にかけて伸びる「関東平野北西縁断層帯」について、長さが南へ19kmほど伸びたとした上で、名称を「深谷断層帯・綾瀬川断層」へと変更した。(写真)

一つの活断層がずれるには1000~1万年かかり、綾瀬川断層で30年以内にM7級地震が起きる確立は1~3%。海底のプレートで起きる南海トラフ地震(70%程度)などに比べるときわめて低い。

しかし、深谷断層帯と綾瀬川断層が連動した場合には、マグニチュード8程度の地震が発生する可能性があるという。

今回の発表は、浅い活断層だけを対象にしているので、「プレート型の地下深い活断層でM7級の地震が起こる確率は30年以内に70%程度」という南関東全域の予測(04年)はそのまま生きている。

地震発生の確率こそ低いものの、本県もまた活断層の上に乗っている所があることは記憶しておく必要がある。

河越館跡 川越市

2015年04月24日 16時38分38秒 | 中世



東武東上線霞ヶ関駅から徒歩15分、川越市上戸にある国指定史跡「河越館(やかた)跡」の常楽寺を訪ねると、河越重頼ら3人の真新しい供養塔が立っているのが目に付く。(写真)

当時のこの館の主、重頼と娘の「京姫(郷姫とも)」、それに源義経のものである。

義経の女性と言えば、静御前が有名で、埼玉県にも墓がある(久喜市栗橋町)。別項(カテゴリー中世「静御前の墓」)参照。

静御前は京の白拍子で義経の愛妾だった。「郷御前」とも呼ばれる「京姫」は、頼朝の斡旋で義経の正妻に選ばれ、1184(寿永3)年、この館から京都にいた義経のもとに輿入れしたのである。

しかし、平家滅亡後、頼朝と義経が不仲になり、1189(文治5)年には義経は奥州平泉の衣川で藤原泰衡に襲われ、自害する。

重頼も、義経の義父ということで、領地を没収されたうえ長男とともに殺されてしまった。

河越歴史博物館のホームページによると、京姫が京都の義経のもとへ嫁いだのは17歳の時。衣川の館で、義経とともに自害、4歳の娘も一緒に死んだ。22歳の時だったという。義経は31歳だった。

義経の平泉落ちに正妻が同行、娘もいたのには驚いた。

重頼が、娘が義経の正妻に選ばれるほど頼朝に近かったのは、重頼の妻が比企尼の娘(河越尼)だったことだった。

比企尼のことは、このブログの別項(カテゴリー中世「比企尼と比企能員」)を見てほしい。頼朝の乳母だったが、単に乳を与えるだけではなく、20年間、伊豆に流されていた頼朝へ食料を仕送りするなど生活のすべての面倒をみていたらしい。

比企尼に恩義を感じていた頼朝は、比企尼を厚遇、比企尼の甥で養子になっていた比企能員(よしかず)も重用した。

頼朝の妻、北条政子が長男頼家(二代将軍)を出産したのは、比企能員の邸で、重頼の妻が乳母に召された。

比企能員同様、河端重頼も比企尼とそれぞれの妻の縁で、頼朝に重用されたのだった。

河越氏は、河越館を拠点に平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を振るった豪族。桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の秩父氏の嫡流だった。

国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)」を継承し、武蔵国の筆頭格だった。

重頼の三男の子孫は室町時代まで続くが、子孫の河越直重は1368(応安元)年、武蔵・相模などの平氏とともに、室町幕府の関東を治める機関「鎌倉府」に対して「平一揆(へいいっき)の乱」を起こした。河越館に立て籠もるが、敗れて、河越家は歴史の表舞台から姿を消してしまう。

常楽寺は、時宗の寺院で河越氏の持仏堂だったが、河越氏の衰退後寺域を広げた。

河越夜戦 川越市

2015年04月23日 14時23分20秒 | 中世



川越市の市街地の最北部にある東明(みょう)寺の門をくぐるとすぐ、「市指定史跡 川越夜戦跡」という大きな石碑が立っているに気がつく。(写真)

河越が川越と表記されるようになったのは、江戸時代以降のようだから、戦国時代16世紀半ばの1546(天文15)年4月20日夜に河越城に近いこの寺周辺で展開された奇襲戦は、「河越夜戦跡」とも呼ばれる。

この奇襲戦は、「戦国時代の三大奇襲戦」と称される。織田信長が今川義元の大軍を破った「桶狭間の戦い」、中国地方の毛利元就が陶晴賢(すえ・はるかた)の大軍を破った「厳島の戦い」と並ぶものだというから驚く。

戦国時代の幕を開いたとされる小田原を根拠地とする北条早雲の北条家(鎌倉幕府の執権北条家と区別するため後北条家と呼ばれる)は、三代目氏康の時代で、すでに河越城は先代の氏綱が攻め落とし、氏綱の養子の猛将・綱成(つなしげ)が城代を務めていた。

河越城は、扇谷上杉家の命で1457(長禄元)年、重臣大田道真、道灌父子が築城したものである。

扇谷(おうぎがやつ)上杉家の上杉朝定は、関東管領・山内(やまのうち)上杉家の上杉憲政、古河公方(こがくぼう 古河を本拠とした足利氏)の足利晴氏(はるうじ)の支援を得て、奪還を狙って総勢8万の連合軍で1545(天文14)年10月から、河越城を包囲した。

城内に籠もる兵力は3000人。氏康は駿河で今川・武田勢と対戦中で動けなかった。

包囲から半年後、今川義元と和睦を結んだ氏康は8000の軍勢で救援に向かった。しかし、氏康は連合軍を欺くため、軍を府中まで後退させた。

1546年4月20日夜、氏康は部隊を四分し、夜陰にまぎれて連合軍の背後から奇襲をかけた。「河越夜戦」である。

察知した綱成も城内から出撃、油断していた連合軍は大混乱に陥り、敗走した。当時はもっと広大だった河越城に近い東名寺境内で特に激しい交戦があったとされる。このため「東明寺合戦」とよばれることもある。

総大将の上杉朝定は戦死、扇谷上杉家は滅亡した。約1万6000人の将兵が討ち取られた。

扇谷上杉家に謀殺された大田道灌が死に際に残した「当方滅亡」の予言は、60年後に現実のものになったのである。

上杉憲政は上州に敗走したが、後に越後の長尾景虎のもとに逃れ、上杉の家名と関東管領の地位を譲り渡した。これで関東一の名門、山内上杉家も滅亡、長尾景虎が上杉を名乗り、出家して「上杉謙信」となった。

古河に退去した足利晴氏は、その後、氏康に攻められ大敗、北条氏綱と血縁のあるその子、義氏(よしうじ)が古河公方を継承、後北条家の支配下に入った。

河越夜戦で、扇谷・山内両上杉家は滅亡、古河公方も支配下に入り、後北条家の武蔵支配が確立されたのである。河越夜戦は、関東の勢力地図を塗り替えたのだった。

しかし、その後北条家も1590(天正18)年、全国統一を狙う豊臣秀吉の小田原城攻めに屈し、落城、5代100年にわたって、小田原を本拠地に関東に君臨した後北条家も滅亡、戦国時代は終わり、中世も終わった。

後北条家の鉢形、忍の両城が開城したのもこの時である。

妙音沢旗桜 新座市

2015年04月06日 16時31分23秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



新座市南東部の市有地「妙音沢緑地」に新種とみられるサクラが見つかり、話題になっている。

地元では珍しいサクラだと言われていた。14年に「日本花の会」に調べてもらったところ、「突然変異の新種と言える」との回答を得た。

須田健治市長は記者会見で、「ミョウオンサワハタザクラ(妙音沢旗桜)」と命名したと明らかにし、市の天然記念物への指定や、その並木作りをしたいと発表していた。

15年、市の観光課に満開の予定を確認、出かけてみると、その名を示す看板も立ち、サクラ好きの花見客やカメラマンの姿が見られた。黒目川にかかる斜長橋「市場坂・橋」が目印だ。

花とともに薄緑の葉も出ており、一見すると「オオシマザクラ」に見える。花びらが真っ白なのは同じだが、枚数が多いのに気がつく。(写真)

「旗桜」は、通常の5枚の花弁のほかに、おしべが花びらのように変化してできる、旗のような「旗弁(きべん)」が5枚ほどあり、花びらが二重についているように見えるので、その名がある。

東京都文京区の白山神社の「白山旗桜」が有名だ。

県内では、志木市柏町3丁目の「長勝院旗桜」がある。東上線柳瀬川駅から歩いて行ける。

1998年、新種と認められ、市民の木に指定されている。樹齢は400年以上、樹高11.2m、目通り3.07mの老桜でヤマザクラの変種だという。今は一本ではなく、近くにも植わっているし、志木市の市役所前にもある。さいたま市桜区の区役所の構内でも見かけた。

寺はすでに解体されて今はなく、この老桜だけが名残を留める。(このブログのカテゴリー「盆栽・桜・・・」参照)

「妙音沢」とは風流な名前だと思っていた。斜面に雑木林が茂る典型的な武蔵野台地のハケ(段丘崖)。崖下から豊富な地下水が湧いていて(毎分1t)、すぐ近くの黒目川に流れ込むまで約100m流れる。そのさらさら流れる音からついた地名だ。

この湧き水は08年、環境省から「平成の名水百選」に選定された。水遊びはOKだが、飲み水には使えない。斜面林は約3.3haでカタクリやイチリンソウも咲く。

「妙音沢緑地保全地域」になっていて、木橋も整備されている。

黒目川の堤のほか、近くの市営墓園の裏の栄緑道の桜並木は素晴らしく、市民の花見場所になっている。