ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

田子山富士塚 30年ぶり山開き 志木市

2016年07月04日 11時50分52秒 | 寺社


毎年恒例の 富士山の山開きに続いて、志木市本町の敷島神社境内にある「志木のお富士さん」として親しまれる「田子山富士塚」も16年7月2日、30余年ぶり”山開き“した。(写真)

 3776mの本体に対し、こちらは高さ約9m。敷地面積990平方m、周囲の長さは125mと人工的なミニ富士山である。

国の文化審議会は20年3月、この富士塚を「国の重要有形民俗文化財」に指定した。重要有形民俗文化財への指定は、行田市周辺の「北武蔵野の農具」以来37年ぶり、県内では8件となる。

富士塚に対する国の重文指定は、川口市の「木曾呂の富士塚」以来40年ぶりで、全国で5件目。

この富士塚は付近の住民が150年前の1872(明治5)年、2年8か月かけて古墳だったと伝えられていた田子山塚の上に土を盛り上げたものだ。敷島神社ができたのは1908(明治41)年だから、神社より古いわけだ。遠く富士山から船便で運んできた「黒ぼく」と呼ばれる溶岩も、北側斜面に配置されている。

江戸中期以降広まった山岳信仰の一つ、富士信仰から、県内の村々には富士講(富士山登山を目的にする人たちのグループ)が組織された。富士山の山登りのシーズン中には地元にいながら富士山に登ったのと同じご利益があるとされる富士塚を造り、登る人が多かった。県内には約170基が残っているというから驚く。

 熱心な富士信仰の信者だった醤油製造業・高須庄吉が、夢のお告げに従ってこの塚に来たところ、南北朝時代初めに旅の僧が建てた富士山に関わる逆修(生前葬)の板碑を発見した。富士信仰に篤い庄吉はいたく感動、富士塚建造を決意して同志を募った。

この板碑は登り口の浅間(せんげん)下社に収められている。山腹には約150もの石碑や石像も建てられていて、石像に刻まれた寄進者数は2000人を超す。

当時の歌舞伎の名優、尾上菊五郎、坂東三津五郎などの名も奉納者として刻まれている。

 本町は「引又宿(ひきまたじゅく)」と呼ばれていた。近くの新河岸川舟運による「河岸場(かしば)」があり、奥州街道の脇往還(バイパス)の宿場、それに定期市も開かれ、人や物が集まる大商業地だった。その経済力が築造の背景にある。

晴れた日には、山頂から富士山を望むことができる。しかし、富士信仰が薄れ、老朽化に伴って登山道などが崩れて、30年余前から立ち入り禁止になっていた。東日本大地震では石碑なども倒れ、登山はできない状態だった。

2005年、 地元有志が田子山富士保存会をつくり、県指定だった有形民俗文化財を後世に残そうと、募金を呼びかけたところ、1700万円以上が集まった。県や市の補助金も加えて総事業費2800万円で修復に乗り出し、2年間でほぼ完了した。

  東上線志木駅東口から歩いて約20分、新しい観光地になりそうだ。

 参考文献:「田子山富士のナゾ(歴史編)」(田子山富士保存会発行)

 

 

 

 

 


竹寺 神仏混淆の遺構 飯能市

2015年09月24日 11時59分41秒 | 寺社


竹寺は、その名のとおり、境内に孟宗竹の美しい林が茂り、金明竹、四方竹、亀甲竹など各種の竹が植えられているお寺である。珍しい竹の鳥居もある。

寺だから寺らしく、山号、院号、寺号もあり、正式には天台宗の「医王山・薬寿院・八王寺」で、竹寺は通称だ。

竹で作った食器、竹筒に入った般若湯(お酒)、何から何まで竹製の器で山菜料理を出す精進料理(竹膳料理)で有名。

第二次大戦後まもなく、読売新聞俳句欄の選者だった秋元不死男氏が、竹寺で宿泊した折、「題材も多く、環境もいいので俳句寺にしたらどうか」という話を持ち出し、読売紙上に「奥武蔵俳句寺」として紹介したことから、多くの俳人や俳句愛好家が訪れるようになった。不死男氏のほかいくつかの句碑もある。

西武池袋線飯能駅から国際興業バスで40分、終点中沢で下車、坂道の車道を登り徒歩で40分の所にある。

竹寺の後、「子の権現」に詣で、西武池袋線吾野駅に出ることもできる。格好のハイキングコースで、この二つの寺を一緒に回る人が多い。

15年9月中旬、秋晴れがやっと訪れた土曜日にこの寺を訪ねた。

竹寺は神仏混淆の寺として有名だ。竹寺の入り口にある「茅の輪(ちのわ)」をかたどった「茅の輪の門」の右側に立つ緑色の丸い筒には、「神仏習合の遺構 竹寺」と書いてある。東日本で残っている唯一の遺構だという。

1868(明治元)年の神仏分離令で、日本の神は本地(ほんじ・本来の姿)である本地仏が、衆生済度のために仮の姿である神に姿を変えて現れたとする神仏習合(神仏同一説)が廃され、廃仏毀釈が進められた。

神仏習合は、それまでの「本地垂迹(すいじゃく)説」に基づく。例えば、熊野権現の本地は阿弥陀如来であるといった考え方で、神仏分離は神道を仏教から独立させようとする神道国教化の動きだった。

竹寺の本尊は、「天王さま」と親しまれている牛頭天王(ごずてんのう)である。寝殿造りの本殿(牛頭天王社)には牛頭天王が祀られ、境内にはいかめしいブロンズの牛頭天王像がある。「八王寺」という名も祀られている牛頭天王の8人の子供にちなんでいる。

牛頭天王は、インド祇園精舎の守護神と言われ、中国を経て日本に伝わった。スサノオノミコトと同一視されることもある。神仏分離令後、日本にある牛頭天王のほとんどがスサノオノミコトに、その社名は八坂神社に改称させられた。

牛頭天王の本地仏は薬師如来で、竹寺では「瑠璃殿」と呼ばれる「本地堂」に祀られている。

八王子も分離令の出た翌年、薬師如来の12神将の一人である「招杜羅(しょうとら)大将」に改めたが、いつの頃からか元の牛頭天王に戻ったという。

山奥のため目が届かなかったのだろうか。牛頭天王は、神ながら仏との区別が明確でないためだったのだろうか。

本殿入り口の鳥居には「医王山」という額がかかり、7月15日の牛頭天王祭は仏式で行われるなど、ここでは神と仏が今でも平和共存している。

この鳥居についている本物の茅の輪をくぐれば、心身が清浄になり、疫病から逃れられると伝えられる。牛頭天王ゆかりの「蘇民将来」のお守りも有名だ。

武蔵野観音第33番結願(けちがん)所にもなっていて、樹齢400年の高野槙もある。

「子の権現」 飯能市

2015年06月11日 16時23分34秒 | 寺社


いい年をしていながら、十二支や干支(えと)に弱い。「子の権現(ねのごんげん)」と言われてもすぐにピンとこないのはそのためだ。

子の権現を創建したのは「子の聖(ひじり)」である。和歌山県生まれで、誕生日が「子年・子月・子日・子刻」だったから、「子の日丸」とも呼ばれていた。

832(天長9)年(平安時代)のことである。

子年(ねどし、ねずみどし)は西暦を12で割って4が余る年だから、そのとおりである。

子月(ねづき、ねのつき)は旧暦11月、子日(ねのひ)は1か月に2、3回あり、子刻(ねのこく)は23から01時、ちょうど00時を指すこともある。

子は十二支の最初だから縁起がいい。古代中国では冬至を含む月(旧暦11月)に北斗七星の取っ手の先が真下(北の方角)を指すため、十二支の最初の月にしたという。

7歳で仏門に入った子の聖が、出羽羽黒山など各地で修行の後、標高640mのこの「子の山」の山頂に、11面観音を祀り、草庵を結んだのは911(延喜11)年。

弟子の恵聖聖人が子の聖を「大権現」と崇め、「子の聖大権現社」を建立したのが1012(長和元)年である。

「子の権現」は通称で、正式には天台宗の大鱗山雲洞院天竜寺である。

初めて登山した際、山麓で鬼に襲われ、腰から下に火傷を負って苦労したことから、「足腰の病に悩める者、必ず霊験を授けん」という遺言を残した。このため火防、足腰守護の神として知られ、信仰されている。

江戸時代には飛脚や力士、明治の頃には、人力車組合、荷車組合、今では足腰の大切なスポーツ選手や中高年に人気があった。

本堂の近くに重さ2tの日本一の鉄のワラジや、大きな下駄が奉納されているのは、その信仰のシンボルである。(写真)

境内は、1万2千平方mと広大。山門前にある二本杉は、台風や落雷などで損傷してはいるが、子の聖が開山の折り、箸代わりに使った杉の枝をここに刺したところ、成長して大木になったもので、樹齢約1千年とも言われる。

山門に次ぐ黒門に立つ二体の大きな仁王像は、屋根のない「露座」で極めて珍しいという。

江戸時代末期に建てられた本坊の屋根は、茅と杉で何層にも葺かれていて、名物の一つだ。

毎年6月10日が「開山日」になっていて、二本杉にちなむ箸立ての儀が行われる。

東京スカイツリーとほぼ同じ高さなので、眺望が素晴らしく、ハイキングにも人気がある。

車でも登れるが、徒歩なら、西武新宿線の吾野駅または西吾野駅から1時間半程度。吾野駅から登り、西吾野駅へ下りてみたが、西吾野駅の方がいくぶん近い感じだった。


鳥居観音 飯能市

2015年06月08日 18時13分58秒 | 寺社


JR高崎線が高崎駅に近づくと、西側の丘陵に大きな観音様が立っているのが見える。

「高崎白衣大観音」(高さ41.8m)で、地元の建設会社の創業者が1936年、旧高崎城内に置かれた高崎連隊の戦没者の霊をなぐさめるとともに、観光の拠点にという願いを込めて建てられた。

15年5月の飯能新緑ツーデーマーチに参加した際、飯能市の旧名栗村にも同じ頃、地元の実業家が建てた観音様があると初めて知ったので、早速見物に出かけた。

飯能駅からバスで約40分。白雲山にある白く流麗な3体の救世(ぐぜ)大観音。ここは白雲山の鳥居の地にあるので「鳥居観音」と呼ばれる。真ん中の観音様は33mの高さという。優雅なお姿である。(写真)

白雲山は全山が鳥居観音の境内になっていて、救世大観音だけでなく、麓の本堂・観世音センターを初め、三蔵法師の遺骨を納める「玄奘三蔵塔」や納経塔、平和観音など多くの建物があり、徒歩でも車でもお参りできるようになっている。

三蔵法師のお骨は、さいたま市岩槻区の慈恩寺にもあり、訪ねたことがある。「埼玉県に2か所もあるのか」とびっくりした。

この鳥居観音を築いたのは、西川材の中心的な生産地であるこの地に生まれ、白雲山を所有する素封家・平沼家の当主平沼弥太郎だった。

弥太郎は、家業の林業経営をバックに、飯能銀行会長など経て1949(昭和24)年には埼玉銀行の頭取となり、日本一の地方銀行に育て上げ、「埼玉銀行中興の祖」と呼ばれた人である。

1937(昭和12)年、日支事変の勃発を機に、戦没将兵の慰霊と観音信仰の篤かった母・志げ子の菩提を弔うため、自宅前の白雲山に観音堂を建てることを決意した。

母親は「私に代わって観音様のお堂をこの地に建てておくれ」と弥太郎に遺言していた。

1940(昭和15)年に観音堂(現在の恩重堂)を完成させ、これが観音信仰の霊場鳥居観音の母体になった。

それから1985年に93歳で死去するまで30年余、営々と作り続けたのが白雲山・鳥居観音である。救世大観音ができたのは、1971(昭和46)年のことである。

この鳥居観音が他と違うのは、弥太郎は観音堂を建てようと決意すると同時に、自ら仏像彫刻を志し、仏像彫刻の第一人者に弟子入りし、「桐江」という名を持つほど上達したことである。

「桐江」の作品は、本堂や鳥居文庫などに7観世音菩薩や大黒天などとして残されている。

鳥居観音に三蔵法師遺骨があるのは、孫文や蒋介石といった当時の中国の要人と交流のあった水野梅暁が病気静養のため平沼邸を訪れたのがきっかけだった。

梅暁は、中国国民政府から三蔵法師の遺骨を分贈され、日本に遺骨を納める塔を建設するのを使命としていた。

弥太郎は1947(昭和22)年、第1回の参議院議員に選ばれたが、1961(昭和36)年、武州鉄道汚職事件で逮捕、起訴され、辞任している。

聖俗併せ呑む大人物だったようだ。

鳥居観音は、紅葉が美しいので知られる。


木曽御嶽神社の分社 さいたま市田島

2014年10月08日 16時45分50秒 | 寺社
木曽御嶽神社の分社 さいたま市田島

長野・岐阜県境にある木曽の御嶽山(おんたけさん)の突然の噴火は、山頂(剣ヶ峰=3067m)付近にいた登山者をなぎ倒し、ちょうど100年前1914年の鹿児島・桜島の噴火の犠牲者(58人)をしのごうとしている。

今はのんびりと

♪ 木曽の御嶽さんはナンジャラホイ ♪

と歌っている場合ではない。

さいたま市の日本住宅公団の大型団地「田島団地」の近く、田島公民館の通りの斜め向かいに「御嶽神社分社」があることには、かなり昔から気になっていた。

さいたま市の天然記念物になっているイヌマキの高木(樹齢350年)が本殿の後ろにそびえる美しい神社である。

掲示板によると、江戸の天明年間、この神社で修行した埼玉県にゆかりの深い普寛という修験道の行者が、今度の噴火ですっかり有名になった登山口「王滝口」を開いたというのである。

神社には珍しく「ホームページを開設しました」と、そのナンバーまで明記してあるので、他のホームページとともにのぞいてみると

「木喰(もくじき)普寛」とも称した普寛行者は1731(享保16)年、秩父市大滝生まれ。三峰山で天台、真言両義の奥義を極め、江戸に出て、修験者の長になった。

1792(寛政4)年、江戸の信者を連れて、険しくて至難とされた王滝口から登り、御嶽開山の端緒をつくった。

と書いてある。

御嶽山は、神聖な山として、昔から100日間精進潔斎した者しか登山が許されなかった。

ところが、普寛行者はこの潔斎方式を無視して、軽い潔斎だけで強行登山、御嶽山を一般信者も登れるような道を開いたのだった。

江戸や北関東に御嶽信仰が広まったのはこのためだった。

これには先例があった。尾張の覚明という行者が1782(天明2)年、軽潔斎による登山を願い出たものの却下されたので、3年後、無許可で水行潔斎だけで多くの信者を率いて黒沢口から登拝していた。

御嶽山が一般にも開かれたのは、この二人の行者のおかげである。

普寛行者一行は、登山中道に迷ったが、雷鳥が現れて、頂上まで道案内したと伝えられ、今でも雷鳥は神鳥としてこの分社に祭られている。鳥居の前にいるのが雷鳥だ。(写真)

 ありがたや 神の御恵み 浮きいでし 武蔵の国の 雷の鳥かな

という歌も残されている。

普寛行者は王滝口開山の後、この地を訪れ、木曽御嶽神社の分社として、開山御礼の掛け軸を奉納した。この掛け軸は社宝として保存され、さいたま市有形文化財に指定されている。

新潟の八海山、群馬の武尊山も開山したと伝えられる。

1801(享和元年)、秩父へ帰る途中、71歳で死亡した。

この分社には「田島一心講」があり、毎年夏、冬の二回、御嶽山に登拝している。

秩父市大滝の御嶽普寛神社の境内に普寛導師碑があり、県指定史跡になっている。


日本神社 本庄市児玉

2014年05月12日 17時30分25秒 | 寺社


百体観音堂の後、次は有名な長泉寺の「骨波田の藤」に向かっていると、右手の商店の前に、「日本神社入口」と赤字で書かれた新しい石柱が目に入った。

本庄市のキャラクターにちなんだ予約バス「はにぽん号」の停留所にも「日本神社入口」とある。

その名前には覚えがあったので、山道をたどると、小高い丘の上に鳥居と神社が見えてきた。日本神社という語や、小さいながらピカピカの石柱から連想されるような豪壮な社ではなく、小さく古ぼけた社である。

瓦屋の一階建てで、瓦も古ければ、側面はトタン板で覆われている、長方形の敷地の左手に、これまた古びた神楽殿がある。

社務所は無人で、本殿の前に狛犬がいる。近づいてみると、横板に「日本神社」と右から左に墨書されている。(写真)

その左側に神社のいわれを書いた説明板がある。下の方は字が薄れて、読めない字もある。判読すると、その内容(大要)に驚いた。

この地は、西小平という地の中央にあり、791(延暦10)年、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の折り、この地を訪れ、戦勝祈願のため神武天皇を祀った。蝦夷からの帰途、この地を再訪、社殿を建立、当初は『神武神社』と称していた。

しかし、「(武蔵)風土記稿」の小平村の項には当社の名前を見ることはできない。

この地は「神山郷」と言われ、鎮座地として信仰されていたようだとある。

ところが、明治になって東小平の石神神社が村社になったため、西小平にも村社が必要になり、1881(明治14)年、稲荷神社、桜木神社、駒方神社、黒石神社、石神社、山神社の6社を合祀し、「日本神社」と改名した。

以後120年、地元では「合社(ごうしゃ)さま」と言われ、親しまれてきた。

というのである。

県立図書館の郷土資料室にあった「埼玉の神社」や「児玉町史」の「日本神社」の項にも同様な記述があった。

日本には約8万の神社があるとされているが、「神武神社」はいくつかあっても、そのものずばり「日本神社」はここだけで、ほかにはない。

この貴重な名前を、本庄市の知名度アップに使わない手はないと、こだま青年会議所、児玉商工会青年部、地元の秋平小学校と市などは、サッカーワールドカップの日本代表に、「日本神社」で祈願した必勝ダルマの寄贈を始めた。

06年のドイツ大会の男子を皮切りに、10年の南アフリカ大会の男子、11年のドイツ大会の女子に贈呈した。

ドイツ大会で優勝した「なでしこジャパン」は、監督と選手たちが署名したサッカーボールを贈ってきた。

これまでに贈った必勝ダルマとその署名入りボールは市役所1階市民ホールに展示された。このダルマは14年5月12日夕のNHK首都圏ネットワークでちょっぴり紹介された。14年のブラジル大会にも贈った。

市は、代表応援のため「日本サッカーを応援する自治体連盟」に加盟した。市のホームページの1ページ目には、「本庄市はサッカーワールドカップ2014日本代表を応援しています」と書いてある。

青年部と市は、16年と20年の東京オリンピック招致にも、応援の「日本神社」名入りの大ダルマを東京都に贈った。

たどり着いた長泉寺の骨波田の藤は、「日本最大級の藤寺」と宣伝している。有料。藤の咲き具合で入場料が変わる。

「骨波田(こつはた)」とは、すごい名前だ。日本神社でも登場した坂上田村麻呂が、大蛇を退治したことが地名の由来という。大蛇の波打つような骨を田んぼに埋めたとでも言うのだろうか。

県の天然記念物に指定されている樹齢650年と推定されるムラサキナガフジなどがある。東国花の寺・百ケ寺にも選ばれていて、見物客でにぎわう。

塙保己一の生誕地で知られる児玉は面白いところが多い。





成身院百体観音堂 本庄市児玉

2014年05月08日 17時40分00秒 | 寺社
成身院百体観音堂 本庄市児玉

埼玉にも「さざえ堂」があるというので、14年のゴールデンウィークに本庄市児玉の成身院(じょうしんいん)百体観音堂を訪ねた。(写真)

会津で見た「さざえ堂」に建築から見て興味を魅かれていたのと、ここには1層に秩父34観音、2層に坂東33観音、3層に西国(さいごく)33観音が安置されているというので、一寺で百体を拝めるという怠け者なりの計算があった。

少しずつ歩いている秩父はともかく、坂東や西国は回るつもりがないからだ。

会津若松市の正宗(しょうそう)寺、群馬県太田市の曹源寺と百体観音堂を、「日本三大さざえ堂」と呼ぶようだ。(さざえ堂は他にもある) 仏像が安置されている回廊がさざえの殻の中を歩くような形になっていることから「さざえ」の名がついている。

平面六角形で二重らせんの斜路を持つ特異な構造の正宗寺とはいくぶん違う。曹源寺と百体観音堂は外から見ると2階なのに、内部は3層になっている。茨城県取手市の長禅寺三世堂とともに「関東系」とよばれるとか。

回廊を順序どおり進むと、本尊を三巡りして、仏を礼拝する作法としては、最もていねいな「右繞三匝(うにょうさんそう)=右(時計)回りに三巡りする」になるという。

参拝人が多くても一方通行になっていて、鉢合わせしないようになっているというから有り難い話である。

この観音堂の前に立っている説明板や堂に置かれているパンフレットにも心を奪われた。

1783(天明3)年、浅間山の大噴火で流出した溶岩と引き起こされた洪水は、吾妻川、利根川沿岸の30数か村を埋めた。焼死、溺死する者数知れず、川辺に近づくと、うめき声が聞こえ、人々はただおびえ、弔うものもなかった。1500人以上が死亡、多くの遺体が利根川を流されていったという。

この噴火は日本の火山噴火の災害としては最大の出来事とされている。

当時の成身院69世元真は、死者のため現在の坂東大橋付近に檀を築き、近くの僧とともに供養に努めた。永代にわたって供養するため百体観音堂建立を発願したものの、果たさずに死んだ。

その遺志をついで弟子の元映は、度々江戸まで出かけて募金した。百体のうち6割はその募金によって江戸で鋳造されたもので、中山道の宿場の人々の手で順送りに成身院に運ばれてきた。

観音堂と周囲が整備されたのは1795(寛政7)年。各地にある浅間山噴火犠牲者供養の建造物の中で、最も大きく荘厳なものだったという。

その後、明治になって廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のために無住寺になり、住み着いた放浪者の失火による火災、再建、花火がもとでの本堂の焼失、観音像の半数の盗難と数多くの災難に遭いながら、近辺の信者による観音像の寄進などで現在の形になったのは1980(昭和55)年だった。

小平と呼ばれるこの地域は養蚕が盛んで、農家が裕福だったことがその背景にある。今でも屋根の上に蚕のための暖気通風用の高窓を頂く家「高窓の家」(今では養蚕はやっていない)が数軒残っているのが、その証である。

高さ20mの百体観音堂正面の鰐口(わにぐち)は、直径180cm、厚さ60cm、重さ750kgで、直径を除けば日本一の大きさという。この鰐口は観音堂が整備された1795年に鋳造されたもので、奇跡的に建立時のまま残っていて、市の有形文化財に指定されている。

建立時、同じ所に発注されていたので、同じ大きさのものが越谷市の浄山寺に残っている。

群馬県では、浅間山噴火の痕跡をいくつも見た。埼玉県で見たのはこれが初めてで、浅間山、いや富士山が火を噴いた時、埼玉はどうなるのか、考えざるを得なかった。百体観音堂から遠く浅間山が望める。

無住寺なので、百体観音堂を管理している本庄市観光農業センターの担当者の話では、「児玉33霊場」の第1番札所が成身院で、他の32箇所も浅間山噴火の犠牲者の慰霊のために建てられたのだという。




金鑚神社 武蔵国二の宮 神川町

2014年05月06日 17時36分45秒 | 寺社
武蔵国二の宮金鑚神社 神川町

武蔵国二の宮とされる県北の児玉郡神川町の金鑚神社は、昔から気になる神社である。30年ほど前に妻の運転する車で訪ねたことがある。記憶も薄れてきたので、猛暑の13年夏の終わりに今度は一人で電車とバスと徒歩を使って再訪した。

「金鑚(かなさな)」とは珍しい名前である。うどんの「讃岐」は言べんだから、金へんの「鑚」とは違う

すぐ西方を流れる群馬県との県境の神流(かんな)川で、刀などの原料になる砂鉄がとれたことから、「金砂(かなすな)」がなまって、「かなさな」と呼ばれるようになったようだ。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、天照大神と素戔男尊(すさのおのみこと)を祀って創建したという。801年には坂上田村麻呂が東北への遠征前に戦勝祈願に訪れた。

1051年には八幡太郎源義家も奥州出陣の際祈願したとされ、境内には「駒つなぎ石」「旗掛杉」「義家橋」が残る。延喜式神名帳にも「金佐奈神社」として記載されている古社である。

中世には武蔵七党の丹党に崇敬された。1534年に建立された多宝塔は国指定重要文化財に指定されている。

珍しいのは、拝殿の奥に本殿がなく、御獄山(みたけさん)の一部をなす御室山(みむろさん)がご神体になっていることである。自然崇拝のいかにも神道らしい神社で、全国でも奈良県の大神神社(三輪神社)と長野県の諏訪神社の3社しかない。

御室山には登れないので、登山道のある御獄山の山頂(343m)を目指すと、中腹に国の特別天然記念物の「鏡岩」がある。(写真) 赤鉄石英片岩の岩肌が平らで鏡のようにみえるので、この名がある。断層活動でできたすべり面で、約1億年前に生じたとされ、地質学的に貴重。

江戸時代の平戸藩主松浦静山の随筆集「甲子夜話」には、「鏡岩に向かえば顔のシワまで映る」と書かれており、高崎城落城の時に火炎の炎が映ったという伝承もあるという。

金鑚神社の目の前にある「大光普照寺(たいこうふしょうじ)」は、神仏分離までは、金鑚神社の別当寺(神社に付属して設けられた寺院、神宮寺)だった。明治維新までは神社と寺は一体だったのである。

聖徳太子が創建、平安時代初期に天台宗第三代座主の慈覚大師円仁(えんにん)が入山し、天台宗に改め、「金鑚山一乗院大光普照寺」と名づけ、開基となった。慈覚大師は、栃木県岩船町生まれ。最後の遣唐僧で、 日本の天台宗を大成させ、朝廷から「大師号」を最初に授けられた高僧である。

9年半にわたる唐での数奇な体験を、日本人による最初の本格旅行記「入唐求法巡礼行記」で自ら執筆した。玄奘の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」と並ぶ世界三大旅行記とされる。ライシャワー駐日米大使の研究で欧米にもその名を知られている。

慈覚大師が開山・再興したと伝えられる寺は、川越の喜多院、浅草の浅草寺、目黒不動として親しまれている龍泉寺、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺といった有名寺院など関東・東北で500を超す。

平安中期には慈恵大師良源が大光普照寺に一時滞在、教えを広めた。慈恵大師は、第18代天台座主で、火事で焼けた比叡山を復興させ、中興の祖と仰がれている。正月3日に没したので、元三(がんざん)大師の名で親しまれ、この寺は「元三大師の寺」として知られるようになった。

元三大師には、「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」などの呼び名があり、信仰を集めているほか、社寺の「おみくじ」の創始者とも言われている。

この神社と寺を訪ねると、今ではひなびたこの町がかつて、奥州平定の基点であったこと、また、天台宗を代表するような座主二人が、寺の開山以来深くかかわっていたという歴史的事実の重さに圧倒される。

仙波東照宮 天海大僧正 川越市

2014年04月05日 07時19分41秒 | 寺社


喜多院の地続き、階段を昇った所にあるのが仙波東照宮である。東照宮とは、徳川家康を祀った神社で、川越市のは、日光東照宮、久能山東照宮と並ぶ日本三大東照宮の一つだ。仙波は東照宮のある地名である。

家康は没後、まず久能山に埋葬され、翌年、日光に改葬された。

ここに東照宮があるのは、家康の遺体を日光へ送る途中、喜多院で3日間の大法要が営まれたからだ。


その導師を務めたのが、天海大僧正である。天海大僧正とは何者か。山門の前に堂々とした像が立っている。(写真)

家康は、小さい頃から人質にとられていた。戦で、敗走したこともあり、人生の裏も表も知り尽くした人物だった。「狸親父」とさえ呼ばれた。その家康が絶大な信頼を寄せ、帰依し、崇敬していた高僧が天海だった。

初めて会ったのは1608(慶長13)年。駿河城だったと言われている。家康は「天海僧正は人中の仏なり」と感嘆、遅すぎた出会いを悔やんだと伝えられる。

家康65、天海72歳の時だという。以来、家康、秀忠、家光三代の参謀、顧問、ブレーンを務め、徳川幕府の礎を築いた。

家康は1616(元和2)年に75歳で死去する前、「遺骸は久能山に収め、一周忌が済んだら、日光山に小さな堂を建立し、わが霊を招き寄せよ。我は八州を守る鎮守となろう」と遺言、天海に死後を託した。

日光までの途中にある川越で大法要が営まれ、東照宮が造られたゆえんである。

南光坊天海、智楽院とも呼ばれた。朝廷から死後に送られた名が慈眼大師。高僧に大師号が贈られたのは、この人が最後で七番目の大師様だった。

自らの出自を弟子たちに語らなかったので、出自、経歴など分からないことが多いが、1588(天正16)年、第27世住職として、後の喜多院の無量寿寺北院に移り、「天海」を号した。

当時の無量寿寺は、中院(仏地院)を中心に、北院(仏蔵院)、南院(多聞院)の三つに分かれていた。

中院の場所には後に東照宮が建ち、中院は南に200m移動、南院は明治の初めに廃院となった。北院は、天海が再建した際「喜多院」と改名した。

家康に「東照大権現」の神号をつけたのはこの人である。

秀忠の諮問に、家康の側近でライバルの臨済宗の金地院(こんちいん)崇伝は「大明神」を主張したのに対し、天海は「豊国大明神」の神号を贈られた豊臣秀吉は滅亡したので、不吉だと押し切った。

家光の時代には、天海は上野に寛永寺を創建した。

当時としては奇跡的な108歳の長寿を全うした(誕生年が明確でないので、はっきりしない)。知力、体力とも超人的だったので、足利将軍のご落胤説や明智光秀の生き残り説などが出たほどだった。

長寿の秘訣として、秀忠に

 長命は粗食、正直、日湯(毎日入浴)、陀羅尼(お経)、時折り、ご下風(おなら)あそばさるべし

という歌を詠んで贈ったのは有名な話。

「黒衣の宰相」というイメージが強いものの、洒脱な人だったのかもしれない。














川越大師喜多院 「どろぼう橋」と五百羅漢

2014年04月03日 13時20分29秒 | 寺社


川越大師喜多院に出かけるときは、山門からではなく裏口に当たる「どろぼうばし」とひらがなで書いてある小さな橋から境内に入る。川越市駅や本川越駅から歩いて行くと、その方が便利だし、名前が気に入っているからだ。(写真)

橋の傍らに立て板があって、その由来が書いてある。

江戸時代、境内は御神領、江戸幕府の御朱印地で、川越藩の町奉行も中に入れなかった。ある時、それを知っていた盗賊が逃げ込んだ。

寺男たちに捕まり、寺僧に悪いことがふりかかるぞと諭された。盗賊はそれを知り、厄除(やくよけ)元三大師に許してもらえるよう祈って、真人間に立ち返った。

それが幕府の寺社奉行に知らされ、無罪放免となり、奉公先も世話されて、まじめに一生を過ごした

というのである。

喜多院には元三大師の他にも二人、合わせて三人の大師がおられるので、「喜多院はどの大師を祀っているのか」が気になっていた。

「元三大師」は通称で、「慈恵(じえ)大師」良源のことである。1205(元久2)年の兵火で炎上後、1296(永仁4)年、尊海僧正が再興した時、勧請(お出でを願う)した。喜多院の本堂が「慈恵堂」と呼ばれるのはこのためだ。

正月3日に没したので、元三(がんざん)大師の名で親しまれる。元三大師には、「厄除大師」「角(つの)大師」「豆大師」などの別名もある。

喜多院でも1月3日が初大師ご縁日。名物だるま市が開かれ、多くの参拝客でにぎわう。

一方、「喜多院」と寺号を改めた天海僧正は「慈眼(じげん)大師」で、境内の「慈眼堂」に祀られている。
もう一人は、平安初期の830(天長7)年に喜多院の前身「無量寿寺」を創建した「慈覚大師」円仁である。没後、朝廷から最初に「大師号」を授けられたのはこの人。最後の遣唐僧として唐にわたり、 日本の天台宗を大成させた。

以来、喜多院は天台宗の関東総本山である。

このどろぼう橋の立て札のお陰で、喜多院の大師は「元三大師」=「慈恵大師」と分かった。元三大師は天台密教に通じておられたので、喜多院は「厄除のお大師さま」なのである。

喜多院でもう一つ面白いのは五百羅漢である。

「羅漢」とは、「完全に悟りを開いた修行者」のことである。悟り澄ました、人間離れした顔が並んでいるのかと思ったら大間違い。一つ一つ違った仕草、表情で、いかにも人間くさいのが魅力である。

百面相ならぬ五百面相である。よくよく見ていくと、自分に似た顔も見つかるという。

川越市のシルバーガイドの説明を聞いていると、人気があるランキングは、一位はひそひそ話をしている二人、二位は大徳利でお酒を注いでいるように見えるが、実は灯油を注いでいる二人、三位は腰をマッサージをしている二人の像だという。

十大弟子、十六羅漢を含め羅漢(尊者)は533体、中央の高座に釈迦如来、文殊・普賢の両菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩と合計538体が鎮座している。

中央の如来や菩薩は、すでに人間を超えた澄まし顔である。

江戸の天明から文政にかけ約50年間にわたって創られた。

喜多院の内部の拝観券と一緒になっているので、時間をかけて丹念に見ると楽しめる。






喜多院 川越市

2014年04月01日 17時42分57秒 | 寺社
喜多院 川越市

川越大師喜多院の境内には何度も足を踏み入れているのに、建物の中には一度も入ったことはなかった。

14年3月28日は、異常気象で長く厳しい冬がやっと終わって、急に初夏を思わせる陽気になった。国の重要文化財に指定されているという客殿や書院、庫裏の中を初めて見てみようかと思い立って訪ねてみると、入り口の右手の枝垂れ桜が見事に花をつけていた。

入るときより、出てきたときの方が花の開きがぐっと増していたのに驚いた。この暖気を待ち構えていたかのようだ。

客殿から見る紅葉山庭園の三代将軍家光のお手植え桜も枝垂れで、春を寿いでいるように見えた。(写真) 「いいタイミングに来た」とつくづく思った。

よく知られているとおり、客殿には「家光誕生の間」があり、書院には「春日局化粧の間」がある。

春日局(かすがのつぼね)とは、家光の乳母で、大奥で権勢を振るったテレビでもおなじみの人である。「化粧の間」は広い部屋が4つもある。化粧だけでなく、密談などにも使ったのだろう。

客殿には、将軍使用の厠や風呂場もついている。厠は2畳敷きの広さ。もちろん水洗ではない。健康状態を知るため、侍医が検便していたという。風呂は肌着を着て入り、お湯をかぶるだけだったらしい。

近くの入場者用のトイレは最新版の自動開閉式ウォシュレットで、その対比がおかしかった。現在の一般庶民が使っているゆったり湯に浸れる風呂とウォシュレットは、世界に誇れる文化だとあらためて思う。

なぜここに家光や春日局ゆかりの場所があるのか、恥ずかしながら知らなかったので、案内を見ると、寛永の大火の復興工事のためと書いてあり、やっと納得した。

「小江戸」と呼ばれる川越は、江戸と同じく火事の多い所だった。川越の歴史は兵火と大火の歴史と言っていいほどだ。

思えば、川越は「蔵の街」が売り物になっているのも、蔵が防火建築だからだ。1893(明治26)年の大火の教訓が生んだ遺産なのである。「時の鐘」だって、時刻を告げるだけでなく、火の見やぐらも兼ねていたのだった。その二つが今では、川越観光の目玉になっている。

歴史上の川越大火の一つ、1638(寛永15)年の火事で、皇居と同じくらいの広さを誇っていた喜多院は、東照宮ともども山門などを除いて焼失した。その山門は今も残る。

三代将軍家光の時である。

焼けた喜多院は、家康が崇敬し、「生き仏」とまで呼んだ天海僧正(慈眼大師)が、家康の援助で再興したものだった。

第27世住職で、寺号を「喜多院」と改めた。

家光は直ちに喜多院の復興を命じた。天海は江戸城紅葉山にあった御殿の一部を譲り受け、解体して喜多院に移築して、客殿、書院、庫裏に当てた。

御殿に「誕生の間」や「化粧の間」があったので、建物ごと江戸城から川越に移転したわけである。

復興の建築資材運搬に利用されたのが、川越と江戸を結ぶ新河岸川だった。以前は「内川」と呼ばれていたらしい。

当時の川越藩主は、島原の乱を鎮圧した松平信綱で、大火の翌年に就任した。この川を改修して舟運体制を整え、川越街道も整備した。碁盤状に道路を整備、城下町づくりにも力を尽くした。川越の今日あるのは信綱のお陰である。

川越の総鎮守氷川神社のお祭りである川越まつりも、信綱が神輿などを神社に寄進したのが始まりだった。

江戸の日本橋から川越の中心地「札の辻」まで十三里ある。川越いも全盛の時代に「九里(栗)四里うまい十三里(十三里半とも)」とPRに使われたとおり、52kmで、健脚者なら1日で歩ける距離である。

新河岸川を使って、徹夜で漕いで翌日昼には江戸に着く「川越夜船」と呼ぶ定期船や1日足らずで往復する「飛切」という特急便もあった。「とびきり」と読むのだろうが、とびきり速いという意味だろう。

海陸の交通の改善で、川越は江戸への「近接地の利益」を享受した。

例えば、川越祭りは、江戸の天下祭(赤坂山王と神田明神の祭礼)をそっくり真似したものだった。東京では市街電車の架線が普及したこともあって、高い山車が使えなくなったので、神輿担ぎに変わったのに、川越では江戸の伝統どおり山車が生き残っている

現在の県庁所在地のさいたま市は、県庁のある旧浦和市までなら川越までの半分以下の約20kmである。

浦和は鉄道の発達で東京のベッドタウンとなり、東京に近い他の都市もそれに続いた。こうして毎朝夕、職場と自宅を往復する「埼玉都民」が登場するのである。

秩父の三峯神社

2012年11月30日 20時01分05秒 | 寺社



たまたま梅雨の晴れ間に恵まれた10年7月10日の土曜日、いつもの仲間と秩父の三峰神社に出かけた。もう何年、いや何十年ぶりのことだろうか。

この神社には、日本神話の中で私が最も興味を持っているヤマトタケルノミコト(日本武尊)の巨像がある。いくつもの巨石の上に1970(昭和45)年に建てられたこの銅像は、本体は5.2m、地上15m。左腰に剣を指し、5本の指を開いた右手を差し伸べている。

東征の際、横須賀市走水を船出して東京湾を千葉に向かって渡ろうとした際、襲ってきた嵐を鎮めようと、自ら入水して果てたオトタチバナノヒメ(弟橘媛)に、「ああ、わが妻(吾が妻)」と呼びかけている姿であろう。

オトタチバナノヒメが、入水時に詠んだ「さねさしさがむのおのに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも=さねさし相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問いし君はも」という有名な歌がある。

相模の野でたぶらかされて、火攻めにあったミコトが、東征の前に叔母のヤマトヒメ(倭姫)からもらった剣(草なぎの剣)と火打ち石を使って難を逃れた時、オトタチバナノヒメの身の安全を気遣ってくれたミコトに応えて詠んだ歌である。

「愛のために一身を捧げる」。日本の数多くの恋の歌の中で最も素晴らしいものの一つではあるまいか。

三峯神社には、山梨県から群馬県の碓井峠に向かうミコト一行が埼玉・山梨県境の雁坂峠で道に迷ったとき、山犬(狼=日本狼)が道案内した。ミコトは、そこに日本国の「国生みの神」である「イザナギ(男神)」「イザナミ(女神)」の国造りをしのんで神社を創建したと伝えられる。

三峰とは、神社の奥の宮がある「妙法ケ岳」(1329m)、「白岩山」(1921m)、東京都の最高峰「雲取山」(2017m)のことだという。

修験道では必ず顔を出す役小角(えんのおづぬ)がこの三峯で修業したとの言い伝えがあり、修験道の道場として知られた。山また山、ぴったりの道場である。

昔は埼玉県の行き止まりの辺境だったのが、国道140号線の雁坂峠に「雁坂トンネル」ができ、山梨県に抜ける「秩甲斐街道」となったので、せっかくの秋の「秩父もみじ街道」も通り抜けの道になった。

神社に通ずる「三峯ロープウエー」も老朽化で廃止され、今ではバスだけ。

しかし、訪れる人が少なくなった分、昔の神秘性が戻っている。標高1102mのこの神社には、梅雨も明けないのに、早くもセミのカナカナが鳴き、山萩が咲いていた。雲取山への登り口では、雨上がりとあって初めて「ギンリョウソウ」も見た。

「狛犬」ならぬ「山犬」が守るこの神社は、女性にも人気の新しいパワースポットになった。絶滅したといわれる山犬(おおかみ)を探し続けている人もいる。年に100万人が訪れるという。社殿も見事に復旧されていて、都会の喧騒が嫌いな人に向いている。


水潜寺 秩父札所34番 結願寺 皆野町

2012年11月27日 14時37分13秒 | 寺社



水潜寺は、秩父札所34番の結願の寺である同時に、日本百観音の結願の寺でもある。(写真)

秩父34箇所観音霊場は、秩父市、横瀬、皆野、小鹿野町の狭い範囲に点在している。

これに対し坂東33箇所は、東京都、埼玉、群馬、栃木、茨城、千葉、神奈川の1都6県。西国33所は、関西の京都、大阪の2府に和歌山、奈良、滋賀、兵庫4県と岐阜県に広がる。

これを全部回ったら大変だろう。

ところが、水潜寺に詣でて、観音堂(本堂)の前にある、百観音の砂が集められている「百観音御砂」の足型の上に足を乗せて拝めば、日本百霊場の功徳が得られるとされる。

足元を見ると、確かに「足型の上で拝めば百観音巡礼の功徳がある」と明記してある。

結願堂の前には百寺の名を記した石輪を回せる「百観音功徳車」もある。

6体のお地蔵様が並ぶ6地蔵も7観音もそろっている。

結願の寺だから他の33観音の石像がずらり並んで迎えてくれる。

まだ33箇所を回り終えていないのに、早々と水潜寺に来たのは、秩父鉄道の皆野駅から便数は少ないものの、町営バスがあり、約20分。距離は6kmぐらいで、歩いても1時間半くらいで来られるからだ。

それと山の中の寺なのになぜ「潜水」という海にあるような名がついているのか、この目で確かめたかったからだ。

本堂の右手の山に自然にできた岩屋があり、通り抜けられるようになっている。そこには清水が湧いていて、観音詣でが終わった人は中をくぐって、その水で身を清め、聖なる世界からまた俗世間に帰っていく慣わしだった。

そこから水潜り寺が水潜寺になったのだという。

その岩屋をぜひ潜ってみようと楽しみにしていたのに、今は落石や落木の恐れがあるというので、立ち入り禁止になっている。

岩屋の水はパイプで引いてきて「水くぐりの長名水」の名で飲めるようになっている。飲んでみると冷たくおいしい。

「水かけ地蔵尊」も近くにあり、長名水を三杯かけて願い事を三度唱えるとかなうとか。

「撫でぼとけ」で知られるオビンズル様も讃仏堂の左側にある。

この寺で拝めば功徳、御利益が一杯だ。

子連れの熊が数度目撃されているので、「熊出没注意」の張り紙があるのが、いかにも山寺にふさわしかった。

皆野町出身の俳句界の長老・金子兜太氏の

 曼珠沙華 どれも腹出し 秩父の子

の句碑が立っているのも似つかわしい光景だった。

結願寺らしく、水潜寺の本尊は、中央に一木造り室町時代の作とされる「千手観音」、脇に西国を象徴する阿弥陀如来(西方浄土)、坂東を象徴する薬師如来(東方瑠璃光世界)を配している。

有難い限りである。

帰りはバスの便が少ないので、秩父鉄道・親鼻駅まで歩いた。寺から少し下りると、「秩父温泉・満願の湯」がある。

地下数百mから湧出する、全国有数のアルカリ性が極めて高い天然温泉だという。

入ってみようかと思った。だが、満願ではない身。これ以上ばちあたりを重ねては、と遠慮してヤマを下った。

駐車場は車で一杯だった。

法性寺 秩父札所32番 小鹿野町

2012年11月25日 19時15分34秒 | 寺社


法性寺(ほうしょうじ)は、珍しいものが多い札所である。

山門は、秩父札所で唯一の鐘楼門。2階建てで、1階に仁王、楼上には鐘を吊ってある。

本尊に代わってその前に安置されている本堂の「お前立ち観音」は、船の上に乗って、宝冠の上に笠をかぶり、櫂を持っている珍しいお姿で、「お船観音」と呼ばれる。観音さまが船をこいでおられるのだから、一見の価値がある。この寺が「お船観音」と呼ばれる由縁である。(写真)

このため、猟師や船員、船舶関係者の人々の信仰が篤いと言われ、山の中の寺としては特異な存在だ。

東京の浅草寺の本殿裏にはこれを模した観音像が祀られているという。

この札所には「船」にちなむものが他にもある。奥の院は長さ200m、高さ80mの船の形をした巨岩からなり、「般若のお船」と呼ばれる。この岩も「お船観音」の名前の由来になっている。

ここからの眺めは、秩父札所で一番素晴らしい。県の自然環境保全地区に指定されている。

奥の院への道は、急勾配だ。大岩の洞門をくぐって、本堂から往復1時間から1時間半かかるので、脚に自身のない人は、本堂前の遥拝所で拝んだ方がよさそうだ。

木立の中の岩盤の上に立つ観音堂は 総ケヤキで四方舞台造りの優美で魅力的な建物である。「鳳凰が羽を舞い降りたよう」と形容される。

観音堂の裏の岩窟の砂岩には、蜂の巣状の多くの穴がある。大昔、秩父にまで海が広がり、秩父湾と呼ばれた時代に海に浸されていた証拠である。

「海退」で海が後退し、岩の表面から水が蒸発すると、塩類ができ、その部分がもろく崩れる風化現象の名残だ。

これに触発されて、法性寺の帰路は、「ようばけ」まで脚を伸ばして、秩父の古代をしのんだ。

本堂の前にある「長享2年秩父札所番付」も興味をそそった。長享2年と言えば、1488年。室町時代、加賀の一向一揆など農民の一揆が激しかった頃である。

「番付」とは「札所を回る順番」のことのようで、現在の順路とは違っている。法性寺は、今では32番だが、15番になっている。

1番は、現在17番になっている定林寺だ。当時は、秩父大宮郷(現在の秩父市)を基点にして順路が定められたためである。

この番付は33番までしかない。真福寺(現在札所2番)が加わって、34寺になり、現在のような順路が定まったのは江戸時代の初期だという。

室町時代のこの頃にはすでに、札所の順番が成立していた貴重な資料として県の有形文化財に指定されている。

法性寺は花の寺でもある。

山門を入るとすぐ左手に「これより花浄土」と墨書してある。「東国花の寺百ケ寺」の標札もかかっている。

春はミツバツツジ、初夏はコケのじゅうたん、秋にはサルスベリとシュウカイドウ、それに紅葉と続く。「秩父の苔寺」「シュウカイドウの寺」として親しまれている。

巡礼ではなく、ハイキングやトレッキングの人は「環境整備基金」として300円払ってくれとのことなので、迷わず300円を箱に投じた。

観音院 秩父札所31番  小鹿野町

2012年11月23日 17時00分40秒 | 寺社



12年4月、仲間と二度目の秩父札所めぐりに出かけた。今度は34寺中で最西端の31番「観音院」だけである。

秩父札所の中で最高の景観を誇るとされるだけに、さすがに素晴らしかった。

西武秩父駅からバスで40分。老人の足だから終点の栗尾で降りて、坂道を同じくらいの時間歩く。

「花街道」の名に恥じず、名物の「しだれ桃」が、坂の下から上に順に開き始めていた。

「しだれ、梅、桜」には慣れているものの、「しだれ桃」、それも一本ではなく、道の両脇のあちこちに咲こうか、咲くまいか、微妙な状態にあるのを見たのは初めてだった。

白、紅一色のもあれば、同じ木に白、紅の花が別々についているもの、もっとすごいのは花の中に白、紅の混じっているもの。満開になればさぞ美しかろう。

中国人が昔から桃が好き。「桃源郷」という言葉があるのを思い出した。この春、寒冬の反動で、ソメイヨシノの満開を食傷するほど見たので、「しだれ桃」の美しさは、中国的で格別だった。

この寺は、仁王門に一本石造りとしては日本一の仁王像があるので知られる。木作りの仏像があるのと同じように、一本の砂石から彫り出したものだ。

4mを超す荒削りな石像。地元の日尾村の黒沢三重郎と信州伊那郡の藤森吉弥の作で、明治元(1868)年に完成したとある。

この石は、寺の奥の観音山から切り出された。地元産である。昔は秩父地方の墓石は、ここから切り出されたものが多かった、という。

仁王門から本堂まで296段の急な階段を登る。手すりもあり、赤い四角の杖もあるので、それを借りて上る。

般若心経の字数は276.それに回向分の20字を足した数なのだそうだ。「お経(心経)を唱えながら登ってください」と書いてある気持ちがよく分かる。

階段の両側に多くの句碑が立つ。本堂が改築された際、埼玉県俳句連盟の役員有志が建立した、と記念碑にある。なかなかの作品が多く、いちいち読んでいたら、登るのに時間がかかった。

本堂は大きな岩を背にしており、左手に落差20mの滝がある。水量が多かった時代には、修験者たちが荒行に励んだという。滝下の池の上に不動明王の像があり、池には大きな鯉が泳ぐ。

滝の左側の断崖の大岩には、県指定史跡の磨崖仏10万8千体が刻まれていると書いてある。風化摩滅のため判然としない。

この岩は、2、3千万年前の海底に小石や砂が積もってできた礫質砂岩だという。

秩父が大昔、海底にあったことは聞いたことがある。海底の岩が隆起して目前にあるわけで、感慨を禁じえない。

本堂からさらに階段を登ると、芭蕉の句碑もある東奥の院だ。西奥の院は、土砂崩れがあったため、閉鎖されている。

東奥の院から西奥の院を遠望すると、多くの石仏の姿も見える。この高みに立つと、秩父札所で最西端のこの寺が「西方浄土」と見なされた気持ちが分かる。

無住(無住職)の寺(曹洞宗)ながら、奉賛会の中の5人が、交代で365日朝8時から午後5時まで詰める。ご苦労様としか言いようがない。

本堂の近くで「秩父札所サイクル巡礼」のポスターを見かけた。札所巡りにもサイクリングの時代が到来したようだ。

坂道が多いとはいえ、34寺合わせて100kmだから、若くて元気なら難しい距離ではない。

観音院の手前にある地蔵寺は、札所ではなく水子供養の寺である。1971(昭和46)年の落慶式には、住職の知人だった当時の佐藤栄作首相も祭文を読み、写経を納めた。

山の山腹の何か所かに、赤いおべべ(おかけ)に赤い風車のついた1万4000体を超す水子地蔵が、ずらり並んでいる光景はショッキングである。

建立由来を記した石碑には、第二次大戦後、優生保護法が制定されて以来、胎児の中絶は、当時すでに3千万を超えていたと書いてあり、二重のショックを受けた。

しだれ桃に観音院、地蔵寺と札所最西端に来た甲斐が十分にあった。