ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

志木あらちゃん 志木市

2011年10月21日 12時36分09秒 | 市町村の話題


 あらちゃんを追い求めてる平和かな

こんな川柳が、11年10月20日の朝日川柳に掲載された。投句者は愛媛県の人だから、荒川にちなんだ愛らしいゴマフアザラシのあらちゃんも、一躍全国的な人気者になったようだ。

物見高さだけが身上なので、掲載前日の19日に自転車で現場を訪ねた。

ちょうど正午のニュース時で、テレビ朝日の中継車が停まっていた。アナウンサーが「一番乗りの方は朝5時から。今は200人ばかり。あらちゃんが頭を出してくれないので、私にカメラが向けられている有様です」と、実況中継しているのを聞いて、笑いを抑えることができなかった。

各紙の埼玉県版には、微に入り、細にわたり、あらちゃんの動静が報道されている。

その前日の18日には、あらちゃんにあやかって、知名度を上げたい志木市は、「志木あらちゃん」と名づけ、特別住民票を交付することにして、朝11時から交付式が行われた。

住所は「志木市宗岡 秋ヶ瀬取水堰」と記載され、小さな住民票が堰に近い右岸(川の流れの右側)の川べりに立てられている。

担当の女性職員を任命、ツイッターで市政情報と共に発信するほどの熱の入れようだ。

この取水堰は、河口から35km。水資源機構が管理していて、荒川の水を取水・浄水して、東京都西部に送るのが目的だ。春先に遡上する稚鮎などの魚には魚道が造られているものの、アザラシのような大きい動物には行き止まり。

川がせきとめられる堰のすぐ下流は、スズキ、ボラ、フナ、ナマズなどが釣れる釣り場だ。いつからあらちゃんが来ているのか、不明ながら、アザラシ目撃のうわさが流れ始めたのはざっと2週間前。その頃から釣果が悪くなったという。アザラシの絶好の餌場だったのだろう。

11日からフィーバーが始まった。子供連れの母親はもちろん、自転車の老人男性が目立つ。家族で弁当を開いている人もいる。臨時駐車場には、埼玉ナンバー以外の車も混じる。

12日からいなくなり、6日ぶり17日に再び姿を見せた。志木市の長沼明市長(56)も堰を訪れた。

この周辺にアザラシが姿を見せたのは初めてではない。03~04年に堰の約1km流のボート係留場にちょっとだけ違うアゴヒゲアザラシの「タマちゃん」が現れ、一時住みついて人気者になった。

その時もレジャーボートの上で日向ぼっこしている「タマちゃん」を見に来て目撃したから、「あれから8年も経つか」と感慨が深い。

名前のとおり、多摩川から上ってきたものだった。今度は多摩川抜きの純荒川系。志木市がむきになるのも無理はない。対岸のさいたま市もそわそわしている。

志木市では「あらちゃんメンチ」が、さいたま市のホテルでは「ゴマあらちゃんパン」が売り出された。志木市商店会はその名をとったキャラクターデザインを創り、PRに使用することになった。

テレビ番組が取り上げた時間をCMスポット料に換算すると、75億円の広告効果があったと、との試算もある。

埼玉県宮代町の東武動物公園にも飼育されているし、決して珍しいものではないのに、なぜこんなに人気があるのか。自然の環境の中で、悠然と一人暮らしを楽しむかわいらしい姿が人の心を打つのだろう。

この公園によると、大きさから雌で、年齢5~7歳と見られるとのこと。

あらちゃんは気まぐれだ。次に現れたのは9日後の27日だった。11月2日にも姿を見せたという。出たり入ったり、まるで寅さんのようだ。両市とも住み着いて長期滞在をお願いしたい。だが考えれば、それもあらちゃんの勝手なのだ。

11月24日を最後に姿を消した。10月と11月に姿を見せたのは計15日だった。

埼玉県では一匹狼だから大の人気者なのに、ゴマフアザラシの越冬地・北海道稚内市の抜海(ばっかい)漁港では、厄介者だ。千頭前後いて、定置網のサケの頭部などの一部を食い散らすは、タコつぼから出た足も食いちぎる。

「稚魚や幼魚を好むため、水産資源が減る可能性もある」と指摘する学者もいる。北海道全域のアザラシ被害は約3億円と推定されるという(毎日新聞)。

「所変われば受け取り方は違う」のである。

中華食堂 日高屋

2011年10月17日 13時42分22秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・

 

埼玉県のなかで、日高市はいつも気になる所である。高麗郷、高麗神社と朝鮮半島の関東地方の拠点だったことや、日本一とも言われるマンジュシャゲの自生地なので、何度も訪れた。

もう一つ気になることがあった。「中華食堂 日高屋」である。東京の山手線や京浜東北線の駅前にはほとんどあるので、行かれた人も多かろう。安くて、腹になり、注文するとすぐ出てくる。

「安さ、ボリューム、スピード」がモットーだ。深夜や早朝までやっているところが多い。生ビールも、キリン一番絞り中生が格安の値段で昼間でも飲める。

勘定を済ませると、次回用の麺類またはライスの大盛か、味付き玉子の半額のサービス券がもらえる。

ある時、「何で日高の名なの。経営者が北海道の日高地方?」と、聞いたら、若い女性店員が「埼玉の日高出身だからって聞いたわ」とのことだった。またも、日高市である。

最近、さいたま市の10周年記念で、さいたま新都心で開かれた「食の祭典」のシンポジウムをのぞいたら、さいたま市長らとともに出席していた日高屋の親会社「ハイデイ日高」(本社さいたま市)の高橋均社長が「今は290店舗を突破(12年2月末で300 19年で400を突破)。年間30店舗程度の新規出店を目指し、首都圏500店舗体制を目標にしている」と話している最中だった。

一昔前、「養老の瀧」が、テレビのコマーシャルで「目標1千店」というコマーシャルをよく流していたのを思い出した。この店は、中卒が多く、「親孝行の店」が売り物だった。貧乏学生だったから、池袋の本店にはよく通った。

偶然は重なるものだ。折りしもさいたま新都心の合同庁舎1号館で「連合大学」が開かれていて、すでに第9期を迎えている。その第一回の講師が、「ハイディ日高」の神田正会長(1941年生まれ)だというから驚いた。(写真)

中卒で、一軒のラーメン屋から東証一部上場会社の会長に上り詰めたこの人の話は、太閤記を聞くような面白さだった。

折りも折り、埼玉県立図書館で「はたらく気持ち応援」というブックフェアが開かれていて、「熱烈中華食堂 日高屋 ラーメンが教えてくれた人生」(開発社)という会長の著書が展示されているのに気づいた。講演で触れられなかったことも書いてあり、大変参考になった。

テレビなどでもよく紹介されるから、その履歴は知っておられる方も多いかもしれない。

父親が満州から胸を撃たれて傷痍軍人で帰ってきて、ほとんど働けなかった。母親が近くの名門「霞ヶ関カントリークラブ」のキャディで働いて、夫と4人の子供、計6人を支えた。

当時の日高村で「一の貧乏」。八畳一間とお勝手に親子6人が雑魚寝、いつも空腹をかかえていた。母親に習って、アルバイトとして、小学校6年から土、日には同じゴルフ場のキャディを務め、家計を助けた。

中学を出るとすぐ町工場に住み込んだ。「飽きやすい性格なので」、すぐ夜逃げならぬ”朝逃げ“。その後、喫茶店、キャバレーのボーイなど15ぐらい職を転々。キャデーをやった縁でゴルフ練習場のレッスンプロや、食い詰めてパチプロをやったこともある。

パチプロ当時、普通のサラリーマンの2、3倍の収入があったというからよほど器用な人なのだろう。

ラーメン屋の出前もやった経験から、朝に野菜など材料を仕入れて夜には現金に変わっている「現金商売」の魅力に引かれた。岩槻のつぶれたラーメン店での働きぶりを見ていた大家が、ほれ込んで銀行への100万円の保証人になってくれ、初めてラーメン店を持った。27歳だった。

夜10時閉店のところを朝2時まで店を開き、にぎわったので、スナック経営に手を出したら見事に失敗した。

次のチャンスは、32歳、大宮駅前北銀座のラーメン屋「来来軒」だった。わずか5坪、回りはソープランド街。8割が出前でソープ嬢に愛された。これが業界では画期的なチェーン店展開の第一歩になった。

早朝までがんばるまじめな社長との定評ができ、銀行からの信用も深まった。埼京線(埼玉・東京線)が開通し、埼玉と東京が結ばれた。銀行の支店長の縁で西武新宿駅前に出店できたのが、株式上場のきっかけだった。銀行だけではなく、ベンチャーキャピタルからも出資を受けられるようになった。

新宿への進出がきっかけで、東京の駅前での出店が増え、今では店舗のうち半分以上が東京だ。正社員約600余、パート、アルバイト(フレンド社員と呼ばれる)約5千人。従業員が多いのは、深夜営業が多いからだ。

「夢は見るものではなく、語るもの」という信念から、毎年1度、社員全員の前で「経営計画発表会」を開き、夢を語る。業界初の週休2日制の導入、ボーナス支給、株式上場(店頭→東証第2部→第1部)もこの席で披露した。

店舗数が増えるごとに福利厚生面を含めた従業員の待遇のレベルアップを図ってきた。「土地は買わないに限る。店舗商売は借りるに限る」と、土地も社屋もない。財産は人だけだからだ。

駅前繁華街の一等地の1階。もちろん家賃は高く、「10軒出して2軒はつぶれる」リスクはあるものの、今の夢は山手線全駅前の出店。12年2月には都営浅草線東銀座駅近くにも出店、銀座進出を果たした。最終的な夢は、「あの店がなくては困る」と言われるような、牛丼の吉野家、ハンバーグのマクドナルドと並ぶ“食のインフラ”になることだ。

12年8月には、3百店舗達成を記念して、期間限定で、生ビール中ジョッキ(それもキリン一番搾り)を税込み300円で売り出し、ビールファンもどっと詰めかけた。


芭蕉 奥の細道 草加

2011年10月07日 15時41分46秒 | 街道・交通


学生時代に桑原武夫の「俳句第二芸術論」の洗礼を受けたおかげで、今どきの季節に合わない季語などにこだわる俳句には素直な気持ちで接しきれない。

最近劣化がとみに目立つ川柳に比べると、まだましかと、せっせと「朝日俳壇」などを読むようになったのは歳のせいだろう。

俳句全体ではなく、芭蕉、蕪村、一茶の御三家となると、学生時代から解説書をほとんど読んだので、今でも別格という感じだ。

歩く時間も金もなかったので、当時はやりの国鉄の割安周遊券で芭蕉の足跡をたどってみようとしたこともある。草加松原に何度も来たのは、そのためだ。

芭蕉も歩いた、松並木の遊歩道「草加松原遊歩道」は、いつ来ても素晴らしい。日本の道百選にも認定されている。大流行した松枯れ病にもめげず、これだけの松の木を守り、育ててきたのには感心する。

綾瀬川沿いのこの道は、旧日光街道で、現在は足立越谷線と呼ばれる県道だ。東京都の足立区と、「草加、越谷、千住の先」と呼ばれた草加の北隣越谷を結ぶ道である。

この松並木は、1630(寛永7)年に綾瀬川改修の際、植えられたという説もある。千住・越谷間の宿として草加宿ができた年だ。資料の上では1792(寛政4)年に1230本の苗木を植えた記録があるという。

芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは、1689(元禄2)年。46歳の時だった。

東京スカイツリーの高さに合わせて植え足した634本でもこれだけなのだから、その倍近くの松並木が続いていた頃はと、想像するだけで楽しい。当時の画家や文芸家が多くの作品を残しているのもうなずける。年代から見ると、芭蕉が見たのはその松並木ではない。

松並木は一時60数本まで減った。それを634本まで回復させたのは市と住民の力による。

東武伊勢崎線は、北千住乗換えで銀座への通勤に使ったことがあるので、浅草、千住や草加、越谷には土地勘がある。

いつも不思議に思っていたのは、千住から草加はそれほど離れていないのになぜ日光街道第二の宿、草加宿に芭蕉らが泊まったのか、ということだった。

いろいろ読んで調べてみると、芭蕉は、出発した3月27日(弥生も末の七日=太陽暦では5月16日)、早起きして(明けぼの)、弟子の曾良、見送り人とともに芭蕉庵から舟に乗り、約10km離れた千住で降りて、前途3千里(12000km)の旅を始めた。

実際には600里(2400km)、150日間の旅だったようだ。千住で読んだのが

 行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)

である。この句は「矢立(やたて)の初(はじめ)」とある。隅田川にかかる千住大橋にちかい大橋公園に「矢立初めの碑」が立っている。

松原遊歩道にある木橋「矢立橋」はこれにちなむ。もう一つの木橋「百代橋」(写真)は、もちろん「奥の細道」の書き出しにある「月日は百代の過客にして」による。

読み進むと、「その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり」とあるから、てっきり草加に泊まったのかと思っていた。

千住宿から草加までは2里2町(約8.2km)しかない。今の脚でも徒歩で2時間の距離で、「やうやう(ようよう)」というほどの距離ではない。

芭蕉の日程を記した「曾良日記」によれば、この夜泊まったのは、越谷を越した春日部(当時粕壁)。どこに泊まったかは書いてない。日光街道沿いの東陽寺に山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」の石柱があり、境内に「廿七日夜カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と刻んだ碑がある。

春日部の別の寺(小渕山観音院)にも芭蕉宿泊の言い伝えがあるという。草加には「着いた」とあっても、「泊まった」とは書いてないので、春日部泊だったのだろう。

芭蕉と草加についてもう一つ興味があるのは、芭蕉は今のような草加せんべいを食べたのだろうかということだ。

草加市のホームページを見ても、「醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに醤油が塗られるようになった」とあるから、残念ながら芭蕉は、今のような草加せんべいを食べていない ようだ。

泊まっていなくても、せんべいを食べていなくても、芭蕉がらみの草加の松並木は、一度は歩いてみたいところだ。

草加駅前の観光協会でもらえる「草加市案内図や『草加まち歩きマップ』、それに草加市のホームページは出色で、面白い。この稿でもお世話になった。

草加せんべい 草加市

2011年10月02日 16時47分01秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・


久しぶりに草加を訪ねた。

県外の人に「草加」といって、「そうか」と即座に答えてもらえるのは、「草加せんべい」の発祥地ということぐらいだろう。

昔は何度も出かけたが、「草加せんべい発祥の地」という記念碑が立っているというので、暇にまかせて自転車で出かけてみた。歳のせいか、甘いものではなく、渋茶に合うせんべいの類が好きになってきているからだ。

記念碑に向かう途中思い出したのは、かの俳聖芭蕉が、奥の細道の長旅で千住を立って、初めての宿が、「そうだ草加宿」だったのだ。「せんべいと芭蕉」、いずれも和風で取り合わせに不足はない。草加市もこの二つの売り込みに力を入れている。

「発祥の地」の碑は、北へ向かう旧日光街道が、綾瀬川のすぐ西方を流れる伝右川を小さな橋で越す手前の「おせん公園」の中に立っている。

ちょっと南側には「おせん茶屋公園」というのもあるからまぎらわしい。「茶屋公園」の方は、お茶屋風の休憩所になっていて、かつて草加町役場などがあった場所だ。

草加駅東口のアコス広場にあるせんべいを焼いている女性像も「おせんさん」だ。この「おせん」さんこそ、草加で初めてせんべいを焼き、名物にした貢献者だと伝えられているからだ。

「発祥の地」の碑は、「草加せんべい発祥の地」と彫りこんだ長円形の花崗岩の後ろに、せんべいを焼く箸に見立てた御影石が立っている。1992年、草加煎餅協同組合と草加地区手焼煎餅協同組合が、市民から募金して建てたとある。

言い伝えによると、江戸時代、日光街道草加松原に茶店を出し、団子を商っていた「おせん」という女性がいた。団子はおいしく人気があった。売れ残ると、川に捨てていた。

ある日、通りかかった武士に「それはもったいない。団子をつぶして、平らにして乾かし、焼いてみたら」と言われ、つくってみたら、大評判になり、草加名物になった、という。

江戸時代とあるだけで、いつのことか分からない。草加市出身の全国紙記者が「草加煎餅」を広めようと昭和時代に創作したのだとされる。素晴らしいPRマンがいたものだ。

水に恵まれた草加は、米どころだった。農家は余った米を保存するため、蒸した米をつぶして丸め、干したもの(「堅餅」と呼ばれた)に塩をまぶして焼き、保存食にしていた。

草加宿ができると、茶屋などで売られるようになった。近くの野田の醤油が普及し始めた幕末からは焼いたせんべいに醤油が塗られるようになったという。こうして草加せんべいの原型ができた。

綾瀬川や中川があり、舟運が発達していたことから、江戸に運ばれ、パリパリとした食感と醤油の香りが人気を呼んだ。

全国に知られるようになったのは、1912(大正元)年、川越、所沢、立川で実施された陸軍特別大演習で、大正天皇に「埼玉の名産品」としてこのせんべいが献上されてからだった。

第二次大戦後、「草加せんべい」の知名度が高まると、草加以外の製品や異なる製法のせんべいにも「草加せんべい」の名を使う業者が横行し始めた。このため市と煎餅業者組合は、ブランドを守るため、「本場の本物」の認定と「地域団体商標」登録を獲得し、差別化を図った。

草加市のホームページによると、「本場の本物」とは、農水省管轄の「食品産業センター」が認定するもので、①関東近県で収穫された良質のうるち米を使って②草加、八潮、川口、越谷、鳩ヶ谷で製造し③焼き方は、「押し瓦」での型焼き、または押し瓦方式を取り入れた堅焼きで④最低10年の経験を持つ職人が製造を管理するーーことが基準になっている。

この基準に達したものには、「本場の本物」マークが表示される。

「押し瓦」とは、炭火で網を通して焙っていると、ふくらんでくる生地を押して、何度もひっくり返し型を整える取っ手つきの小さな瓦で、箸とともに草加せんべいつくりの必須の道具。

手焼き用と機械焼き用がある。製造を管理する職人は、正式には「草加市伝統産業技士」といういかめしい名前を持つ。

「地域団体商標」とは、従来の特許庁管轄の商標登録制度では、地名入りの商標(トレードマーク)は原則として認められなかったが、新しい「地域団体商標制度」で、地域名と商品名の登録が可能となり、「草加せんべい」も登録された。

草加市内には、せんべいの製造所と販売所は70軒以上ある。

煎餅と「餅」の字はあっても、「もち」ではない。もち米ではなく、うるち米(飯米)を使う。考えてみれば、米と醤油だけでつくるのだから、どんなに米や醤油の質を吟味して、どんなに高価な備長炭で焼いてみても、私のような老人には受けても、若い人はどう反応するか。

うるち米100%ではなく、別のもの、例えば、青のり、ニンニク、ザラメ、シソ、味噌、マヨネーズを入れたり、イチゴ、チョコ味も登場している。

他の名物同様、「まるいしあわせ」というPRソングもできており、草加在住の女性マリンバ奏者の「草加せんべい大使」が、ハワイで「せんべいコンサート」も開いた。マスコットの「パリボリくん」も活躍中。松原団地駅に近い「伝統産業展示室」には、直径2.1mのジャンボせんべいの堅焼きも展示してある。

PRに手抜かりはない。21世紀、草加せんべいはどう生き延びていくのだろうか。