ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

高麗の里 マンジュシャゲ(曼珠沙華) 日高市

2011年09月26日 19時45分12秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

高麗の里 マンジュシャゲ(曼珠沙華) 日高市

朝鮮半島と埼玉県との関係が深いことを知ったのは、大学時代だった。オンボロの学生寮住まいで、まだ埼玉に何のかかわりもなかった頃、金達寿の「日本の中の朝鮮文化」を読んだ時である。

地方勤務を終えて、埼玉に住み始めた時、早々と訪ねたのが、高句麗からの渡来人が開拓した日高市の高麗の里だった。

日本で昔、「高麗」と呼ばれた高句麗は地理上では、旧満州の南部から現在の北朝鮮のすべて、さらに韓国に大きく食い込み、朝鮮半島の大半を支配していた国。668年、唐と新羅に滅ぼされた。

渡来人とは、現在のように、着の身着のままのアフリカなどの難民とは違う。国は敗れても、先進文化と技術を持っていて、国づくりが本格化しようとしていた当時の日本では大歓迎された。

日高市の巾着田(きんちゃくだ)のマンジュシャゲは、500万本と言われ、「日本一の群生地」の触れ込みである。15年10月から「ハギ」と並んで「市の花」になった。

11年の彼岸には、「咲いている」との新聞報道を確認してから訪ねた。前年は、「当然咲いている」と思って出かけたら、数本しか咲いていなかったからだ。

入場料200円(前年は咲いていなかったのでタダ)。入り口には「5分咲き」と書いてあった。早咲きと遅咲きの所が分かれているので、咲き方がずれるようだ。古木の上に咲いているのもあって、カメラが群がっていた。(写真)

全周してみると、あいあい橋(後述)の近くの斜面には白いのもあって満足した。

巾着田の名は、ハイキングコースの近くの日和田山(305m)の頂きから見ると、昔の巾着(財布)の形にみえるからだという。巾着などという言葉を若い人は覚えているのだろうか。

今回は、高麗川の迂回するとおりに歩いてみた。すばらしい清流である。川原に下りて水に触れるのが最高だ。

総面積は22ha。ヒガンバナは湿った場所が好きで、群生するのは、主に巾着の底と山から見て左の部分に当たる川沿いの地5.5ha。2kmの散策路ができている。

巾着の開け口には、平成8年に完成した歩行者専用の歩道橋「あいあい橋」がある。長さ91mの日本で最長の木製トラス(Truss)橋。トラス橋とは、橋下を三角形に組み合わせた梁で支える構造になっている。

なぜここにヒガンバナが群生するようになったか。最初は球根が流れ着いて、それを人手で増殖、日本でも有数の群生地になった。一日一万を超す見物人が押し寄せる(15年は27万人)ので、「巾着田の詩」という歌謡曲も売り出されている。

ところで、ヒガンバナは一般に、田んぼの土手、畦や墓場の周囲に生えていることが多い。根に「リコピン」という毒があるので、モグラや野ネズミが穴をあけないよう、人工的に植えられたのだという。

稲や、土葬だった遺体を損傷から防ぐためだ。その根茎が強いので、畦補強のために植えたという説もある。

地下茎にはデンプンが含まれ、長時間水にさらせば無毒化して食用になるので、昔は飢饉対策に植えられたと、聞いたこともある。薬にもなるそうだ。

奈良の飛鳥を歩いた頃、あぜ道に咲いていたのを思い出す。

全国には30の方言(50超とも)があるようで、咲いている場の連想から「死人花」「幽霊花」「地獄花」とも呼ばれる。日本では不吉な花のイメージが強いのに、外国では観賞花としてリコリスと呼ばれ、いろいろな品種が開発されている。

それにしても曼珠沙華とは難しい名前だ。サンスクリット語の仏教用語。「天上界の花 赤い花」という意味だそうで、おめでたい事が起きる兆しに赤い花が天から降ってくるという法華経などに由来するとか。

「マンジュウシャカ」という読み方もあるようで、山口百恵の「曼珠沙華」では、「恋する女はマンジュウシャカ」と歌われているのを、覚えている方もいるだろうか。私は聞いたことはない。


梅百花園 長瀞町宝登山 

2011年09月24日 08時38分50秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

梅百花園 長瀞町宝登山  

急に春めいた10年3月13日の土曜日、仲間と梅見としゃれこんだ。俳句の「春浅し」の兼題にふさわしいものが何か見つかるかなという下心もある。

宝登山(497m)を「ほとさん」と読むのかと思っていたら「ほどさん」と濁って読むのが正しい。日本武尊が建立したと伝えられるこの神社は、山火事に包まれた尊を山犬が救出した伝説にちなんで「火止山(ほどやま)」と呼ばれていたためという。奥宮は狛犬の代わりに山犬が守っている。

「水戸の偕楽園」「吉野梅郷」「熱海梅林」「小田原梅林」「越生梅林」「秋間梅林」など関東の梅の名所は季節毎に訪ねてきた。しかし、梅の種類となると、紅と白の違いぐらいでほとんど知らず、せいぜいポピュラーな実梅の「白加賀」ぐらい。

1986(昭和61)年から植栽が始まった「梅百花園」は、約170種、470本と関東では最も品種の多い梅園である。水戸の偕楽園は約100品種、3千本という。

名前にびっくりしたので覚えている「見驚」も咲いていた。花弁が大きいので、この名がついたのだろうと実感した。それぞれの梅の木に品種の名がついているので、花を眺めながら見ると、いずれも風流な名前だなと感心する。

梅に限らず、桜も椿も菖蒲もいずれもほれぼれするような名前がついている。日本には古来、俳句の伝統のせいか風流人が多いのだろう。

うなったのは、ロープウエーを降りた所にある不動寺参道のしだれ梅の並木だった。150本あるという。しだれ桜ならよく目にするが、しだれ梅を一度にこんなに見たのは初めてだった。

その中に「しだれ梅緑萼(りょくがく)」というのがあって、これも初めてなので感じ入った。緑色系の桜は、時折目にするのだが、緑の梅の花を見た経験はこれまでなかった。世の中には知らないことが多い。

不動寺周辺には、花期が遅く長い「関山」などの八重桜約31種約500本を集めた「長瀞通り抜けの桜」(約800m)もある。

緑色の「鬱金(うこん)」「御衣黄(ぎょいこう)」も、もちろんある。桜にはいろいろの種類があるのを知るためにも、十分通り抜けてみる価値がある。

厳冬には山頂近くのロウバイ園(約1万5千平方㍍)には、3種類のロウバイ(和ロウバイ、素心ロウバイ、満月ロウバイ)約3千本が咲く。

秋にはこの寺は撫子(なでしこ)寺として知られ、秋の七草寺の一つ。白色のマンジュシャゲも咲く。

厳冬には山頂近くのロウバイ園(約1万5千平方㍍)には、3種類のロウバイ(和ロウバイ、素心ロウバイ、満月ロウバイ)約3千本が咲く。


秋の七草寺 長瀞 

2011年09月23日 16時35分40秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
秋の七草寺 長瀞

長瀞の魅力は、宝登山神社や岩畳だけではない。「花の里」でもある。春のロウバイ、ウメ(百花園)にしだれ梅、通り抜けの桜については、少しずつ書いてきた。

秋の七草寺もあるというので、11年、今度はまだ暑いうちに訪ねた。秩父の入り口に近い長瀞は、標高が平地の埼玉県より少し高いので、秋の訪れも早い。

案内のパンフレットを見ると、秩父鉄道の野上駅(長瀞から一つ熊谷寄りの駅)が五つの寺に近いとあるので、この駅で下車すると、女性が多い中高齢の人の長い列が目に入った。

聞けば、西武鉄道と秩父鉄道が主催する「七草寺めぐりハイキング」の参加者で、西武秩父駅経由で樋口駅(野上駅のもう一つ熊谷寄り)下車。尾花(ススキ、カヤ)の道光寺を振り出しに歩いているのだという。

道光寺前には、春には約1万本の「長瀞かたくりの郷」があるので有名。

風流な人は多いものだとつくづく感心する。

葛の遍照寺も見て、萩の洞昌(とうしょう)院(写真)に向かっている途中だった。全部で約13km、約4時間のコースだという。

「道を聞く労が省けるな」と、ちゃっかり便乗することにした。

洞昌院の萩は見ごたえがあった。山萩、白萩、紅萩、夏萩、宮城野萩、屋久島萩・・・。萩についてはよく知らないので、どれがどの萩だとは分からないのに、その種類と、境内からお墓のある裏山にかけて植えられている1万本を超す萩の数に圧倒された。

この後、桔梗の多宝寺、藤袴の法善寺、女郎花(おみなえし)の真性(しんしょう)寺を回った後、約600本の桜並木(北桜通り)を抜けて、長瀞駅へ出て、撫子(なでしこ)の不動寺まで登ってゴールだ。不動寺は、春の花見でも何度か立ち寄った。

法善寺は,春にはしだれ桜で知られる。

初めて気がついたのは、長瀞駅前の長瀞町観光協会で、電動自転車のレンタサイクルを始めたことだ。これを借りれば、道さえ分かっていれば、長瀞駅発着で走るだけなら20km、2時間で7つの寺を回れるという。

長瀞駅前発の七草寺回り定期観光バスもある。

七草の開花状況は、長瀞町観光協会のホームページにアクセスすれば一目で分かる。

秋の七草が終われば、次は紅葉だ。荒川沿いの紅葉は素晴らしい。「月の石もみじ公園」のライトアップが始まるのは11月中旬から。推定樹齢50~80年ぐらいの多くのイロハモミジとオオモミジがある。同時期に宝登山神社の紅葉もライトアップされる。

「月の石」の名の由来は、高浜虚子の

ここに我 句を留むべき 月の石

の石碑があるからという。

ロウバイから紅葉まで、長瀞は一年中花が絶えない。神社に地質に花、紅葉、それに舟下りとマルチな観光地である。13年には約230万人の観光客が訪れた。何か名物になるようなおいしいものがあれば最高なのだが。

ミシュラン 長瀞町

2011年09月21日 17時45分24秒 | 名所・観光
ミシュラン旅行ガイド 長瀞町

生来、おっちょこちょいなので、11年5月中旬、「長瀞町がミシュランの旅行ガイドに、県内で初めて掲載された」と聞いて、てっきり高尾山(東京・八王子)と同じ評価(★の数)が与えられたのか、と早とちりした。

新聞をよく読んでみると、ミシュラン社の日本旅行ガイド本「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で、評価も高尾山のように「わざわざ旅行する価値がある」の「★★★」(三ツ星)ではなく、長瀞町の宝登山(ほどさん)神社に「興味深い」の「★」(一つ星)が付いただけ、ということが分かった。

がっかりすることはない。県内の観光地といえば、川越や大宮の氷川神社がいつも筆頭。それより先にミシュランに紹介されたのだから、長瀞町や観光関係者だけでなく、上田清知事もブログで「町や鉄道会社などと共同で観光PRを実施する」と喜んだ。

長瀞町(正確に言えば長瀞を中心とする秩父地区)は、続いて9月5日、全国で20か所になる「日本ジオパーク」にも認定されたので、その相乗効果に期待している。

「ミシュラン・グリーンガイド」は1926年からグルメの格付けでも有名なフランスのタイヤ会社ミシュランが発行、世界中のツーリストに信頼されている。その日本旅行ガイド本「ジャポン」は07年4月に次ぐもので、5月13日発刊の仏語版改定版に掲載された。

これに「埼玉県と群馬県のツアー」が取り上げられ、長瀞については、秩父鉄道上長瀞駅から、「県立自然の博物館」や神社をめぐるコースのほか、都心からのアクセス、周辺の飲食店などが約1ページ紹介されているという。

宝登山は、標高497㍍。500㍍にも満たない。高尾山の599㍍より100㍍ほど低い。宝登山神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の途中、山頂に向   かっている際、火難に遭い、進退窮まったところを神の使いの山犬が火を消し止めて、助けてくれたことから約1900年前創建された。この故事から「火止山(ほどやま)」の名ができ、「宝登山」に変わった。

火災盗難よけの守護神として関東一円から年間100万余の参拝者が訪れる。)09年に136年ぶりの大改修工事をしたばかりで、極彩色の彫刻が見事。

秩父神社、三峰神社と並ぶ秩父三社の一つである。

9月に開業100周年を迎えた長瀞駅から神社まで徒歩15分。山頂には奥宮がある。神社から徒歩3分でロープウエイ乗り場山麓駅があり、山頂駅まで5分。山頂駅から徒歩6分で奥宮。山頂付近では、季節によってウメ、ロウバイ、ツツジが楽しめる。

宝登山神社には普通、長瀞駅から出かける。秩父鉄道で一つ秩父駅よりの上長瀞駅を使うなら、「県立自然の博物館」にも近く、荒川に降りると有名な「虎岩」も見られる。「虎岩」は、褐色と白色の層からなり、虎の縞模様を思わせるので、この名がある。

1916(大正5)年、盛岡高等農林の二年生だった宮沢賢治は、この模様を博多帯になぞらえて、

 つくづくと粋なもやう(模様)の博多帯荒川ぎしの片岩の色

と詠んで、親友に送ったとされる。「虎岩」もまた片岩なのだ。

近くの親鼻橋下の荒川右岸には美しいピンク色のこれまた有名な「紅簾石片岩」があり、その対岸が「長瀞舟下り」の出発点だ。

「長瀞舟下り」は、「ジオパーク」を川から見るのが主眼だから、「ジオパーク」と「ミシュラン」のコラボレーションが実現するだろう。長瀞観光の一つの未来図が描けそうだ。






長瀞ライン舟下り 

2011年09月20日 14時31分56秒 | 名所・観光
長瀞ライン舟下り 

埼玉県の母なる川「荒川」は、文字どおり「荒れる川」を語源とする。

東京・赤羽の岩淵水門で隅田川と別れて荒川放水路ができるまでは、江戸や東京の下町に何度も洪水をもたらし、恐れられた。

その上流に長い瀞(氵=さんずい、水の意、つくりは静か。静かな水=川)があるのは、皮肉な話だといつも思っていた。

そこを下るのだから、瀬(水流の急なところ)もなく、さぞゆったりしたもので、スリルも味わえまいと、これまで敬遠してきた。

ところが、「長瀞ライン下り」のパンフレットなどを見ると、けっこう川波が荒立っているところもあるようだ。

百聞は一見にしかずと、梅雨晴れの13年6月17日初めて乗ってみた。

運航ルートは、国指定名勝・天然記念物の岩畳の上流の親鼻橋(皆野町)から下流の高砂橋の南までの6km(Cコース約40分)。岩畳はそのちょうど中間点にあるので、親鼻橋―岩畳(Aコース約20分)と岩畳―高砂橋(Bコース約20分)に分かれる。

通しよりもAかBのどちらかに乗る人が多い。長瀞駅を降り、秩父鉄道を渡った所にある「長瀞ライン下り案内所」で乗船券を買って待っていると、バスが迎えに来て、出発点に向かう。

乗り場は橋の下で、私の乗ったAコースでは秩父鉄道の「荒川橋梁」をくぐって下る。

船は、大工経験のある船頭の手作りの和船(約1.5t)でエンジンなし。前後の船頭二人が長い竹ざおと後ろの櫂(かい)で操る。定員約20人。

船べりに長いビニール・シートがつけてあるのは、瀬を通る際、水がどっと入り込んでくるため、カメラや持ち物、衣服が濡れないようにするためだ。

短いコースなので、ゆっくり両岸を眺めている余裕はあまりないものの、「亀の子岩」や、岩畳の対岸には、「秩父赤壁」が迫り、「明神の滝」も見える。

夏の川風に加え、春には岩畳のユキヤナギ、秋には対岸の紅葉が美しい。

この日は、梅雨の合間とあって、水かさはふだんの日よりいくぶん高く、水の色も茶色くにごっていた。このため、流れも速く、岩畳の南端の到着地まで18分で着いた。

船頭さんの説明だと、この付近にはウグイやハヤ、オイカワ、コイなどの魚種が豊富。それを狙って、カワウが飛んでいるのが見えた。

離岸してまもなく「勢子(せいご)の瀬」、岩畳の目前に「小滝の瀬」があり、水が入ってくる。

長瀞ラインは、河口から約110kmのところにあるという。

カヌーを楽しむ若者の姿もあった。カヤックやラフティングも楽しめる。

船くだりは3月10日から12月4、5日まで。冬の荒川は、水も澄み、流れはとてもゆるやかなので、コタツ船も楽しめる。

「長瀞遊船」の名で1915年に創業、100周年を迎えた長瀞ライン下りは、観光川くだりのランキングで全国4位、年間230万人が利用するという。

長瀞駅の駅員さんの話だと、駅の海抜はざっと140m、宝登山神社の鳥居で200m、山頂で500m(細かくいえば497m)。

参道を登ると、冬の間に凍らせた天然氷をかき氷で食べさせる店に行列ができていて、旧新井家住宅近くの「花の里」ではハナビシソウが満開だった。







「紅廉石片岩」 長瀞町

2011年09月19日 12時46分20秒 | 名所・観光

「紅簾石片岩」長瀞町

宝石でも奇石でもない。中国のように奇岩怪石がそそり立っているわけではない。世界で最も美しいと言われる“岩石の女王”が荒川沿いの長瀞にあると聞いて、日本一の板碑(いたび)「野上下郷石塔婆」を訪ねた足で、現地を訪ねた。

名は「紅簾石片岩(こうれんせき・へんがん」。白い石英片岩が筋状に入っているので「紅簾石石英片岩」とも呼ばれる。「片岩」とは、圧力や温度などの変成作用を受けた変成岩のこと。

「武蔵型板碑」の原石の緑泥石片岩もその一種で、板状に割れるのが特徴。「秩父青石」「武蔵青石」とも呼ばれる。

それが「紅簾(赤いすだれ)」状になっているというのだから、その名だけで魅せられる。紅簾石を多く含み、石英、絹雲母が混じり合っているため、季節や時間で見る目には暗紫色や真紅色にも変化するという。国名勝、天然記念物に指定されているのに、立入禁止でもなく、自由に上にも乗れる。

私が訪ねたときは朱色に近いように見えた。岩上で紅色が強い部分を見ていると、その色合いや形状から官能的なものを感ずるほどだ。

秩父鉄道の親鼻駅から徒歩で約10分。親鼻橋のすぐ上流の右岸にある。国指定名勝・天然記念物「長瀞」の最も上流にある。これだけの規模の紅廉石片岩が露頭しているのは、世界でも珍しく、貴重な存在だという。

1888(明治21)年、この「紅簾石」を世界に先駆けて新鉱物として発見したのは、近代鉱物学の日本の草分け、東大教授の小藤(ことう)文次郎である。小藤文次郎は、ナウマン象の発見者としてその名を残すドイツ人お雇い教師のナウマンが、最初の東大地質学教授となった時の第一期生。

ドイツに留学し、36年間東大教授として秩父などの結晶片岩の研究を進めた。

ナウマンは、日本に初めて近代地質学を導入、1878(明治11)年、日本で初めての地質調査を長瀞で実施した。このため長瀞は「日本地質学発祥の地」とされる。

長瀞のキーワードは「変成岩」である。岩石にはそのできかたによって、火成岩、堆積岩、変成岩の三つがある。

火成岩は、マグマが溶けて冷えて固まったもので、花崗岩、玄武岩など。堆積岩は、礫、砂、泥、火山灰などが積もって、固まってできたもので、砂岩、泥岩、凝灰岩など。

変成岩は、このような岩石が、高い圧力や熱で、新しくできた岩石のことである。結晶片岩がその代表。

秩父鉄道の上長瀞駅に近い「県立自然の博物館」の前の川原の荒川左岸には、阪神ファンが喜びそうな、虎の毛皮の縞模様に似たこげ茶色の「虎石」がある。これが結晶片岩である。

1916(大正5)年、盛岡高等農林学校が毎年のように実施していた秩父への地質旅行の中に、当時2年生の19歳の宮沢賢治がいた。虎岩の美しい色と縞模様に感激して

つくづくと「粋な模様の博多帯」荒川岸の片岩の色

という句を親友に送った。

その歌碑が博物館の前に、「日本地質学発祥の地」の碑とともに残されている。

この長瀞を中心とする秩父地域を地質の世界遺産であるユネスコの「ジオパーク」指定を目指す運動が続いている。

長瀞は11年、その一歩手前の「日本ジオパーク」にやっと認定された。遅きに失したという感じだ。


「ようばけ」  小鹿野町

2011年09月18日 16時13分01秒 | 名所・観光

「ようばけ」 小鹿野町

昔から訳の分からない単語が好きだ。埼玉県は東京に近過ぎて、方言がほとんどないので、分からない単語は少ない。

青森に初めて赴任した時、「まいね」(だめ)という単語だけが聞き取れて、青森弁はドイツ語の響きに似ていると思ったものだ。

大学時代、単位取りとドイツ歌謡のためだけに第2外国語にドイツ語を選んだからだ。当時はまだドイツ語に人気がある頃だった。

「ようばけ」の語をはじめて聞いた時、「せいよう(西洋)お化け」のことかと思った。「面白い。一度見に行こう」と思ってすでに何年経つだろう。

秩父がさる11年、日本の「ジオパーク」の一つに指定されたこともあって、色々読んでいるうちに、「おばけ」ではないと分かったものの、行きたい気持ちは変わらなかった。

14年6月末、札所32番法性寺を訪ねた足を伸ばしてみた。

遠くから見ると、山崩れの現場のように見える。近づくと、幾つも横に長い筋が入って、幾層にもなっていることが見えてくる。これは崩れではなく地層の大「露頭」なのである。

よくよく見ると、砂岩の層と泥岩の層が互いに重なり合っているのが見える。

高校時代に、受験に役立たないと地学を学んでいないので、地球の歴史についてはからきし知らない。目の前にある「小鹿野町立おがの化石館」に飛び込んだ。

「2階のベランダからよく見えますよ」とのことで、上がって見ると、なるほどだ。「お化け」とか「山崩れ」と思っていたのが恥ずかしくなる。

「ようばけ」とは、「よう」と「ばけ」の合成語。「よう」とは陽(日)の当たる様子、「ばけ」とは秩父で崖のこと。「陽の当たる崖」である。あいにく曇り日だったので、陽の当たっている写真は取れなった。

赤平川の右岸の高さ約100m、幅約400mの大きな崖で、秩父地方では最大、全国でも有数な規模の露頭である。地層を観察するのに格好の場所なので、研究に訪れる人も多い。「日本の地質百選」にも選ばれている。

資料を読むと、現在の秩父盆地は約1500万年前、東側が外海に通じる湾(秩父湾)になっていて、砂岩や泥岩などの地層(新生代第3紀層)が約5千mの深さに堆積している。

盆地の川沿いからクジラなど、武甲山の山頂からも貝の化石が見つかっているのは、そのためだ。

周りの山地が隆起して、一辺が約12kmの正方形に近い盆地になって取り残されたのが秩父盆地なのだという。

1916(大正5)年、盛岡高等農林学校時代、学校の地質研修旅行でこの地や長瀞の岩畳、虎岩などを訪ねた宮沢賢治の歌碑が、「ようばけ」を望むこの化石館の裏に立っている。(写真)

 さはやかに半月かかる薄明の秩父の峡のかへり道かな 

「ようばけ」を見た後、宿への帰り道でできたと考えられている。

おがの化石館には、まだ不明なことが多く、「世界の奇獣」と呼ばれる「パレオパラドキシア」の骨格模型が展示してある。

「ようばけ」と同じ地層がある近くの般若地区で発見された哺乳類で、目、鼻、耳の位置からワニやカエルのように水陸両用の生活をしていたらしい。

骨格模型は、海を泳ぐ姿勢で復元しているとある。こんな怪獣がえさを探して秩父湾を泳いでいたと想像するだけで楽しくなってくる。陸に上がって近づいて来られたらそれこそ大変だ。

足に水かきのようなものがあり、歩くのは苦手だったようだが。

16年8月27,8日には、大型投影機を使って、このようばけの崖にパレオパラドキシアが泳ぎ、化石になっていく様子が映し出されて、人気を呼んだ。


ジオパーク 秩父

2011年09月15日 17時32分57秒 | 名所・観光

ジオパーク 秩父

最近、秩父の長瀞町が脚光を浴びている。11年9月5日、長瀞を中心とする秩父市、小鹿野、皆野、横瀬の一市四町にまたがる秩父地域が日本のジオパークの一つに認定された。

「ジオ」の語源は「地球、大地」を意味する。それに公園の「パーク」をつけたのが、「ジオパーク」。世界遺産の地質版といえる。英語では地質学は、GEOLOGY(ジオロジー)だ。

日本ジオパーク委員会では「大地の公園」という訳語を使っている。素晴らしい名前ではないか。

秩父地域は秩父山地の誕生から約3億年の歴史を秘めているという。いま地質学に興味が出てきたのは、やはり歳のせいか。

長瀞には何度も来た。学生時代、「瀞」という語の意味が初めて分かったのも、ここに来たおかげだ。「さんずい」は、水のことだから、それに「静」がついて、「水が静かに流れるところ」、もっと言えば、「淀むところ」だ。流れが急な「瀬」の反対語だ。

昔は、名物の藤の花が淵(瀞)の水面に映るので、「藤谷淵」と呼ばれていた。「長瀞」と呼ばれるようになったのは、1911(明治44)年に宝登山神社の宮司が、「長瀞は天下の景勝地」という碑を長瀞駅前に建ててからだという。

長瀞の近くに「玉淀」(玉のような淀み)という風流の極みというべき地名もある。吟行には最適の場所だ。同じ国の名勝・天然記念物の熊野の「瀞(どろ)八丁」を訪ねても、長瀞を知っているのでそれほど驚かなかった。

日本ジオパーク委員会が認定した日本ジオパークはこれまで、南アルプス、霧島、恐竜渓谷ふくい勝山、伊豆大島など14か所。今回、秩父地域を含め6候補がすべて認定されたので、これで20か所になる。

秩父地域は、09年に引き続き「日本ジオパーク」に加盟を申請していた。

これまでの14か所の中で、「世界ジオパーク」に認定されているのは、北海道の「洞爺湖有珠山」、「糸魚川」(新潟県)、「島原半島」、「山陰海岸」の4か所だった。

「世界ジオパーク」は、国連教育・科学・文化機関(UNESCO)が支援する「世界ジオパークネットワーク」(事務局・パリ)が、各国のジオパーク委員会が加盟申請したものを認定する。

9月18日、ノルウェーで開いた会議で、日本の室戸市を含む9か国10地域が新たに認定されたので、全部で34か国87地域になった。

室戸岬を中心とする室戸市は、09年に日本ジオパークに認定され、昨秋、日本委員会が世界ネットワークに加盟を申請していた。

日本委員会は、室戸に続いて隠岐諸島を世界ネットワークに加盟を申請した。

この日本の世界ジオパークに比べて、「秩父地域」は決して引けを取らない。次の目標は、「世界ジオパーク」である。

秩父地域は明治以降、「日本地質学発祥の地」とされ、記念碑もある。地中の奥深くにあったものが身近で見えるので、「地球の窓」という呼び名もある。長瀞の岩畳は、「日本の地質100選」に選ばれている。

長瀞の岩畳は、幅約60m、長さ約500mのわが国有数の岩石段丘。岩畳は地下20~30kmの数千気圧の圧力と200~300度の高温で、約7千万年前に変化した変成岩「結晶片岩」が隆起、露出しているのだそうだ。

「結晶片岩」とは、岩石をつくる鉱物が一定の方向に並び、「片理」と呼ばれる薄く割れやすい性質がある。それに加え、割れ目が格子状に走る「節理」も帯びていたので、畳を敷き詰めたような景観ができたという。

日本一の規模の甌穴(おうけつ)もある。岩のくぼみなどに小石が入って、回転してえぐったもので、直径は上部で1.8m、中、低部で1.4m

深さが4.7m。長瀞オートキャンプ場のすぐ近くの大岩の中腹に位置する。

対岸には絶壁「秩父赤壁(せきへき)」がある。

長瀞に比べアクセスが悪いので。あまり知られていない「小鹿野のようばけ」では、約1500万年前の地層が観察できる。若き宮沢賢治も訪れた。

秩父音頭で有名な秩父盆地は、約1600万年前には「秩父湾」と呼ばれた。この湾に哺乳類の不思議な海獣「パレオパラドキシア」や、巨大ザメ「カルカロドン メガロドン」などがいたという。「チチブクジラ」というのもいたというから面白い。どんな鯨だったのだろうか、想像するだけで楽しい。





わらびりんごの三度咲き 

2011年09月06日 18時03分03秒 | 市町村の話題



社会に出て、初めて赴任したのが青森県だった。もう半世紀前になるのに、青森のすべてに思い入れがある。

その筆頭はもちろんリンゴである。青森市が本拠だったので、リンゴの本場・津軽に出かけた回数は、十指を超す。

当時はまだ「連絡船の出る港」――青森の駅の前にはリンゴ市場があって、人気品種だった「国光」や「紅玉」の箱がずらりと並んでいた。

毎晩通った居酒屋ではバックに美空ひばりの「♪リンゴの花びらが風に散ったよな・・・」で始まる「りんご追分」が流れていた。

いま住んでいるさいたま市の南隣、日本で一番面積が小さい市、蕨市のことはいろいろ気になることがある。調べているうちに、この市に「日本一収穫の早いリンゴ」である「わらび」というのがあって、1981年に品種登録されていることは知っていた。

いつものとおり、各新聞をめくっていたら、11年暮れの12月15日の毎日の埼玉県版に「わらび咲く 今年、初の3度目」という写真つきの記事が目に入った。

すぐ自転車に乗って出かけてみると、市役所東側の駐車場に面した庁舎の窓際近くの木の枝先に、いくつかの白い小さな花が咲いていて、風に揺れていた。(写真)

リンゴの「わらび」は本来、4月中旬頃、つぼみのピンクが白に変わる花が咲き、6月下旬以降に赤い実がなるという。

ところが11年は、9月下旬に2度目の実をつけたので、これで三度目の花だというのだ。

インターネットで調べてみると、リンゴの返り咲き(二度咲き)は、他にもあるようで、愛媛の久万高原や本場信州などの例が報告されている。実がなる9-10月ごろ、実のかたわらに花が咲いている写真もついていた。

リンゴもサクラと同じバラ科に属する。サクラ同様、返り咲きしてもおかしくない。だが、三度もそれも冬の最中に咲くのは聞いたことがない。

年中開花する「不断桜」という天然記念物があるのは頭の中にあっても、見たことはない。

「わらびりんご」と呼ばれるこのリンゴは、錦町の農家、吉沢正一氏が約20年かけて研究開発した、日本一早く(北半球で一番とも?)収穫できる極早生種。秋から冬に収穫というリンゴの常識を破って6月下旬から7月上旬に実がなる。

リンゴは北のものとされる。蕨市はリンゴ栽培の南限らしい。茶や米など作物の「北限」はよく聞く。「南限」と聞くのは初めてだ。

小ぶりで酸味が強く、加工品に向いている。生で食べると酸っぱいが、ジャム、ジュース、アップルパイなどに使われる。市では秩父の業者に委託してサイダーを作り、8月の「機まつり」などで限定販売される。

青森の「世界一」など、巨大で甘くなる一方のリンゴには辟易している。ぜひ、加工する前に酸っぱい一個を、皮をむかず、欧米人のようにズボンにこすりつけ、皮のまま食べてみたい。

吉沢氏が1973(昭和48)年、極早生りんごの研究を始めたのは、「東京の盆に間に合うりんご。りんごが無い季節、果物店の店先を真っ赤に染めたい。病人や子どもに新鮮なりんごを食べさせたい」という思いからだったという。

新品種として登録されたのは、1981(昭和56)年。翌年、吉沢氏は希望者に250本配布した。約30本が健在という。

「わらびりんご」を市制50周年記念事業として町おこしで普及活動が始まったのは、2009(平成21)年だった。公共施設や街路樹、市民の庭などに接木で約700本が植えられている。

これを広めようと、「わらびりんごの会」が結成された。11年6月には錦町にある接木で育てた7本が植えられている「わらびりんご公園」で、赤く色づき始めた「わらびりんご」の撮影会も開かれた。

「わらびりんごの唄」もあるというから、一度聴いて見たい。

この原稿は、錦町にある「蕨市立西公民館」のホームページによるところが多い。公民館にしては出色のホームページである。


日本最初の住宅団地「三和町」 蕨市

2011年09月03日 15時49分29秒 | 市町村の話題



今から70年ほど前の第2次大戦中、さいたま市の南隣、現在の蕨市の田んぼの中に、日本で最初で最大級の規模の住宅団地が造られたことを知る人は少ない。

1941(昭和16)年に設立された「住宅営団」(日本初の全国的な公的住宅供給組織、日本住宅公団のようなもの)が、当時としては最先端の理念で最初に計画・建築したモデル的な住宅地で、“理想的な日本一の営団住宅”を目指した。

緑の樹木、青い流れのある健康地が目標だったという。

主に地方出身の国や民間の軍需工場の従業員用で、1942(昭和17)年着工、44年までに886戸ができた。44年3月には、世帯数760余、人口2700余人が登録された。

戦後の団地のように鉄筋コンクリートの4、5階建てではなく、木造一階建て。一戸建て(職員用)と二戸建て(工員用)で、建坪は17~約9坪,敷地は一戸建てが50、二戸建てが30坪とゆとりがあり、建坪の2~3倍あった。家と家の間には垣根はなく、庭は自由に通り抜けられ、隣近所の付き合いは楽だった。

東、西、南を水路、北は県道で囲まれていた。東西約620、南北約390mの五角形に近い形の約17haで、ほぼ四角形の11の住区から成り、それぞれの真ん中に空襲に備えて防火用の空地(後に公園になる)が設けられた。主要通りには防火用の街路樹も植えられた。

グーグルの地図で航空写真を見ると、道路は広く整然として、その区画が今も歴然と残る。

中央にはやや大型の空地、その隅に営団管理事務所、集会所があった。蕨駅からは泥道ながら県道で約20分かかった。

陸軍造兵廠(東京・板橋、北区や大宮市)の230戸を筆頭に、陸軍被服廠(現在の赤羽台団地)の160戸、沖電気(港区から疎開、蕨駅近くに蕨工場を設立)の80戸のほか、田中航空機器、石原産業・・・などの社宅があった。どういうわけか、朝日、毎日、読売新聞の社宅も少しずつあった。

蕨駅から職場まで一番遠い人で1時間15分くらい、40~45分の人が多かった。

駅からは歩け、乗れば職場にも近く、敷地も広く、日当たりもいい。それに富士山も見える。当時の読売新聞が報じたように、住宅難の労働者にとって福音だった。

しかし、終戦近くなると電灯は二室に一つ、台所と便所は共用するなどで不便になった。雨戸はなく、水はけも悪く、蚊も多かった。

水道は隣と共同井戸。資材不足で公衆浴場ができたのは44年以後。造兵廠や被服廠では、建物の無償提供を受け、仮浴場をつくり、割当制で入浴した。片道20分以上歩いて、町の銭湯に出かける人が多く、銭湯は大混雑した。

浴室はついていても風呂桶が買えないという事情もあった。

食料難の時代、庭も緑地も道もすべて畑に変わり、サツマイモやトウモロコシ、麦などが植えられ、屋根には敵機から見えないようにとカボチャをはわせた。

“千間長屋”の別名があったこの団地は、水路に囲まれていた。水清く、ドジョウやウナギ、コイ、シジミがとれ、子供たちは水遊びを楽しめた。

この団地には当初名前がなかった。営団は「蕨穂保作(ほぼさく)住宅」と名付けた。43年、この地が当時の蕨町穂保作のほか、同町塚越、さらに隣町の戸田町にまたがることから、3つの地域にまたがるので、住民が「三和町(みつわちょう)」と名付けて、届け出た。

「3つの町が和する(仲良くする)」。「さんわ」と読まず「みつわ」と読んだのもいい。いい名前である。

私は、由緒ある大字や町の名が、東、西、南、北とか中央とか、もっとひどいのは、戦後によくあった「文化」などに変えられるのに昔から大反対だ。

その「三和町」の名も、もうない。1966年、蕨市南町2丁目と3丁目の一部という単に方角を示すだけの味気ない地名に変わった。

1945(昭和20)年4月13日夜、空襲を受け、88軒が焼失、乳児一人が死んだ。

終戦後、営団はGHQによって廃止されたので、52年までに多くの住宅が分割払いなどで個人に、あるいは社宅として払い下げられた。当時の家はほとんど全部建て替えられ、面影は残っていない。

現在は、道路が広く、公園の多い(この地区だけで11か所)、長く広い桜並木のある緑豊かな住宅地になっている。

営団の当初の日本一の意気込みは、この広い道路と多くの公園に今も生きている。

三和町の元住民たちは、入居以来連帯感が強く、1982年、三和町史編集委員会が「家中みんなの三和町の歴史」、2011年にも「三和町を語り継ぐ会」が絵本「みつわちょうにいきたいな」を発刊した。ブログやホームページもある。

元団地族の一人として、この街は訪れる度に感慨が深い。「隣は何をする人ぞ」。同じ建物を共有する隣人はもちろん、住民についてほとんど何も知らないマンション族に変わっている今、戦時下の苦労を共にした人々の住むこの町はなぜかむしょうに懐かしい。

この稿も、蕨市史を中心に、このような資料とともにインターネット上の多くの情報を参照させていただいた。

戦後70年を経た2015年、その名が残る近くの「三和公園」に「住宅営団がつくり、住民が育てたまち 三和町 1942~1966」という記念碑が「語り継ぐ会」の手で建てられた。(写真)