ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

理化学研究所 和光市

2014年04月23日 14時07分52秒 | 博物館



和光市は東京都の板橋区に接しているだけあって、東京への交通の便がいい。そのせいか、理研と略称される理化学研究所の本部や、その隣に本田技研研究所があるほか、税務大学校、司法研修所、裁判所職員総合研修所と研究や研修施設が多い。

理研本部が,国の化学技術週間に合わせて年に一度一般公開されるというので、14年4月19日見学に出かけた。

理研の前はこれまで何度か通り過ぎたことはあったものの、理化学には縁の遠い身なので、入ったことはなかった。

朝9時半から開くというから、9時過ぎ東武東上線和光市駅南口に降りると、無料のシャトルバス7台を待つ長い行列がすでにできていた。小、中、高生のグループや子供連れ、老人と多彩である。

最後尾についてはみたが、なかなか進まないので、人波の後ろについて歩くことにした。約1万1千の入場者で、1961年の公開開始以来最多だったという。

20分足らずで東京外環自動車道沿いの西門から入る。ここで登録を済ますと、構内地図やパンフレット、ノート入りの布製バッグをもらえた。

東京ドームの5.8倍の広さの敷地に20余の建物があり、100以上の研究室が一斉に開くというのだから、選択に迷う。

その広さを実感しようとぶらぶら歩いていると、「113番元素発見の場所」と大書した垂れ幕が目に入った。

加速器研究センターで、地下にある世界最高性能の加速器施設「RIビームファクトリー」を使って、113番元素の合成や原子核が特に安定になる「魔法数」の発見など画期的な成果を挙げてきたという。

113番元素は原子番号1の「H」(水素)から113番目。世界で初めて合成されたもので、「Nh(ニホニウム)」と名付けられた。これを記念して17年3月28日に和光市駅南口から約400m東南の同市ポケットパークに、大理石製の台座に銅でできた元素周期表をはめこんだモニュメントが除幕された。「ニホニウム発見のまち 和光市」と下部に書かれている。

市は同駅南口から研究所の西門までの約1.1kmの市道を「ニホニウム通り」と名付け、6、7m間隔で元素記号の銅のプレート113枚を敷設する作業を進めている。

仁科記念棟の仁科ホールには、注目の「STAP細胞論文に関するコーナー」も設けられていた。

構内の北端の研究交流棟に「IPS細胞を見てみよう」という部屋があったので、こちらで顕微鏡で拡大された人間のIPS細胞を眺めた。(写真)

IPS細胞は、ご承知のとおり、06年京都大学の山中伸弥教授が作成に成功、さまざまな細胞への分化が可能になる万能細胞で「誘導(人工)多能性幹細胞」と呼ばれる。再生医療への応用が期待されている。

統合支援施設では人気のスーパーコンピューター「京(けい)」を見た。今では中国、米国製に抜かれ4位になったとはいえ、かつては計算速度世界一を記録した。

神戸市の計算科学研究機構に置いてあり、864台つながないと動かない。ここでは本体1台だけが展示されていた。

研究本館では、西アフリカで流行しているエボラ出血熱の展示もあった。日本にも、感染力が強く、治療法のない病原体を扱う、最も隔離レベルが高い実験室が、理研(茨城県つくば市)と国立感染症研究所(東京都武蔵村山市)にあるのに、付近住民の反対で使用できないという話を聞いた。こんな例は先進国では日本だけという。

理研は1917(大正6)年に創立された日本で唯一の自然科学の総合研究所。物理学、工学、化学、計算科学、生物学、医科学などの分野で先導的な研究を進めている。研究者は約3000人。アルマイトの弁当箱、ビタミンA剤、ペニシリン結晶などを開発した。神戸市だけでなく、仙台市、つくば市、横浜市など全国各地にも拠点がある。

タカジアスターゼなどを発見した高峰譲吉が設立を提唱、財界・産業界の大御所・渋沢栄一が賛同して尽力、東京・文京区駒込でスタートした。

寺田寅彦、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄ら優秀な学者を輩出した。仁科芳雄は軍部の要請で原子爆弾開発の極秘研究を進めたこともある。

東京都文京区から和光市に移転したのは1967(昭和42)年。17年で50年になった。

「理研三太郎」という言葉も初めて知った。理研創立初期に活躍した長岡半太郎(土星型原子モデル提唱)、本多光太郎(KS鋼発明)、鈴木梅太郎(米ぬかを脚気予防に)のことだという。

行く前にインターネットなどで情報を仕入れていくと、日本の科学史にも興味が湧き、頭の体操になることはうけあいだ。一般公開の日には研究者たちが親切に疑問に答えてくれる。










清雲寺のしだれ桜 秩父市荒川

2014年04月07日 10時43分19秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



江戸彼岸桜のしだれでは、県内で最大だという秩父市荒川上田野の清雲寺のしだれ桜が見頃だというので、14年4月5日に出かけた。

「夜桜お七)」が持ち歌の坂本冬実がTV番組で夜桜をバックに歌ったこともあるというから、見頃を見ておきたかった。

この日、秩父地方は桜が爆発したかのように一斉に咲いて、まるで桃源郷ならぬ桜源郷のような雰囲気だった。

お寺や通りだけでなく、周りを囲む山の斜面にも桜の白いかたまりが数多く目につき、「秩父にはこんなに桜があったのか」と驚いたほどだ。

清雲寺も近づくと花が盛り上がっていた。

主役は、県の天然記念物に指定されている樹齢約600年といわれる江戸彼岸である。樹高15m、幹周2.72m。清雲寺創建の際に植えられたとか。

木の上部の枝が斜めに伸びていて、そこに花が咲くのでまるで何か彫刻のオブジェのよう。(写真)

このほかに、秩父紅しだれや八重桜など大小30本(うち3本が市指定の天然記念物)が桜の林をつくっているのだから、離れてみると盛り上がっているように見えるのである。

秩父鉄道の武州中川駅から歩いて15分くらいなので、親子連れなどが続々詰めかけていた。

駅を降りて、踏切を渡ると、そこにカメラマンがずらり並んでいる。「都心から一番近い蒸気機関車」が売り物のSL「パレオエクスプレス」(4両連結)の下り列車(熊谷から三峰口駅行き)が駅を通過するのだという。

田舎の駅にはSLがよく似合う。窓から子どもが盛んに手を振ってくれた。帰りは、隣の浦山口駅から乗ろうとしたら、今度は上り列車に出会った。一日1往復だから、何か得をしたような感じだった。

SLはテレビではよく見ても、実物を目の前で見るチャンスは少ないからだ。

しだれ桜は清雲寺だけではない。浦山口駅寄りに18分ほど歩くと、札所29番の長泉院(清雲寺は札所ではない)には、堂々とした「よみがえりの一本桜」がそびえている。

杉の木立の陰になって花をつけなかったしだれ桜が、近くの浦山ダム(秩父さくら湖)の工事で杉が切り開かれ、日当たりが回復したので、再び花をつけるようになったため、この名がある。

この桜は清雲寺の桜を移し替えたものだと言われる。

長泉院の反対方向にある昌福寺にも紅しだれ桜が6本ほどある。「さくら湖」と名づけたわけがよく分かる。「秩父あらかわ」と呼ばれるこの一帯はしだれ桜の里なのだ。

清雲寺は、幕末に京都から来た過激な攘夷派の公家が殺された「清雲寺事件」の起きた場所である。

近くの人でないと知る人はほとんどない事件ながら、今でも本堂内に銃弾や刀痕が残っていて、その墓も裏手にある。

右大臣大炊御門(おおいみかど)家の長男尊正(たかまさ)という若い公家で、大炊御門家の先祖に当たる、後嵯峨天皇の皇子が開山した太陽寺(旧大滝村)に尊王派の拠点を構えようと、近くの上田野村出身の医師の案内で、この地を訪れ、清雲寺に滞在した。

ところが、上田野村名主とこの医師との間には長年の確執があり、秩父の代官所に「一行は偽者だ」と密告した。

尊正は秩父の代官所に表敬のため出頭するよう促していたのに、代官所は武装した16人で寺を包囲した。尊正らは戦ったものの、数で劣り、討たれて医師ともども殺された。

明治になって、生き残りの女性が訴えたため、名主は逮捕され、獄中で死んだ。

秩父の山中にも倒幕の波が押し寄せていたことが分かるエピソードである。






仙波東照宮 天海大僧正 川越市

2014年04月05日 07時19分41秒 | 寺社


喜多院の地続き、階段を昇った所にあるのが仙波東照宮である。東照宮とは、徳川家康を祀った神社で、川越市のは、日光東照宮、久能山東照宮と並ぶ日本三大東照宮の一つだ。仙波は東照宮のある地名である。

家康は没後、まず久能山に埋葬され、翌年、日光に改葬された。

ここに東照宮があるのは、家康の遺体を日光へ送る途中、喜多院で3日間の大法要が営まれたからだ。


その導師を務めたのが、天海大僧正である。天海大僧正とは何者か。山門の前に堂々とした像が立っている。(写真)

家康は、小さい頃から人質にとられていた。戦で、敗走したこともあり、人生の裏も表も知り尽くした人物だった。「狸親父」とさえ呼ばれた。その家康が絶大な信頼を寄せ、帰依し、崇敬していた高僧が天海だった。

初めて会ったのは1608(慶長13)年。駿河城だったと言われている。家康は「天海僧正は人中の仏なり」と感嘆、遅すぎた出会いを悔やんだと伝えられる。

家康65、天海72歳の時だという。以来、家康、秀忠、家光三代の参謀、顧問、ブレーンを務め、徳川幕府の礎を築いた。

家康は1616(元和2)年に75歳で死去する前、「遺骸は久能山に収め、一周忌が済んだら、日光山に小さな堂を建立し、わが霊を招き寄せよ。我は八州を守る鎮守となろう」と遺言、天海に死後を託した。

日光までの途中にある川越で大法要が営まれ、東照宮が造られたゆえんである。

南光坊天海、智楽院とも呼ばれた。朝廷から死後に送られた名が慈眼大師。高僧に大師号が贈られたのは、この人が最後で七番目の大師様だった。

自らの出自を弟子たちに語らなかったので、出自、経歴など分からないことが多いが、1588(天正16)年、第27世住職として、後の喜多院の無量寿寺北院に移り、「天海」を号した。

当時の無量寿寺は、中院(仏地院)を中心に、北院(仏蔵院)、南院(多聞院)の三つに分かれていた。

中院の場所には後に東照宮が建ち、中院は南に200m移動、南院は明治の初めに廃院となった。北院は、天海が再建した際「喜多院」と改名した。

家康に「東照大権現」の神号をつけたのはこの人である。

秀忠の諮問に、家康の側近でライバルの臨済宗の金地院(こんちいん)崇伝は「大明神」を主張したのに対し、天海は「豊国大明神」の神号を贈られた豊臣秀吉は滅亡したので、不吉だと押し切った。

家光の時代には、天海は上野に寛永寺を創建した。

当時としては奇跡的な108歳の長寿を全うした(誕生年が明確でないので、はっきりしない)。知力、体力とも超人的だったので、足利将軍のご落胤説や明智光秀の生き残り説などが出たほどだった。

長寿の秘訣として、秀忠に

 長命は粗食、正直、日湯(毎日入浴)、陀羅尼(お経)、時折り、ご下風(おなら)あそばさるべし

という歌を詠んで贈ったのは有名な話。

「黒衣の宰相」というイメージが強いものの、洒脱な人だったのかもしれない。














川越大師喜多院 「どろぼう橋」と五百羅漢

2014年04月03日 13時20分29秒 | 寺社


川越大師喜多院に出かけるときは、山門からではなく裏口に当たる「どろぼうばし」とひらがなで書いてある小さな橋から境内に入る。川越市駅や本川越駅から歩いて行くと、その方が便利だし、名前が気に入っているからだ。(写真)

橋の傍らに立て板があって、その由来が書いてある。

江戸時代、境内は御神領、江戸幕府の御朱印地で、川越藩の町奉行も中に入れなかった。ある時、それを知っていた盗賊が逃げ込んだ。

寺男たちに捕まり、寺僧に悪いことがふりかかるぞと諭された。盗賊はそれを知り、厄除(やくよけ)元三大師に許してもらえるよう祈って、真人間に立ち返った。

それが幕府の寺社奉行に知らされ、無罪放免となり、奉公先も世話されて、まじめに一生を過ごした

というのである。

喜多院には元三大師の他にも二人、合わせて三人の大師がおられるので、「喜多院はどの大師を祀っているのか」が気になっていた。

「元三大師」は通称で、「慈恵(じえ)大師」良源のことである。1205(元久2)年の兵火で炎上後、1296(永仁4)年、尊海僧正が再興した時、勧請(お出でを願う)した。喜多院の本堂が「慈恵堂」と呼ばれるのはこのためだ。

正月3日に没したので、元三(がんざん)大師の名で親しまれる。元三大師には、「厄除大師」「角(つの)大師」「豆大師」などの別名もある。

喜多院でも1月3日が初大師ご縁日。名物だるま市が開かれ、多くの参拝客でにぎわう。

一方、「喜多院」と寺号を改めた天海僧正は「慈眼(じげん)大師」で、境内の「慈眼堂」に祀られている。
もう一人は、平安初期の830(天長7)年に喜多院の前身「無量寿寺」を創建した「慈覚大師」円仁である。没後、朝廷から最初に「大師号」を授けられたのはこの人。最後の遣唐僧として唐にわたり、 日本の天台宗を大成させた。

以来、喜多院は天台宗の関東総本山である。

このどろぼう橋の立て札のお陰で、喜多院の大師は「元三大師」=「慈恵大師」と分かった。元三大師は天台密教に通じておられたので、喜多院は「厄除のお大師さま」なのである。

喜多院でもう一つ面白いのは五百羅漢である。

「羅漢」とは、「完全に悟りを開いた修行者」のことである。悟り澄ました、人間離れした顔が並んでいるのかと思ったら大間違い。一つ一つ違った仕草、表情で、いかにも人間くさいのが魅力である。

百面相ならぬ五百面相である。よくよく見ていくと、自分に似た顔も見つかるという。

川越市のシルバーガイドの説明を聞いていると、人気があるランキングは、一位はひそひそ話をしている二人、二位は大徳利でお酒を注いでいるように見えるが、実は灯油を注いでいる二人、三位は腰をマッサージをしている二人の像だという。

十大弟子、十六羅漢を含め羅漢(尊者)は533体、中央の高座に釈迦如来、文殊・普賢の両菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩と合計538体が鎮座している。

中央の如来や菩薩は、すでに人間を超えた澄まし顔である。

江戸の天明から文政にかけ約50年間にわたって創られた。

喜多院の内部の拝観券と一緒になっているので、時間をかけて丹念に見ると楽しめる。






喜多院 川越市

2014年04月01日 17時42分57秒 | 寺社
喜多院 川越市

川越大師喜多院の境内には何度も足を踏み入れているのに、建物の中には一度も入ったことはなかった。

14年3月28日は、異常気象で長く厳しい冬がやっと終わって、急に初夏を思わせる陽気になった。国の重要文化財に指定されているという客殿や書院、庫裏の中を初めて見てみようかと思い立って訪ねてみると、入り口の右手の枝垂れ桜が見事に花をつけていた。

入るときより、出てきたときの方が花の開きがぐっと増していたのに驚いた。この暖気を待ち構えていたかのようだ。

客殿から見る紅葉山庭園の三代将軍家光のお手植え桜も枝垂れで、春を寿いでいるように見えた。(写真) 「いいタイミングに来た」とつくづく思った。

よく知られているとおり、客殿には「家光誕生の間」があり、書院には「春日局化粧の間」がある。

春日局(かすがのつぼね)とは、家光の乳母で、大奥で権勢を振るったテレビでもおなじみの人である。「化粧の間」は広い部屋が4つもある。化粧だけでなく、密談などにも使ったのだろう。

客殿には、将軍使用の厠や風呂場もついている。厠は2畳敷きの広さ。もちろん水洗ではない。健康状態を知るため、侍医が検便していたという。風呂は肌着を着て入り、お湯をかぶるだけだったらしい。

近くの入場者用のトイレは最新版の自動開閉式ウォシュレットで、その対比がおかしかった。現在の一般庶民が使っているゆったり湯に浸れる風呂とウォシュレットは、世界に誇れる文化だとあらためて思う。

なぜここに家光や春日局ゆかりの場所があるのか、恥ずかしながら知らなかったので、案内を見ると、寛永の大火の復興工事のためと書いてあり、やっと納得した。

「小江戸」と呼ばれる川越は、江戸と同じく火事の多い所だった。川越の歴史は兵火と大火の歴史と言っていいほどだ。

思えば、川越は「蔵の街」が売り物になっているのも、蔵が防火建築だからだ。1893(明治26)年の大火の教訓が生んだ遺産なのである。「時の鐘」だって、時刻を告げるだけでなく、火の見やぐらも兼ねていたのだった。その二つが今では、川越観光の目玉になっている。

歴史上の川越大火の一つ、1638(寛永15)年の火事で、皇居と同じくらいの広さを誇っていた喜多院は、東照宮ともども山門などを除いて焼失した。その山門は今も残る。

三代将軍家光の時である。

焼けた喜多院は、家康が崇敬し、「生き仏」とまで呼んだ天海僧正(慈眼大師)が、家康の援助で再興したものだった。

第27世住職で、寺号を「喜多院」と改めた。

家光は直ちに喜多院の復興を命じた。天海は江戸城紅葉山にあった御殿の一部を譲り受け、解体して喜多院に移築して、客殿、書院、庫裏に当てた。

御殿に「誕生の間」や「化粧の間」があったので、建物ごと江戸城から川越に移転したわけである。

復興の建築資材運搬に利用されたのが、川越と江戸を結ぶ新河岸川だった。以前は「内川」と呼ばれていたらしい。

当時の川越藩主は、島原の乱を鎮圧した松平信綱で、大火の翌年に就任した。この川を改修して舟運体制を整え、川越街道も整備した。碁盤状に道路を整備、城下町づくりにも力を尽くした。川越の今日あるのは信綱のお陰である。

川越の総鎮守氷川神社のお祭りである川越まつりも、信綱が神輿などを神社に寄進したのが始まりだった。

江戸の日本橋から川越の中心地「札の辻」まで十三里ある。川越いも全盛の時代に「九里(栗)四里うまい十三里(十三里半とも)」とPRに使われたとおり、52kmで、健脚者なら1日で歩ける距離である。

新河岸川を使って、徹夜で漕いで翌日昼には江戸に着く「川越夜船」と呼ぶ定期船や1日足らずで往復する「飛切」という特急便もあった。「とびきり」と読むのだろうが、とびきり速いという意味だろう。

海陸の交通の改善で、川越は江戸への「近接地の利益」を享受した。

例えば、川越祭りは、江戸の天下祭(赤坂山王と神田明神の祭礼)をそっくり真似したものだった。東京では市街電車の架線が普及したこともあって、高い山車が使えなくなったので、神輿担ぎに変わったのに、川越では江戸の伝統どおり山車が生き残っている

現在の県庁所在地のさいたま市は、県庁のある旧浦和市までなら川越までの半分以下の約20kmである。

浦和は鉄道の発達で東京のベッドタウンとなり、東京に近い他の都市もそれに続いた。こうして毎朝夕、職場と自宅を往復する「埼玉都民」が登場するのである。