ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

野菜と花の埼玉農業

2014年08月29日 17時51分11秒 | お茶・農業

 

東京都という大消費市場を隣に持つ埼玉県は、江戸時代から江戸への食糧供給基地だった。実際、昭和30年代に工業県に転換する前は、埼玉県は農業県だったのである。

8月31日は「野菜の日」なのだという。確かにゴロ合わせをしてみると、「ヤサイ」と読める。

2013年の埼玉県の農業産出額(2012億円)は、全国18位ながら、大消費地に近いので、その51%を占める野菜の産出額(庭先販売額)では全国6位だ。

ネギ(194億円)、サトイモ(68億円)、コマツナ(54億円)は全国1位。

独特のぬめり・ねばりと上品な味わいが特徴の県産のサトイモだが、県が売り込もうとしている新品種「丸系八つ頭」を御存知だろうか。

ソフトボールのような丸みが特徴で、重さ500~1000グラム、通常のサトイモの約10倍の大きさ。甘みがあり、ほくほくとした食感。大きいので皮もむきやすいという。

埼玉市の見沼たんぼで突然変異の丸い芋が見つかったのがきっかけで、県農業技術研究センターが開発、深谷市で産地化を図った。市内の生産農家は20軒を超し、他市にも広がっている。

ミネラル、カルシウムが豊富なコマツナは年に5、6回栽培できて,生産性が高い。草加市など県の東部地域で栽培されていて、草加市ではB級グルメなどにいろいろ加工されている。

キュウリ(146億円)、ホウレンソウ(125億円)、ブロッコリー(45億円)、カブ(15億円)は全国2位である。

深谷ねぎに代表されるネギは全国に名を知られ、県民の人気も一番高い。

花(花き)は、172億円で全国5位。パンジー(苗、7億円)が全国1位。ユリ(切花、32億円)、洋ラン類(鉢物、26億円)、チューリップ(切花 4億円)が2位だ。

果物では、果実産出額の約60%がナシ(39億円)で、全国6位。県農林総合研究センター園芸研究所(久喜市)で育成したオリジナルな埼玉ブランド「彩玉(さいぎょく)」をはやらせようとしている。

「新高(にいたか)」と「豊水」を交配したもので、大玉で「幸水」以上に甘くみずみずしいのが売り物。県育成品種なので、生産は県内に限定されている。「幸水」が終わった8月下旬から9月初旬が収穫期。

眼にいいとされるブルーベリーは、美里町の作付面積(40ha)が市町村単位で日本一で、観光農園が25か所ある。養蚕の衰退に伴い、桑畑の遊休地を活用しようと1999年から町が推進してきた。

狭山茶を代表とする茶(生葉)は、12億円で全国8位。おせち料理にかかせないクワイは、福山市を持つ広島県に次ぐ。

私にとって興味があるのは、小麦の産出額が7億円と全国4位で、作付面積が8位、収穫量が6位であることだ。

食料品製造出荷額では、中華めんが369億円で全国1位、和風めんが206億円と全国3位を占める。

県のうどん生産量は、香川県についで2位、うどん・そば店の数も全国2位(09年)。「統計からみた埼玉県のすがた」の中の「埼玉県の一番」に明記してある。

増産のための麦踏みや米麦二毛作も、熊谷市東別府生まれの「麦翁(王)」こと権田愛三(1850~1928)の研究から始まって、全国に広がった。熊谷市の小麦の収穫量は今でも県の3分の1を超しており、断トツだ。

「朝まんじゅうに昼うどん」という粉食文化が根付いていて、今でも客が来たり、お祭りがあると、うどんをつくる家も多い。

川島町の「すったて」や鴻巣市の「幅広うどん」はB級グルメでおなじみ。コシの強さと喉ごしの良さで知られるうどんが売り物の加須市は6月25日を「うどんの日」と定めた。「山田うどん」にはファンが多い。

埼玉県はうどんの国だったのである


有機農業の里 小川町 その3止

2013年09月27日 18時11分38秒 | お茶・農業


CSAの輪はまず小川町から、ついで町外にも広がりを見せた。

提携の先駆けになったのは1988年、町にある三つの造り酒屋の一つ「晴雲酒造」が、有機栽培の米を使って、「おがわの自然酒(純米酒)」を売り出したことだった。同じ年、小川製麦が有機の麦を使って「石臼挽き地粉めん」をつくった。1988年には児玉郡神川町の「ヤマキ醸造」は有機小麦と大豆で生醤油「夢野山里」を出した。

「とうふ工房渡辺」が乗り出したのは2001年のこと。小川町の青山地区の数軒の農家に残っていた大豆「青山在来」の産物を一括して買い上げてくれる。

町の観光案内所でもらえる「小川町てくてく散歩マップ」は、下里有機の里づくり協議会が作ったもので、「有機と和紙」という副題がついていて、有機コースは2時間で歩けるとある。有機には食堂や野菜直売所が挙げられている。

停車場通り(駅前通り)を少し左に入ると「べりカフェ つばさ・游」がある。有機野菜が主役で、シェフは日替わり。「べりカフェ」とは、「おしゃべりカフェ」のことだという。駅で降りて右手には「三代目清水屋」があり、「青山在来」を使う豆腐やおからスイーツを製造販売する。

停車場通りを下って右折して行くと、「有機野菜食堂わらしべ」、地元の有機野菜と食材を使った料理のほかお酒も楽しめる晴雲酒造の「自然処 玉井屋」・・・など、有機関係の店も増えた。

このほか、「道の駅おがわ」など有機野菜を売っている直売所が15ほどあるので、地元の人にたずねるといい。

社長がロハスに関心が深いさいたま市のリフォーム会社「OTAKU」では、有機米を買い上げ、社員、パート従業員、顧客に精米仕立ての有機米を届ける仕組みを作っている。

金子さんの有機農業は、全国ばかりか外国でも注目され、朝日新聞に「複合汚染」を連載中だった故有吉佐和子さんも農場を訪れている。1981年金子さんが「日本有機農業研究会」で知り合った友子さんと結婚したときには、主賓は金子さん側は有吉さん、友子さん側は婦人有権者同盟の市川房枝さんだった。

金子さんは、有吉さんの「複合汚染その後」(潮出版社」)で、有吉さんや司馬遼太郎さんらとの座談会の中で、「日本の食糧自給は可能だ」という論を展開している。

農場に住み込みで有機農業を習いに来る内外の若い人たちも多く、すでに120人が育ち、そのほとんどが農家の出身者ではない。

金子さんは、農業で使うエネルギーの自給にも取り組んでいる。使用済み天ぷら油の廃油を、トラクターや車の燃料にしたり、牛糞や生ゴミを活用するバイオガスをつくったり、太陽電池を利用したり、間伐材や家屋廃材などを使って、母屋の床暖房やお風呂用のウッドボイラー・・・と、農場の一部はエネルギー自給研究所の趣がある。

バイオガスは小川町も動き出し、バイオガス・プラントもできて、バイオガスの先進地になった。

目指しているのは、化石燃料に頼らず、自然の資源を生かした循環型の農業なのだ。

荒れている山を手入れしてカタクリを植えたり、耕地のあぜにヒガンバナを植えたりしているため、下里地区には菜の花、麦、稲穂と農産物を含めた花が季節ごとに咲くようになった。観光客も訪れるようになった。

「農業は文化である」「農民が元気になると農村が美しくなる」と金子さんは力説する。

ヨーロッパなどに比べて湿潤で、勢い病害虫も多い日本は、有機農業にとって障害が多い。実際、耕地に対する面積率では1%にも達してないほどで、まだまだ立ち遅れている。

小川町の例は、日本で無農薬、無化学肥料、無石油の自給農業が可能なのかを考える際の絶好の教材になることは間違いない。

小川町によると、町の有機農業者数は、金子さんの教え子らを中心に、町の各地に散らばり、現在23人、耕地面積は計32haに上るという。

小川町を中心に嵐山、ときがわ、鳩山町でも有機農家が増え、百軒近くに増えているそうだ。

有機農業の里 小川町 その2

2013年09月25日 14時29分42秒 | お茶・農業
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霜里農場の見学会は、座学と農場見学の2部に分かれている。

座学は、「切り花国家 日本」という金子さんの農業観から始まる。

日本の食糧自給率は約4割。穀物自給率は28%(OECD加盟国30か国中27番目)。小麦に至っては15%。農業に従事する人の半数は65歳を越す。

このような農業の現実の上に工業と都市が栄える日本は「切り花国家」みたいなもので、「根のない国」は確実に枯れるーーという見方である。

金子さんが強調する有機農業の基本は①土づくり②種苗の自家採種③生産者と消費者の顔の見える提携――である。

落ち葉が土中のミミズなどの小動物や微生物で分解され、木々が育つようになる腐葉土が、厚さ1cmになるには100年かかるという。これを10~20年に早めてやるのが土づくりだ。

土に落ち葉や雑草、麦わら・稲わら、おがくず、生ごみ・野菜くず、牛や鶏などの家畜の糞などを混ぜ合わせて作る堆肥をすきこんでいくのだから時間も手間もかかる。「土づくりには10年かかる」と金子さんは力説する。生やさしい仕事ではない。

「ホウレンソウがうまくできるようになるといい土ができた証拠」という。

有機農業を始めたからといって翌年から通用するものではないのである。有機農業は工場で栽培される水耕栽培とは、まったく違う世界である。

腐葉土を作る過程で、農作物の害虫の天敵や病原菌を食べてくれる土壌生物が土に住み着くようになる。

農薬でアブラムシやアオムシなどの害虫は一時的に減らせても、撲滅するのは不可能だ。それをナナホシテントウムシ、クモ類、アシナガバチといった自然に集まってくる天敵が退治し、ミミズやトビムシといった土壌生物がハクサイ、キュウリ、ホウレンソウ、大根などにつく病原菌を食べてくれるのだ。

金子さんが水田へのヘリコプターによる農薬の空中散布に反対したのは、害虫が抵抗性を持つようになるほか、害虫の天敵のいる環境を守っていくためだった。

土に次いで大切なのは、種である。現在、日本の農作物の種は、ほとんど外国に依存し、一代限りのものが多い。

日本には昔から「種は五里四方でとれ」という言葉が残っている。その地にぴったりの害虫や病原菌にも強く、味も良い種があったはずなのだ。

下里地域には昔、「青山在来」という種の大豆が栽培されていた。収量が少ないので忘れられていた。晩生種で開花期が遅いため害虫の被害を減らせるうえ、糖度が1.5倍高く、味もいい、それに気候変動にも強いという利点があった。

これを復活してみたところ、隣町の豆腐店「とうふ工房わたなべ」が注目、全量買い取りに踏み切り、有機農業の最大の問題である販路を切り開けた。

種の問題を重視する金子さんらは1982年以来、関東の有機農業者を中心に「有機農業の種苗交換会」を開き、有機栽培に適した種苗の発見と交換に務めている。

「自分で作った堆肥で出来た土に、その地にぴったりの種を植える」。そのようにして出来た農作物は、商品というより自分の子供のように思われてくる。害虫も病原菌の少ないので、化学肥料・農薬漬けのものとは、当然味も違ってきて、自慢できるほどになる。

こうなれば自分で作って自分で食べる自給農業から消費者との接点が生まれてくる。

金子さんはまず、町の10世帯を相手にして配達つきの「会費制」の有機農業システムを始めた。ところが、いろいろの考えの人がいたのと、「農作物は本来は商品ではない」という考えから、消費者側が金額を決める「お礼制」に切り替えた。今では会員は地元や東京など40世帯になった。

有機農家と消費者が直接結ばれるのだから、流通の経費が省かれて、農家にとっては時間と手間をかけた分の収入が手にはいり、再生産が可能になるし、消費者にとってはおいしく安心できる農産物が割安になる。文字どおりの「小利大安」だ。

1980年代米国で、有機農業を支援する人々が農家と提携する地域支援型農業(CSA=Community Supported Agriculture)が生まれた。地域社会による有機農業支援策である。金子さんらが始めた「生産者と消費者の提携」の米国式の呼び名である。                           


有機農業の里 小川町 その1

2013年09月22日 15時56分29秒 | お茶・農業


東京から約60kmの小川町に有機農業に地区全体で取り組み、全国ばかりか外国からも研修生がやってくるというところがあるということは、かねてから知っていた。

日本で戦後の公害の走りだった東京のガソリンの鉛中毒問題の頃から、環境問題には長く興味を持ってきた。このため有機農業とか「ロハス」とか「スローフード」という言葉には魅かれるものがあって、これまで何度か説明会などに出かけてきた。

調べてみると、小川町の下里地区に「霜里農場」という名の先進農場があり、奇数月の第2土曜日の午後1時半から見学会を開いていることが分かった。

その日近くに連絡してみると、もう定員一杯だとのこと。承知で、13年9月に会場の「下里二区集落農業センター」に出かけた。

東武東上線の終点の一つ小川町からバスで10分、降りて徒歩で10分くらいの所にある。

下里で降りると、長野県の茅野市から来た母娘に出会った。道が分からないので、一緒に行くことにした。

会場に近づくと、さいたま市近辺では見かけない細い黒羽根トンボが何匹か飛んでいて、木の葉にはナメクジがしがみついていた。カメラを持っていた大学生くらいの娘さんはさっそくシャッターを切った。

有機農業地区は、殺虫剤を使わないので、昆虫にもやさしいのだろう。

会場には各地から人が詰めかけていた。宮城県の大崎市からはバスで団体が来ていたし、陸前高田から来た人もいた。研修志願の若い外国人も混じっていた。大学生や若い人々の姿が多かった。

驚いたのは、安倍首相夫人の姿もあったことである。

著書「アグリ・コミュニティビジネス」(11年 学芸出版社)の中で、この農場や集落について書いている大和田順子さんの知り合いらしく、大和田さんに促されて、短い挨拶をされた。

自ら「家庭内野党」と名乗るだけに、面白い話だった。選挙区の山口で稲作もしているという。

大和田さんは、日本に「ロハス」という言葉を始めて紹介したことで知られる。「ロハス」とは、米国から来た語で、Lifestyles Of Health And Sustainability(健康と持続のライフスタイル)の略語。「健康と環境問題を意識したライフスタイル」といった意味である。

有機農業とも関係が深く、何度もこの地を訪れているという。

この地が全国に名を知られるようになったのは、10年、農水省の農林水産祭のむらづくり部門で、「全国で初めて集落全体で有機農業に取り組んでいる」として「天皇賞」を受賞して以来だ。14年には天皇皇后両陛下が下里地区を視察された。

その時の農林水産祭のホームページによると、この地区の総世帯数は11,711戸、農家数は882戸、農産品を売っている販売農家数は397戸。米、小麦、大豆、畑では主に自家用野菜が栽培されてきた。

一戸当たり農用地面積は0.8ha。農産物価格が低迷する中で、これまでのような経営を続けていてもやっていけないと、2000年、下里地区機械化組合の安藤郁夫組合長が、付加価値の高い有機農業に取り組むことを提案した。

その背景にあったのが、同じ地区で30年来、こつこつと有機農業を続け、その草分けとなった金子美登(よしのり)氏の存在である。

金子氏は、1948年下里生まれ。昔からの農家の長男で、両親は酪農をしていた。熊谷農業高校で酪農を学び、さらに農業経験2年以上が対象の農水省の農業者大学校(2年制)第1期生となった。

在学中、「有機農業」という言葉を、英語の「0rganic Farming」から翻訳して日本に定着させ、その普及に努めた一楽昭雄氏(全国農業協同組合中央会理事、農林中金常務理事などを歴任)の指導を受け、米と野菜を無化学肥料、無農薬で作り、地元の消費者と直接提携して届けるという会費制の有機農業を、1971年の卒業と同時に小川町で立ち上げた。

日本の有機農業の草分けであるとともに、42年間研修生と「霜里農場」を経営、地元の消費者40世帯と契約して、約3haの耕地で有機農業を続けている日本の有機農業の第一人者である。町議会議員にも選出されている。

有機農業は、20世紀初め英国やドイツに研究家や提唱者、1930年代には日本でも福岡正信氏の自然農法などが現れたが、日本の有機農業は、世界先進国の中で立ち遅れが目立つ分野である。有機農産物も輸入品が圧倒的に多い。

下里地区になぜ「霜里農場」の名? といぶかっていたら、「ここは海抜70m余なのに、夏は暑く、冬には霜だけでなく雪も降ることがあるんですよ」と、地元の関係者の一人が教えてくれた。

狭山茶 歴史

2011年05月16日 18時27分49秒 | お茶・農業



日本へ茶が初めて伝わったのは、臨済宗の開祖栄西禅師が、今から約八百余年前、鎌倉時代が始まろうとする頃、中国から種を持ち帰り、「喫茶養生記」を書き、栽培を奨励した時だとされる。

それが狭山地方にどのように伝わったのか。一説には、栄西から種をもらった弟子の京都の高僧、明恵上人(みょうえしょうにん)が、武蔵河越の地(現在の川越市)に栽植したのが始まりだと伝えられる。栄西は、宇治、駿河とともに武蔵も栽培適地の五か所の一つに挙げたという。

明恵上人は、もらった種を再興した京都・栂尾の高山寺に植え、宇治にも広めたと伝えられている。

川越市の東照宮の南にある中院には、「狭山茶発祥之地」と大書した石碑が立っている。慈覚大師円仁が喜多院の前身である無量寿寺を建立した際、京都から茶の種を持ってきて、境内で薬用として栽培を始めた。それが河越茶、狭山茶の起源たという。(写真)

また、ときがわ町の慈光寺でも茶を栽培し、飲んでいたようだ。

武蔵にいつ誰が伝えたのかは、はっきりしないが、「河越茶」が狭山茶の起源のようである。

川越市には史跡公園「河越館(かわごえやかた)跡」がある。桓武平氏の流れをくむ河越氏の館で、平安時代末から約200年間使われ、国指定史跡になっている。

この館の発掘調査で、茶碗や茶臼、風炉などの茶道具が出土、河越茶に河越氏が、かかわっていたことが分かった。

「武蔵の河越茶」が文献に現れるのは、14世紀の南北朝時代の書物「異制庭訓往来」で、京都栂尾などにつぎ、全国銘茶五場の一つに紹介されている。南北朝時代には全国有数の茶の産地だったようだ。江戸時代には、川越藩で茶会も開かれていた。

川越市では、河越館と河越茶のこのような関係から09年から「河越館跡」を史跡公園として整備する一方、河越茶に近いと思われる、地元の農家で栽培されてきた在来種と静岡茶、狭山茶の三種類約千株を育てている。

河越茶の茶摘み体験や試飲などのイベントで観光客に河越茶の存在をPR、川越観光のもう一つの目玉にしたい考えだ。「河越」が「川越」に変わるのは、江戸時代に川越藩ができた後のことのようだ。

11年5月29日には、川越城本丸御殿、喜多院、中院、川越館跡など七会場で大茶会を開いた。イメージキャラクター「河越茶太郎」もできている。

『狭山茶場史実録』(吉川忠八著)によれば、狭山茶が盛んになるのは19世紀以降で、1802(享和2)年、現入間市宮寺の宮大工もしていた吉川温恭(よしずみ)が、麦刈り作業中に雨に見舞われた際、茶らしい木を見つけ、製茶してみたら、お茶独特の香りがした。

同じ宮寺に住む親友の村野盛政に相談して、茶の栽培を始め、先輩の宇治の蒸し製煎茶の製法を取り入れて、河越茶を狭山茶として復活させ、江戸で飲まれるようになった。

これに協力したのが、江戸の茶商山本家の六代目山本嘉兵衛徳潤だった。「狭山茶」の名は、村野盛政が山本嘉兵衛に相談したところ、宮寺あたりの地名が「狭山」だったので、その地名を取って「狭山茶」としたという。

宮寺の出雲祝神社には狭山茶業復活の記念碑として「重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)」が1832(天保3)年)に建立され、狭山茶の歴史を伝える史蹟になっている。

明治の初め、狭山茶の歴史の中で忘れてはならないのは、日高市生まれの高林謙三である。

川越の開業医だったのに、お茶に注目した。当時、日本の輸出品は、生糸と茶しかなかったからだ。時間と労力のかかる従来の茶の手もみ法では、費用ばかりかかって、量産は無理なので、蒸しから乾燥まで機械が全部行う製茶機械の完成を目指した。

まず、回転円筒式のあぶり茶、生茶葉蒸し、製茶摩擦の三つの機械を発明した。この三つは、特許法が施工されたばかりの1885(明治18)年、日本の特許の2、3、4号となった。民間の発明家としては初めての特許取得だった。

1897(明治30)年には、結核と貧困に悩みながら、妻子の手助けもあって、ついに念願の製茶機械「高林式茶葉粗揉(そじゅう)機」を完成させ、日本の茶業界の産業革命に寄与した。今でも改良を重ねて使われている。

日高市のJR八高線の高麗川駅近くに「製茶機械発明者高林謙三出生地」の碑が立つ。




狭山茶 入間市の八十八夜新茶まつり

2011年05月12日 16時49分30秒 | お茶・農業



入間市は狭山茶の本場である。狭山茶とは、埼玉県下で生産されるお茶の総称だ。栽培面積(約500ha)、収穫量とも埼玉県で一位。狭山茶の半分はこの市で産する。

主産地の金子台に広がる茶畑は約350ha。関東以北で最大規模を誇る。かまぼこ型に刈りこんだ「本茶園」が整然と並ぶ。。県の茶業研究所はここにあり、ちょっと離れた市の博物館のメーンテーマはもちろんお茶。小高い、その名も「茶業公園」からは広大な茶畑を見渡すことができる。

この「入間の茶畑」は、05年埼玉新聞社がはがき投票で募集した「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢百選」で、名所などの部で第一位に選ばれた。

「北狭山茶場碑入り道」と大書した、ギネスブック掲載の日本一の道標も立っている。この道標は、高さ4.1m、台石1・1m、重さ20t。近くの龍円寺にある「北狭山茶場碑」への道を教えるものだ。

金子台には「茶どころ通り」があり、市の市内循環バスのルートは、「てぃーろーど(TEA ROAD)」と呼ばれている。

狭山茶は市の売り物だから、市役所前に8aの茶畑もある。11年には立春から数えて「八十八夜」の5月2日の朝、ここで茶摘み体験や新茶試飲会が開かれた。東日本大震災に配慮し、この年は「新茶まつり」の名を「試飲会」と改めた。(写真)

所沢市の同様な催しを見たばかりなのに、「やはり本場も」とJR武蔵浦和駅から電車で出かけてみた。乗り換えや入間市駅からの徒歩でけっこう時間がかかって、終わる寸前だったが、市役所ホールの展示や農政課でもらったパンフレット、博物館の資料などを読むと勉強になることが多かった。

「狭山茶摘み歌」に

♪色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめさす♪

という一節がある。

狭山茶は、この歌のように日本三大銘茶の一つに数えられる。なぜその中で「味は狭山」なのか。いつも疑問に思っていた。

この地は、茶の大規模な産地としては北限に近い。冬には霜が降りることもある比較的冷涼な丘陵地帯にある。その気候のおかげで肉厚の茶葉ができる。この「茶葉の厚さ」が狭山茶の売りである。

私は味の鑑定にはまったく自信がない。聞いたり、読んだりしていると、狭山茶にはこの厚さのために濃厚な甘みやこくがあるという。色も香りも味も濃いとされ、「少ない茶葉でもよく出る」というから貧乏人には有難い限りだ。

このような茶を揉んで加工するにも一工夫があった。「狭山火(び)入れ」である。機械製茶が導入される前の手揉み茶の時代、蒸した茶葉は、焙炉(ほいろ)の上に和紙を敷き、下から熱して指で揉みながら乾燥させた。この火入れを高温にすると、独特の「火入れ香」が出た。

現在の狭山茶の主要品種は、静岡の「やぶきた」や地元の「さやまかおり」。実質的に最北限なのだから、問題もある。

南の産地鹿児島では、年に何度か茶摘みができる。ここでは春夏二回だけ。一番茶は四月下旬から五月下旬、二番茶は六月下旬から七月上旬と決まっている。当然、温暖で4~5回摘める鹿児島はもちろん、静岡より収穫量はかなり少ない。

ところが、霜の心配はあっても、土壌や雨量が茶づくりにピッタリだった。金子台などの狭山茶の産地は、武蔵野台地にある。この台地は、砂や石ころの層の上に、富士山などの火山灰が厚く積もってできた。

両者とも水はけがよく、雨水が地下に沁み込むため、水田には適さず、畑作中心。この水はけの良さが茶の栽培には好都合だった。

茶は、年間降水量1300mm以上の雨の多い土地を好む。入間市の年間降水量は約1500mmと、これをかなり上回る。茶の栽培に適した、雨が多く、水はけの良い土地の条件を「上湿下乾」というそうだが、入間市はまさにその条件にぴったりの場所なのだという。

もうひとつこの地では、農家が自ら栽培し、製茶し、販売までを一貫して行う「自園・自製・自販」が主流になっているという。

なるほど。緑茶大好き人間なので、見ること、聞くこと、読むこと、いずれも面白い。


狭山茶 所沢市の新茶まつり

2011年04月28日 17時39分15秒 | お茶・農業



夏も近づき、新茶の季節がやってきた。埼玉県では、茶といえば「狭山茶」だ。狭山茶というからてっきり狭山市で採れるお茶だと思っていた。調べてみると、「狭山丘陵で育つ茶」で、入間、所沢、日高市などのも含み、それどころか埼玉県茶の総称になっている。

明治維新後、生糸と並んで、横浜から緑茶が盛んに輸出されていた頃、この地域の茶のブランドとして「SAYAMA」と名付けられた。狭山茶の名が定着したのはこの頃かららしい。

知名度は高いものの、埼玉県の茶の生産量は全国の1%に過ぎないという。

茶の中では緑茶が一番好きだ。かねがね狭山茶の採れたての新茶を飲んでみたいと思っていた。ときどき狭山茶を買いに立ち寄る県庁構内の農林会館にある埼玉県茶業協会で尋ねてみると、「11年はまず手始めに4月27日、所沢市役所で新茶祭り、新茶試飲会が開かれる」という。

その日、西武線の航空公園駅東口で降りると、目の前のロータリーの茶園で事前に応募した人々による茶摘み体験の真最中で、これからすぐ近くの市役所中庭で手もみ茶保存会の実演があるとのこと。

もっけの幸いと後をついて行ったら、香り高い蒸した茶を手で揉む作業も見られたし、新茶のご相伴にもあずかった。

茶もみは今では、もちろん機械化されている。本当の手もみとは何か。蒸してさました葉を振りながら水分をとった後、底に和紙をはった「ほいろ(焙炉)=製茶に用いる乾燥炉」(火力は160度)の上で、力を入れて転がすように、休みなしに4時間もみ続けると細く濃緑の茶ができる(パンフレット「所沢の狭山茶」による)。

「4時間もかと」思わずうなる。大変な労働だ。力仕事をしたことがないので、握力がこの歳の平均の半分程度しかない自分は恥じ入るばかりだ。

今年は冬が寒く長かったので、桜も藤も開花が一週間から十日遅れた。このため恒例の新茶の販売は取り止めになっていた。

この日の朝刊(読売埼玉版)には、屋根が開閉式になっている日高市のビニールハウスで「山の息吹」という早生(わせ)種の初摘みがあった、との写真付きの記事が載っていた。シーズンは遅ればせながら始まったようだ。

新茶と一緒に、新芽と茶殻の天ぷらもつまみに出た。珍しいのでせっせと食べた。やはり来てみるものである。新芽の方には苦味があるので、「なるほどな」と思う。

もう一つ、「所沢の狭山茶」から教わったことがある。いつも疑問に思っていたのは、なぜ狭山茶の畑には「防霜ファン」があるのかということだった。若い頃、狭山事件の現場を見ようと、初めて狭山市近辺を訪れた時、驚いたのはこのファンだった。

茶の新芽生育途中にしばしば見舞われる四月から五月にかけての晩霜被害を防止するため、ということまではよく分かる。

真理は細部に宿る。晴れていて風がない霜が降るような夜は、茶の株のある高さが最も冷え込む。ところが、地上6mでは4~5度高くなる逆転現象が生まれる。

この上層の暖かい空気を高さ6~6.5mに設置した送風機を使って、下の茶の方に送って、茶の新芽が凍るのを防ぐのだ。

「地面近くは冷え込んでも、地上6mは暖かいのか」。そうか。「南方の嘉木」といわれた茶を、当時は北限とされたこの地で、栽培した先賢たちの知恵にただ感服するばかりだ。急速に設置が進んだのは1980(昭和55)年頃からだという。

茶の北限にはいろいろある。実際、北海道や東北にもお寺や自家栽培で細々と茶が植えられている所はある。このため、狭山茶が北限という場合は、「経済的産地の北限」、つまり、大規模に植えて経済的に採算がとれる生産地、「商業的なお茶の産地」という条件がついている。

厳密にいえば、北限の茶どころは、日本海側では新潟県北端の村上市で、江戸時代初期から四百年の歴史を持つ。太平洋側では岩手県陸前高田市にその名も「茶立場」という所がある。

気になっていたら、11年6月13日の朝日新聞夕刊に、『「北限の茶摘み」高校生が守る』という見出しが目に止まった。

陸前高田市気仙町の「気仙(けせん)茶」は、高台にある茶畑は残ったが、摘み手の農家が被災し、収穫のめどがたたなかった。そんな窮状を知った地元の高校の実習教諭の提案で、地元の高校生ら約20人が茶摘みを手伝った。製茶工場の設備は壊れたけれど、陸前高田の茶栽培を続けたいと、茶栽培家は語っている。

この地は、機械製茶の国内「北限」とされ、約90軒の農家が年間約2tの茶葉を収穫する

という記事だった。



三富 千人落ち葉掃き大会

2011年01月31日 13時07分42秒 | お茶・農業

 

「日本の里100選」にも選ばれている、川越市の数km南側にある三富新田――。江戸時代からサツマイモの産地として知られたこの地を、訪ねたい気持ちはやまやまだった。

朝日新聞によると、「三富アライアンス」という名の、三富地域の農業や里山としての自然環境の維持・保全を目的とする団体が、11年1月29日(土)に狭山市堀兼のくぬぎ山で過去最大級のボランティアを募り、落ち葉を掃く「三富千人落ち葉掃き大会」を計画しているとあった。

調べてみると、くぬぎ山は、武蔵野台地で最大級の雑木林(平地林とも 約130ha)で、西武新宿線の新所沢駅(しんとこ 所沢駅はいくつもあるので地元の人はこう呼ぶそうだ)からバス便がある。

三富アライアンス(代表=鬼頭秀一・東大大学院教授)とは、県、大学(東大、早大、東京国際大学)、所沢市民大学終了者でつくる「ところざわ倶楽部」、生協(生活クラブ)に、三富江戸農法の会代表で、三富地域農業振興協議会委員の横山進氏らが発起人になって、11日に結成されたばかり。

三富新田に関心を持つすべての団体の「緩やかな連携」を目指し、昨年9月に開催された三富シンポジウムのメンバーが中核になっている。千人を超す会員を持つ県のボランティア組織「さんとめねっと」も青色のジャンバーを着て多数参加した。

この日は、約240人が集まり、「下富」の横山代表の林など約5haで、熊手と落ち葉運搬用の青色のネットを使って落ち葉掃きをした。この時期、JAいるま野や三芳町などの落ち葉掃きが何か所かで行われており、アライアンスは全部で千人を目標に掲げた。終了後、豚汁と焼き芋が参加者にふるまわれた。

「三富」とは何と読むのだろうといつも疑問に思っていた。「さんとめ」と読むのだという。新田と言っても、田んぼではなく畑である。

上富(三芳町)、中富、下富(所沢市)の三つからなるので「三富」だと、簡単に思っていた。実際に訪ねてみると、旗がいくつか風に揺れていて、「緑に富む 歴史に富む 人に富む 三富地域の農業 平地林とともに三百年 農産物の宝庫」と大書してある。

そういうことかなと調べてみたら、「富」という字は、論語の子路篇からとった言葉で、「この地が経済的に富み、やがて教育によって、人の心が豊かになるように」という願いを込めて、三富新田をつくるのを命じた川越藩主の柳沢吉保(よしやす)の命名だというから驚く。

吉保の評判は必ずしも良くない。「生類憐れみの令」で悪名高い五代将軍綱吉の側用人として、綱吉死去後、新井白石らの批判の対象になったからである。吉保は地方に下ってから真価を発揮したようだ。

三富新田は、川越藩主になった柳沢吉保の命で元禄時代の1694年から3年がかりで、開拓された約1400haの畑地である。短冊状に区割りされた土地に、道路側から順に、屋敷とそれを囲む屋敷林、耕地、ナラやクヌギの雑木林が整然と並んで配置されている。その名残は今も濃厚に残る。吉保は、雑木林育成のため1戸3本のナラの苗を配ったと伝えられる。

なぜ屋敷と耕地、雑木林が三点セットになっているのか。江戸時代の農法どおり、雑木林の落ち葉を堆肥にして、耕地にすき込むためである。まだ化学肥料がなかった時代の有機農業、循環型農法の典型として、近年、脚光を浴びている。

雑木林は肥料になる落ち葉を供給するだけではない。枝や木は木炭や燃料になり、防風林として強風で土が飛び去るのを防いで畑を守った。きのこの栽培も出来た。耕地の境界には土ぼこりが舞い上がらぬよう茶が植えられているのに感心した。

両端に家屋と雑木林がある、間口40間(72m)、奥行き375間(675m)の5町歩(約5ha)の短冊状の畑が配分された。当初、上富91、中富40、下富49の計180戸が入植した。当時の畑作農家の倍以上の広さだった。

飲料水は深い井戸を掘って確保できたものの、畑の作物は雨水が頼り。水はけの悪い赤土(関東ローム層)で、以前は一面の茅原だった。地味が貧しく、初めはソバ、ヒエ、アワなどの雑穀ぐらいしか収穫できなかった。吉保は5年間、免税にして農民の定着をはかった。土地の広さも生産性の低さを補うためだった。

寛延年間(18世紀半ば)、上総(千葉県)からサツマイモが導入されると、火山灰土の積もった関東ローム層は意外に水はけがよく、適地だったので、盛んに栽培されるようになった。

文化年間(19世紀初め)には「富のいも」(三富新田でとれたサツマイモ)として江戸で評判になった。その後、「九里四里うまい十三里(川越から江戸までの距離約50km)」とのキャッチフレーズで「川越いも」のブランドが一世を風靡したのは、雑木林の落ち葉を掃き集め、発酵させて、畑にすき込み続けた農家の長い苦闘の歴史があったのである。

篤農家の手で畑にうねをつくるなどの栽培法が開発されたのもこの地だった。

千葉県などにははるかに及ばないものの、川越地域では現在、約80haで栽培され、年間約1600tを出荷している。「川越イモ」と呼ばれているが、ほとんどはベニアズマである。

11年から毎年10月には、この伝統を記録に残そうと、三芳町の上富で、いも畑の畝の長さが約440mと「世界一長いいも掘り大会」が開かれている。

今ではサツマイモに変わって、ホウレンソウやコマツナ、チンゲンサイ、ミズナ、サトイモ、ニンジン、ダイコン、ゴボウ、カブなどが主流になっている。

落ち葉掃きは核家族化が進む農家にとっては重労働だ。1960年代前後から化学肥料や石油燃料の普及などから雑木林への依存度が減った。雑木林の相続は農地より税金が高いこともあって、雑木林が売却、伐採され、産業廃棄物処理施設や流通倉庫、物資置き場に転用が目立つようになった。くぬぎ山ではダイオキシン騒動が起きた。

雑木林保存の住民の声を受けて、官民一体となった「三富地域農業振興協議会」や「三富地域ネットワーク」(通称サントメネット)なども発足した。このような動きを緩やかにまとめ、雑木林保存などの里山の維持・保全に力を尽くそうというのが、この三富アライアンスだ。

雑木林は現地では「やま」と呼ばれる。くぬぎ山を歩いてみると、荒れ果てたやまが多いのが目に付く。やまの落ち葉掃きが済んだ林は、見違えるように美しくなり、雑木林の魅力を見直した。これなら国木田独歩も感心するだろう。

三芳町では「三富新田」を国連食糧農業機構(FAO)の「世界農業遺産」に認定してもらうため、農業遺産推進協議会を設置、14年7月に申請したが、10月末国内審査で落選した。

世界農業遺産に認定されているのは11か国25地域。日本では、静岡県掛川市の「静岡の茶草場農法」など5地域が認定されている。

三富新田は17年3月、「武蔵野の落ち葉堆肥農法」として農水省から日本農業遺産に認定された。15県19地域の中から8地域が認定され、首都圏では三富新田だけだった。


ねぎサミット 深谷市

2010年11月23日 19時40分35秒 | お茶・農業


煮ても、焼いても、揚げても、焼鳥に挟んでも、生で薬味としても、食える野菜「ねぎ」――。12月から2月にかけてのすき焼きなど鍋料理の本格的なシーズンを前に、全国市町村でトップの出荷量を誇る深谷市で10年11月20,21日の両日、「全国ねぎサミット」が開かれ、全国の産地10市町と5人の市長が、おらが里のねぎ自慢を繰り広げた。

県別出荷量では埼玉県は、千葉県に次ぎ第2位だ。ねぎの世界も深くて、長くて、面白い。

参加したのは、「深谷ねぎ」を筆頭に、深谷についで第2位、夏ねぎでは全国一、冬場の定番「鍋ねぎ」が売り物の「坂東ねぎ(茨城県坂東市)」、京野菜の一つ、歴史を誇る「九条ねぎ(京都市)」、真っ直ぐではなく曲がっている「阿久津曲がりねぎ(郡山市)」、白い根の部分が赤い「平田赤ねぎ(酒田市)」、越後美人のイメージから名付けられた「やわ肌ねぎ(新潟市)」、江戸時代に将軍家に献上されていた、別名殿様葱の「下仁田ねぎ(下仁田町)」、葉ねぎと根深ねぎの二種類の「矢切ねぎ・あじさいねぎ(松戸市)」(全国第3位)。

県内からは、高級食材として名高い「越谷ねぎ(越谷市)」、古典落語「たらちね」にも登場する「岩槻ねぎ(さいたま市)」、と、いずれ劣らぬ由緒ある“ねぎのエリート”たち。

こう並べただけで、いろいろなねぎがあるものだと感心する。

ねぎは一般に、関東では白いところを食べる根深ねぎが、関西では緑の葉も食べる葉ねぎが好まれるという違いがある。「九条ねぎ」は、葉ねぎで、霜が降りる頃からとろっとした甘い“あん”が葉に蓄えられ旨みが増すといい、平安朝前期から京都市九条地域で栽培されていたとか。

「阿久津曲がりねぎ」が曲がっているのは、郡山市阿久津の土壌の粘土が強く、作土が浅いため、夏に掘り起こして斜めに植え替える「やとい」という作業をするため。

「平田赤ねぎ」の赤色は、酒田市平田地区が最上川と相沢川の合流地点だったことから、土壌のせいのようで、赤紫色のワインカラー。赤色部にアントシアニンやポリフェノールを含み、ビタミンCの含有量も多く、風邪薬としても重宝されてきた。

県内のねぎも負けていない。ねぎ自慢で「深谷ねぎ」をPRした青年農業者の団体「ふかや4Hクラブ」の代表によると、深谷ねぎは一つの品種名ではなく、深谷地方で栽培されるねぎの総称。

特徴は繊維のきめが細かく柔らかいこと。糖度が高く、甘いこと。白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいこと。糖度は10~15度前後あり、ミカンなどに匹敵、すき焼きに砂糖を入れない人もいるほど。

こんなねぎができるのは、利根川流域の栄養分豊かな土壌と晴天の日が多いので、冬場の日照時間が長く、内陸部で一日の寒暖の差が激しい自然条件による。深谷市では、太さ、形など特に優れたのに付けられる「ふかちゃん印深谷ねぎ」ブランドを制定したという。

深谷では、畑の近くを歩くと、ねぎの香が漂ってくる。「ねぎは深谷の代名詞」なのだ。

「越谷ねぎ」は、江戸時代の文献に「越ヶ谷辺の名物」と書かれているように古くから栽培されてきた。煮崩れしないのが特徴で、東京の有名料亭などで使われている高級食材。

市内に宮内庁鴨場があるので、このねぎと鴨を合わせた「こしがや鴨ねぎ鍋」は、「彩の国鍋合戦」で第2回と第4回に優勝している。「鴨がねぎをしょって来る」とは縁起のいい名前だ。

「岩槻ねぎ」は、関東では珍しい青ねぎ(葉ねぎ)で根も葉も食べられる。古典落語「たらちね」にも登場したほどなのに、葉が非常に柔らかなので積み重ねることができず、物流に耐えられなくて、まぼろし化した。

「にぎわい」ならぬ「ねぎわい」を狙って、飲食店主らの「岩槻ねぎ倶楽部」がこのねぎを扱う店の地図「ねぎわいマップ」を作り、復活に向けPRに努めている。

ねぎは、辛味や匂いの成分「硫化アリル」には血液を固まりにくくしたり、血糖値低下、血圧上昇を抑える働きもある健康食品。新陳代謝の促進、疲労回復にも役立つ。おおいに食べて本格化する冬を乗り切りたい。

11月29日の読売俳壇のトップに「しぐるゝやモツ煮の上のきざみ葱」という句があった。ネギなしで成り立たないツキダシもある。モツ派の私はもう飲みたい気分である。