ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

三富 千人落ち葉掃き大会

2011年01月31日 13時07分42秒 | お茶・農業

 

「日本の里100選」にも選ばれている、川越市の数km南側にある三富新田――。江戸時代からサツマイモの産地として知られたこの地を、訪ねたい気持ちはやまやまだった。

朝日新聞によると、「三富アライアンス」という名の、三富地域の農業や里山としての自然環境の維持・保全を目的とする団体が、11年1月29日(土)に狭山市堀兼のくぬぎ山で過去最大級のボランティアを募り、落ち葉を掃く「三富千人落ち葉掃き大会」を計画しているとあった。

調べてみると、くぬぎ山は、武蔵野台地で最大級の雑木林(平地林とも 約130ha)で、西武新宿線の新所沢駅(しんとこ 所沢駅はいくつもあるので地元の人はこう呼ぶそうだ)からバス便がある。

三富アライアンス(代表=鬼頭秀一・東大大学院教授)とは、県、大学(東大、早大、東京国際大学)、所沢市民大学終了者でつくる「ところざわ倶楽部」、生協(生活クラブ)に、三富江戸農法の会代表で、三富地域農業振興協議会委員の横山進氏らが発起人になって、11日に結成されたばかり。

三富新田に関心を持つすべての団体の「緩やかな連携」を目指し、昨年9月に開催された三富シンポジウムのメンバーが中核になっている。千人を超す会員を持つ県のボランティア組織「さんとめねっと」も青色のジャンバーを着て多数参加した。

この日は、約240人が集まり、「下富」の横山代表の林など約5haで、熊手と落ち葉運搬用の青色のネットを使って落ち葉掃きをした。この時期、JAいるま野や三芳町などの落ち葉掃きが何か所かで行われており、アライアンスは全部で千人を目標に掲げた。終了後、豚汁と焼き芋が参加者にふるまわれた。

「三富」とは何と読むのだろうといつも疑問に思っていた。「さんとめ」と読むのだという。新田と言っても、田んぼではなく畑である。

上富(三芳町)、中富、下富(所沢市)の三つからなるので「三富」だと、簡単に思っていた。実際に訪ねてみると、旗がいくつか風に揺れていて、「緑に富む 歴史に富む 人に富む 三富地域の農業 平地林とともに三百年 農産物の宝庫」と大書してある。

そういうことかなと調べてみたら、「富」という字は、論語の子路篇からとった言葉で、「この地が経済的に富み、やがて教育によって、人の心が豊かになるように」という願いを込めて、三富新田をつくるのを命じた川越藩主の柳沢吉保(よしやす)の命名だというから驚く。

吉保の評判は必ずしも良くない。「生類憐れみの令」で悪名高い五代将軍綱吉の側用人として、綱吉死去後、新井白石らの批判の対象になったからである。吉保は地方に下ってから真価を発揮したようだ。

三富新田は、川越藩主になった柳沢吉保の命で元禄時代の1694年から3年がかりで、開拓された約1400haの畑地である。短冊状に区割りされた土地に、道路側から順に、屋敷とそれを囲む屋敷林、耕地、ナラやクヌギの雑木林が整然と並んで配置されている。その名残は今も濃厚に残る。吉保は、雑木林育成のため1戸3本のナラの苗を配ったと伝えられる。

なぜ屋敷と耕地、雑木林が三点セットになっているのか。江戸時代の農法どおり、雑木林の落ち葉を堆肥にして、耕地にすき込むためである。まだ化学肥料がなかった時代の有機農業、循環型農法の典型として、近年、脚光を浴びている。

雑木林は肥料になる落ち葉を供給するだけではない。枝や木は木炭や燃料になり、防風林として強風で土が飛び去るのを防いで畑を守った。きのこの栽培も出来た。耕地の境界には土ぼこりが舞い上がらぬよう茶が植えられているのに感心した。

両端に家屋と雑木林がある、間口40間(72m)、奥行き375間(675m)の5町歩(約5ha)の短冊状の畑が配分された。当初、上富91、中富40、下富49の計180戸が入植した。当時の畑作農家の倍以上の広さだった。

飲料水は深い井戸を掘って確保できたものの、畑の作物は雨水が頼り。水はけの悪い赤土(関東ローム層)で、以前は一面の茅原だった。地味が貧しく、初めはソバ、ヒエ、アワなどの雑穀ぐらいしか収穫できなかった。吉保は5年間、免税にして農民の定着をはかった。土地の広さも生産性の低さを補うためだった。

寛延年間(18世紀半ば)、上総(千葉県)からサツマイモが導入されると、火山灰土の積もった関東ローム層は意外に水はけがよく、適地だったので、盛んに栽培されるようになった。

文化年間(19世紀初め)には「富のいも」(三富新田でとれたサツマイモ)として江戸で評判になった。その後、「九里四里うまい十三里(川越から江戸までの距離約50km)」とのキャッチフレーズで「川越いも」のブランドが一世を風靡したのは、雑木林の落ち葉を掃き集め、発酵させて、畑にすき込み続けた農家の長い苦闘の歴史があったのである。

篤農家の手で畑にうねをつくるなどの栽培法が開発されたのもこの地だった。

千葉県などにははるかに及ばないものの、川越地域では現在、約80haで栽培され、年間約1600tを出荷している。「川越イモ」と呼ばれているが、ほとんどはベニアズマである。

11年から毎年10月には、この伝統を記録に残そうと、三芳町の上富で、いも畑の畝の長さが約440mと「世界一長いいも掘り大会」が開かれている。

今ではサツマイモに変わって、ホウレンソウやコマツナ、チンゲンサイ、ミズナ、サトイモ、ニンジン、ダイコン、ゴボウ、カブなどが主流になっている。

落ち葉掃きは核家族化が進む農家にとっては重労働だ。1960年代前後から化学肥料や石油燃料の普及などから雑木林への依存度が減った。雑木林の相続は農地より税金が高いこともあって、雑木林が売却、伐採され、産業廃棄物処理施設や流通倉庫、物資置き場に転用が目立つようになった。くぬぎ山ではダイオキシン騒動が起きた。

雑木林保存の住民の声を受けて、官民一体となった「三富地域農業振興協議会」や「三富地域ネットワーク」(通称サントメネット)なども発足した。このような動きを緩やかにまとめ、雑木林保存などの里山の維持・保全に力を尽くそうというのが、この三富アライアンスだ。

雑木林は現地では「やま」と呼ばれる。くぬぎ山を歩いてみると、荒れ果てたやまが多いのが目に付く。やまの落ち葉掃きが済んだ林は、見違えるように美しくなり、雑木林の魅力を見直した。これなら国木田独歩も感心するだろう。

三芳町では「三富新田」を国連食糧農業機構(FAO)の「世界農業遺産」に認定してもらうため、農業遺産推進協議会を設置、14年7月に申請したが、10月末国内審査で落選した。

世界農業遺産に認定されているのは11か国25地域。日本では、静岡県掛川市の「静岡の茶草場農法」など5地域が認定されている。

三富新田は17年3月、「武蔵野の落ち葉堆肥農法」として農水省から日本農業遺産に認定された。15県19地域の中から8地域が認定され、首都圏では三富新田だけだった。


北沢楽天 その作品

2011年01月17日 16時32分05秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 


楽天には、旧大宮市の「北沢楽天顕彰会」が発行した「楽天漫画集大成」(明治、大正、昭和の3巻)や全集がある。手っ取り早いのは、1991(平成3)年に大宮市が出した「近代漫画の祖『北沢楽天』図録」(KITAZAWA RAKUTEN Founder of the Modern Japanese Cartoon)。大いに引用させていただいた。

大成は、楽天の「東京パック」同様、外国人を意識しているので、中国語こそないものの、英語でもタイトルや解説が載っている。

パラパラとめくっただけで、大変な漫画家だとすぐ分かる。「蒼生(人民)をいかんせん」と題する一枚漫画は、日露戦争で政府が煙草や酒、砂糖、灯油の税を引き上げたのを批判している。

金持ちは芸者を交え、飲めや踊れやの宴会をしている一方で、骸骨姿の政府が、貧しい老夫婦から煙草や酒などを取り上げている図が描かれている。英語の説明では灯油の値段が上がっても、金持ちは、電球を使っているので関係ないと書かれている。

「政界の産物」では、時の政治家を魚介類に例えた。山県有朋は巨大な蛸「山県蛸」として描かれ、「其の性ヌラクラにして補足しがたし。八方に手を広げて子分を取り込み、味方を吸い付ける力最も強し」という厳しい説明付き。

「舌長の外科手術」は、黄禍論を唱えたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の長い舌を外科医が鋏で切ろうとしている図を描いた。ドイツ大使館は手控えを求めたが、楽天は断った。

「日本の新聞記者」という漫画もある。眼鏡を書けた記者が手で頭を押さえらて、筆を曲げるよう迫られている図で、「会社銀行に不都合があっても書いてはならぬ。外国君主の誤解を招くようなことは一切書くな」と説明されている。

1910、1911(明治43、44)年の幸徳秋水らの大逆事件の頃から政府の言論弾圧が一段厳しくなったこともあり、楽天は明治45年には「東京パック」を降りた。

大正時代には、時事新報の日曜版「時事漫画」を中心に活躍、日本で初めての少女連載漫画などにも手を染めた。楽天を中心に「漫画好楽会」が結成され、朝日新聞の岡本一平と日本の漫画界を二分した。

1927(昭和2年)、有名な「天皇の絵事件」が起きた。第54議会開院式で昭和天皇の勅語奉読の様子を楽天はスケッチした。これが「時事新報」の夕刊一面トップに掲載されると、「皆が頭を下げているのに、天皇を直視し、スケッチするのは不敬だ」と右翼が攻撃したのである。 (写真)

昭和5年8月24日の時事新報の時事漫画は「だんまり号」というタイトル。解説文は一切なし。監視やひそひそ話、投書密告が横行する時代を見事に描き出している。

そんな時代、楽天は昭和7年、時事新報社を退社、一線を退いた。マスコミから離れていた昭和17年には「日本漫画奉公会」が結成され、その会長にまつり上げられたこともあった。昭和19年宮城県田尻町に疎開した後、終戦後の23年、盆栽村に楽天居を構えた。79歳で死亡した。

晩年は、漫画風の水墨画を描きながら、「スピッツを連れ、町内の街頭を消すおじさん」として知られたという。

北沢楽天 その魅力

2011年01月17日 11時33分54秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
北沢楽天 その魅力

楽天が、時事新報に所属しながら、自ら描き広告まで編集する「東京パック」を創刊したのは1905(明治38)年4月のこと。日本海海戦の1月前だった。

「パック」とは、英語でどんな字を書くのだろうといつも思っていた。この雑誌の初刊を見ると、Puckとある。Packならすぐ分かるけど、すぐにはピンと来ない。

辞書を引いてみと、英国の伝説上の人物の「いたずら好きの妖精」のこと。シェークスピアの「夏の夜の夢」にも出てくるという。

楽天に西洋漫画の誇張などの技法を教えてくれた豪州人ナンキベル(Nankivell)が、後に米国で編集長をしていた政治風刺漫画誌「Puck」にならってこの名をつけた。

楽天でまず驚いたのは、その4月15日に発行された「東京パック」の表紙である。初めてこれを見た人は、日本人が描いたとは誰も信じないだろう。バタくさいからだ。

東京パックも第一巻第一号(もちろん旧字体)も、書き方は、今のよう左から右ではなく、右から左である。

日本語は上からだけでなく、左右どちらからでも書ける。便利な言葉である。右からのアラビア、ヘブライ語もビックリだ。絵の下にそのタイトルが、これまた右から左に書いてある。

「露帝噬臍の悔(ろてい ぜいせい の くひ)と、ルビも歴史的仮名遣いでふってある。

小学校に入学したのが昭和20年。教育漢字と当用漢字しか知らない世代。その意味がすぐには理解できない。「噬臍」が、「何かへその話かな」とまでは分かっても、お手上げ。また辞書。暇なので辞書はよく引く。

漢和辞典には、「自分のへそを、かもうとしても届かないことから、悔いても及ばぬことの例え」で、「ほぞをかむ」との説明。「そうか、ほぞは、臍のことだったのか」。戦後のえせインテリの底の浅さである。

暇だから、本当にへそをかめないのかと、柔軟体操のつもりで試してみた。長年の暴飲暴食でせっせと築いた太い腹、やはり無理。腹が薄い人は、身体を屈めても、へそも後に下がってかめないのだろうか。今度聞いてみよう。

「露帝とは誰だったかな」。これは最近、NHKの「坂の上の雲」で見たばかりだから、ニコライ2世。これだけはすぐ正解。学生時代、マルクスやレーニンを人並みに少しばかりかじった名残だ。

日本に来ては、大津事件で巡査に斬りつけられ、最後は家族ともども銃殺される数奇の人生をおくった。フランスのルイ16世同様、王朝の最後は、積年の悪政の報いながら、無残である。

この表紙は、ニコライ2世が、腰を浮かして、前かがみになって、歯をむいてへそをかもうとしている。(写真)もう少しだが無理なのだ。その時、ロシア聖教の十字架付きの王座に左手を支えているだけで、身体は王座から離れている。「王座から離れる」、つまり失脚を暗示している。

この絵が、日本海海戦、ロシア2月革命以前に描かれたことに驚いた。海外生活の中で、凄いと思う時事漫画は多く見た。それでも、その時点ではなく、将来を見越した時局漫画を見たのはほとんど記憶にない。

これは、日本海海戦、ロシア2月革命(1917年3月 皇帝退位)の前に描かれた“予言の漫画”なのだ。

時局漫画というとおり、風刺漫画は、現在進行形、あるいは過去形で書かれることが多い。将来を暗示する時局漫画を見るのは初めてだ。

明治から大正にかけて、こんな素晴らしい時事漫画が一世を風靡していたのに、今の政治漫画のお粗末さは目を覆うばかりだ。本当の意味の風刺も批判も見当たらない。川柳も同じだ。

図書館には楽天の全集があるところもある。漫画を志す人には是非、見てほしい。「漫画とは何か」。浅薄なものではない。こんな繰り言を言うのは老人のひがみか。

北沢楽天 職業漫画家第一号 さいたま市立漫画会館 

2011年01月15日 11時58分05秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

職業漫画家第一号 北沢楽天 さいたま市大宮区

漫画に興味を持ち始めたのは大学時代だった。描く才は一切無いので読むだけなのによく「眺めた」ものだ。読むではなく眺めたというのは、まだ本格的な劇画やアニメの時代ではなかったし、コマ割り漫画や四コマ漫画より一枚物の漫画に興味を持っていたからだ。

60年代、文芸春秋が「漫画読本」を出していた。海外の作品も載っていて、日本と一味違う世界の漫画の世界を垣間見せてくれていた。古本屋を回ってせっせと集めては眺めたものだ。

英国には19世紀半ばから週刊の風刺漫画雑誌「パンチ(Punch)」があることを知ったのも漫画読本のおかげだった。

北沢楽天 (写真)に興味を持ち始めたのは、「ポンチ絵(パンチの日本語なまり)」「おどけ絵」などの名で呼ばれていた「戯画」を、初めて「漫画」と名づけたことや、自ら「職業漫画家第一号」と名乗ったということを知ってからだった。日本の漫画の父とも言える人だ。この漫画の名前は葛飾北斎の「北斎漫画」を参考にしたらしい。

その弟子に「ノンキナ・トウサン」の麻生豊、「クリちゃん」の根本進、NHK「とんち教室」の長崎抜天、松下井知夫、西川辰巳といった漫画家たちがいたというから懐かしい限りだ。近代漫画の祖とされるゆえんである。「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫も憧れた存在だ。
 
大宮区の盆栽町にある「漫画会館」を初めて訪ねたのは何年前のことだろう。盆栽村に盆栽を見に出かける度に行ったので、もう何回目になるだろう。今回まとめて見返してみると、その偉大さがよく分かった。

漫画会館は、1948(昭和23年)に楽天が「楽天居」と呼ぶ居宅を構え、55年に79歳で没するまで水墨画を描いていた所で、死去後、夫人から大宮市に寄贈された。「漫画」を冠する全国唯一の公立美術館である。

生まれたのは、東京・神田駿河台。1876(明治9年)、由緒ある家柄の四男に生まれた。名は保次、楽天は画号である。北沢家は、1560年頃に大宮に築かれた寿能城の筆頭家老・北沢直信を始祖とする。

寿能城とは聞きなれない名前だ。岩槻城の支城で、見沼に面して築城された。豊臣秀吉の小田原攻めの際、落城、城に残った家来や妻子は見沼に身を投じて果てたという悲劇の城である。今は寿能公園になっている。

北沢家二代目は、刀を捨てて農民となり、大宮の開墾に当たった。紀州藩の「紀州鷹場本陣」として大宮宿の発展に尽くした家だった。

父親が役人だったので、神田金華小学校を卒業、肖像画を得意とした父親の血をひいて、図画に秀でていたので、麹町絵画研究所で2年間洋画を勉強した。

14歳で横須賀で5年間、日本画を習い、19歳で横浜の外国人居留地で米国人が発行していた英字週刊誌に入社、絵画記者としてデビューした。この社で、豪州の漫画家フランク・A・ナンキベルに西洋の漫画技法を教わった。少年時代の洋画、日本語、漫画の修行が後に花開くことになる。

転機は、1899(明治32)年、23歳の時だった。作品を見てその才能を高く評価していた福沢諭吉が、創設した時事新報社に招請、絵画部員として、35年から毎日曜日に1ページの「時事漫画」の欄を描き始めたのである。

この漫画は、政治批判、社会風刺を主とし、北斎漫画とは違う近代漫画で、日本の漫画の新しいページを開いた。

諭吉は、この若い漫画家に社中で最高の50円の給料を支払った。時事漫画は時事新報の売り物になった。諭吉は楽天を通じて、日本に近代漫画の種をまいたのだった。諭吉は「絵で世の中を動かせるのは漫画しかない」と励ました。

しかし、漫画が列強の問題に触れると、新聞も神経質になってきたので、日露戦争ただ中の1905(明治38)年に、楽天は漫画から広告まで一人が取り仕切る「東京パック」を創刊した。初めての大判サイズ(B4判)、カラー4色刷りの漫画雑誌で、月刊でスタートしたのに、月2回刊、週刊となるほど10数万部と爆発的な売れ行きを見せた。

外国人にも日本の国情を理解させるために、漫画には全部、英語と中国語で解説を加えたのが、大きな特色だった。

編集助手には、坂本繁二郎、石井鶴三、川端龍子らのそうそうたる画家がいたというから、その顔ぶれに驚く。

列強だけでなく、時の権力者らも容赦なく風刺漫画の対象にした。政府と真正面から衝突することもあり、「東京パック」は何回か発禁になった。

1929(昭和4)年には、フランス大使の斡旋でパリで個展を開くため渡欧、レジオン・ドヌール勲章を受けた。

後進の育成にも力を注ぎ、東京パックで得た資金で志望の苦学生を養い、漫画家を養成した。門下生が多いのは、このためだ。

楽天は没後、大宮市(現さいたま市)の名誉市民第一号になった。