ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

写楽と法光寺 越谷市

2011年06月24日 19時08分08秒 | 文化・美術・文学・音楽


暇な老人にとって、NHKの「BSプレミアム」や「Eテレ」ほどうれしいものはない。現役の頃は、テレビの番組に最後までじっくりかじりついている時間がなかったからだ。民放のように、今さら買いたくもない電化製品や、老人向けのサプリメントのコマーシャルなどに中断されないのが、特にいい。

最近、江戸の浮世絵師に興味を持っている。11年5月12日の「写楽 解かれゆく謎」は実に面白かった。

ギリシャで写楽肉筆の扇面画が見つかり、それが真筆と認定された。その筆使いから“謎の絵師 写楽”の正体が分かってきたというものだった。

東京国立博物館で5月から6月中旬まで開かれた「特別展 写楽」の前売券は、コンビニで買って行った。昔のようにピアの店を探すこともなく、コンビニで買える時代だから便利になったものだ。

折りも折り、埼玉のことを書いていることを知っている50年来の友人から、「写楽の墓が越谷市の寺にあるというから訪ねてみたら」との葉書をもらった。

NHKのBS、東博も見た後、埼玉に本格的な夏が到来した6月23日、くだんの寺を訪ねた。

寺は、東武伊勢崎線のせんげん台駅から、徒歩で20分程度の越谷市三野宮の田んぼの中にあった。独協埼玉高(中)学校のすぐ近く。この駅は、旧日本住宅公団の武里団地の乗降駅で、昔、住んでいたことがあるので懐かしかった。

浄土真宗本願寺派、「今日山法光寺」。今日山の名前どおり、お堂も裏のお墓もピカピカなのは、東京から1993(平成5)年に引っ越してきたばかりだからだ。埼玉県内に多い疎開派、移築派の一つである。隣にこれも新しそうなお寺もある。

寺の沿革や写楽の記念碑の説明文を読むと、あらましのことは分かる。

寺は何度も火災や災害に遭っているようだ。1617(元和3)年、日本橋浜町に本願寺浅草御坊の塔頭として創建された。1657年の明歴の振袖火事で焼失、築地に移る。

1923年の関東大震災で被災、再建したものの、1988年、今度は不慮の火災で本堂を焼失、越谷移転が決まった。空襲の被害が記されてないのが不思議なくらい、火災に縁がある。

この寺と写楽の関係は、東洲斎写楽と目される、「江戸八丁堀に住んでいた阿波候の能役者、斎藤十郎兵衛」の過去帳(檀家の死者の氏名、死亡年月日、年齢などを記入した帳簿)を、1997(平成9)年、徳島の「写楽の会」が、法光寺の現住職樋口円准氏(第十六世)の協力で、法光寺の資料から発見してからだ。

何度も火災に遭いながら、過去帳を守り抜いていたのだから、この寺は尊敬に値する。

記念碑の真ん中には、「写楽」の号の下に、大きくその過去帳の写しがある。「八丁堀地蔵橋 阿州(阿波)殿御内 斎藤十郎兵衛事 行年五十八歳 千住ニテ火葬」と記されている。1820年の過去帳である。

戒名は、「釋大乗院覚雲居士」。

写楽について、江戸の「増補浮世絵類考」の中で「写楽 俗称 斎藤十郎平衛 江戸八丁堀に住す 阿波候の能役者也 号東洲斎」の記録があり、それと合致したのである。

「写楽=斎藤十郎兵衛説」が実証されたわけだ。

斎藤家と菩提寺法光寺の関係については、1668年から明治初期までの約200年間に、およそ30人の記録が確認された、とある。

記念碑には、この過去帳を左右に囲んで、左に「太田鬼次の奴江戸兵衛」、右に「市川鰕(えび)蔵の竹村定之進」の大首絵の傑作中の二つが掲げられている。

大首絵(おおくびえ)とは、歌舞伎の役者絵を描く場合、舞台を背景にした全身像を描くのが普通なのに、上半身像だけを描く技法。

クローズアップなので、老いた役者の実像をそのままに描き出している。役者絵といえば、見た目が一番。それに反してリアルに真実を描こうとしたので、余り売れなかったらしく、活動期間はわずか10か月で、彗星のように現れて消えた。

ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが20世紀初頭、「レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界的な肖像画家」と激賞したように、海外での評価が高い。

私には肖像画というより、現代の日本の漫画家の源流のように見える。

「一介の能役者にこんなのが描けるはずがない。著名な浮世絵師が別名で描いたのではないか」と、葛飾北斎など何人かが擬せられたのは有名な話。

「真実はここにある」と、「法光寺の過去帳」は田んぼの中から叫んでいる。埼玉に関係して半世紀、「よくやった能役者」と称えたい。写楽が埼玉に引っ越してきてくれただけでうれしい。


「狭山不動尊」と「山口観音」 所沢市

2011年06月21日 05時38分01秒 | 名所・観光
「狭山不動尊」と「山口観音」 所沢市

西武狭山線の「西武球場前駅」は、その名のとおり、埼玉西武ライオンズの本拠地である西武ドーム用の駅である。

その駅のすぐ西側に「狭山不動尊」と「山口観音」という実に珍しい二つのお寺が隣り合っていることは、余り知られていない。

11年6月のウォーキングの例会で初めて訪ねて、驚くことが多かった。

「狭山不動尊」は「狭山山不動寺」というお寺である。お寺と言えば、縁起や由緒がつきもの。「古刹」(古寺)と呼ばれると箔がつく。ところが、このお寺の場合は事情がかなり違う。新しいお寺なのだ。

11年のNHKの連続時代劇「江」の主人公は、徳川第二代将軍秀忠の夫人「お江の方」である。そのお江の方の廟(霊牌所)への通用門がこの寺にあるのにまず驚いた。

「丁子門」(崇源院霊牌所丁子門)と呼ばれる。崇源院はお江の方のことである。

秀忠のもあり、「勅額門」(台徳院霊廟勅額門)と「御成門」(同霊廟御成門)の二つ。台徳院とは秀忠、勅額門とは、当時の天皇(後水尾天皇)の直筆の額がかかっているから、御成門は、貴人を迎える門のことだ。

いずれも第三代将軍家光が建てたもので、国の重要文化財に指定されている。

なぜ徳川家の廟の門がこの地にあるのか。元々は東京・芝の増上寺にあったのを移築したからである。

増上寺の霊廟敷地にあった本殿や廟(霊牌所)は、昭和20年の戦災で焼失した。

この敷地を戦後、買収してプリンスホテルなどを建設したのが、西武鉄道の堤康次郎氏で、その遺構、遺物を保存する寺として建立されたのが、狭山不動尊なのだという。

「勅額門」は西武球場駅正面道路に面しているので、目にした人は多いだろう。

この寺には、石灯篭や金属(銅)灯篭が数多くあるのに目を見張るほか、多宝塔など全国各地から由緒ある建造物が移築されていて、“移築寺”といった感じだ。

「山口観音」は、奈良時代の僧行基が建て、弘法大師が龍神に祈念し、霊泉を得たという伝えもあるから古いお寺である。

守り神なのか、巨大で長大な龍が印象的だ。本堂の周りにはチベット仏教の小型のマニ車、日本で初めてのビルマからのお釈迦様(ビルマ仏)・・・と国際色豊かである。

マニ車とは、円筒形の金属の表面に真言(マントラ)が梵字で刻まれている。手で回せるようになっていて、一回まわすと、経文を一回唱えたのと同じご利益があるという。本堂の周りには108のマニ車があるので、一回りすると煩悩を一掃できる計算だ。

私が初めてマニ車を見たのは、ネパールのカトマンズだった。

ビルマ仏は、白い大理石でも使っているのか、肌の色が白く、よそおいも女性的で、唇も紅を塗ったように見える。なまめかしい感じさえする。

ビルマ(ミャンマー)には行ったことがないので、ビルマ仏を拝んだことはない。「観音さまが寝ているみたい」と同行者の一人が言うので、よく見たら寝釈迦(涅槃像)だった。(写真)

仏教のことなど何も知らず、バンコクで初めて寝釈迦を見た時、「暑いところだからお釈迦様も昼寝しているのだろう」と思ったことを懐かしく思い出した。

奥の院の八角の朱色の五重塔の下には、「仏国窟」というトンネルがあり、四国八十八ケ所と西国三十三ケ所の霊場を回ることができる。無数の水子地蔵やぽっくり地蔵堂もあって、ご利益がいっぱいのお寺のようである。

清水かつら 和光市

2011年06月15日 10時42分22秒 | 文化・美術・文学・音楽
清水かつら 和光市

「清水かつら」と言われても、すぐにピンとくる人は多くあるまい。ところが、池袋が起点の東武東上線に乗り、成増駅と和光市駅に降り立つと、時間がうまく会えば、時計塔から子供の頃、聞いたり、歌ったりした懐かしい童謡のいくつかが響いてくる。歌詞を刻んだ歌碑もある。(写真は和光市駅前)

そう、「靴が鳴る」「叱られて」「雀の学校」「緑のそよ風」などの作詞家なのだ。

埼玉県の有名人には、大正大震災や第二次大戦の空襲で東京から避難して、住みついた人が多い。清水かつらもその一人で大震災の疎開族だ。病没する1951(昭和26)年まで住んだ。女性みたいな名前ながら、本名は「桂」と書くれっきとした男性。

童謡詩人のイメージとは裏腹に、仲間で太刀打ちできるものはないほどの酒好きで、「酒が飲めなくなったら終わりだ」とつぶやいて53歳で永眠した。脳溢血だった。3千編余の詩を残した。幼児時代のしつけで礼儀正しいダンディ。酒を飲む時も正座していたと伝えられる。

日本の童謡の全盛期は大正時代だった。「靴が鳴る」(弘田龍太郎作曲)は大正8(1919)年、「叱られて」(同)は9年、「雀の学校」(同)は11年、いずれも務めていた雑誌「少女号」(小学新報社)に発表された。

その編集長は、鹿島鳴秋で、その招きで入社したのだった。有名な唱歌「浜千鳥」(弘田龍太郎作曲)の作詞家だ。この人も埼玉県に関係のある人で、この詩ができた大正8年頃、桂と同じ東京都深川生まれの鳴秋(本名・佐太郎)は、妻と娘の三人で当時の浦和市(さいたま市)に家を新築して住んでいた。

「浜千鳥」は、「少女号」大正9年1月号に掲載。弘田龍太郎が曲をつけたのが、大正12年でレコードも発売された。

全国に知られたのは、昭和7年(1932年)、「蝶々夫人」のプリマドンナとして世界で活躍していた三浦環(たまき)がレコード化してからだった。

成増駅前の時計塔からは、かつらの歌とともにこの「浜千鳥」も流れる。「浜千鳥」のことは、このシリーズで前にも書いた。成増駅は、東京都側だが、かつらが通勤に使った駅である。

一度訪ねてみたいと思っていたが、11年の梅雨の合間に和光市のかつらゆかりの土地を訪ねた。

東京都との境界にあるこの市の東上線沿いは、急な阪が実に多いところだ。

成増駅に近い白子川は、第二次大戦後の1948(昭和23)年、よく知られる「緑のそよ風」(草川信作曲)ができた川として知られる。この歌はNHKラジオの日本のメロディーで放送されて、人気を呼んだ。

この川沿いには、住んでいた所なので、かつらにちなんだものが多い。遊歩道の一角には「生誕100年碑」、高台の白子小学校には「緑のそよ風」の歌碑、白子橋の親柱には「靴が鳴る」の歌詞が刻まれている。

この「靴が鳴る」は、戦前に米国の往年の名子役シャーリー・テンプルが歌ってヒット、進駐軍の将校が訪ねてきたことがあるという話を、今度初めて知った。

かつらが和光市に来たのは、二番目の母の里が現在の新倉にあったからだで、後に白子に移った。

現在の白子川は、お決まりの護岸工事で、「緑のそよ風」の歌詞にある

小川のふなつり うきが浮く
静かなさざなみ はね上げて
きらきら金ぶな 嬉しいな

のような風情はもちろん失われている。

「叱られて」の中に

あの子は町までお使いに・・・

という句がある。町は成増のことのようだが、「何を買い物に行ったのだろう」と、かねて疑問に思っていた。研究者によると、「ふすま(小麦の皮)」だという。今はダイエットに使われているようだが、昔は洗い粉に用いられていた。

赤岩渡舟  熊谷市

2011年06月13日 11時30分06秒 | 名所・観光
赤岩渡舟 熊谷市

聖天さまを出てちょっと北に歩くと、利根川河畔に出る。群馬県太田市に抜ける「刀水橋」がかかっている。「刀水」とは利根川のことだったなと、思い出した。刀の刃のようにきらきら光りながら流れる、とでもいう意味だろうか。

右岸、つまり熊谷側の堤防に「利根川自転車道」が延々と続いている。この自転車道は総延長170km、群馬県渋川市から千葉県の浦安市のディズニーリゾートに通じる「日本で一番長いサイクリングロード」の一部だ。このほど全部の舗装が終わった。

利根川自転車道は、渋川市から埼玉県久喜市栗橋までの約91km。その南は江戸川自転車道などを経て東京ディズニーリゾートへ至る。ヘルメット、お決まりのサイクリングウェア、格好いいサイクリストたちが前身を傾けて通り過ぎていく。女性や老人の姿も混じる。晴れて、風も弱い。最高のサイクリング日和だ。

荒川沿いの「荒川自転車道」なら何度も走ったことがある。利根川自転車道は初めてだから、ちょっと歩いてみることにした。ウイークデーだったので、それほど自転車の流れは多くない。

11年6月、利根川の別名坂東太郎を眼の下に、遠く上州の山々を望みながら、川原の葦原のヒバリやヨシキリの声をききながらのんびり散策するのは最高の気分。左手の河川敷にはグライダー滑空場も広がる。

目指したのは、下流の「葛和田の渡し」(千代田町側からは「赤岩の渡し」)だ。ここには手漕ぎではなく、ディーゼルエンジンの渡し舟「赤岩渡船」がある。

葛和田は熊谷の、赤岩は群馬県邑楽郡千代田町側の地名だ。この渡しは、500年以上前の上杉謙信の時代からの歴史を誇る。水深が深いので、舟運が盛んだった江戸時代には大型船の終点でにぎわった。

熊谷側のプレハブ小屋の脇にポールが立っていて、ポールに取り付けの黄色い旗を揚げると、千代田町側に待機している船頭が、目ざとく見つけて迎えに来てくれる。「よほど目がいいのだろう」と、最近また眼鏡の度が気になっているのでそう思う。

指示どおり黄色い旗を揚げてみると、ただ一人なのに、すぐ飛んできてくれた。増水や強風時には欠航で、目印に千代田町側に赤い旗が揚がる。

両県から千代田町に管理運営が委託されていて、町の名をとった旧千代田丸 (写真)に代わって「新千代田丸」(定員20人)を船頭2人が昼間、運航している。(筆者が訪ねた日には、まだ運航免許待ちで旧船だった)。川幅はざっと450m、5分もかからずに渡る。

公道である主要地方道熊谷・館林線の一部になっているので、料金は無料。自転車やバイクもOK。最近ネットで人気が上がって、サイクリング族が増え、利用者は通学生など年間約1万7千人とか。私のような「渡船ファン」はけっこう多いらしい。熊谷駅北口から1時間に1本、バス便もある。

付近は、農業用水や首都圏の飲用水、工業用水を供給する「利根大堰(武蔵大橋)」のちょっと上流で、水量が豊かなので、水上オートバイ、ウインドサーフィンなど水上ウォータースポーツが盛ん。夏にはレガッタ大会も開かれる。

船頭さんにもらった千代田町利根川周辺マップ「来て!見て!ちよだ」というパンフレットには、「千代田町の河川敷には日本在来のエゾタンポポが多く見られます」とある。

エゾタンポポは花を包む総苞(そうほう)の外片が上向き。セイヨウタンポポは下向き。植物好きの筆者は、セイヨウタンポポに占領された中でわざわざ花をひっくり返してみるほど、植物については国粋主義者だからうれしかった。

親切な船頭さんで、「同じような年配の方で、利根川の源流から銚子まで歩いている方もお乗せしましたよ」。「天竜川も源流から河口まで、いや九州から北海道までもやったとか」。

散歩で1時間前後、自転車道をのんびり歩いて来た怠け者とは違う、すごい人種がいるものだ。

一方、観光客に喜ばれているものの、地元は牧歌的な渡船より橋を求める声が強いのは当然だろう。千代田町側には、ここに新橋建設を求める幟がはためいていた。




妻沼の聖天さま 斎藤別当実盛 熊谷市

2011年06月12日 12時35分50秒 | 寺社
妻沼の聖天さま 斎藤別当実盛 熊谷市

「平家物語」は、中学生の頃から好きだった。吉川英治が「週刊朝日」に連載していて、単行本になるたび一冊残さず読んだ。日本の超長編小説の魅力に魅かれたのはこのシリーズからで、「大菩薩峠」や「富士に立つ影」にも挑んだ。

「平家物語」の中で、不思議に強く印象に残っている武蔵武士が二人いる。熊谷次郎直実と斎藤別当実盛である。直実の場合は、姓が熊谷なのですぐ分かる。実盛が同じ熊谷出身だったとは、この歳になるまで知らなかった。いい歳をして知らないことばかりだ。

聖天さまは仏教の宗派で言えば、高野山真言宗で、その準別格本山。縁結びのご利益があるとかで、地元の商工会などは「縁結びのまち」として盛り上げようと、縁結びキャラクターの「えんむちゃん」も、商工部青年部が公募して登場した。。

聖天さまを入ってまずくぐるのが貴惣門。横に回って見上げると、大小の切妻屋根三つに破風(はふ・合掌型の装飾板)がついている重層の組み合わせで、全国的にも例が少ないという。国指定重要文化財だ。

くぐるとすぐ右手に、左の手に鏡を持った老人の座像が目に入る。白髪と鬚(ひげ)を染めている、最後の出陣前の姿だ。これが1179年、この寺を創建した武将実盛である。この銅像は1996(平成8)年建立された。

尋常小学校の唱歌に

年は老ゆとも、しかすがに 弓矢の名をば くたさじと
白き鬢鬚(びんひげ)墨にそめ 若殿原(ばら)と競ひつつ
武勇の誉を 末代まで 残しし君の 雄雄しさよ

という「斎藤実盛」の歌があったという。

昔の小学生は難しい文句を歌わされていたものだ、ほとほと感心する。

実盛は悲劇の主人公である。
1111年、越前生まれ。13歳で長井庄(ながいのしょう)と呼ばれていた妻沼の斎藤実直の養子になる。

保元の乱(1156年)では、熊谷直実らと源氏の源義朝に従い出陣、武勲を挙げた。平治の乱(1159年)では、平家の平清盛に敗れ、長井庄は清盛の二男宗盛の領地になる。宗盛の家人になって、宗盛に代わる別当として長井庄を管理する。

1179年、実盛は仏教の守護神の一つである歓喜天を祭った聖天宮を、長井庄の総鎮守として建立する。東京・浅草の待乳山(まつちやま)聖天、奈良・生駒市の生駒聖天とならぶ「日本三大聖天」の誕生である。

待乳山聖天は、浅草寺の子院のひとつの本龍院のことである。

1180年、富士川の戦では、平家側に参戦、周知のとおり、平家勢は水鳥の羽音に驚いて敗走する。

1183年、木曽義仲を討つため、平家軍に従った実盛は生まれ故郷越前に向かう。しかし、平家軍は倶梨伽羅峠の合戦に大敗、篠原(現加賀市)で義仲軍と戦い、また敗走する。「篠原の戦い」である。篠原は、実盛一族同門の地だった。

義仲軍の武将手塚太郎光盛は、侍大将が着る萌黄威しの鎧(もえぎおどしのよろい)の下に、錦の直垂(ひたたれ・鎧の下に着る)を着用した老武将と一騎打ちになる。名乗るよう求めても「木曽殿はご存じである」としか、答えない。

光盛は討ちとって、首を義仲の前に持参した。白髪を洗わせて、実盛と分かった時、義仲は人目をはばからず号泣する。

実盛と義仲の縁は1155年にさかのぼる。この年、鎌倉に住んでいた源氏の棟梁源義朝と大蔵館(埼玉県嵐山町)に住む弟の義賢は武蔵国をめぐって対立、大蔵館の変が起きた。

義賢は義朝の長男悪源太義平に討ちとられる。「殺せ」との命に背いて、義賢の遺児で二男の駒王丸は、畠山重忠の父重能と実盛の情に助けられ、信州の木曽に落ちのびた。成人したのが木曽義仲である。

2人とも、当時2歳だった幼児を殺すに忍びなかった。実盛は義仲の命の恩人だったのだ。嵐山町の鎌形八幡神社には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っている。武蔵武士の本拠地だけに埼玉県には源氏関係の遺蹟が多い。

この実盛の話は、平家物語だけでなく、「源平盛衰記」や歌舞伎、謡曲に取り上げられ日本人の琴線に触れてきた。

無役の実盛が侍大将の身なりをしていたのは、生まれ故郷に帰るのに衣装だけでも錦を飾りたいと、宗盛の許しを得たもの。髪などを黒く染めたのは、年老いた武士とあなどられないようにとの配慮からだった。死に装束だった。享年73歳。

500年後、この篠原の古戦場を訪れた松尾芭蕉は

むざんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす

と詠んだ。

義仲もその翌年、範頼の軍に攻められ、粟津(滋賀県大津市)で一生を終えた。

妻沼の聖天堂 国宝指定 熊谷市

2011年06月11日 17時00分00秒 | 寺社
妻沼の聖天堂 国宝指定 熊谷市

「縁結びの聖天(しょうでん)さま」として親しまれている「妻沼の聖天さま」――熊谷市の「歓喜院聖天堂(かんぎいん・しょうでんどう)」が12年5月18日、国の文化審議会で県内では5件目の国宝に指定されることが決まった。

県北の観光振興の起爆剤になると期待されている。

正式には、真言宗の「聖天山歓喜院長楽寺」の本殿である。日光東照宮と同じ権現造りで拝殿、中殿、奥殿からなる。

特に奥殿の壁面は、獅子、龍、鳳凰(ほうおう)、七福神などの極彩色の豪華な彫刻で埋め尽くされているので知られる。

指定の理由は①江戸時代の建築装飾の技術的な頂点の一つである②農民の寄進でできた、の二点だった。

聖天院は1179年、斎藤別当実盛が開いたとされている。数回再建されていて、1670年の大火で消失した。

地元の大工の棟梁、林兵庫正清(はやしひょうご・まさきよ)が再建を志したのは1720(享保5年)。歓喜院院主とともに村々を巡って浄財を集めた。着工にこぎつけたのは15年後の1735年。子の正信が1760年、完成させた。

水害や資金難で工事は何度も中断し、完成まで25年かかった。その費用2万両の大半は民衆が寄進した。

棟札に残っている記録によると、名字さえなかった農民の寄進額は50から300文、中には麦や米を出したのか、1斗、2升と書かれているものもある。

着工当時の江戸・享保年間は、日光東照宮に代表される華美な建築装飾が最高潮を迎えていた。聖天院が「小日光」と呼ばれるゆえんである。

彩色彫刻で装飾された、現存の寺院としては最後のものだとされ、1984年、国の重要文化財に指定されていた。

250年近く風雨にさらされ、彫刻も痛み、その彩色もほとんど失せてきたので、03年から、外壁の彫刻を当時の極彩色に復元、大屋根もふき替える大規模修理に取りかかった。工期を2年延長、7年かけて10年3月に完成した。総工費約11億6千万円。

復元工事で色の違う漆5種類が使い分けられるなど、高度な彩色技術が駆使されていることも分かった。

色とともに彫刻の数と多様さも驚異だった。70頭以上ある龍の彫刻は、姿や配色がそれぞれ違い、同じものはない。さまざまな技術が駆使され、まるで“技の百科事典”のようだという。

この彫刻群は、上州花輪村(現群馬県みどり市)の彫り物大工、石原吟八郎を中心とする彫り物大工たちがお互いに競い合って造ったものだった(埼玉新聞)。

正清や吟八郎、それに名もない庶民の夢が、国宝という形で報われたのだった。

県内の国宝にはこれまで、指定の順に備前長船(びぜん・おさふね)の「太刀」と「短刀」(いずれも県立歴史と民俗の博物館)、「法華経一品(いっぼん)経 阿弥陀経、般若心経」(ときがわ町・慈光寺)、「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品(金錯銘鉄剣など)」(行田市・県立さきたま史跡の博物館)の4品があった。

建造物(寺院)の国宝指定は県内で初めて。県北では、聖天堂と金錯銘鉄剣を結ぶ新しいツアーも可能になるわけで、観光地の少ない本県には朗報だ。






妻沼の聖天さま 修復工事終わる 熊谷市

2011年06月10日 10時48分57秒 | 寺社
妻沼の聖天さま 修復工事終わる 熊谷市

「仏さまは色好みなのだろうか」。こんな不敬なことを思うほど、壁の彫刻に極彩色が踊っている。

「ペンキ塗りたて」の掲示は、最近あまり見かけないものの、金箔と色漆の彫刻が売り物のお寺さまはどこも、完成当初はこんなに豪華絢爛だったのだろうか。日光東照宮に修復直後に出かけたらさぞかしすごかったろうと、ふと思った。

「埼玉の小日光」と呼ばれる「妻沼(めぬま)の聖天(しょうでん)さま」。

縁結びの御利益があるとして親しまれている「聖天山(しょうでんざん)歓喜院(かんぎいん)」である。お寺の名前は仏教独特の読み方で、かなを振ってもらわないと無学な衆生には分からない。

妻沼町の聖天さまだったのに、05年に熊谷市に合併、熊谷市妻沼の聖天さまに変わった。

妻沼だから夫沼もあったのだろうと考えていたら、歌人沖ななもさんの「地名歌語り」(朝日新聞埼玉版)によると、夫沼ではなく、「男沼」の地名が今も残る。利根川が氾濫する地域で「泥沼」が「おどろま」と呼ばれた。音は「男沼」に通じる。「妻沼」は、「女沼」から「目沼」、「妻沼」と変化したというのだ。

7年余進められていたその本殿「聖天堂」の修復工事が完成して、11年6月1日からまばゆいばかりの豪華絢爛たる姿が一般に公開された。(写真)

12年5月に国宝に指定された聖天堂は、江戸時代中期の1760年に、近くの庶民たちの寄付を集めて再建されているから、実に250余年ぶりに当時の姿に再現された。総工費11億6千万円。壁面の何層もの透かし彫りは当時の色を取り戻し、色鮮やかによみがえって輝くばかり。訪れる人々の目を驚かせている。

拝観料を払って、奥殿を囲む四面の彫刻についてボランティア・ガイドの説明を聞くと非常に面白い。

「埼玉の小日光」というぐらいだから、もちろん左甚五郎の作品(伝)もある。はたして実在したかどうか分からない名彫刻師ながら、日光東照宮の「眠り猫」で修学旅行のころからおなじみだ。

落語や講談にもよく登場、左利きだったから「左」と名乗ったとか、ライバルに腕をねたまれて、右腕を切り落とされたともいう。埼玉県にも秩父神社やさいたま市・見沼の国昌寺などにもあって見たことがある。

この本殿にあるのは、眠り猫ではなく、大きく両目を開け、ボタンにとまっているアゲハチョウをじっと見つめている〝目開き猫“である。

もう一つは、「鷲と猿」。鷲が猿を襲っているように見える。よく耳を傾けると、木のぼり上手の猿が手を滑らせて、波が渦巻く深い川に落ちたのを、鷲が助けている図。猿は、慢心した人間、鷲は聖天さまを象徴するという。

解説のパンフレットに院主の鈴木英全さんが書かれたものには、「妻沼の本殿は日光の東照宮が造られてから100年の隔たりがある。この彫刻は、四世か五世の甚五郎作の解釈も成り立つ」とある。

「三聖吸酸図」というのは、孔子、釈迦、老子の三聖人が壺の中の酢をなめて、顔をしかめているところで、宗教は違っても、真理は一つという意味。

「布袋と恵比寿の碁打ち」というのもある。江戸時代に棋聖とうたわれた本因坊道策と、その弟子の熊谷出身の熊谷本碩の対局が綿密に描き込まれているとかで、碁好きには見逃せない。

このように、一つ一つの彫刻には、それぞれ逸話があり、興味深い。「百聞は一見に如かず」である。一見の価値は十分にある。


野火止用水 松平信綱

2011年06月09日 16時22分18秒 | 川・水・見沼
野火止用水 松平信綱

江戸初期の1655(承応4)年に開削された野火止用水は、「伊豆殿堀」とも呼ばれる。当時、幕府の老中で川越城主だった松平伊豆守信綱が造ったからである。今でも、平林寺裏の小さな橋に「伊豆殿橋」の名が残る。

私の乏しい日本史の知識だと、確か「守」とは地方の長官。川越藩主で伊豆半島を支配しているわけではないのに、なぜ「伊豆守」を名乗るのかかねがね不思議に思っていた。

調べてみると、江戸時代には、武家の官位は単なる称号に過ぎなかった。名判官大岡越前守忠相が越前の領主だったわけではないのと同じである。伊豆守の名は、老中職などを務める人に多かったという。信綱は、老中も務めていたので納得した。

信綱は“知恵伊豆”の呼び名があるほどの知恵者だった。9歳で後の三代将軍家光の小姓になった。1637年、島原の乱を鎮圧した功で、行田の忍城から川越城に転封。川越城を拡張・整備すると同時に、川越と江戸を結ぶ新河岸川を整備、舟運を始めた。さらに荒川の治水、川越街道の整備など現在の川越の発展の基礎を築いたのはこの人だ。

信綱は、江戸の水不足を解消するため多摩川から東京・四谷まで43kmの玉川上水を総奉行として完成させた(1653年)。その業績に対し、禄を増やす話を辞退、その代わりに玉川上水の水の3割を自分の領地だった野火止台地に分水する許可を得て、1655年に開削したのが上水から新河岸川まで約25kmの野火止用水だった。

玉川上水の工事でも起用した川越藩士・安松金右衛門に命じ、着工から40日で完成した。玉川上水から新河岸川まで勾配が緩いので、土地が低い所では、堤を築き、堤の上に水路を造った。総工費3千両とされる(玉川上水は5千両)。

この台地は武蔵野台地の一環で、赤土と呼ばれる関東ローム層から成る。水の浸透性が高く、「水喰土(みずくらいど)」と呼ばれたほどで、水の便が悪く、焼畑農業が中心だった。野火が広がり過ぎるのを防ぐため、堤防や塚のようなものが築かれたのが野火止だ。平林寺の中には野火止塚が残る。

水が無いので、住民は「カヤ湯」とか「芝湯」といって、刈り取ったカヤの上に寝転がったり、手足をこすりつけて風呂代わりにしたと伝えられる。

そんな所に、飲み水や生活用水、田の水にも使える水が野火止用水で届いたのだから、「伊豆殿堀」と農民たちが感謝したのは当然だった。

のちに新河岸川に「いろは48の掛樋(かけひ)」がつくられ、用水の水を対岸に送り、宗岡村(現志木市)の水田を潤した。

松平家の菩提寺の平林寺は岩槻にあった。1663年、信綱の遺志でこれを野火止に移すと、平林寺堀ができ、引水した。信綱の墓は平林寺にある。

平林寺や「野火止緑道」がある新座市は、かつての新羅郡が新座郡に改名された名残である。その昔の名「新羅」は朝鮮半島の「しらぎ」から来た人たちが住んでいたためで、最新技術を持っていて、芸術的センスも優れていた。

758年、朝廷は帰化した新羅の僧32、尼2、男19、女21人を武蔵国に移したのが新羅郡の始まりという。それ以前にも2回、新羅人が移されている。

新座郡に改名されてから「にいくら」と呼ばれた。新座、和光、朝霞、志木市一帯が新座郡だった。

716年に高麗からの帰化人を集めて、日高市近辺に置かれた高麗郡と並んで、武蔵国と朝鮮半島は深い関係にあったことが分かる。2016年は高麗郡建都1300年で記念行事が着々と進められている。

伊豆殿堀沿いの遊歩道を、こんな歴史を思い浮かべながら歩くのも楽しい。今度は平林寺裏だけではなく、25km全部を歩いてみよう。

野火止緑道 新座市 

2011年06月06日 18時54分38秒 | 川・水・見沼
野火止緑道 新座市

久しぶりに新座市の「野火止緑道」を歩いた。厳密に言えば、いつものママチャリで出かけたのに、降りて押して歩いたのである。自転車に乗ってただ通り過ぎるのでは、埼玉県内で最も素晴らしいと自賛しているこの遊歩道に申し訳ないからだ。

出かける気になったのは、38年ぶりに野火止用水の本流を、延べ308mだけ地上に復元する工事が完成したという新聞記事を見たからだった。

宅地開発に伴うお決まりの水質悪化で、どぶ川の暗渠化は日本全国の習いだ。例にもれず、1973年頃から国道254号(川越街道)以北から新河岸川までは暗渠化され、地下の雨水管に流されていた。

市では最近、地区の土地区画整理事業に合わせ、本流の一部の地上化を進めていた。雨水管を流れる用水をタンクにため、ポンプで汲み上げ一日約9800tを流すのである。

復元といっても、「子どもが入っても事故が起きないように」との配慮から水深は5cm程度。開削当時の用水とはかなり違う。この程度の深さでは、飲料、生活、田んぼの用水にはならないからだ。

新座市では、12年春をめどにJR武蔵野線新座駅まで336mの支流も復元させる計画で、駅から紅葉の名所「平林寺」まで約3kmにわたって、このようなせせらぎに沿って散策が楽しめるようになるというから楽しみだ。

秋の紅葉で天皇も来られる平林寺を核に観光都市を目指す市にとって大きな前進だ

だが、野火止緑道とはこの程度と思ってもらっては困る。この緑道の魅力は、川越街道を「りょくどうきょう(緑道橋)」で越え、平林寺裏の「野火止緑道」に入ってからだ。(写真)

なにしろ「国指定天然記念物平林寺境内林」の裏を野火止用水の本流沿いに歩くのだから。東京都の「清流復活事業」で、本流に下水の二次処理水を送水し始めたのは1984年、それを三次処理水に改善したのは91年のことだった。

境内林は、クヌギ、コナラ、イヌシデ、エゴノキ、クリなどの雑木林にシラカシ、マツ、スギ、モウソウチクが混じり、地面にはクマザサなどが茂る典型的な武蔵野の里山。

この雑木林を保存するために、高圧線の下の木を約20年周期で伐採、芽吹いた若木を育てている。雑木林は人手が加わらないと永続しないのである。

この雑木林は、首都圏では屈指の鳥類生息地。春から秋にはジョウビタキ、コガラ、コゲラ、シジュウカラ、アカハラ、カケス。秋から冬にはホオジロ、メジロ、アオジ、ヒガラ、イカル、コジュケイ。このほか、ルリビタキ、アオゲラ、キジバトなど約60種がいて、繁殖、越冬地として利用する。バードウオッチャーにはこたえられない。

その境内林の裏を歩くのだから素晴らしいのは当然だ。

野火止用水は、東京都の立川市で玉川上水から分水し、埼玉県の志木市の新河岸川まで約25km。流域は、東京都の立川、小平、東大和、東村山、東久留米、清瀬の6市、埼玉県の朝霞、新座、志木の3市と計9市に及ぶ。