暇な老人にとって、NHKの「BSプレミアム」や「Eテレ」ほどうれしいものはない。現役の頃は、テレビの番組に最後までじっくりかじりついている時間がなかったからだ。民放のように、今さら買いたくもない電化製品や、老人向けのサプリメントのコマーシャルなどに中断されないのが、特にいい。
最近、江戸の浮世絵師に興味を持っている。11年5月12日の「写楽 解かれゆく謎」は実に面白かった。
ギリシャで写楽肉筆の扇面画が見つかり、それが真筆と認定された。その筆使いから“謎の絵師 写楽”の正体が分かってきたというものだった。
東京国立博物館で5月から6月中旬まで開かれた「特別展 写楽」の前売券は、コンビニで買って行った。昔のようにピアの店を探すこともなく、コンビニで買える時代だから便利になったものだ。
折りも折り、埼玉のことを書いていることを知っている50年来の友人から、「写楽の墓が越谷市の寺にあるというから訪ねてみたら」との葉書をもらった。
NHKのBS、東博も見た後、埼玉に本格的な夏が到来した6月23日、くだんの寺を訪ねた。
寺は、東武伊勢崎線のせんげん台駅から、徒歩で20分程度の越谷市三野宮の田んぼの中にあった。独協埼玉高(中)学校のすぐ近く。この駅は、旧日本住宅公団の武里団地の乗降駅で、昔、住んでいたことがあるので懐かしかった。
浄土真宗本願寺派、「今日山法光寺」。今日山の名前どおり、お堂も裏のお墓もピカピカなのは、東京から1993(平成5)年に引っ越してきたばかりだからだ。埼玉県内に多い疎開派、移築派の一つである。隣にこれも新しそうなお寺もある。
寺の沿革や写楽の記念碑の説明文を読むと、あらましのことは分かる。
寺は何度も火災や災害に遭っているようだ。1617(元和3)年、日本橋浜町に本願寺浅草御坊の塔頭として創建された。1657年の明歴の振袖火事で焼失、築地に移る。
1923年の関東大震災で被災、再建したものの、1988年、今度は不慮の火災で本堂を焼失、越谷移転が決まった。空襲の被害が記されてないのが不思議なくらい、火災に縁がある。
この寺と写楽の関係は、東洲斎写楽と目される、「江戸八丁堀に住んでいた阿波候の能役者、斎藤十郎兵衛」の過去帳(檀家の死者の氏名、死亡年月日、年齢などを記入した帳簿)を、1997(平成9)年、徳島の「写楽の会」が、法光寺の現住職樋口円准氏(第十六世)の協力で、法光寺の資料から発見してからだ。
何度も火災に遭いながら、過去帳を守り抜いていたのだから、この寺は尊敬に値する。
記念碑の真ん中には、「写楽」の号の下に、大きくその過去帳の写しがある。「八丁堀地蔵橋 阿州(阿波)殿御内 斎藤十郎兵衛事 行年五十八歳 千住ニテ火葬」と記されている。1820年の過去帳である。
戒名は、「釋大乗院覚雲居士」。
写楽について、江戸の「増補浮世絵類考」の中で「写楽 俗称 斎藤十郎平衛 江戸八丁堀に住す 阿波候の能役者也 号東洲斎」の記録があり、それと合致したのである。
「写楽=斎藤十郎兵衛説」が実証されたわけだ。
斎藤家と菩提寺法光寺の関係については、1668年から明治初期までの約200年間に、およそ30人の記録が確認された、とある。
記念碑には、この過去帳を左右に囲んで、左に「太田鬼次の奴江戸兵衛」、右に「市川鰕(えび)蔵の竹村定之進」の大首絵の傑作中の二つが掲げられている。
大首絵(おおくびえ)とは、歌舞伎の役者絵を描く場合、舞台を背景にした全身像を描くのが普通なのに、上半身像だけを描く技法。
クローズアップなので、老いた役者の実像をそのままに描き出している。役者絵といえば、見た目が一番。それに反してリアルに真実を描こうとしたので、余り売れなかったらしく、活動期間はわずか10か月で、彗星のように現れて消えた。
ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが20世紀初頭、「レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界的な肖像画家」と激賞したように、海外での評価が高い。
私には肖像画というより、現代の日本の漫画家の源流のように見える。
「一介の能役者にこんなのが描けるはずがない。著名な浮世絵師が別名で描いたのではないか」と、葛飾北斎など何人かが擬せられたのは有名な話。
「真実はここにある」と、「法光寺の過去帳」は田んぼの中から叫んでいる。埼玉に関係して半世紀、「よくやった能役者」と称えたい。写楽が埼玉に引っ越してきてくれただけでうれしい。