ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

偉人(はなわ)保己一(ほきいち)   本庄市 

2021年09月22日 16時27分04秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

江戸時代の全盲の国学者・塙保己一(1746~1821年)の没後200年に当たる2021年、出身地の本庄市では、市や市民団体などに企業などによる様々な記念行事が行われた。

命日の9月12日には恒例の「遺徳顕彰祭」が開かれ、かって地域の主要産業だった瓦材で地元企業が製造・寄贈した座像も祭壇に添えられ、座像は市内の全小学校にも一体ずつ贈られる。

「塙保己一記念館」では11月14日まで、愛用の机などを公開する企画展を開催した。米国の社会福祉活動家で視覚と聴覚の重複障碍者だったヘレン・ケラー(1880-1968年)も、1937年の来日時にこの机に触れたのは有名な話。

生涯を紹介した「世のため 後のため ものがたり塙保己一」を「総検校塙保己一先生遺徳顕彰会」は2万部発行、市内全小学校に配布した。全国から募集したイラスト入りの没後200周年記念のロゴも市内各所に張り出されている。

2023年の上映をめざし、映画化の話も持ち上がっているという。これが実現すると、深谷市出身の日本資本主義の父・渋沢栄一、熊谷市出身の日本の女医第1号荻野吟子の「県出身の3偉人」のテレビ・映画化が実現することになる。




夏目漱石の小説「坊っちゃん」のモデルは熊谷中の先生だった

2021年09月14日 15時47分23秒 | 文化・美術・文学・音楽
現在の県立熊谷高校周辺ではよく知られている話のようだが、夏目漱石の有名な小説「坊ちゃん」の登場人物「山嵐」のモデルは、当時「熊中」と呼ばれた県立第二中学校の先生だった。

漱石が留学先のロンドンから帰って、愛媛県松山市の「松山尋常中学校」で教えた後、「熊中」に赴任した際、同じ職場にいた弘中又一と交友を深め、その破天荒な人柄にひかれて「坊っちゃん」を書く際にモデルにしたのである。

「坊ちゃん」が発表されたのは、熊中時代の1906年のことである。弘中は当初からモデルとされたが、「私の知ったことではない」と無頓着だったという。

弘中は、埼玉県の人ではない。山口県出身で同志社普通高校(現同志社大学)卒業後、1895(明治28)年、松山尋常中学校に数学教師として赴任、たまたま同じ中学職員室の前の前の席にいた漱石と知り会った。

1919(明治33)年、弘中は、熊高の前身埼玉県第二中学中学校(熊谷中=現熊谷高)に着任した。弘中は次に京都の同志社中に移るまで19年間、熊谷市宮町1丁目の借家などに家族と住み、教師を続けた。

熊高同窓会では、弘中先生が熊中に着任して、120周年になるのを記念し、2021年8月リーフレット5千部を発行した。この記事はそれを報じた朝日新聞県版に基づく。