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北武蔵15の郡

2014年07月29日 17時16分13秒 | 県全般
北武蔵15の郡

誰でも知っているとおり、埼玉県は武蔵国に属していた。

昔は「无邪志」とか「胸刺」と表現されていた。これに知知夫国造(ちちぶのくにのみやっこ)が支配していた知知夫が加わり一つの国になった。

645年の大化改新と701年の大宝律令によって大和朝廷による中央集権の律令国家が確立され、国、郡などの地方組織が整備された後、現在の埼玉県、東京都のほとんどと、神奈川県の横浜、川崎市にまたがる国として「武蔵」の国名が使われている。

以前は「東山道」だったが、「東海道」に転属した。「道」と言っても道路の名前ではなく、道路を中心とする地方の名前である。

武蔵国は21(後に22)の郡(こおり)で構成されていた。陸奥国の40郡に次いで多かった。

21郡は一度にできたのではなく、それぞれが出来た年代ははっきりしない。「続日本記」によると、朝鮮半島からの渡来人による「高麗郡」が716年、新羅(しらぎ)郡(のち新座=にいくら=郡)が758年に追加された。


21の郡のうち、北武蔵に当たる現在の埼玉県には15の郡があった。郡の数では北が圧倒的に多いのに、国を治める国府は埼玉県内ではなく、南の現東京都府中市に置かれていた。武蔵国分寺も現東京都国分寺市にあった。

平安中期に編纂された律令の施行細則(延喜式)によると、国力の格は「大国(たいこく)」で、都の京都からの距離は「遠国(おんごく)」とされているというから面白い。

15の郡は、足立、新座(にいくら)、入間、高麗、比企、横見、埼玉(さきたま)、大里、男衾(おぶすま)、幡羅(はら)、榛沢、那珂、児玉、賀美(かみ)、秩父である。

郡の中にはいくつかの郷(ごう)があった。その数は、武蔵国全体で121、埼玉県域で75あった(平安時代中期の辞書・和名類聚抄)。

郷の戸数は50戸と定められ、1戸の平均人数は25人前後だから、当時の人口は武蔵国で約15万人、埼玉県域では約9万人と推定している本もある(「埼玉県の歴史」小野文雄著・山川出版社)。

足立郡には、現在のさいたま市(岩槻区を除く)、川口、戸田、蕨、上尾、桶川、北本、鴻巣市などが入っていた。

横見郡は吉見町の辺り、埼玉郡は、さいたま市岩槻区、春日部、越谷、久喜、八潮、蓮田、行田、羽生、加須市など、榛沢郡は熊谷、深谷市と大里郡辺り、那珂郡と賀美郡は本庄市、児玉郡の辺りだったという。


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