ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

若田光一 宇宙船船長 さいたま市

2013年07月30日 17時32分49秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 


埼玉県出身でピッカピカの現役、それも日本や、地球ではなく、宇宙で光り輝いている人がいる。

宇宙飛行士・若田光一さん(13年で50歳 63年8月1日生まれ)である。

今度は13年11月7日、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられたロシアの宇宙船ソユーズで、国際宇宙ステーション(ISS)に向かい、約半年間滞在、後半の2か月、14年3月9日からは39代船長を務め、5月14日まで他の5人の乗組員を指揮し、帰還した。

宇宙滞在はこれで計188日。日本人で最長を記録した。

船長は日本人では初めて。これまでの38人の船長は、米ロが36人、欧州、カナダも務めているのに、関係国で日本だけがやっていなかった。

宇宙飛行は1996年、2000年、09年と3回経験しており、今度で4回目、ステーションでの長期滞在は09年に次いで2回目になる。英語だけでも大変なのに、ロシア語もできるようになったというから驚きだ。

さいたま市の科学館に関係しているのは、若田さんが生まれも育ちもさいたま市で、この館との名誉館長を務めているからだ。訓練の合間に帰郷した時には、科学館で講演もした。(写真)

当時の大宮市(現・さいたま市北区)生まれ。父親は建設省に勤める公務員。二人兄弟の長男だった。1976年大宮別所小、79年宮原中卒、82年浦和高卒と高校までさいたま市で成長した。

小学4年からリトルリーグ入り。高校では野球部で捕手、ベンチ入りはかなわなかった。趣味はこのほか、テニス、スキーと多彩。どこでも寝られるのが自慢。いかにも宇宙飛行士向きだ。

野球部の経験は、宇宙ステーションの中でも生かされた。

宇宙にはズブの素人の私にも、講演の中で最も興味を魅かれたは、無重力の中で、投手としてボールを投げると、球より早く走れるので、今度は打者としてバットで打てるという話だった。

若田さんと正反対で、とりわけ数学や理科が苦手な私には、なぜそんなことが可能なのかさっぱり分からない。

09年4月、東京ドームのプロ野球の巨人・阪神戦で宇宙ステーションから「宇宙からの始球式」をしたのを覚えている人も多いだろう。

地上でも、01年の高校野球の甲子園大会始球式に招かれ、宇宙に持って行った玉を快速球で見事にストライクを決めた。

もう一つ面白かったのは、カラオケが好きで、ステーションの中でも口ずさんでいるという話で、下手の横好きの私も思わず「快哉」を叫んだ。はやりの言葉で言えば、「いいね」というわけである。

大学は両親の実家があることなどから九州大学に進み、1989年大学院工学研究科を修了。工学博士。在学中に民放の「鳥人間コンテスト」に出場したこともある。

大学ではドイツからの留学生シュテファニー・フォン・ザクセン・アルテンブルクさんと知り合い、結婚して一男がいる。

卒業後、日本航空に入社、整備訓練部に所属しているうち、1992年NASAの前身のNASDAからミッションスペシャリスト候補に選出され、宇宙航空士の道に入った。

西崎キク 日本女性初の水上機パイロット 上里町 その2 

2013年07月17日 16時37分20秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 


キクさんにとって、大空に続く人生の第二幕は大地との格闘、開拓だった。

1938年今度は、上里町の近くの神保原村の青年と結婚、当時はやりの満蒙開拓団の一員として、「満州国埼玉村開拓団」に入植した。

「空の女王」から「開拓地の花嫁」への転進は、全国を驚かせ、大きなニュースとなった。

冬は零下30度まで下がる極寒のなか、匪賊(盗賊)の来襲などの厳しい生活の中で、国民小学校の開校で小学校の教師も務め、開拓地の子供たちの一年を記録した満州映画「開拓団の子供」にも出演した。

現地で夫を病気で失い、再婚して、在満国民学校の教師も務めた。

再婚相手は終戦の11日前に出征してシベリアに抑留された。乳飲み子の長男を抱え、苦難の帰国の途中、奉天(現・瀋陽市)の収容所で肺炎で失くした。

1946(昭和21)年6月9日、埼玉県庁にたどり着いた開拓団員は、出発時の492人中わずか133人に過ぎなかった。残りは長男同様、満州の地に果てた。満蒙開拓団の悲劇である。

それでも開拓への意欲は衰えず、鴻巣市間室中学校の教員のかたわら48年に地元の「七本木開拓地」に入植して、再び鍬を振るった。七本木中で教員、七本木小学校で教頭も務めた。

土壌が酸性で、必ずしも開拓向きの土地ではなかったものの、54年に夫が帰国すると教員を退職、農業に専念した。

その体験を書いた「酸性土壌に生きる(開拓15周年記念体験記)」は61年、農林大臣賞を受けた。

75年には、メキシコシティで開かれた国際婦人年の世界大会に参加、自伝「紅翼と拓魂の記」を出版した。

この本は、さいたま市の県立図書館にあるので、開いてみると、小説家はだしの筆さばきで、相当な文才の持ち主だったことが分かる。

76年に放映されたNHKの朝の連続ドラマ「雲のじゅうたん」は、飛行家という夢に向かって奮闘するヒロインの姿を描き、平均視聴率は40.1%、最高視聴率は48.7%だったというから、その人気がしのばれる。

キクさんはそのモデルの一人とされた。兵頭精さんももちろん、モデルの一人である

日本婦人航空協会理事としても活躍した。1979年、脳溢血で波乱の人生を終えた。66歳だった。

今流に言えば、「飛んでる女」だったキクさんの人生を振り返ると、飛行士時代の墜落、不時着、開拓時代の満州からの引き揚げの危機を生き延び、人生を全うできたのは、つくづく運に恵まれた女性だったことが分かる。

まさしく「紅翼」と「拓魂」に対する挑戦の意欲がその危機を乗り越えさせたのであろう。

西崎キク 日本女性初の水上機パイロット 上里町 その1 

2013年07月17日 16時16分11秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
西崎キク 日本女性初の水上機パイロット 上里町 その1 

日本で初めて飛行場ができた所沢市の、航空発祥記念館に出入りしているうちに、埼玉県には確か、新聞で「女鳥人」ともてはやされ、全国にその名を知られた女性飛行士で、NHKの連続ドラマ「雲のじゅうたん」のモデルの一人になった人がいることをふと思い出した。

手持ちの資料をかきわけてみると、県の最北端、群馬県と接する上里町の出身で、「日本初の女性飛行士」ではなくて、厳密に言えば、「日本初の水上機操縦士」、日本女性として初めて海外(当時の満州)へ飛んだことで有名な西崎キクである。

キクのことは、上里町のホームページに「郷土の偉人 西崎キク」という読み物としても面白い経歴が載っているので、それを核にして、キクのことを紹介してみたい。(写真も)

キクは、1912(大正元)年、上里町の七本木生まれ。東京の六本木ならぬ七本木は七本の古い大木があったかららしい。

旧姓松本きく子。県の女子師範を卒業、神保原小学校教師へ。1931年、群馬県太田市の尾島飛行場で飛行機を見たことから、自分も飛びたいと東京の第一飛行学校に入校、次いで愛知県の安藤飛行機研究所の練習生になり、33年8月、日本女性初の水上機の免許をとった。

免許を取って2ヵ月後には郷土訪問飛行に挑んだ。

10月15日午前6時10分、「一三式水上機」を駆って、愛知県知多市新舞子にあるこの研究所を出発した。途中、羽田など2か所で給油、午後1時、坂東大橋に雄姿を見せ、数万の群集が見守る中、三度旋回した後、見事に着水した。408kmを7時間で飛んだ。

18日には、上里町のある児玉郡の小学校や母校県女子師範のある浦和、さらに川口、所沢などの市の上空を飛び、20日、羽田の東京水上飛行場に着水、郷土訪問を終えた。

この飛行は、愛知県知事などが応援、地元の後援会では「郷土訪問の歌」までつくられた。

きく子は、「ふるさとの川は野は麗しく ふるさとの山はこよなく美しい 只感激!只感謝! 二等飛行士 松本きく子」という感謝のビラ3万枚を散布した。

水上機は、陸上の飛行場がなくても、離発着できる利点がある。上里町が利根川に面していて、坂東大橋があることもこの飛行の格好の舞台装置になった。

34年には東京・洲崎の亜細亜航空学校に入学、陸上機の免許も取得。今度は10月に満州国建国祝賀のため、羽田と当時の満州の新京まで、海と“国境”を越えた親善飛行を行った。途中、燃料不足で京城(現ソウル)で不時着というアクシデントに見舞われたものの、2440kmを2週間で飛び、日本の女性として、はじめての海外飛行を達成した。

新聞が「女鳥人」などと書きたてたのはこの時である。パリの国際航空連盟からその年度内の世界の最優秀パイロットに贈られるハーマン・トロフィーが贈られた。

トロフィーともに贈られた終身会員証の№は31番で、30番は「翼よあれがパリの灯だ!」で有名な、1927年に初めて大西洋単独無着陸横断飛行に成功したリンドバーグだった。

世界でリンドバーグ級の飛行士として認められたのである。

37年には、旧樺太の中心地だった豊原市(現在のユジノサハリンスク)の市制施行祝賀飛行に出発したものの、愛機が墜落、貨物船に救助される事件もあった。

日中戦争が始まると、患者の後方輸送機の操縦士を軍に志願したものの却下され、飛行士としての人生は終わった。37年、24歳の時である。

女性で日本初の航空機操縦士免許を得たのは、愛媛県出身の兵頭精(ひょうどう・ただし)である。男のような響きの名前ながら、1922(大正11)年、女性で初めての三等飛行機操縦士免状を得た。

ところが、やっかみ混じりのスキャンダルを暴かれ、航空界から突然姿を消してしまった。
  

荒川の起点を訪ねる 秩父市

2013年07月11日 16時28分08秒 | 川・水・見沼


埼玉県の母なる川「荒川」は、埼玉、長野、山梨三県の境界にそびえる甲武信ヶ岳(2475m)を源とする。

東へ流れると入川を経て「荒川」、西、次いで北へ流れると千曲川を経て「信濃川」、南へ流れると笛吹川を経て「富士川」となり、それぞれ東京湾、日本海、駿河湾へと注ぐ。

荒川には源流点と起点の二つの石碑がある。

「荒川源流点の碑」は、甲武信ヶ岳の直下にある甲武信小屋から少し下って、コケの茂る原生林の中にある。

荒川の源流は「真の沢」と呼ばれる。二つの源が一つの谷で出会うので「奥の二又」という場所に碑があるという。この岳に登っていないので訪ねたことはない。この碑は1986年埼玉県が、建設省、林野庁、当時の大滝村に呼びかけて立てた。

一方、起点の碑は入川に赤沢谷の流れが轟音とともに合流する所(秩父市大滝)にある。「一級河川荒川起点」と書かれた小さなものである。(写真)

建設省が立てたもので、これが荒川の正式な起点である。近くに立つ環境省の看板によると、標高は1000mにわずかに達していない。

ここから173kmかけて、荒川は東京湾へ向かう。

この起点まで電車とバスと徒歩で訪ねる「荒川の源流入川渓谷ハイキング」が、梅雨が明けた13年7月6日にあったので、勇んで出かけた。

源流点はともかく、起点ぐらいは、埼玉県民として見てみたいとかねがね思っていたからだ。

西武と秩父鉄道の共催。驚いたのは実に700人近くの参加者があり、その7、8割が女性だったことだ。山ガールの話は聞いていたものの、ガールだけでなく、中年、高年の女性も多かった。歩行時間が往復で約4時間という手頃さが受けたのだろう。

西武は秩父鉄道の終点・三峰口(標高316m)まで直通電車を出した。そこからバスで、埼玉県と山梨県を結ぶ「彩甲斐街道」(国道140号線)を30分余、川又(標高約650m)で下車、入川渓谷に入り、「赤沢谷出合」の起点の碑まで、約6km歩いて往復するというものだった。

出合のすぐ近くに「赤沢吊橋」がある。中津川沿いの「中津峡」は、もう一つ北の道沿いで、北の方向に当たる。紅葉期に訪ねたことがある。

名前さえ知らなかったこの「入川渓谷」は、奥多摩にひけをとらない素晴らしさだった。

林業に携わっていた有名な歌人・前田夕暮が晩年、住んでいたので、その名を冠した「夕暮キャンプ場」やその歌碑を見ながら、西に進むと、「イワナの宝庫」として知られる釣り場なので、観光釣り場がずらりと並ぶ。

この地方の在来イワナは、オレンジ色が強く、白い斑点が小さいのが特徴だと、パンフレットにある。

このハイキングコースは、往路は緩やかな勾配の坂道になっていて、左手の深い渓谷を水が音をたてて流れ落ちている。

復路では、「梅雨も明けて、本格的な夏が来たぞ」と知らせるかのようにセミが川音に混じって鳴いていて、高度が下がるにつれて、その声はにぎやかになった。

イヤホンラジオは、関東地方がこの日梅雨明けしたことを告げていた。秩父地方はまだ晴れてなく、曇り。さわやかなハイキング日和だった。

このコースの西半分は、東大の演習林のなかにあり、森林軌道の廃線を歩く。昭和40年代まではトロッコが走っていた。

片側は断崖で入川が流れ、片側の岩からは清水が落ちてくる所が多い。スノコ状の鉄の蓋を載せた木橋ならぬ鉄橋をいくつも渡った。

赤沢谷出合の近くには、これまで余りなじみのないシオジの原生林もあった。入川渓谷のような水辺に立つ林は「渓畔林」と呼ばれるという。

出合が折り返し地点になっていたので、昼食と休憩をとり帰路に向かった。緩やかな下り続きで、足取りも軽かった。

川幅、花火・・・日本一、世界一の多い鴻巣市

2013年07月10日 15時35分57秒 | 市町村の話題



ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、ヨルダン川、セーヌ川、テムズ川、揚子江、漢江、信濃川(日本最長367km)・・・世界でもいろんな川を見てきたが、「川幅」という言葉は、その川の水が実際に流れている幅を指すのだと思ってきた。

聖書で名高いヨルダン川は、想像していたより余りに小さく、幅が狭過ぎたし、6695kmと世界最長のはずのナイル川も、カイロ周辺ではこんなに幅が狭いのかとがっかりした。

恥ずかしながら、「川幅」とは水が実際に流れているところではなく、最悪時に備えた堤防の間の距離、だと知ったのは最近のことだ。

08(平成20)年2月に国交省荒川上流河川事務所の調査で、鴻巣市馬室地区と、古墳時代末期の横穴墓地群「吉見百穴」で知られる吉見町の間を流れる荒川の川幅が最大2537mで、2位の四国の吉野川河口付近の2380m(徳島県)を157mしのいで、日本一だと判った。3位は静岡県の富士川(2016m)。

埼玉県境を流れる坂東太郎こと「利根川」は流域面積では日本最大、長野から新潟県へ流れる「信濃川」は長さ日本一と、荒川よりいずれも大きいから、予想外の結果だった。

「荒川はそんなにでっかい川なのか」と思った。よく調べてみると「川幅とは河川敷を含めた堤防間の距離」だというのである。台風や梅雨などの大雨の時を除けば、実際に水が流れている「水面の幅」は約30mしかない。「堤外地」と呼ばれる両岸の堤防の間には、麦畑と水田が広がり、約30戸の民家のほかに、町工場、神社まであるという。

実際に川幅が日本一になったのは、近年では07年9月の台風9号の時だった。「川幅が広いので、水位が急上昇することはなく、2階に避難すればまず安心」とのこと。

ここを渡る御成橋の両側に「川幅日本一」の大きな標柱が立っている。その河川敷(鴻巣市馬室)に広がるのが、「日本一広いポピー畑」だ。東京ドーム約2.5個分の12.5haの日本一広い敷地に3千万本の赤やオレンジのポピーが咲き誇る(5月)。シャーレポピーとカリフォルニアポピーの2種類で、ごみの不法投棄防止が目的だったというから面白い。シーズンには「ポピーまつり」が開かれる。

それなら御成橋が日本最長の橋かと、建設省のホットラインステーションに聞いてみたら、そうではなく、おなじく本県の荒川と入間川の両方をまたぐ国道16号の「上江(かみごう)橋」が、一般国道で河川にかかるものとしては最長だとの話だった。

「上江橋」は、川越行きと春日部行きの橋が密接していて、1997年に出来た川越方面行きが1609.9mと一般国道にかかる橋として日本最長だという。

上流の鴻巣市大芦の河川敷には、これまた日本最長のアーチ橋「荒川水管橋」(1100.95m)がある。水管橋とは水道管が川や鉄道などを横断するための橋のことだ。高さ13~25m。車道も鉄道も併設しない。両側に直径2mの管が2本通っており、その間に幅1mほどの作業用通路がある。

利根川の利根大堰で取水し、地下トンネルを流れて県営行田浄水場で消毒、この水管橋で荒川を越え、毎時2830tの水が荒川右岸の熊谷、東松山、本庄各市や比企・入間郡に送られる。84年7月に完成した。

この付近にも、秋(10月末)には1000万本のコスモスが咲き誇る。

鴻巣は花の町で、「プリムラ」「サルビア」「マリーゴールド」も出荷量は日本一を誇っている(06年度)。

鴻巣には東日本最大級の花市場「鴻巣フラワーセンター」がある。スクリーンを見ながら座席の端末機で応札するという最新式の自動セリシステムが導入されている。一度訪ねたことがある。

農業産出額の4割を花が占めるこの市では、コミュニティバスの名称も「フラワー号」。小さい頃から子供に花に親しんでもらおうと、「食育」ならぬ「花育」に取り組んでいる。

日本人は「日本一」「世界一」が大好き。ギネスに載る記録をつくろうと、各地でいろいろな催しが行われる。 

鴻巣市は“川幅日本一”を市のPR材料の一つに位置付け、うどんの幅が5cm以上10cmのもある「川幅うどん」の普及など名物づくりに励んでいる。15年3月末草加で開かれた第12回県のB級グルメでは、8回目の出場で1位に輝いた。埼玉県の母なる川、荒川の恵みである。

14年10月11日夜、鴻巣市の荒川河川敷の糠田運動場で開かれた「第13回こうのす花火大会」では、正4尺玉の花火が打ち上げられ、「世界最大の打ち上げ花火」としてギネス世界記録に公式認定された。

重さ約450kg、地上約800mの空に直径約800mの大輪を描いた。

15年3月にはJR鴻巣駅東口に、この4尺玉の実物大のレプリカ(直径約120cm)と打ち上げた鉄製の煙火筒(高さ6m、直径約130cm、重さ10t)の組み合わせの展示がお目見えした。「世界一四尺玉煙火筒」と大書してある。(写真)

市や主催者の鴻巣市商工会青年部では、「こうのす花火大会」を街の顔にしようとしている。大会のトリを飾るこの「四尺玉」、16年には打ち上げに失敗した。




小水力発電 白幡発電所 さいたま市

2013年07月09日 09時31分24秒 | 川・水・見沼
小水力発電 白幡発電所 さいたま市

さいたま市水道局が年に3回発行している「水と生活」をたまたま目にして、12年4月号をめくっていると、住んでいるマンションの同じ通り、それも目と鼻の先に「小水力発電」をしている「白幡発電所」という発電所があることが分かった。

発電所というと、北陸の「黒部ダム」のように、大きなダムに水を蓄え、その落差を利用してタービンを回し、大量発電するものと思い込んでいた。

地震と大津波による福島原発の破損以来、どうして電力を確保するかが日本の大きな課題になっているのはご承知の通りだ。

「秩父地方を除いて、山もダムもない埼玉県のような平地でどのようにして発電するのだろう」。

好奇心だけは人一倍高いので、水道局にぜひ一度見せて欲しいと頼んでいたら、5月10日、「白幡配水場」の裏にある“発電所”に案内してもらえた。

その東側は、「親水公園」になっている。入り口は反対側にあって、階段を上って、何度か散歩に来たことがある。子供を遊ばせたり、本を読んだりするのに最適だ。

この配水場には1万トンの配水地が二つあるので、その上を緑地に利用しているのだ。

発電所というと、すぐ「縦のライン」を考えがちだが、ここには落差を生ずる大きな貯水タンクがあるわけでもない。

写真のように発電所が「横のライン」に寝ているのである。

なぜそれで? 説明を聞くと

この水は、さいたま市西部の荒川に近い県営大久保浄水場から来ている。ちょっと上流の取水口で取水した荒川の水を浄水して流してくる。

浄水場と配水場に高低差がほとんどないので、流すためにはポンプで圧力を加える必要がある。

1時間に1200トンもの水が流れてくるので、その圧力と流量を利用して、横に寝ている水車を回して発電するのである。

運転開始は04(平成16)年で、年間発電量は約41万kw。

一般家庭の約120軒分とのことだが、配水場の動力として使われているので、外には出せず、この配水場の必要電力の21%をまかなう程度である。ざっと年間400万円かせいでいる勘定とのこと。

水は24時間流れて来て、発電し続けているわけだから、夜には必要電力を超すこともあり、その際にはシャットダウンする。

環境庁が半分負担する補助事業で、総工費4千万円。すでに、モトはとっている。

身近な発電施設には屋根などを利用した太陽光発電がある。太陽光や風力に限らず、こんな小規模発電も近所にあるのだと知って参考になった。






県立「川の博物館」 日本一の大水車  寄居町

2013年07月09日 08時02分12秒 | 博物館



10年10月14日の埼玉県民の日。東武も西武鉄道も全線460円で一日乗り放題だというので、東武東上線の終点寄居まで出かけることにした。寄居町の荒川沿いにある県立「川の博物館」を見るためだ。

全国初の「水の体験型総合博物館」で、完成時には日本最大を誇った水車や、荒川に沿った地形を千分の一に縮尺した「荒川大模型173」、日本画家川合玉堂の陶板画(いずれも屋外展示では日本最大)がある。一度訪ねてみたいと思っていたからだ。

調べてみると、終点より二つ手前の鉢形駅が近い。歩いて20分の所にあった。水車は直径23m。岐阜県恵那市に1m長いのができたので、第2位になったものの、さすがに大きい。(写真)

木の劣化などで15年夏から稼働を中止していたが、建て替えが決まり、19年2月から解体作業が始まり、7月28日の完成式典で直径24.2mの日本一の木製水車に返り咲いた。

荒川の模型は、その延長173kmにちなんだもので、甲武信ヶ岳山中の源流から東京湾に流れ込むまでの全貌が立体的に分かる。玉堂の陶板画は、重要文化財に指定されている名作「行く春」を、長さ21m,高さ5mの信楽焼にして本館外壁に展示している。

この荒川の模型と館内の展示で、「荒川の西遷」とはどのようなものだったのかをやっと理解できた。西遷とは、関東代官頭だった伊奈忠次が荒川を治めるために考え出したもので、利根川の支流だった古荒川を熊谷の久下でせき止め、和田吉野川まで誘導、入間川を経て隅田川で江戸湾に流し込んだ。

利根川を常陸川に結びつけ,銚子へ流し、江戸を洪水から守った「利根川の東遷」と並ぶ江戸初期の大河川工事である。それまで利根川は、江戸湾へ注いでいた。

この展示は、ボックスの中で、裃を着た忠次の人形が地図を使って西遷と東遷の構想を説明する仕組み。何冊か本を読んでも、分かりにくかったが、この視聴覚による説明でなるほどと理解できた。百聞は一見に如かずだ。

このような河川の人工的な流路変更(付け替え)は、「瀬替」と呼ばれた。この瀬替で、荒川の原型が完成した。荒川の西遷工事を指揮したのが忠次の二男忠治である。

県内には、「元荒川」「古利根川」と「元」や「古」のつく川が残っているわけもよく分かった。

館内では、「船車」(船水車、水車船とも)の模型が面白かった。船の側面に水車を据え付けたもので、ふだんは固定されているが、増水すると移動、陸への引き上げも可能。江戸時代からあり、明治末期に全盛期を迎えた。

荒川には相当数あり、荒川上流の風物詩だったそうだ。玉堂の陶板画もこれをモチーフにしている。館内だけでなく、実際の川面に復元すれば、関心を呼ぶのでは・・・。

荒川の中下流の洪水地帯には、農家の敷地の一部を土で高く盛り上げ、蔵を建て、ふだんは食料庫、非常時には家族が一時的に避難する施設があった。信濃川や筑後川などにも同様なものがあり、呼び名も違う。荒川では「水塚(みずか)」と呼ばれた。その模型もあり、先人の水との戦いぶりがしのばれる。

秩父の山で伐採した木を下流に落とす「鉄砲堰」の実演は勇壮だし、荒川の舟運を担った帆船「荷船(にぶね)」(高瀬舟)も復元されている。荒川の魚を見せる小型水族館「渓流観察窓」も付属している。アドベンチャーシアターや荒川ワクワクランドなどの子供用施設も楽しめる。

荒川の流域は、県面積のほぼ3分の2を占める。埼玉県の「母なる川」である。「かわはく」と略称されるこの“荒川博物館”をあれこれ見回るうちに、日が暮れてしまった。


彩湖 さいたま・戸田市

2013年07月08日 10時17分15秒 | 川・水・見沼
彩湖 さいたま・戸田市

「彩湖という人造湖をご存じですか」と聞いてみると、東京の人はもちろん、埼玉県の人でも知らない人が多い。「荒川第一調整池は」と聞いてみると、ほとんどの人が首を傾げる。

戸田市、さいたま市、和光市、朝霞市、志木市にまたがり、ハンノキ林で知られる秋ヶ瀬公園と人造湖「彩湖」を含めた一帯の河川敷が荒川第一調節池。

荒川第一調整池とその中にある彩湖は、さいたま市の中央部から川口市にまたがる見沼田圃(たんぼ)に匹敵するほどの水と緑の大規模空間なのに、もっと活用されていいのではないか。

エジプトはナイル川の賜物だと言われる。それに習って言うと、埼玉県は荒川の賜物だ。

荒川はその名のとおり、「荒れる川」である。この川を治めるため、地元の人々も為政者も力を尽くしてきた。この荒川第一調整池や彩湖もその努力の一つである。

第一の名が付いているのは、この調節池のすぐ北の羽根倉橋と上江橋の間に荒川第二調節池、その上流に第3、第4、第5の調節池の計画があったからだ。調整池とはふだんは公園などに使用、洪水、台風の増水の際は一時的に貯水、下流の被害を少なくする平地のダムである。

第一調整池は、広い川幅を活かして、川の中にもう一つの堤(囲ぎょう堤)を築いてつくられた。着工は1970年。1995年に一般公募で真ん中の湖が彩の国にちなんで彩湖と命名され、彩湖が完成したのが1997年。第一調整池全部が完成したのは2004年である。計画から完成まで34年もかかった大工事だ。

羽根倉橋から笹目橋までの5.8km。総面積は彩湖の5倍強の5.85平方km、 貯水量は彩湖の4倍弱の3千9百万立方m。「平地のダム」で、人工の自然空間だ。 

その中で常時、水を湛えている貯水池が彩湖である。周囲8.5km、面積1.18平方km、深さ10.7m、総貯水量は1060万立方m(埼玉県人口の6日分)。この貯水量は洪水時の見沼田圃(たんぼ)の湛水量とほぼ同じだ。

彩湖は、洪水対策と同時に東京の夏場の渇水対策も兼ねる。荒川に余剰水がある時は水を貯め、足りない場合は、貯めている水を、水道用水を取水している秋ヶ瀬取水堰の上流に補給し、水道用水を確保する。

ここで取水された水は左岸の大久保浄水場から、さいたま、戸田、川越、志木など16市1町約380万人、右岸の朝霞浄水場からは東京23区の西部などへ供給されている。

水質保全のため、噴水でプランクトンの細胞を破壊したり、湖底3か所に設置したパイプから気泡を発生させ、水の対流を起こさせ、水質悪化を防ぐ曝気循環装置もある。4か所に設置された階段状の滝に、湖底から組み上げた水を流して水中に酸素を送って水質改善を図ることもできる。

水質悪化を恐れて、湖面でボートやモーターボート、ヨットなどの使用は許されていない。

彩湖周辺の自然環境も整備されていて、湖の北部のさいたま市南区側には「荒川彩湖公園」、湖の中部の戸田市側には「彩湖・道満グリーンパーク」が広がり、市民の格好の遊び場になっている。さいたま市側には「田島ヶ原サクラソウ自生地」もあり、シーズンにはサクラソウ祭りでにぎわう。

湖の中心部をまたぎ、戸田と和光市を結ぶ幸魂(さきたま)大橋は、埼玉県を代表する斜張橋で橋長約1500m。東京外環自動車道と国道298号線が通る。

この橋より南側は、野鳥と自然保護のため、立ち入り禁止になっていて、オオタカ、ハヤブサ、ノスリなどのタカ類、コミミズクなどのフクロウ類など貴重な野鳥を見かけることもある。野鳥観察にも使われている。

代表的なのは繁殖のため南から渡ってくる夏鳥オオヨシキリで、湖の周辺のアシ原で子育てをするため、「ギョギョシ ギョギョシ」とにぎやかだ。

植物に興味がある人なら、彩湖・道満グリーンパークの一角にトダスゲの保存地がある。彩湖自然学習センターもあるので、訪ねてみたら勉強になる。

さわやかな風に吹かれて、荒川の高い堤防の上から遠く秩父の山を望める。堤防から荒川や彩湖、公園、武蔵野線の鉄橋や幸魂大橋を眺めると、実に幸せな気分だ。見沼田圃と荒川第一調整池と、二つの首都圏屈指の大規模な水と緑の空間を持つさいたま市民らは、本当に恵まれている。



ふれあい鴻巣ウオーキング

2013年07月08日 05時34分47秒 | 市町村の話題

ふれあい鴻巣ウオーキング 

鴻巣でもウオーキンングをやっていると知って、12年5月27日の日曜日初めて参加した。

「鴻巣の日本一を見る」という触れ込みに魅かれたからだ。この市にはいろいろ日本一があるようで、荒川の「日本一の川幅」と「日本一広いポピー畑」はいつか訪ねたいものだと思っていた。

鴻巣陸上競技場をスタート、西隣の吉見町の吉見観音(安楽寺)で折り返すこのコースでは、荒川を行きと帰りに渡る。行きは鴻巣市と吉見町を結ぶ長い「糠田橋」を越え、帰りは吉見町側からちょっと下流の「御成橋」の下をくぐって、鴻巣市馬室のポピー畑に至る。

「川幅日本一」は、御成橋からわずかに上流の橋と並行した直線距離で2537m。

御成橋に近づくと、歩道の上に「荒川川幅日本一まであと1km」、歩道橋に「この先600m」の表示があるし、橋のたもとの両側に「川幅日本一」の標柱が立っているうえ、日本一の旗も風に揺れている。橋のアプローチにも「川幅日本一2537m」と横書きされていた。

「川幅日本一」のオンパレードである。

川幅といっても、実際に川が流れている幅ではなく、左岸と右岸、つまり河川敷の距離である。田んぼや畑に利用されている。

両岸の中ほどに荒川が流れているが、川幅の広さに圧倒されて、「実に細いな」というのが実感だ。

ウオーカーから見れば、2537mは、時速5kmで歩けば30分の距離である。

吹上地域の大芦橋の下流には、荒川をまたぐ、これまた「日本一長い」水管(水道管)橋(1101m)(1984年建設当時)もある。赤く塗られていて、水管橋の向こうに沈む夕日は絶景だという。

「日本一広いポピー畑」は満開だった。栽培面積12.5ha。東京ドーム約2.5個分と広く、実に3千万本の鮮やかな赤やオレンジの花が咲く。



日本の航空発祥の地 所沢市

2013年07月07日 15時11分24秒 | 名所・観光


現役時代、羽田空港のクラブで、航空問題をカバーしていたことがあるので、飛行機に対する関心は人一倍強い。

所沢市の約50haの「県営所沢航空記念公園」は、県内最大規模の都市公園だ。日本で初めて「陸軍所沢飛行場」ができ、飛行場を使って初めて飛行機が飛んだ所なので、何回か来たことがある。2025(平成23)年はそれから100年になるというから、思い入れはひとしおだった。

航空発祥記念館も4月2日にリニューアルオープンしたというので、暇を見つけてまた訪ねてみた。

西武新宿線航空公園駅東口から歩く。日本で初めて飛行したアンリ・ファルマン機をイメージしたこの駅は関東の駅百選に選定されている。公園入り口近くに第二次大戦後日本で初めてできたターボプロップ「YS-11型」中型旅客機が目に入る。懐かしい機である。

公園に入ると、米軍払い下げの「C-46型」輸送機の近くに「所沢航空発祥100周年記念碑」が立っていた。

ここには1911(明治44)年4月1日、幅50m、長さ400mの飛行場が完成した。その4日後の4月5日午前5時37分、徳川好敏大尉が操縦するフランス製複葉機「アンリ・ファルマン」が、1分20秒間、高度10mで800m飛んだ。次に米国製のライト兄弟機で日野熊蔵大尉が飛んだ。こんなに朝が早いのに数千人の見物人が押し掛けたという。

当時、飛行場は「空を飛ぶ夢のような乗り物」にお目にかかれるというので、周辺には桟敷が敷かれ、見物人でにぎわった。初物好きで、好奇心旺盛な日本人は昔からいたのだ。

その4か月前の10年12月19日、東京代々木練兵場(現代々木公園)で、この徳川大尉のファルマン機が日本で初飛行、次いで日野大尉はドイツ製のハンス・グラーデ機で飛んでいた。

所沢飛行場は、このフランス製2機、ドイツ製1機、米国製1機の4機でスタートした。国産機や飛行船の開発の拠点になり、翌年には初の国産民間機「奈良原式第2号機」、最初の国産軍用機「会式1号機」が完成した。

日本初の航空機事故もこの公園近くで発生、その記念碑が立っている。1913(大正2)年、東京・青山練兵場からこの所沢飛行場に帰還中、突風のため左翼が破損、操縦学生、木村鈴四郎・徳田金一両中尉が乗るフランス製ブレリオ機が墜落・死亡した。ブレリオ機は単葉機で、当時世界最高性能といわれた。

1916(大正5)年、大阪まで飛んだ国産飛行船「雄飛号」ができたのもここだった。

1919(大正8)年、当時最先端の航空機製造国だったフランスは機体のセールスを兼ねて、航空教育団(63人)を派遣、約15カ月、航空技術を指導した。陸軍航空学校も設置された。その団長で空軍将校のフォール大佐の胸像が所沢公園に残っている。2019年は100年に当たるのを記念して、教育団の子孫も来日、4月7日記念式典が開かれた。

食べたことはないが、「フォールカツレツ」がフランス人たちが通った「市内の割烹 美好」に残っているという。 当時、フランスで修業を済ませ、日本の西洋料理の先駆者として知られたシェフが、ここにいたことに驚く。

プロペラにちなんだ「プロペ通り」「ファルマン通り」「飛行機新道」という名の通りもあり、所沢銘菓「ファルマン」や焼き菓子「雄飛焼」もある。所沢は飛行機がらみの町である。

県内最大規模の都市公園だから、運動場、野球場、テニス場、子供冒険広場、日本庭園・茶室、ドッグランなどもある。桜の季節には約500本、フジ、アジサイ、ユリノキなど四季を通じて花木が楽しめ、子供たちや市民の憩いの場所だ。


「渡辺」姓の祖 鴻巣市

2013年07月06日 17時09分56秒 | 市町村の話題
「渡辺」姓の祖 鴻巣市

日本には大変な数の姓があるらしい。

中国には、13億の人口だから姓は無数にあるだろうと思っていたら大間違い。

インターネットで調べてみると、姓が一字(単姓)が多いから意外に少なく、1万程度。現在使われているのは4千ぐらいという。

多い順で、おなじみの王(ワン)さん、李(リー)さん 張(チャン)さんと並び、この三姓で人口の約2割を占める。

中国と地続きで、昔は漢字圏だった韓国も同じ単姓。これまたおなじみの金(キム)、李(イ)、朴(パク)、崔(チェ)、鄭(チョン)さんの順で「五大姓」というのだそうだ。全人口の過半数を占める。これらを含めて韓国の姓は約250だとか。

ところが、姓が二字が多い日本には実に約30万あるというから驚く。世界一は、各国からの移民が集中、多民族国家の米国。日本は2位だという。

日本の姓は多いほうから5位までで「佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺」の順だという。(日本苗字大辞典 1997年発行)

この五番目に多い渡辺姓にゆかりの寺が鴻巣市にある。箕田(みだ)にある宝持(ほうじ)寺である。

この寺は、渡辺姓の祖とされる渡辺綱(わたなべのつな)が建立したもので、全国の渡辺さんの有志でつくっている「全国渡辺会」の顕彰碑 (写真)があるので知られる。

渡辺綱とは、坂田金時(足柄山で熊と相撲をとった金太郎)らとともに源頼光(みなもとのらいこう)の四天王の筆頭と言われた平安中後期の武将。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋でその弟分の「茨木童子(いばらきどうじ)」という鬼の右腕を切り落とした話で知られる。

この鬼退治後に、箕田に一時帰って、祖父と父追善のために建てたのがこの寺である。

箕田は、箕田源氏発祥の地で、祖父の源仕(みなもとのつこう)、父親の源宛(みなもとのあたる)が開発し、拠点にしていた。

綱は箕田生まれ。幼少の時に両親が死んだため、母親の里である摂津の渡辺庄(現大阪市中央区)で養育された。

わが国の苗字は、ほとんど地名に由来しているので、渡辺源次綱(わたなべのげんじつな)と名乗った。これが渡辺姓の起源である。源次は父の別名だった。

箕田源氏は、嵯峨源氏の流れをくむ。源仕は、書をよくし、三筆として知られる嵯峨天皇の皇子の一人である源融(みなもとのとおる)の孫。

源融は源氏物語の光源氏のモデルとされる人だから、その血筋を引く綱も大変な美男子、今流で言えばイケメンだったらしい。鬼退治の武勇伝が歌舞伎、能、謡曲で演じられるのは、そのせいだろう。

宝持寺には綱の刀や位牌が残されている。12年2月には地元の造形作家が、綱が鬼の腕を切る瞬間を描いた江戸時代の絵師・歌川国芳の浮世絵を再現した木製レリーフを創り、渡辺会や檀家によって奉納された。

境内で綱の顔を見られるのは武者絵と凧だけだったというから、このレリーフにさらに歌舞伎や能、謡曲の絵や写真も集めて、“イケメン寺”として売り出したらどうだろう。

切り落とした鬼の腕を花の名にした「羅生門蔓(かずら)」も、ふんだんに植えて。
   

ゼロ戦のエンジンの音 所沢航空発祥記念館

2013年07月06日 11時07分56秒 | 名所・観光


2012年12月1日(土)。この日は私にとって「ゼロ戦の日」だった。
所沢航空発祥記念館でゼロ戦のエンジンの音が聞けるというのだから、前日からいくぶん興奮していた。

記念館では世界で唯一飛行可能なゼロ戦を、12年12月から米国の航空博物館から借用して展示した。

機体が老朽化しつつあるので、大事をとって今回は空を飛ばせず、エンジンをふかしてプロペラの回転音を聞かせるだけにとどめた。

戦争時代に子どもだった者にとって

♪ エンジンの音轟々(ごうごう)と
  隼は征(い)く雲の果て ♪

で始まる軍歌「加藤隼戦闘隊」の歌詞とリズムは耳に染み付いている。

「隼」は、陸軍の、ゼロ戦は「零式艦上戦闘機」の名前どおり海軍の戦闘機だった。

陸軍と海軍の違いはあれ、同じ戦闘機のエンジンの音だから大差はあるまいと、「隼」の歌を口ずさみながら所沢に向かった。

記念館に近い西武新宿線の航空公園駅に降りると、館に向かう高年の男性の姿が目立った。午前11時過ぎ館に着くと、すでに長い行列が出来ていて、当日券は全て売り切れていた。

この日は、午前11時、午後1時半、午後2時50分の3回、10分間観客の前でエンジンを始動させる(プロペラを回す)予定で、420人ずつ館に隣接したシート囲いの特設会場で見学させることになっていた。

午後1時半以降の券なら手に入るだろうと、タカをくくっていたのが裏目に出たのだった。

そのまま引き返すのは残念なので、シート囲いの外にいるガードマンに聞くと、「エンジンの音だけなら、聞こえますよ。感動しましたね」とのこと。

それならと時間をつぶして、午後1時半に来て見ると、周囲は人で一杯。録音機材を手にしている人も多かった。

うなぎ屋でうなぎは食べず、匂いをかぐ落語みたいな話である。

終戦直前、大阪から鹿児島県の隼人町に疎開していた。現在の鹿児島空港が特攻機の基地になっていて、小学校に通う頃、必ず編隊を組んで南に向かっていった。

ゼロ戦も特攻機にも使われたというから、あの中にこの音が混じっていたのだろうか。

低く重いエンジンの響きを聞きながら、まさに感慨無量だった。

このゼロ戦は、「52型」。「栄21型」と呼ばれるエンジンを積んでいる。1943年の三菱重工業製。

44年にサイパン島の飛行場で米軍に無傷の状態で捕獲され、57年に米カリフォルニア州の民間航空博物館「プレーンズ・オブ・フェーム」に移管された。

エンジンは一部の部品が交換されているものの、ほぼ原型どおりで、飛行可能なゼロ戦は世界でもこの1機だけ。今でも年間15~20時間飛んでいるという。

日本には17年ぶり3回目の里帰りで、78年には埼玉県桶川飛行場、95年には茨城県龍ヶ崎飛行場などで飛んでいる。

1943年製だからすでに69年。70歳に近い。日本同様、ゼロ戦も年老いたのである。

今回空を飛ばず、地上でエンジンの音を聞かせるだけにしたのは、この高齢のためであろう。

記念館では、「エンジンの老朽化で、エンジンの音を聞けるのは、これが最後になるかもしれない」という。

このエンジンの音は、日本への告別の調べだったのかもしれない。

その後、音なしで見るだけの入場券もあることが分かり、撮ったのがこの写真。

小型でいかにも軽快そう。だが、防護性能を犠牲にして、格闘性能と長距離飛行に特化して各国の戦闘機と渡り合ったあげく、米軍機に歯が立たなくなると特攻機で終わったゼロ戦の哀れな末路を思い出して、気は重かった。

全部で約1万機余作られたこのゼロ戦、人気が高く、展示は13年3月末までの予定が8月末まで延期された。入場者は約14万人に上った。

堀越二郎 ゼロ戦の設計者に脚光 航空発祥記念館

2013年07月05日 17時51分59秒 | 名所・観光


ゼロ戦を設計した堀越二郎は、1903年6月22日、群馬県藤岡市生まれ。所沢航空発祥記念館では生誕110周年に当たるのを記念して、13年6月22日から9月1日まで「堀越二郎の生涯」と題する企画展を開き、貴重な資料を公開、約30分の堀越の生涯を描く映画も、館内の大型映像館で上映したところ、これまた人気を呼んだ。

スタジオジブリの宮崎駿監督が堀越の半生をモデルにフィクションで描くアニメ映画「風立ちぬ」も、7月20日から上映される予定で、今回のゼロ戦里帰りをきっかけに、にわかに堀越二郎がスポットライトを浴びている。

この資料は、堀越の長男の雅郎さんがさる5月、東京都の自宅屋根裏部屋などで、ゼロ戦開発過程の実験記録など約千点の遺品を見つけ、記念館に寄贈した。GHQに焼却を命じられていたのを、隠していたものだった。

記念館では、東大大学院の航空宇宙工学の教授の協力を得て、調べたところ、未公開の貴重な資料と分かり、公開に踏み切った。

生家がある藤岡市の藤岡歴史館にも、堀越の親類から約500点の資料が寄贈されていて、その中に、ゼロ戦の後継機として開発が進められながら、試作機が完成する前に終戦になり、“幻の戦闘機”になった「烈風改」の設計図17枚もあった。

この機は、米国の爆撃機B29に対抗するために飛行高度1万m以上と想定されていた。

ジブリがアニメを制作するのを契機に藤岡市が調べたところ、寄贈資料の中に見つかったのである。

堀越二郎が生まれたのは、くずしくもライト兄弟が初めて空を飛んだ1903年だった。

小学生の頃から航空機に夢中になり、東京帝国大学の工学部航空学科を首席で卒業、現在の三菱重工業に入社、全金属製の96式艦上戦闘機の設計主任を務めた後、戦前の日本の航空技術の頂点を極めたゼロ戦の設計主任も担当した。

エンジンの出力が限られているので、ネジ一本無駄にしない徹底した軽量化を図り、軽い超々ジュラルミンを世界で初めて使用、航続距離と格闘性能で一時は世界無敵の傑出したゼロ戦を完成させた。

航空機は、自動車の百倍にも及ぶ部品点数を持つ、高度にシステム化された工業製品だという。

戦争中に培われた技術は、戦後の国産旅客機YS-11に引き継がれ、堀越らもこの設計に参加した。

1964年の東京オリンピックでは聖火リレーに利用され、国内定期路線に就航、世界12か国で活躍した。

堀越は防衛大や日大生産工学部で教授も務め、1982年78歳で死んだ。

記念館で上映された映画では、日本がドイツと組んで第二次大戦を戦ったことを批判する言葉を夫人には漏らしていたことがうかがわれる。

1945年8月15日に記された「終戦日誌」には、「日本に壊滅をもたらした政策を指導した者が全部去らなければ腐敗の種は残る」と軍部と政治家への厳しい批判が便箋二枚につづられていたという(東京新聞)。

ゼロ戦は堀越にとって、戦闘機というより自分の持てるものを全て注ぎ込んだ技術の結晶で、「美しい」存在だったことが、この映画や著書などからもよく分かる。

日本一高いピラミッド型ひな壇 鴻巣市

2013年07月04日 12時01分41秒 | 市町村の話題

日本一高いピラミッド型ひな檀 鴻巣市 

11年3月、朝日新聞の社会面に掲載された「鴻巣びっくりひな祭り」の写真に魅せられて、鴻巣市役所ロビーに見物に出かけた。

エジプトのカイロに3年半ほどいたことがあり、カイロ郊外のギザのピラミッドには何度も出かけたので、ピラミッドと聞くと何となく親近感が湧くからだ。

家庭のひな檀というと確か7段と覚えている。このピラミッドは実に30段、底が一辺5メートル、高さは天井ギリギリまでの6.7メートルで、「日本一高いピラミッド型ひな檀」という。

市制施行60周年の15年の第11回では31段、7mになった。16年の第12回では県内外から寄せられたひな人形1830体が飾られ、JR鴻巣駅東口のショッピングモール「エルミこうのす」1階で披露された。

千葉県勝浦市が全国から集める約3万体には数では及ばないものの、ピラミッドの高さでは負けないというわけだ。勝浦の場合は、ピラミッド型ではなく、神社の階段や商店街など市内全域を利用している。


ピラミッドの高さでもライバルがあるようで、長野に高さ約6メートルのひな壇があるというので負けられない。

江戸の享保年間に大流行、余りの豪華さに奢侈禁止令にひっかかった「享保びな」も展示されていた。高さは子供の背丈ぐらい、120cmもあるもので、聞いてはいたが、初めて目にして、なるほどと納得した。

ひな人形というと近くの日本一と言われる人形の町岩槻(現在は合併してさいたま市岩槻区)を思い出すのが普通。ところが、「ひな人形と花のまち」をうたう鴻巣市は、人形作りの歴史では岩槻より古く、江戸時代から「鴻巣びな」として知られた。

特に着物の着付けの技術では関東一の評判で、江戸の職人達が鴻巣に修行に来たという。

鴻巣では市役所や駅前のトイレの男女用を分けるサインが男びなと女びなになっているのにも長い伝統が感じられる。市役所前の広場には、野菜や特産品の即売所や食べ物の屋台が立ち並び、「こうのすコロッケ」という昔ながらのコロッケの前には行列ができていた。

さいたま市岩槻区では5万人が見に来る「まちかど雛めぐり」が行われていて、おひな祭りのシーズン、埼玉県は忙しい。
県内では、この2市のほか越谷や所沢でもひな人形や節句人形が作られていて、10年の出荷額は全国首位、シェアも約5割と圧倒的だ。


県の蝶・ミドリシジミを見る集い さいたま市

2013年07月01日 18時26分19秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物


それぞれの県には動植物のシンボルがある。

埼玉県の場合、植物の「県の木」ケヤキと「県の花」サクラソウは身近にあってすぐ分かる。

だが、動物の「県民の鳥」シラコバト、「県の魚」ムサシトミヨ、「県の蝶」ミドリシジミとなると、見たことがない人も多いだろう。

シラコバトは、「県のマスコット」コバトンのモチーフになった。国の天然記念物に指定され、絶滅危惧種になっているというから、一度は見てみたいものだと、越谷市の「キャンベルタウン野鳥の森」に出かけたことがある。

首の後ろに黒色の横帯があるのが特徴。頭部にかけて白っぽく、なんともスタイルがいい。一目見たら思わず惚れ込んでしまう可愛いハトである。

同じく絶滅危惧種のムサシトミヨは、羽生市のさいたま水族館で見たことがある。

3.5~6cmほどの大きさ。きれいで冷めたい(水温10~18度)湧き水があり、水草がある細い流れの川にしか生息しないので、熊谷市の元荒川上流の県指定天然記念物・区域の水路(約400m)などで保護されている。オスが巣を作り、子育てをするのが特徴。

この水路では、市のムサシトミヨ保護センターなどでくみ上げた日量約1万tの地下水(年間平均約15度)が流され、ミクリやコカナダモの水草が見られる。(「平成の名水百選」日本の水をきれいにする会編集 ぎょうせい)

「世界で熊谷市だけに生き残った奇跡の魚」といわれるだけに、気むずかしい魚なのである。ごく近い将来絶滅の危険性が極めて高い種(ⅠA類)に分類されている。

絶滅危惧種には指定されていないものの、最も人目につきにくいのはミドリシジミだ。

約4cmとこれまた小さいうえ、なにしろ梅雨の終わり(夏至の1週間後)の夕方にしか姿を見せないからだ。ハンノキの葉が大好きで、羽根がキラキラと緑色(素人には青く見える)に光って美しいオスは、高いのは20mもあるハンノキの梢の辺りを飛び回るので、よほど眼力に自信がある人の目にしか入らない。

13年6月29日(土)。県みどり自然課と埼玉昆虫懇話会の共催で「ミドリシジミを見る集い2013」が開かれた。

ミドリシジミが、県政120周年を記念して、「県の魚」と並んで「県の蝶」に指定されたのは1991年だった。昆虫を県のシンボルに指定したのは埼玉が初めてだった。集いはこの後、毎年開かれている。

場所は、さいたま市の荒川沿い秋ヶ瀬公園の「ピクニックの森」。公園は、川に沿って南北に伸びていて、この森はその北端(最上流)、所沢市に至る羽根倉橋に近い。

この森の炊飯場のかたわらに写真のような「ミドリシジミの森」の看板が立っている。

ここが選ばれたのは、ミドリシジミがその葉を食べるハンノキの高木が密集しているからだ。

埼玉県の水田地帯には、ハンノキが生えているところは他にもあるとはいえ、ここが一番密集している。おそらく関東でも一番だとか。ハンノキがこれほど密集しているのは日本でも珍しいからだという。

集合時間は午後4時。集まったのは約60人だった。ミドリシジミが活動する時間に合わせるためだ。

ミドリシジミのオスは昼間は下草などにいて、夕方になると、梢近くに上り、空中に「縄張り」を作って、入ってきたミドリシジミを追いかける。

二匹または数匹が空中で絡み合い、その飛行は「卍巴・まんじともえ」と呼ばれる。7時頃の「日の入り」で終わり、夜はコウモリの出番だ。

近年、この地でミドリシジミの発生は少なく、一昨年は一匹も見当たらず、昨年もわずかだった。

今年は、専門家の説明を聞きながら歩いているうち、まずメスが見つかって、捕捉された。小さいが、薄茶色で羽の後部に斑点があり、近くで見ると極めて美しい。

メスはオスのように縄張りを主張する必要もなく、葉の裏でオスの来るのを待っているのだから、木の下の方でも見つかりやすいのだという。

メスがハンノキの木肌に生んだ卵もいくつか見つかった。眼力には自信が無いので、3個一緒になっているのに1個にしか見えなかった。卵を産むのは細いハンノキが多いという話だった。

期待されたオスの「まんじともえ」も専門家には見えたようだ。声が上がって、梢を見上げたのに、私の目には入らなかった。

「動態視力も必要」という声もあった。全く同感だった。

埼玉昆虫談話会は、昆虫の研究者、愛好家など県内外の約250人が加入していて、セミナーや研究発表会などを行っている。