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氷川神社 さいたま市大宮区

2010年01月02日 11時59分36秒 | 寺社

氷川神社 さいたま市大宮区

10年も初もうでは大宮の「氷川神社」に出かけた。出かけたといっても長蛇の列なのでお賽銭もあげず、人出を眺めてくるだけだ。埼玉県人が誇るこの大社は、関西や名古屋方面の人にはなじみが薄いが、武蔵国の一の宮、鎮守である。初もうで客は、200万人余と全国十指に入るにぎわいだ。(2017年は225万)

一の鳥居から参道は実に2キロほど。日本一長いという。昔は中山道の一部だった。広い神社である。明治17年までは神社の奥の16万坪の現在の大宮公園も境内地で、聖武天皇の時代、各国に一の宮の制度が敷かれ14世紀頃に「大いなる宮居(みやい)」を意味する「大宮」と呼ばれたのが始まりという。旧大宮市は東北、上越、長野新幹線が停まる交通の要衝で、合併してさいたま市大宮区になっている。

この神社が特異なのは、全国に285社ある氷川神社の総本社だということだ。旧武蔵国に243社あり、内訳は埼玉県内に168社、東京都に72社、神奈川県に3社。全国では、北は北海道から南は長崎県まであり、福井県に14社、福島県に8社、兵庫県に8社ある。(「氷川神社の歴史を語る」 ミュージアムヴィレッジ大宮公園連絡協議会発行)

縁起によれば、第五代孝昭天皇3年(紀元前473年)の創建以来、なんと2400年。祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命=おおくにぬしのみこと)、奇稲田媛命(くしいなだひめのみこと=須佐之男命の妻)の三神。

何十年か前、ここに初めて詣でた時、出雲系の神々がはるばる出張し、武蔵の地に鎮座しているのに驚いたものだった。この地では冬に氷が張るのは数えるほどなのに、「なぜ氷川の名?」と思っていたら、出雲国の簸川(ひかわ)の杵築(きづき)大社(出雲大社)を勅願によって勧請(かんじょう)し、氷川という神号になったという。

「氷川」とは、「氷のような水の流れる川」という意味だから、湧き水のあった場所ではないかと唱える人もいる。

神話時代の英雄で、私がもっとも魅かれる日本武尊(やかとたけるのみこと)が、東征の際に負傷し、夢に現れた老人の教えに従ってこの社に詣でたところ、立てるようになったという言い伝えもあるとか。

嘘か真か、判然としないまま、なんども訪れた大国主神を祭る、屋根の高い出雲大社を頭に描きながら、長いケヤキ並木を歩くのも新年の氷川詣での楽しみだ。

この氷川神社へ、江戸から東京へ遷都してまもない明治元(1868)年10月28日、明治天皇が行幸された。

天皇は「武藏國大宮駅氷川神社ヲ以テ当国ノ鎮守ト為シ、親幸シテ之ヲ祭ル」と勅書で述べた。その行幸の様子は、氷川神社に残る「氷川神社行幸絵巻」に残されている。3300余のその長い行列は、京都からの遷都と同様の盛儀だったと伝えられる。


江戸も氷川神社も元はと言えば武藏國。約1200年前の聖武天皇の時代、各国に一の宮の制度が敷かれ、氷川神社は「武蔵国一の宮」と定められた。その一の宮に詣でることで、東国の人心を掌握、祭政一致への道を開こうとしたものであろう。この行幸は桓武天皇が平安遷都の際、賀茂神社に行幸された例にならったものだった。氷川神社は、京都の賀茂神社並みの格を与えられることになり、官幣大社に一躍格上げされた。

天皇は、27日に東京を出発、その夜は浦和宿の本陣、星野権兵衛の所に泊り、28日に参拝、浦和宿にもう一泊して、翌日帰京された。その本陣は取り壊されて、表門だけが移築されている。

17年10月28日には氷川神社明治天皇御親祭150年祭が行われた。

天皇は、明治3年11月1日にも氷川神社を再訪されている。いかにこの神社を重要視していたかが分かる。

朝日新聞によると、横浜港に係留されている貨客船「氷川丸」の名は、この神社に由来する。1930年に建造されたこの船は、サービスと食事で客船としても有名で、チャップリンも帰国時に利用した。病院船、引き揚げ船、博物館と役割を変えてきた。

その広大な神社の敷地を使ってできた神社裏の大宮公園(明治18年開設当時は氷川公園)は、格好の行楽地だったらしい。正岡子規、樋口一葉、森鴎外、永井荷風、田山花袋、寺田寅彦、といった有名文士たちも訪れている。

樋口一葉には、随筆の中で「記者さま矢鱈(やたら)にお褒めなされし公園」という表現もあるというから、よほど評判だったのだろう。2015(平成15)年9月22日、開園130周年を迎えた。