ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

野菜と花の埼玉農業

2014年08月29日 17時51分11秒 | お茶・農業

 

東京都という大消費市場を隣に持つ埼玉県は、江戸時代から江戸への食糧供給基地だった。実際、昭和30年代に工業県に転換する前は、埼玉県は農業県だったのである。

8月31日は「野菜の日」なのだという。確かにゴロ合わせをしてみると、「ヤサイ」と読める。

2013年の埼玉県の農業産出額(2012億円)は、全国18位ながら、大消費地に近いので、その51%を占める野菜の産出額(庭先販売額)では全国6位だ。

ネギ(194億円)、サトイモ(68億円)、コマツナ(54億円)は全国1位。

独特のぬめり・ねばりと上品な味わいが特徴の県産のサトイモだが、県が売り込もうとしている新品種「丸系八つ頭」を御存知だろうか。

ソフトボールのような丸みが特徴で、重さ500~1000グラム、通常のサトイモの約10倍の大きさ。甘みがあり、ほくほくとした食感。大きいので皮もむきやすいという。

埼玉市の見沼たんぼで突然変異の丸い芋が見つかったのがきっかけで、県農業技術研究センターが開発、深谷市で産地化を図った。市内の生産農家は20軒を超し、他市にも広がっている。

ミネラル、カルシウムが豊富なコマツナは年に5、6回栽培できて,生産性が高い。草加市など県の東部地域で栽培されていて、草加市ではB級グルメなどにいろいろ加工されている。

キュウリ(146億円)、ホウレンソウ(125億円)、ブロッコリー(45億円)、カブ(15億円)は全国2位である。

深谷ねぎに代表されるネギは全国に名を知られ、県民の人気も一番高い。

花(花き)は、172億円で全国5位。パンジー(苗、7億円)が全国1位。ユリ(切花、32億円)、洋ラン類(鉢物、26億円)、チューリップ(切花 4億円)が2位だ。

果物では、果実産出額の約60%がナシ(39億円)で、全国6位。県農林総合研究センター園芸研究所(久喜市)で育成したオリジナルな埼玉ブランド「彩玉(さいぎょく)」をはやらせようとしている。

「新高(にいたか)」と「豊水」を交配したもので、大玉で「幸水」以上に甘くみずみずしいのが売り物。県育成品種なので、生産は県内に限定されている。「幸水」が終わった8月下旬から9月初旬が収穫期。

眼にいいとされるブルーベリーは、美里町の作付面積(40ha)が市町村単位で日本一で、観光農園が25か所ある。養蚕の衰退に伴い、桑畑の遊休地を活用しようと1999年から町が推進してきた。

狭山茶を代表とする茶(生葉)は、12億円で全国8位。おせち料理にかかせないクワイは、福山市を持つ広島県に次ぐ。

私にとって興味があるのは、小麦の産出額が7億円と全国4位で、作付面積が8位、収穫量が6位であることだ。

食料品製造出荷額では、中華めんが369億円で全国1位、和風めんが206億円と全国3位を占める。

県のうどん生産量は、香川県についで2位、うどん・そば店の数も全国2位(09年)。「統計からみた埼玉県のすがた」の中の「埼玉県の一番」に明記してある。

増産のための麦踏みや米麦二毛作も、熊谷市東別府生まれの「麦翁(王)」こと権田愛三(1850~1928)の研究から始まって、全国に広がった。熊谷市の小麦の収穫量は今でも県の3分の1を超しており、断トツだ。

「朝まんじゅうに昼うどん」という粉食文化が根付いていて、今でも客が来たり、お祭りがあると、うどんをつくる家も多い。

川島町の「すったて」や鴻巣市の「幅広うどん」はB級グルメでおなじみ。コシの強さと喉ごしの良さで知られるうどんが売り物の加須市は6月25日を「うどんの日」と定めた。「山田うどん」にはファンが多い。

埼玉県はうどんの国だったのである


「内陸型工業県」 

2014年08月26日 17時27分13秒 | 県全般
「内陸型工業県」 

「京浜工業地帯」という言葉に象徴されるように、工業地帯は海に面した「臨海」のイメージが強い。

埼玉は「海なし県」なのに、1955(昭和30)年代中頃から、「東京への食糧供給基地」としての農業県から工業県へと転換を始め、「内陸型工業県」、「埼京工業地帯」という言葉が創られたほどだった。

85(同60)年には製造品出荷額が全国第6位、91(平成3)年第5位、と主要工業県に変貌した。

2012年は製造品出荷額が12兆円余で第6位、事業所数は1万3千余で第4位、従業員数は37万余で第4位だった。

「埼京」の言葉どおり、東京へ近く平坦で交通の便がいいのが強み。工業構造は加工組立型を中心とする重化学工業、電子機器関連のハイテク産業へと変わってきている。

県は52(同27)年、工場誘致条例を制定した。戸田町など38の市町村もこれに習った。しかし、誘致工場への奨励金がかえって財政を圧迫してきたので、55(同30)年には廃止に追い込まれた。

これに変わって、日本住宅公団が住宅団地と並んで、工業団地の造成に乗り出し、県や市町村もこれに習った。

埼玉県内の工業団地の開発は、日本住宅公団が造成した1960(昭和35)年のさいたま市北区吉野町にある大宮吉野原工業団地と深谷工業団地の造成から始まった。県ももちろん協力した。

吉野原工業団地は、国道16号と17号が交差する地点にあり、ニューシャトルの吉野原駅にも近い。大正製薬やプラスチック加工メーカー信越ポリマー、日本製罐などがあるので、ご存知の方が多いだろう。

深谷工業団地には、東芝の深谷工場などがある。

62(昭和37)年には日本住宅公団が主体の川越狭山工業団地の造成が始まった。

この工業団地は首都圏整備法に基づいて、日本住宅公団が川越、狭山市の協力で土地を買収、県が委託を受けて、都市計画事業として区画整理によって開発した。

国道16号線に沿い、関越自動車道の川越ICも真近。7万人が入居できる住宅団地も併設、西武新宿線を挟んで東西4キロ㍍、南北1キロ㍍のほぼ長方形。工業団地として当時、日本最大の規模だった。

約70社が立地、川越市側に大林組、雪印乳業、図書印刷、光村印刷、狭山市側に本田技研、ロッテ、全酪などがある。

工業化に伴う工場進出は公害という副産物を伴った。地盤沈下、大気汚染、水質汚濁である。

1958(昭和33)年9月26日未明、台風22号の豪雨が、荒川の増水、芝川水門の破壊を招き、川口市領家町を中心とする芝川沿岸地帯を、水深2mの浸水となって襲った。

川口、鳩ヶ谷、戸田、蕨市の多くの地域が、床上、床下浸水の被害を受け、その水は5日間引かなかった。

カスリーン台風以来の大災害であった。その原因調査で、地下水の大量汲み上げによる地盤沈下によるものと分かった。本県は東京、千葉、神奈川と並ぶ地盤沈下被害県になったのである。

1970(昭和45)年7月18日午後には、「光化学スモッグ」が東京都と本県南部を中心に初めて発生、川口、蕨、戸田、新座の各市の小、中学校で、目、のどの痛み、吐き気などの症状が出た。

埼玉県は光化学スモッグ注意報の発令回数が全国一多い県で、2010年までの15年間は1位の年が9回、それ以外の年も必ず3位以内という注意報多発県だった。

水質汚染では、綾瀬川、不老川が「全国一汚い川」のレッテルを貼られたこともあった。綾瀬川は1980年から連続して15年間最下位だった。

工業県は公害県でもあった。

県庁、火災で焼失

2014年08月12日 17時27分58秒 | 県全般
県庁、火災で焼失

終戦後の4年間、県内は次々に大事故、大災害、大事件に見舞われた。

1947(昭和22)年2月の八高線の買い出し列車の脱線転覆事故に始まり、同年9月のキャスリーン台風。これに次いだのが、48年10月の県庁放火消失事件、49年3月の知事逮捕事件だった。

八高線とキャスリーン台風は知っていた。県庁消失と知事逮捕については全く知らなかったので驚いた。

県庁の消失事件は、48年10月25日午後11時50分に起きた。県庁舎の新館2階の消防課付近から出火、好天続きで乾燥していたうえ、1891(明治24)年に建てられた、全国の県庁舎で最も古い老朽木造建築だったため、火の回りが速かった。

本館に燃え広がり、別館など8棟を全焼した。消失面積は約7千平方mに達した。各部課では重要書類や記録類がほとんど焼けてしまい、県庁としての機能の大半を失った。

浦和市内や近郊に住んでいる県職員は徒歩や自転車で駆けつけ、書類の持ち出しなどに活躍した。西村実造知事や二人の副知事は早々に姿を見せ、両副知事は高張り提灯をかざして指揮した。

出火原因は当初、漏電説が強かった。しかし、捜査本部は放火の疑いが濃いと見て捜査を進め、11月12日、消防課会計係員(24)を放火容疑で逮捕した。

火災発生時の行動に不審な点があるうえ、県下の消防団に配給する布ホース代金を横領していたこと、火災後の数日間、熱海の旅館に隠れていた事実が分かったからである。

容疑者は当初、頑強に犯行を否認していたが、消防課内の戸棚の書類にマッチで火をつけたと自供した。



51年1月、浦和地裁で「懲役12年」(求刑は無期懲役)の判決を受けた。控訴して保釈金を積んで仮出所中、茨城県水戸市の山中で、法務大臣、浦和警察署長、浦和地検検事正などに「私は無罪」という遺書を残し、服毒自殺してしまった。なぜ火事が起きたのかは不明のままだ。

県職員の逮捕は、知事の責任問題に発展した。消防課長は「監督不行き届き」の責任を取って辞表を提出した。

当時の駐留軍による埼玉軍政部は、「古い面子にとらわれた辞職は、民主的なやり方に慣れている者にとっては理解できない」と安易な辞職を強く戒めた。

このため引責論は消えたものの、大宮市と熊谷市が県庁招致の名乗りを上げ、浦和市と三つ巴の争いとなった。

熊谷市が立候補したのは、1876(明治9)年、熊谷県を廃止して埼玉県に合併した際、「県庁の位置が県南に偏在している」と熊谷招致の動きがあったという歴史的な事情があった。

この争いは最終的に浦和対大宮にしぼられた。1950(昭和25)年3月23日の県庁舎建設特別委員会で採決され、浦和28対大宮22の6票の僅差で浦和存続が決まった。

財源不足に悩んだ県は、再建費捻出のため宝くじを2回発行した。落成祝賀式が行われたのは、55(昭和30)年10月15日で、事件から7年経っていた。

知事は大沢雄三知事に代わっていた。西村知事は49年3月18日逮捕され、辞任、すでに死亡していた。

知事が逮捕されたのは、「日本シルク事件」と呼ばれる、東京地検が摘発した生糸の大量横流しに絡む贈収賄事件で、農林省畜産局長(前蚕糸局長)、県の蚕糸課長とともに収賄(知事は現金50万円)の容疑だった。

潔白だと語っていた知事は収賄容疑の一部を自供したとされ、起訴された。弁護士を通じて県議会議長に辞任届けを出し、臨時県議会で全員一致で可決された。

知事は公判中、病気で死去、免訴となった。(「埼玉県行政史 第3巻」など参照)





カスリーン台風

2014年08月06日 18時15分27秒 | 川・水・見沼

カスリーン台風

荒川と利根川と二つの大河を持つ「川の県」埼玉県にとって、川の恵みは計り知れない。だが、ひとたび台風や豪雨に見舞われると、「母なる川」は様相を一変、文字通りの「荒れる川」に豹変する。

利根川沿いの住民は、土盛りした避難用の「水塚」を作り、食料を備蓄、最悪に備えていた。県東部の15市町村に2014年にも千余が残っていた。馬や家畜も避難したという。

最も恐いのは、この二つの川の堤防が同時に決壊することである。・

その悪夢が現実になったのが、第二次世界大戦の敗戦間もない1947(昭和22)年9月に起きたカスリーン台風のもたらした豪雨禍だった。
2017年はその70周年に当たる。

埼玉県は、死者の数こそ101人と、関東、東北を含めた被害地域全体の1930人に比べ少ないものの、利根川と荒川を初め中小河川の堤防が83か所で決壊、当時の県内316市町村のうち、7割以上が被害を受け、約35万人が被災、家屋の被害は流出396、全壊725戸に上った。大正、昭和を通じて最大の水害だった。(県史、通史編7)

「明治43年の大洪水」(1910年)と記憶される荒川、利根川の洪水では、県内の平野部全域が浸水、堤防決壊945か所、死者・行方不明者241人、流出家屋998、全壊家屋610に上ったとある(利根川百年史など)。

江戸時代では、「寛保2年の洪水・高潮」(1742年)があり、利根川や荒川などの上流域で発生した大洪水が江戸下町を直撃、3900人以上、春日部周辺で9千人超の溺死者が出るなど、約2万人の犠牲者が出たという推定もある。

長瀞町の長瀞第二小学校裏の崖には、岩肌に「水」と刻んだ「寛保洪水位磨崖標」(県指定史跡)が残っている。現在の平水面から20mの高さで、洪水の水位の記録では日本一高いと言われている。

カスリーン台風は、利根川流域の東京の下町で被害が大きかった。しかし、堤防が破れたのは荒川が先だった。

カスリーン台風は典型的な「雨台風」だった。強風による被害は余り出ていない。日本に接近した時には勢いは衰えていて、関東地方の太平洋岸をかすめただけ。

しかし、停滞していた前線に台風が南からの湿った空気を供給、前線が活発化して、1947年9月14日から15日にかけて県内などに記録的な大雨を降らせた。

13日からの雨は15日夜半までに秩父市では、611mm(年間降水量の45%)に達した。明治34年の洪水時を上回る記録的な豪雨で、荒川は警戒水位を大きく突破していた。15日午後8時過ぎ、熊谷市久下新田地先で左岸の堤防2か所が100mにわたって決壊した。

16日午前0時20分、北埼玉郡東村新川通(現加須市大利根町)の利根川の堤防が水防団の必死の土のう積み作業のかいなく、約350mにわたって決壊した。

この洪水で利根川沿いの栗橋の最高水位は9.17mで、明治43年の水位より約3m高かった。

新川通には対岸との渡し船の乗り場があり、堤防のかさ上げも行われておらず、「かみそり堤防」のあだ名があった。

かみそりのように薄く、切れやすいという隠語であった。その上、戦時中の乱伐で山は裸同然、地面に保水能力はほとんど残っていなかった。轟音をたてて雨は山を崩し、流れ落ちた。

これも含め、支川も合わせて24か所で決壊、関東1都6県の死者は1100人に上った(国土交通省利根川上流河川事務所)。

利根川右岸(南側)堤防の決壊は、埼玉県の東部平野の低地が濁流に飲み込まれ、下流の東京も水没することを意味する。「利根川右岸を死守すること」が江戸時代から利根川治水の根幹だった。

濁流は、古利根川筋を南下、春日部、吉川を水浸しにし、18日の午後には東京の江東地区に到達、下町に壊滅的な打撃を与えた。

新川通堤防決壊による洪水は、75kmの地域を108時間で東京湾に到達したという。

二つの大河のほか、渡良瀬川、入間川、都幾川などの中小河川も氾濫した。

建設省(現国土交通省)の試算では、カスリーン台風の被害総額は国家予算のざっと5分の1に当たるとされる。もし現在、カスリー台風級の台風で利根川が同じ場所で決壊したら、国の中央防災会議は、加須市、春日部市、三郷市、2日後に到達する東京都足立区まで約230万人が住む530平方kmが浸水すると公表している。

この大水害は、戦後の政府の治水対策の原点になった。群馬県の利根川上流に治水と利水を兼ねたダムが相次いで建設され、護岸も強固になったので、この台風後利根川の堤防の決壊は起きていない。

国土交通省利根川上流河川事務所では、カスリーン台風の被害を後世に伝えようと9月16日を「治水の日」と定め、毎年慰霊・継承の式典を開いている。

現場には地元でカスリーン公園が作られ、「決潰口跡」や「台風の記念碑」(写真)が立っている。



買い出し列車脱線事故 

2014年08月05日 16時09分56秒 | 県全般
買い出し列車脱線事故 八高線 

敗戦後2年の1947(昭和22)年は、カスリー台風の襲来とともに、国鉄八高線で超満員の買い出し列車が脱線転覆、鉄道事故で戦後最高、戦前を含めても二番目に多い死者を出した多難な年であった。

この事故については知らなかったので、日本で最悪の鉄道事故は、国鉄(JR)の鶴見(死者161)か三河島(同160)、福知山(同107)、桜木町(同106)のいいずれかだろうと思っていた。

戦前を含め最大の死者を出したのは、大阪府の西成線(現桜島線)脱線転覆事故で、1940(昭和15)年、満員の気動車の燃料のガソリンへ引火、189人が焼死、69人が重軽傷を負った。

八高線の大事故は、2月25日朝7時50分、八高線下り高崎行き6両編成木造列車で、東飯能―高麗川駅間の20%下り勾配の半径250mの急カーブで起きた。

食糧不足で農家から芋一本でも、米一合でも求めようとする買出し客が、東京から農村地帯を走る、絶好の買出し路線であるこの線に殺到、乗客は定員の4倍2千人以上も乗っていたという。買出し列車にこれだけ乗るのは珍しいことではなかった。

最高時速55kmの制限を65km(判決文)出しており、2両目と3両目の連結器がはずれて、3、4、5両目が4、5m下の土手下に脱線転覆、6両目は線路脇に横倒しになり大破した。

木製車両のため原型をとどめないほど破片が飛び散り、血まみれの遺体が押しつぶされ、泣き叫ぶ女性や幼児の声でまさに地獄絵のような惨状だった。

死者はこれから買出しに出かけようとしたものが8割を占め、駆けつけた遺族は、ほとんど東京の人だった。

どの遺体も損傷がひどく、身元のわかったものは近くの寺に安置したが、境内や近くの農家の庭先にムシロをしいて並べられた。

それを狙って飢えた野犬が集まってくるので、その撃退や、遺体から時計、指輪、衣類などをはぎとろうとする不心得な人間たちの警戒にも当たらなければならなかった。

死者の数こそ184人で、西成線の事故より5人少ないものの、負傷者は499人ではるかに多く、合わせると、戦前、戦後を通じて最大の国鉄事故だと言える。

八高線では2年前の1945(昭和20)年8月24日にも、小宮と拝島間の鉄橋で上下列車が正面衝突、死者105、負傷者67人を出しており、“魔の八高線”と呼ばれた。

機関士は、列車転覆・業務上過失致死傷容疑で逮捕、起訴された。求刑は禁固3年。浦和地裁は事件4年後、「速度違反が事故の直接原因ではなく、2、3両目の連結器と車両自体の損傷が原因になった」と無罪の判決を下した。

事故の背景には、敗戦後の混乱した社会情勢があり、起きるべきして起きた惨事だった。

機関士の見習い期間は10年以上あったのに、2、3年の速成教育で済ませていた。機関士は22歳と若く未熟で、八高線はこの日が初めて。機関士は後部の脱線に気づかず、前部2両を引いて定刻に高麗川駅に到着したほどだった。

東飯能駅に来るまでにも、スピードを出していて、2、3の駅で行き過ぎて停車、バックしていたという。

付近のレールは老朽化してやせ細っており、新品レールの補給も、保線区員も極端に不足していた。(埼玉県行政史・第3巻参照)

国鉄では事故後、この事件の行政処分を行い、高崎管理部長や高崎第二機関区の二人のほか、当時の下山貞則・東鉄局長を指導監督不行き届きで譴責処分にした。

下山貞則氏を言えば、後に国鉄総裁になり、1949(昭和24)年7月、死体になって発見され、自殺か・他殺か分からないまま、警視庁が捜査を打ち切った、今でも謎とされる「下山事件」の主人公である。

「地震県」?

2014年08月04日 17時48分26秒 | 県全般

「地震県」?

海がなく、観光地が少なくても、埼玉県は台風の直撃は少ないし、大地震が起きる確率も東京都より低い安全な県と思い込んでいた。

ところが、政府の地震調査委員会が14年12月19日に公表した14年版「全国地震動予測地図」をよくよく見ると、さいたま市の方が東京都よりその確率が多いことが分かって驚いてしまった。

この予測地図は、「30年以内に震度6弱以上のゆれが起きる確率」を示したもので、東京都が46%なのに対し、さいたま市は51%だった。

都道府県庁所在地の確率の平均値が最も高かったので、その数字が比較されている。この数字は、都庁とさいたま市役所周辺地の確率の比較である。

関東では横浜市が78%、千葉市が73%、水戸市が70%とさいたま市よりはるかに高く、全国では静岡市(66%)、津市(62%)、和歌山市(60%)、徳島市(69%)、高松市(59%)、高知市(70%)、大分市(54%)に次ぐ確率で、全国で11番目、トップ10にあと一つだ。

さいたま市だけではない。県内では、春日部市(77%)、幸手市(72%)、川口市(69%)、越谷市(64%)がさいたま市より高く。全国的にも高率だ(読売新聞調べ)。春日部市の場合、全国最高の横浜市より1ポイント低いだけで、幸手市も全国2位の千葉市よりこれまた1ポイント低いだけだ。

予測とはいえ、全国的に見て埼玉県は「地震県」と呼ばれてもおかしくないほど高い確率である。

この委員会は、05年から予測地図を作成している。東日本大地震がマグニチュード(M)9.0と規模が想定外だったので、相模湾から房総半島に延びる相模トラフ沿いで起きる地震の評価を見直した。

また、首都直下地震で想定される震源の深さを13年版より約10km浅くしたことなどで、関東各地で震度6弱以上の揺れが起こる確率が高まったという。

この結果、さいたま市の確率は、前年より21ポイント増と上昇幅が全国最高を記録したのである。

震度6弱とは、気象庁が定める10段階の揺れの中で3番目に強い。耐震性が低い建物は倒れる危険がある。

震度6強以上の揺れが起きる確率も県内では軒並み上昇した。春日部市(23%)が最高で、幸手市(19%)、川口市(17%)が続いている。

荒川や中川など大きな河川のある自治体の確率が高い。「河川周辺は地盤が比較的軟弱で揺れが増幅しやすい」ためだという。

震度6強の被害想定について、政府の中央防災会議は13年末、首都直下地震が発生した場合、県内では最大約2400~3800人の死者が出て、全壊・消失面積は約9万7千棟に上ると発表している。

県は死傷者・避難者の半減や発生60日以内に電気・ガス・水道の95%以上の復旧という「減災目標」を14年3月に設定した。

問題は、減災に向けた行動計画が大地震の発生に間に合うかどうかである。


関東大震災

2014年08月04日 15時08分30秒 | 県全般

関東大震災

南海トラフが先か、関東大震災の再来が先か、地震予知が科学的に難しい今、誰にも分からない。

東京の隣の埼玉県にとって、関東大震災の再来はひとごとではない。

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西沖80kmを震源とするマグニチュード7.9と推定される大激震が関東地方を襲った。その時、埼玉県下で何が起きたのか。

県下(熊谷)でも震度6を記録し、被害は、神奈川・東京・千葉・静岡に次ぐ5番目だった。いくつかの歴史の本から再現してみよう。

被害は、東部の古利根川、元荒川の沖積層の地盤が軟弱な地域に集中した。特に川口、粕壁(春日部)、幸手町が三大被災地とされた。

最も被害が大きかったのは川口町で、鋳物工場316が全半壊、死者10を含む死傷者42人、住家862が全半壊した。鋳物工場の工員約3000人が一時失職した。

粕壁町では満足な家屋がほとんど残っていない状態だった。幸手町では死者10を含む50人が死傷、住家330余戸が全半壊した。

国鉄大宮工場では、作業場の倒壊で煙突が崩れ、死者24人を出した。

全県では、死者217、負傷者517人、住居の全壊4713、半壊3349戸が出た。(大正震災誌)

赤羽・川口間の荒川鉄橋の橋脚が傾き、3日まで不通になり、被災者救援や復興資材の運搬に支障を来たした。

1日から3日までの間に震度1-5の余震が109回、9月中に震度4以上が8回起きた。

東京から空腹と疲労、負傷を抱えた避難民が続々流入した。県は16日まで救護所を設けたが、救護した人は約30万人、各市町村でも約18-24万人に達した。県外でも、日暮里、滝野川に救護所を設け、医療活動に当たった。

この大震災で朝鮮人が襲ってくるというデマが飛び、各地に住民たちの自警団が結成された。警察では保護のため、県内や東京から非難してきた朝鮮人をトラックに乗せ、県外の安全な地域に移そうとした。

本庄では警察署構内で群集がこれを襲い、ほとんどの86人(巡査と新聞報道)を撲殺するという、県内で最大の犠牲者を出した事件が発生した。県北の熊谷や寄居、神保原でも殺害事件が起こり、被害者総数は確認されただけで193、未確認を入れると240人に上る(県史、通史編6)。

いずれも震災の被害が軽かった県北地域で起きているのが気にかかる。

この震災で虐殺されて朝鮮人は、、3千数百人に上った。


細分されていた埼玉県域 江戸時代

2014年08月01日 18時58分28秒 | 県全般
細分されていた埼玉県域 江戸時代 

古代から江戸時代末までの埼玉県域の歴史を振り返ってみると、明治維新後に「埼玉県」が誕生するまで、有機的な「統一体」としての埼玉県は一度も存在したことがないということに気づく。

古代の武蔵国は、名称こそ全国60か国の一つに数えられた。武蔵国は21の郡から成っていた。今振り返ると、北武蔵の埼玉県域は15の郡から成るが、15の郡の間にとりたてた関係があったわけではない。

北武蔵は武蔵武士発生の基盤になった。武蔵武士の活躍で成立した初の武家政権「鎌倉幕府」の下でも、埼玉県域に所領を持つ御家人が協力し合ったという話も聞かない。

古代には、政治の中心地から距離的に「遠国」だったのに、江戸時代は江戸の「隣国」になった。

この距離の近さから、県域の7割以上が天領(幕府直轄領)と旗本知行地になり、それに加えて、川越、忍、岩槻の3藩があった。藩といっても忍藩が10万石、川越藩が8万石、岩槻藩が2万3千石の小藩だった。

3つの藩の藩主は、江戸防衛のため親藩、譜代大名で、川越、忍、岩槻の城は「老中の城」と呼ばれていたように、幕府の高級官僚だった。転封も頻繁で、一部の藩主を除いて、眼は藩政より幕政に向けられていた。

現在の東京県民同様、サラリーマン大名で、領民との結びつきは希薄。独自の藩風が生まれる雰囲気ではなかった。支配される側も、帰属意識や連帯感は薄かった。城下町より中山道の宿場町の方が賑わいを見せていた。

岡部藩(現深谷市)、久喜藩というのもあった。

知行1万石を超せば大名。それ以下で将軍に拝謁できる御目見え以上の旗本は、約5400人いた。「旗本8万騎」という言葉は、お目見えできない御家人や、旗本・御家人の家臣を加えた数だった。

江戸に近い埼玉県域には、多くの旗本が知行地を与えられた。当初は知行地に陣屋を構える者も多く、73か所もあったという。後に旗本は江戸に住むことが多くなり、陣屋は廃止になっていった。

1万石以下200石以上なのでピンからキリまでいたということだろうが、一般に規模が小さいものが多く、幕末には県域に知行地を持つ旗本は約600人いたと推定される。

例えば江戸中期、6代将軍家宣に仕えて、「正徳の治」と呼ばれる政治改革をした儒学者新井白石は、白岡市の野牛に知行地(500石)があり、観福寺に肖像画が残る。

イタリア人宣教師シドッチの尋問記「西洋紀聞」や自叙伝「折たく柴の記」など多くの著書を残した。

幕末、江戸城の無血開城に先立ち西郷隆盛と談判、勝海舟との会談のお膳立てをした無刀流の創始者山岡鉄舟は、生家の小野家(山岡は養子名)が小川町に知行地があったので、訪れる機会も多かった。

今も残る「忠七めし」は、鉄舟がつくらせ、「二葉館」の館主の名にちなんで命名したと伝えられている。

幕末における旗本領などの米の石高の百分比は、旗本領が35%、天領が32%、藩領が32%とほぼ三分されていて、旗本領の比率が高いことが分かる(「埼玉県の歴史」小野文雄著 山川出版社)。

このほか、比率は低いものの400余の寺社領もあった。県の南部の上野・寛永寺領や根津権現領など比較的大きなものから、おなじみの川越喜多院(500石)、鷲宮神社(400石)、大宮氷川神社(300石)などである。

藩の城下町は江戸の強い商圏の中に組み込まれ、地域連帯意識も独自のアイデンティティーも育つ土壌はなかったのである。