ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

サッカーのまち さいたま市 

2010年03月21日 18時40分36秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


京浜東北線の浦和駅西口で降りると、駅前商店街の街灯の柱に赤い旗がずらっと掲げてあるのに気付く。よく見ると、白字で「URAWA サッカーのまち We Support URAWA REDS」と書いてある。さいたま市の中心部の浦和区のサイン付きだ。

浦和区役所(2階以上はさいたま市役所)を訪ねても、17号線沿いに「サッカーのまち さいたま」の塔や横断幕が目に入る。

浦和区役所の前には1997(平成9)年に建てられた「埼玉サッカー発祥の地」の記念碑が立っている。彫像と碑が向き合っていて、像は二人のプレーヤーがボールを追っている姿。

碑文には大要、「埼玉のサッカーは1908(明治41)年6月に埼玉師範(現埼玉大学)で始まり、指導者が浦和を中心に教師として赴任して普及・発展した。浦和市役所は埼玉師範の跡地に建てられたので、まさに埼玉サッカー発祥の地。埼玉師範が全国大会で初優勝して以来60周年の本年、記念碑を建設した」と記されている。浦和市時代のものだ。

さいたま市は、浦和区を本拠とする「レッズ」、大宮区の「アルディージャ」と、合併で一つの市の中にJ1チームを二つも抱えていることはあまりに有名。「アルディージャ」とは、スペイン語の「リス」のことだ。

全国でサッカーのご三家と言えば、静岡、広島と埼玉の三県。静岡は「清水エスパルス」、広島は「サンフレッチェ広島」とそれぞれJ1チームを持っている。この碑文によれば、ご三家の一つの埼玉県のサッカーは100年以上の歴史を持っているわけだ。

埼玉師範とサッカーの関係を調べようと、また、さいたま市の中央図書館を訪ねると、郷土資料の中に『輝く埼玉サッカー七十五年の歩み』(埼玉県サッカー協会編)と『キックオフの笛が鳴る(サッカーの歩みと魅力)』(轡田隆史著、さきたま出版会)の格好の本2冊が見つかった。

轡田氏は、朝日新聞の夕刊「素粒子」の筆者やテレビ10チャンネルのニュースのコメンテーターを務めた。浦和高校、早大サッカー部で選手として活躍、Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎氏とも一緒にプレーした。面白くないはずがない。

サッカーは英国では「フットボール」と呼ばれる。始まったのはギリシャ、ローマ時代のようで完成されたのは英国だという。

ローマ時代には、敵のサレコウベ(頭の骨)を蹴飛ばして始まったという説があり、英国でも最初のひと蹴りは、戦いで敗れた敵軍の首を蹴ったことだっとという話もあるとか。

昔の英国のは、村や町ぐるみ、数十、数百の人が一つのボールを追って、会堂や何かをゴールに見立てて、押し込もうというもので、手も使い、殴る、蹴る、とにかく乱暴な遊びだったという。

日本で初めてフットボールが行われたのは、1874(明治6)年。明治7年とも。1877(明治10)年のちに東京高等師範学校になる体育伝習所の教科に取り入れられ、東京高師にフットボール部ができたのが1896(明治29)年だった。

フットボールの先頭を走っていたのが、東京高師で、卒業生は全国の中学校や師範学校に散り、その伝道師になった。

その一人が兵庫県生まれの細木志朗先生で、日本一の指導者として知られ、1908(明治41)年6月6日に埼玉師範の生徒たちに実技を教えた。これが埼玉のサッカーの始まりである。

翌月から1921(大正10)年、愛知県安城高等女学校に転任するまで同校に奉職した細木先生は、自分で材木屋へ行って角材を買ってゴールポストを作ったと伝えられるなど、熱心にサッカーの指導に当たった。

埼玉師範は1937(昭和12)年、第19回全国中等学校蹴球大会で優勝、その60周年を記念したのが、浦和区役所前の記念碑だ。

この全国制覇などが刺激になって、サッカーは「埼玉のスポーツと言えばサッカー」と言われるほどに盛んになり、全国で輝かしい成果を挙げるようになるのである。

細木志朗先生が埼玉師範にまいたサッカーの種は、埼玉師範から先生として県内に赴任した卒業生を通じて浦和市を中心に県内に広まった。先生は師範だけではなく、頼まれれば、どこへでも指導に出かけた。県立浦和中学校(現浦和高校)もその一つである。

細木先生は几帳面に日記をつけており、どこの学校に指導に出かけたか細かく書いてある。1949(昭和24)年、新学制で浦和中が浦和高に変わってもサッカーの伝統は引き継がれた。

この年、浦高は第4回国体(東京)で初の全国制覇、昭和26年には第6回国体(広島)で再制覇、27年の第30回全国高校選手権(西宮)、30年の第33回、31年の第34回で優勝、サッカー王国の基礎を築いた。

轡田氏がいた頃の浦高サッカー部は黄金時代で、県内外で69連勝を記録している。浦高に続いて、時代の順に浦和西高、浦和市立高、浦和南高、それにさいたま市ではないが、児玉高、武南高がそれぞれ全国優勝を重ねたのは記憶に新しい。

中でも浦和南高は、1967(昭和42)年の第22回埼玉国体で優勝、44年には全国高校総体、国体(長崎)、翌年には全国高校選手権で優勝、史上初の全国制覇の「三冠王」を達成、浦和高をしのいだ。

「赤き地のイレブン」――。浦和南高の活躍をモデルにした梶原一騎・園田光慶原作のサッカー劇画やテレビアニメを読んだり、見たりした人は多いだろう。

高校だけではない。全国教員系大学大学選手権で埼玉大学が、国体で埼玉教員クラブが優勝を重ね、さらに、全国中学校、全日本少年サッカー大会、女子サッカー大会でも浦和市のチームが優勝するなど、一々挙げるのが大変なほどだ。

「サッカーのまち さいたま」はその歴史に裏付けられている。細木先生がまいた種は見事に実り、浦和レッズへの道を開いたのである。

「なぜか埼玉」  さいた・まんぞう

2010年03月08日 19時26分39秒 | 県全般

「なぜか埼玉」 さいた・まんぞう

「ご当地ソング」という歌のジャンルがあるようだ。観光地もなく、とりたてた繁華街もない埼玉には縁の遠い話だと思っていた。

「さいたまんぞう」の「なぜか埼玉」という歌を覚えておられるだろうか。1981年にブレークしたとか。

本人のCD「さいたまんぞう 全曲集 生存証明」の曲目解説によると、その年、深夜ラジオの人気番組だった「タモリのオールナイトニッポン」の「思想のない音楽会」コーナーでオンエアされ、タモリが「イモな歌だね、下手な歌手だね」と面白がったのが、ブレークのきっかけだったという。

そういえば、「ださいたま」を「ちばらぎ」とともに流行らせたのはタモリだったというから、何かの因縁かもしれない。

不思議な歌である。変な歌とも言われたらしい。だが、奇妙な味がある。

曲の始まりは、ラブソングのようなのに、聞いていると、「なぜか知らねど ここは埼玉 どこもかしこも みんな埼玉」、「右も左も」、さらに「前も後ろも」「西も東も」「北も南も」、「ぜんぶ(みんな)埼玉」で終わるのだ。

荒川鉄橋を越えて東京に通勤する日々が終わったので、毎日「前後左右、東西南北」、全部埼玉に囲まれて日々を送っている身には、この歌詞は身に沁みる。

この歌詞を創った人は、「秋川鮎舟」という人だとか。同じCDに入っている「埼玉いろはづくし」「埼玉オリンピック音頭」「なぜか埼玉海がない」の歌詞を見ながら聞くと、すべて屈折した感情を抱いた埼玉応援歌と分かる。

この歌の存在を知ったのは、読売夕刊の小コラム。今度も浦和中央図書館のお世話になった。

「東京歌物語」(東京新聞編集局・編著、東京新聞出版部)によると、まんぞうさんは、埼玉ではなく岡山県の出身だ。野球好きで、本名は「牛蒡(ごぼう)」という珍名。

歌手・西郷輝彦が、家出同然で鹿児島から大阪に出て、バンドボーイになって、身を立てた例にならって上京、バンドボーイになって、キャバレー専属バンドのドラマーになった。

「なぜか埼玉」の歌の話も、バンド仲間が持ち掛け、歌詞も仲間が遊び心で創った。

レコードは売れなかったものの、埼玉県の高校生が、「おやじが変なレコードを買ってきた」と、「思想のない音楽会」に送ってきたのがきっかけで、一時ブレークした、というのである。

1948年12月生まれ。東京都内在住で、草野球の審判をしているので、県内に来ることも多い。(写真は蕨市で)