ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

慈光寺 ときがわ町

2010年11月27日 14時04分16秒 | 寺社
慈光寺 ときがわ町

武蔵嵐山に紅葉狩りに出かけた翌日の小春日和の10年11月25日、今度も比企路は、ときがわ町の古刹「慈光寺」を、八高線明覚(みょうかく)駅を起点に徒歩で訪ねた。

いかにも抹香臭い名前ながら、「関東の駅百選」に選ばれた面白いデザインの駅である。すばらしい悟りを意味する「妙覚」のことだとか。

開山以来1300年。源頼朝が奥州藤原泰衡(やすひら)討伐を祈願、その寄進を受けて、75坊を持つ関東屈指の大寺院として栄えていた。

境内に東国最古の禅寺「霊山(りょうぜん)院」(臨済宗)があり、紅葉がすばらしい。この院は、慈光寺の塔頭(たっちゅう、高僧が引退後に住む子院)として創建されたという。

比企路と言っても、埼玉県人でも分からない人が多い。「日本スリーデーマーチ」のウォーキングで有名な東松山市を中心に比企郡の滑川、嵐山、小川、ときがわ、鳩山、川島、吉見の7町と秩父郡ながら県内唯一の村である東秩父村も入っている。

埼玉県は日本一、市の数が多い。ところが、比企地方で市は東松山だけで、自然が豊かな丘陵地帯が広がる。滑川は「国営武蔵丘陵公園」、嵐山は武蔵嵐山のほか、頼朝の御家人畠山重忠の館という「菅谷館跡」、小川は和紙、吉見は百穴で知られる。

「比企」の名は武蔵国比企郡を本拠とした比企氏にちなむ。比企禅尼が頼朝の乳母を務めたので、尼の子比企能員(よしかず)は頼朝の最も有力なご家人となり、権勢を誇った。北条時政との対立から「比企能員の変」が起こり、比企一族は滅亡する。

畠山重忠、比企能員に見られるように源氏ゆかりの武将が出た地で、嵐山町の鎌形八幡神社には木曽義仲の産湯の清水がある。

慈光寺を昔から知っていたわけではない。埼玉県に全国一数が多い板碑(青石塔婆)に興味を持って調べているうち、この寺の山門跡に1m余から3mに近い高さの9基の大型板碑が群立しているのを見て以来、一度は訪ねてみたいと思っていた。(写真)

板碑は武士だけのものと思いこんでいた。この9基はいずれも寺ゆかりの僧侶の供養や,生前、自らの死後の往生を願う、いわゆる逆修(ぎゃくしゅ)供養のために造立され、明治の初期に山中の僧坊から移されたという説明板があった。やはり実際に来てみるものである。

県内随一の古刹、慈光寺は武蔵国天台別院(本山の出張所)。関東屈指の天台宗寺院だった。有名な渡来僧鑑真の高弟、釈道忠が建立したと伝えられる。道忠は天台宗開祖の伝教大師最澄の布教を助けた僧で、朝鮮半島からの渡来人ではなかったかと言われている。

道忠の弟子円澄は比叡山延暦寺に上って、最澄の弟子になった後、第2代天台宗座主(ざす)になった。円澄は壬生氏の出身で、武蔵国埼玉郡の人だったという。京から遠く離れた、こんなへんぴな地にある慈光寺と初期の天台宗や延暦寺との深い結び付きに驚くばかりだ。

この寺は、戦国時代には僧兵を持ち、近隣の城主と抗争を繰り返した。太田道灌が討ち入ったり、小田原北条家の臣下だった近くの松山城主の焼き討ちに会い、衰退した。

慈光寺は、この地の政治、経済、文化の中心だった。その伝統や技術は、林業が盛んなときがわ町の建具、小川町の手すき和紙、狭山茶などに生きているという。和紙は、寺の写経用の需要があった。

日本三大装飾経として知られる国宝の法華経一品(いっぽん)経を初め、関東最古の銅鐘など国指定の重要文化財が残っている。室町時代の木造多宝塔では唯一の、国重要文化財の開山塔、樹齢1100年を超すタラヨウの古木もある。

季節には参道に、シャガの群生や里桜(八重桜)の並木が花開く。里桜とは、野生の桜の園芸品種。1986年に最もポピュラーな「一葉」と「普賢象(ふげんぞう)」270本を植えたのが始まりで、自生の染井吉野を含め42種400本の里桜が咲く。珍しい「薄毛大島」とか「松前紅玉錦」などもあるそうだ。

「ソメイヨシノだけが桜ではない」と思う人には、お勧めしたい花見どころでもある。

慈光寺 ときがわ町の桜狩り

2010年11月25日 12時15分43秒 | 寺社
慈光寺の桜狩り ときがわ町

4月9日(11年)、埼玉県の比企郡ときがわ町にある慈光寺の桜を、仲間と見に行った。寺が1986年以来育てている参道の桜並木を見物しようというのである。事前に下見に出かけたリーダーの話だと、「ちょうど見頃かもしれない」というから勇んで出かけた。

この日、「埼玉県も初の夏日だ」という予報もあり、陽気に浮かれた桜が華やいでいるに違いない。

前回、慈光寺を訪ねたのは、有名な9基の板碑(いたび)が立ち並ぶ「青石板碑群」が狙いで、一人で駅から歩いた。その時、パンフレットで、寺と町が「里ざくらの里」づくりを進めているのを知ったので、春にはぜひ再訪したいと思っていた。

仲間たちが住むさいたま市(武蔵浦和駅周辺)では、すでにしだれ桜や染井吉野の盛りは終わっていた。

武蔵野線から東上線に乗り換え、小川町に近づくと、まだ染井吉井が満開。「あれ、さいたま市はやはり南なのね」。桜は、わずかな緯度、高度、温度の変化にも敏感だと実感した。遠出して桜を見るから分かることだ。

小川町駅前からときがわ町のカッコいいバス(昔の田舎のバスと違って新しくモダン)に乗り、ときがわ町の「せせらぎバスセンター」で乗り換え、慈光寺入り口で降りる。ここから2km坂を上り、1300年の歴史を誇る古刹「慈光寺」と関東最古の禅寺「霊山院(りょうぜんいん)に向かうのだ。

釈迦の慈しみの精神から「慈」の字がつく寺は多い。いつも間違うのは岩槻の「慈眼寺」だ。時々、ときがわ町のこの寺はどっちだったのかと迷うほど。

来る度に。こんなすごい寺が、なぜこんな田舎にあるのかと思う。西北の隣には、埼玉県でただ一つ残った「東秩父村」がある。

鉄道やバスが主要な交通機関でなかった時代は、脚だけが頼り。脚を基にした距離感があったのだろう。私の気にかかっているのは、一日40キロ歩いたとされる芭蕉の健脚ぶりである。

今回はリーダーの下調べのおかげで小川町からバスで慈光寺入り口下車。楽をしようと思ったらバスは慈光寺まで登る。

もらったパンフレットによると、ここの里ざくらは1986(昭和61)年、参道の両側に270本の八重咲きの「一葉」と「普賢象」を植えたのが初めてという。だから、登っていくうちにこの二つが多いのに気づく。

里桜は遅咲きなので、残念ながらまだ咲いていないのが多かった。早咲きの染井吉野は満開を過ぎようとしていて、花吹雪が舞っていた。

霊山院の参道にも里ざくらが植えられえていて、慈光寺から霊山院に回ってこの参道を下れば、25年かけて育てた33種の里ざくらが楽しめる。今年は、「陽光」「八重紅枝垂桜」「大山桜」「仙台屋」「稚木(わかき)の桜」の五品種が新規公開された。

この中で「仙台屋」と「稚木の桜」にはお目にかかったことがない。「仙台屋」は、高知市の仙台屋という店にあったもので、有名な植物学者牧野富太郎が発見して名づけた。山桜の栽培品種で、大山桜のような紅色の花を持つと、重宝している学習研究社の「日本の桜」(勝木俊雄著)にあった。

「稚木の桜」は、この図鑑にもなかった。インターネットで調べてみると、これも牧野富太郎博士が出身の高知県佐川町で発見した。山桜の一種で09年に地球に帰ってきた宇宙桜14種類の一つで発芽した、という。

日本人は勉強が好きだ。「美しい」だけでなく「これは何という桜」という疑問を持つ人が多い。ここの桜には一本一本に名前を大書した立て札があり、桜好きにはありがたい。

「鵯(ひよどり)桜」「雲珠(うず)桜」「水晶」「東錦」「永源寺」といったこれまた見たことがない桜もあって、開花期にまた来ようと思った。

立て札で名前を教えてくれる親切心もうれしい。新しい桜の名所が誕生しようとしている。

桜だけではない。ちょうど、この町の町花「ミツバツツジ」が至る所で満開、それに花桃、名物のシャガが加わって、桃源郷と呼びたくなるほどの場所もある。この写真は霊山院前のもの。ときがわ町は花の町である。

ねぎサミット 深谷市

2010年11月23日 19時40分35秒 | お茶・農業


煮ても、焼いても、揚げても、焼鳥に挟んでも、生で薬味としても、食える野菜「ねぎ」――。12月から2月にかけてのすき焼きなど鍋料理の本格的なシーズンを前に、全国市町村でトップの出荷量を誇る深谷市で10年11月20,21日の両日、「全国ねぎサミット」が開かれ、全国の産地10市町と5人の市長が、おらが里のねぎ自慢を繰り広げた。

県別出荷量では埼玉県は、千葉県に次ぎ第2位だ。ねぎの世界も深くて、長くて、面白い。

参加したのは、「深谷ねぎ」を筆頭に、深谷についで第2位、夏ねぎでは全国一、冬場の定番「鍋ねぎ」が売り物の「坂東ねぎ(茨城県坂東市)」、京野菜の一つ、歴史を誇る「九条ねぎ(京都市)」、真っ直ぐではなく曲がっている「阿久津曲がりねぎ(郡山市)」、白い根の部分が赤い「平田赤ねぎ(酒田市)」、越後美人のイメージから名付けられた「やわ肌ねぎ(新潟市)」、江戸時代に将軍家に献上されていた、別名殿様葱の「下仁田ねぎ(下仁田町)」、葉ねぎと根深ねぎの二種類の「矢切ねぎ・あじさいねぎ(松戸市)」(全国第3位)。

県内からは、高級食材として名高い「越谷ねぎ(越谷市)」、古典落語「たらちね」にも登場する「岩槻ねぎ(さいたま市)」、と、いずれ劣らぬ由緒ある“ねぎのエリート”たち。

こう並べただけで、いろいろなねぎがあるものだと感心する。

ねぎは一般に、関東では白いところを食べる根深ねぎが、関西では緑の葉も食べる葉ねぎが好まれるという違いがある。「九条ねぎ」は、葉ねぎで、霜が降りる頃からとろっとした甘い“あん”が葉に蓄えられ旨みが増すといい、平安朝前期から京都市九条地域で栽培されていたとか。

「阿久津曲がりねぎ」が曲がっているのは、郡山市阿久津の土壌の粘土が強く、作土が浅いため、夏に掘り起こして斜めに植え替える「やとい」という作業をするため。

「平田赤ねぎ」の赤色は、酒田市平田地区が最上川と相沢川の合流地点だったことから、土壌のせいのようで、赤紫色のワインカラー。赤色部にアントシアニンやポリフェノールを含み、ビタミンCの含有量も多く、風邪薬としても重宝されてきた。

県内のねぎも負けていない。ねぎ自慢で「深谷ねぎ」をPRした青年農業者の団体「ふかや4Hクラブ」の代表によると、深谷ねぎは一つの品種名ではなく、深谷地方で栽培されるねぎの総称。

特徴は繊維のきめが細かく柔らかいこと。糖度が高く、甘いこと。白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいこと。糖度は10~15度前後あり、ミカンなどに匹敵、すき焼きに砂糖を入れない人もいるほど。

こんなねぎができるのは、利根川流域の栄養分豊かな土壌と晴天の日が多いので、冬場の日照時間が長く、内陸部で一日の寒暖の差が激しい自然条件による。深谷市では、太さ、形など特に優れたのに付けられる「ふかちゃん印深谷ねぎ」ブランドを制定したという。

深谷では、畑の近くを歩くと、ねぎの香が漂ってくる。「ねぎは深谷の代名詞」なのだ。

「越谷ねぎ」は、江戸時代の文献に「越ヶ谷辺の名物」と書かれているように古くから栽培されてきた。煮崩れしないのが特徴で、東京の有名料亭などで使われている高級食材。

市内に宮内庁鴨場があるので、このねぎと鴨を合わせた「こしがや鴨ねぎ鍋」は、「彩の国鍋合戦」で第2回と第4回に優勝している。「鴨がねぎをしょって来る」とは縁起のいい名前だ。

「岩槻ねぎ」は、関東では珍しい青ねぎ(葉ねぎ)で根も葉も食べられる。古典落語「たらちね」にも登場したほどなのに、葉が非常に柔らかなので積み重ねることができず、物流に耐えられなくて、まぼろし化した。

「にぎわい」ならぬ「ねぎわい」を狙って、飲食店主らの「岩槻ねぎ倶楽部」がこのねぎを扱う店の地図「ねぎわいマップ」を作り、復活に向けPRに努めている。

ねぎは、辛味や匂いの成分「硫化アリル」には血液を固まりにくくしたり、血糖値低下、血圧上昇を抑える働きもある健康食品。新陳代謝の促進、疲労回復にも役立つ。おおいに食べて本格化する冬を乗り切りたい。

11月29日の読売俳壇のトップに「しぐるゝやモツ煮の上のきざみ葱」という句があった。ネギなしで成り立たないツキダシもある。モツ派の私はもう飲みたい気分である。

B級グルメ王決定戦 加須市

2010年11月23日 05時46分26秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・
B級グルメ王決定戦 加須

観光資源が少ない埼玉県では、B級グルメで訪問客を増やそうと、年に二回、各地で「埼玉B級ご当地グルメ王決定戦」を開いている。その第七回目が小春日和の10年11月21日の日曜日、県北の加須市であった。

埼玉県のB級グルメには、食い気より、一つの社会現象として興味があるので、またまた出かけた。群馬や栃木県に近いため、両県から7品が初参加し、出品点数は過去最多の40品に上るという触れ込みである。

加須と言っても、何と読むのか、どこにあるのか、わからない人が多いだろう。「かす」と読むのはいかにもかわいそうだ。「かぞ」と読むのである。

ある郷土史家は、「日本書紀」に「須」を「そ」と読む記載を発見、「加須(かそ)」と表記していたのが、「加津」「神増」「加増」などと書かれるようになり、再び「加須」の戻ったという仮説を立てている、という記事が読売新聞の埼玉版に載っていた。「須」を「ぞ」と読むようになった理由は未解明だという。

東武伊勢崎線で、東武動物公園と久喜で乗り換える。最近、漫画ファンに人気が出てきた鷲宮(わしのみや)駅の北隣が会場に最も近い花崎駅だった。急行が停まる駅ではない。

着いたのはお昼近く。驚いたのは人出である。歩いて15分の距離だというのに会場まで人並みが続いている。後で聞くと7万人の人出。ちなみに加須市の人口は約12万人だ。B級グルメを開きたい気持ちがよく分かる。会場の「はなさき水上公園」は人々々であふれていた。

「加須はうどんで有名。どこか開いているだろう」と公園から中心部まで歩いてみることにした。

ついでに「どこが有名な店ですか」と尋ねる。「加須駅からは遠いですよ」。そうなればとことんまでと、その店を訪ねると、「グルメ決定戦で臨時休業」の張り紙があった。

この日王座に選ばれた「加須市みんなで考えた肉味噌うどん」に関係した冷や汁が売り物の店だったのだ。

決定戦に先立ち、「手打ちうどんを使ったアイデア料理コンテスト」をしたところ、千件を超す応募があり、市内の主婦のうどん料理が選ばれた。

それを基に加須市の「手打ちうどんの会」の会員たちが、試行錯誤を重ねて出来上がったのが、文字どおり「加須市みんなで考えた」肉味噌うどんだったという。

うどんに肉味噌と温泉卵を乗せ、薬味に辛味噌とネギがついていて、かき混ぜて食べるのだそうだ。

加須の駅前にコシの強さとのど越しの良さが売りの「手打ちうどんの会」の案内図が立っている。そのうどん屋に市民のアイデアを結集した新名物料理が登場するわけで、B級グルメならではの快挙だ。

出品作のそれぞれにはこんな話があるのだろう。

「加須の地名の由来は、元禄の頃、穀物の生産量が『加増』したからという説がある。利根川の氾濫による肥沃な土で小麦の栽培が行われ、旅人や商人、不動尊への参拝客にうどんを供したのが、加須名物手打ちうどんの発祥といわれる」と埼玉新聞には書かれていた。



関東郡代 伊奈氏

2010年11月15日 10時11分14秒 | 近世



大学時代、映画に凝っていたので、西部劇のかたわら時代劇もよく見た。時代劇でよく登場するのは「悪代官」で、それ以来、代官は「悪」と決め込んでいた。

ところが最近になって、「神様・仏様」と農民を初めとする庶民から慕われた代官が昔の埼玉県にいたことを初めて知った。関東郡代の伊奈氏である。

代官とは、御存知のとおり、天領(幕府直轄地)を支配し年貢徴収などの民生をつかさどった役人のこと。伊奈家は、陣屋(代官のいる所)を初代の忠次が関東代官頭として現在の伊奈町に、三代目忠治(ただはる 忠次の二男)から十二代目忠尊(ただたか)までが関東郡代として川口市に置いた。

伊奈氏は、現在の埼玉県の入間・比企地方を除くほとんどを、配下の代官などを通じて1590(天正18)年から1792(寛政4)年まで約200年間支配した。代官頭、関東郡代とは、諸代官を統括、交通、治水、土木、新田開発などの中心的な役割を担った。

伊奈氏のことを初めて知ったのは、伊奈町にある県民活動総合センターの講座に数回通った時だった。「伊奈備前守忠次公をご存知ですか。今年は忠次公没後400年の年です」というパンフレットで、10年10月31日に開かれたシンポジウムへの呼びかけだった。

裏面にはその一生を描いた漫画もついていた。忠次は、三河(愛知県)の生まれで、徳川家康に仕え、1590年、家康が関東に移された際、現在の伊奈町小室と鴻巣市にかけての武州小室・鴻巣領1万石を与えられ、小室に伊奈陣屋を構えた。伊奈町の名は忠次にちなんでいる。

さいたま市南浦和から東京外環自動車道にそって植木の里、川口市安行に向かうと、川口東インターチェンジのすぐ南に赤山城跡(同市赤山曲輪)がある。忠治以降12代までが陣屋を構えた所で、赤山陣屋跡とも呼ばれる。

陣屋全体の総面積は、東西、南北ともに1400mの正方形型の約60万坪で、当初の規模は大阪城外堀とほぼ同じスケールだった。二重の堀に囲まれ、家臣団の屋敷や菩提寺などもあり、城下町の感じだったという。

今では緑に囲まれた最高のハイキングコースで、記念碑(写真)前には足を休める所もある。

なぜ伊奈氏は「神様」「仏様」とまで慕われたのか。

政治とは古来、水を治めることだった。家康が関東に移ってきた頃の埼玉県は、「坂東太郎(利根川)」も「荒川」もその名のとおり暴れ放題。埼玉県東部から南部にかけては、低湿地帯で洪水の常習地だった。

利根川は江戸湾に流れこみ、荒川は、吉川市付近で利根川に合流していたというから驚きだ。坂東太郎と荒ぶる川(荒川)が増水して合流すれば、果たして何が起きるか。容易に想像がつく。

土木と治水・灌漑にたけた忠次と2代目忠治は、治水のため、「利根川の東遷」と「荒川の西遷」に着手した。

忠次亡き後、忠治らの後継者は最終的に、利根川の本流を東側の常陸川に結びつけ、千葉県銚子、つまり太平洋まで誘導、東京を利根川の洪水から解放した。荒川については、熊谷でせき止め、西側の入間川を通じて隅田川に流し込んだ。

優れた土木技術で堤を築き、用水を引き、新田を開発した。米の収穫は大幅に増えた。見沼溜井も忠治によって造成された。

忠次は、農民に桑、麻、楮(こうぞ)などの栽培を勧め、養蚕や炭焼き、製塩などを奨励、関八州(関東地方)は忠次によって富むとさえ言われた。

1707(宝永4)年、宝永の富士山噴火の際には、7代目忠順(ただのぶ)が小田原藩の避難農民の救済に奔走した。忠順は飢えた農民のために駿府にあった幕府の米蔵を開放、棄民を助けたが、幕府の追及を受け、切腹して死んだ。

1783(天明3)年、12代忠尊(ただたか)の時には、浅間山が大噴火、「天明の大飢饉」を引き起こした。江戸でも暴動や一揆が起こり、「天明の打ち壊し」が始まった。忠尊は幕府の下賜金で諸国から米穀を買い集め、庶民に廉売、危機を救った。

ところが、後継者問題や忠尊の行跡が幕府に疎まれ、1792(寛政4)年、伊奈家は関東郡代の職を解かれ、改易された(平民に落とし、領地・家屋敷を取り上げる)。赤山陣屋は徹底的に破壊された。

墓地は、忠次、忠治は鴻巣の勝願寺、4代目以降は、赤山陣屋跡近くの源長寺にある。

関東郡代・伊奈氏のことはもっと知られていい。伊奈町では18年3月、「伊奈忠次ー関東の水を治めて太平の世を築くー」と題するPR映像を作成、町のホームページや動画投稿サイト「ユーチューブ」で閲覧できるようにした。

町の人口は18年1月1日で4万4699人。伸びが鈍化しているため、24年に4万7000人にする目標を掲げている。このため忠次のPRを進め、移住・定着を促進、国の地方創生推進交付金を活用して、16年度から18年度までの3年間で総事業費約4150万円をかけ、観光に生かす事業を展開している。

伊奈氏屋敷跡がある丸の内地区の観光スポット化をめざし、地元の竹のチップをまいて散策路を整備しているほか、17年12月には蓮田市の神亀酒造と協力して、忠次と長男の忠政、二男の忠治から命名した日本酒3本のセット「伊奈氏3代」を発売、さらに「忠次せんべい」の開発、書籍も作成する予定。(この項日経による)

 

 


話題の多いまち 蕨市

2010年11月05日 08時57分46秒 | 市町村の話題



さいたま市と川口市の間にあるJR京浜東北線沿いの小さな市。蕨市はさいたま市の隣にあるのに、これまでまともに訪ねたことはなかった。10年11月3日の文化の日、宿場まつりが開かれるというので、秋晴れにも誘われて、ママチャリに飛び乗った。

なぜ宿場まつりなのか。人口約7万2千人の蕨市は、東京のベッドタウン。全国の市で面積が一番小さく(約5㌶)、人口約7万2千人の密度が一番高い(1㌶に約1万4千人)ところとして知られる。

国土交通省国土地理院が15年3月6日、発表した新しい方法を用いた計測結果では、面積は5.11平方kmと以前より0.11平方km広がった。

蕨は、江戸時代には中山道の板橋の次、荒川を越えた二番目の宿場として、その規模は浦和宿や大宮宿より大きい「中山道武州蕨宿」だった。

江戸防御のため荒川に橋を造らせなかたので、川止めに備えて宿場の規模が大きくなったのだ。

まつりの場所は、国道17号線に並行している1km足らずの中山道本町通り。この通り沿いには、古い家屋や蔵も残り、本陣跡や市立歴史民俗資料館、庭園のあるその分館などもある。余りに堂々とした本堂に圧倒される、中世以前からの古刹「三学院」(金亀山=こんきさん=極楽寺)にも近く、市役所や蕨城跡もすぐそば。

蕨駅が徒歩で約10分とちょっと遠いのが気になるが、明治の初め中山道沿いに鉄道敷設計画があったのに、「コメがとれなくなる」などの理由で反対したので、駅から遠くなり、駅前に賑わいを奪われた。全国でよく聞く話である。

この通りの商店街「中仙道蕨宿商店街」では、「中山道」に「人偏」をつけて、「中仙道」とつづり、人の賑わいと取り戻そうといろいろ趣向を凝らしている。山の中の道ではなく、人で賑わう道へといいう意気込みだろう。この宿場まつりも「中仙道武州蕨宿」のまつりなのだった。第27回を迎えた。

この日は、イベントが盛り沢山で、両側に屋台や衣類などのリサイクルショップがずらりと並び、大変な人出。市の人口の倍近い13万8000人と過去最大だったと観光協会は言っている。

目玉は、新企画の龍馬仮装パレード、織姫道中パレードやサンバのパレード。舞台上の演し物やアトラクションに、最後には一枚100円で景品が当たるビンゴ大会もあった。とても全部は見られないほどで、小さな市がすべてのアイデアをぶち込んだ感じだ。

織姫道中には説明が必要だろう。このまちは明治、大正時代、全国有数の織物の町だった。幕末の開港直後、「蕨の綿織物業の祖」といわれる高橋新五郎が、横浜で英国製綿糸を買いつけて織った「双子織」が大変な評判になって、昭和30年(1955年)代まで続いた。新五郎は市内の塚越稲荷社に「機(はた)神」として祭られている。

昔をしのんで毎年8月に西口駅前通りで「わらび機(はた)まつり」が行われ、ミス織姫が選ばれる。宿場まつりでもミス織姫は車に乗って登場する。(写真) 宿場まつりではミス宿場小町も選ばれる。

個人的に面白かったのは、1981(昭和56)年、「なぜか知らねどここは埼玉・・・どこもかしこもここは埼玉・・・」という「なぜか埼玉」という珍妙な歌を発表した、自称”芸能人“「さいた・まんぞう」の歌と漫談を見たことだった。

本当は岡山出身で、1ヶ月後には62歳になるそう。「頭髪以外、異常なし」「誰も知らない埼玉の生んだ“大スター”」だ。「なぜか知らねどここは蕨・・・」と聴衆を喜ばせた。

この人のことは、このブログ・シリーズで前に書いたことはあるものの、本人を見るのは初めてで、来た甲斐があった。JTBでは、「埼玉体験旅くらぶ」の中で、11月23日に「さいたまんぞうがナビゲートする“なぜか埼玉”ぐるり旅」を日帰りでやる予定で、募集中とのパンフレットをもらった。

面積、人口密度のほかに日本一はまだある。1946年11月22日、敗戦で沈んだ町を盛り上げようと、当時の青年団長で後の蕨市長、県会議長の高橋庄一郎氏が青年祭を企画、「成年式」を祝ったのが、日本の「成人式」の始まり。その2年後に「成人式」が制定された。他の市町村と違って、蕨市では当時のまま「成年式」を祝う。

その成年式発祥の地の女性像が蕨城跡の公園に立っている。その近くに蕨市出身の岡田義夫氏(紡績の専門家)が訳した「青春とは人生のある期間を言うのではない。心の様相を言うのだ」で始まる米国の詩人サミュエル・ウルマンの「『青春』の碑」があるのもおもしろい。

ついでながら、「敬老の日」は1947年9月15日、兵庫県野間谷村(現・多可町)で始まった。

もう一つ、日本一収穫が早いという極早生種のリンゴ「わらび」もある。6月下旬には実をつける。小ぶりで強い酸味が特徴という。

日本一というわけではないが、海外にもファンが多く、日本でも見直されている幕末から明治初期の異色の絵師、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の曾孫が設立した私設の「河鍋暁斎記念美術館」も南町4丁目にある。

蕨宿商店街では代表作の浮世絵「文(ふみ)読む美人」などの複製を店内に展示している。小さいながら面白いまちである。


高麗神社 出世明神 

2010年11月01日 18時32分40秒 | 寺社
出世明神 高麗神社  

高麗神社を訪ねて、面白いのは、ここにどんな人が参拝したかを確かめることである。

京都、奈良、東京などの大寺社とは違う、このようなひなびた神社で、これほど過去の有名人の名が見つかるのは珍しい。

神社の木々の前に、献木の小柱が立っていて、名前が明記してあるからだ。首相経験者では若槻礼次郎、浜口雄幸、斉藤実、平沼騏一郎、小磯国昭、鳩山一郎の6人も来たらしい。小磯は、本殿に向かって左手の参拝した「名士芳名」の中の名札では「朝鮮総督」の肩書きが付いている。このように参拝者から総理大臣が続出したので、この寺は「出世明神」の名で一躍知られるようになった。

政界だけではない。法曹界も石田和人最高裁長官や検事総長になった人も二人いる。官界や財界にもご利益のあった人もいるようだ。歴代の埼玉県知事や日高市の市長、韓国大使も挨拶に姿を見せたことが、小柱を見ると分かる。

国民新聞を創刊した徳富蘇峰らも来ている。

暇に任せて、名士芳名を眺めると面白い。名士芳名の一番先の方に、「太宰治」「坂口安吾」「檀一雄」といった第二次大戦後の文壇を風靡した“無頼派”の面々の札も並んでいるのに驚く。(写真)この面々はどんな出世を願って来たのだろうか。「芥川賞が欲しい」と祈願したのだろうか。

ちょっと古くなるが、尾崎紅葉の献木ならぬ「歌木」の小柱もある。尾崎紅葉は歌人だったかなと考えてしまう。皇太子ら皇室の参拝も目立つ。

何度も書いてきたように、この神社は、716年に高麗郡が武蔵国に設置された際の初代郡司、高麗若光を祀る。以来60代、若光の子孫が宮司を務め、現在は高麗文康氏。

文康氏は13年、若光のことを「陽光の剣 高麗王若光物語」(幹書房)に書き記した。

その歴史年表によると、高句麗が新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのは668年。若光はその2年前の666年に、高句麗遣使(副使)として来日、日本からの援助について交渉していた。来日中に祖国は滅びたわけである。

交渉の中で中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)とも知り合った。若光は「王」の姓を賜った。日本各地に散らばっていた高麗人1799人を武蔵国に移し、高麗郡が置かれたのは716年のことだった。

この高麗郡が2016年、建郡1300年を迎えた。ろくな観光地がない埼玉県にはまたとないチャンスである。奈良とはケタ違いとはいえ、1300年をどううまく利用するかは、知恵の絞りようだ。

日高市は、目玉として「高麗鍋」のPRに乗り出した。「キムチ味」で、「地場産の野菜と特産品が入っていて」、なんと「高麗(こうらい)人参も入っている」が三原則。「ピリ辛でもとってもヘルシーよ」「歴史のロマンをめしあがれ」というのが、うたい文句だ

私が高麗神社、いや神社のことがこれほど気にかかるのは、薩摩は隼人の出身で、「彬裕(よしひろ)」という難し過ぎて誰も読めたことのない私の名は鹿児島神宮(隼人)の宮司がつけたからである。神社には生まれた頃からなじんでいる。

南方系と朝鮮半島系、遺伝子も違う。それでも親近感を覚えるのは、無神論者ながら、神社への親しみとともに、遠く離れた故郷への郷愁があるからである。