ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

染谷花しょうぶ園 さいたま市見沼区

2013年06月15日 14時27分07秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物


赤紫、白紫、白、黄色・・・。
その名も、「伊豆の海」「朗風」「東鑑」「佐野渡」「紫衣の誉」・・・と風流な名前が並ぶ。

花の名が素人にも分かるよう根元に書いてあるのがうれしい。

花ショウブの名所として埼玉県一を誇る「染谷花しょうぶ園」は、13年6月15日、早咲きに続いて中咲きの花も開いて見頃を迎えていた。

見沼にあるこの花しょうぶ園(8千平方m)には、300種以上2万株が咲き誇る。

1983年にオープン、今年30周年を迎えたこの園は、花しょうぶに特化し、6月1日から30日までのシーズン中しか開園しない。

もう20数年前、一度訪ねたことがある。それほど強い印象は残っていないのに、見事な花しょうぶ園に成長していた。

菖蒲園というと、すぐ東京の堀切菖蒲園や水元公園などが頭に浮かぶ。初めて分かったのだが、染谷の方が種類も株数も多い。まさに「灯台下暗し」である。

もっとも東京には、青梅市に216種、株数10万の「吹上しょうぶ公園」、江戸川区の100種、5万株の「小岩菖蒲園」がある。

館林市には270種、40万株、横須賀市には412種、14万株のしょうぶ園がある。千葉県香取市の「水郷佐原水生植物園」は400種、150万株を誇る。いずれも市や区がつくったもので、個人の手になる染谷とは大違いである。

この地で植木の生産販売を営む園主の屋敷の北側に接する、作物や植木に向かない低湿地に、花しょうぶを植え、池やあずま屋を作って、2年間準備を進めて開園した。この次第は、入場券の後ろに書いてある。

今では茶室や花見台も整い、順路には座って観賞できるようにと、腰掛けもふんだんに用意されている。花しょうぶ園にふさわしく天然素材を使おうと、木で作られ、トイレの目隠しも竹製だ。純和風の雰囲気をかもし出している。一時間もあればゆっくり見られる。

周囲は、メタセコイア、クスノキ、シロカシ、マテバシイ、イタヤカエデなどの高木で囲まれ、ちょっとした深山幽谷の趣。野鳥の声に混じって、琴の音がバックに流れていた。

「アナベル・アジサイ」など各種のアジサイも植えられていて、花しょうぶと妍を競っていた。雨の季節に咲く花は、日本人の感性にピッタリだ。園主の書いているとおり、野点、句会などにもぴったりだろう。

花しょうぶは日本産で、江戸時代中頃から自生する野花菖蒲の変わり咲きをもとに改良されてきたという。ここには野花菖蒲も植わっているので、比較してみると面白い。

昔は、「花しょうぶ」も「あやめ」も区別がつかなかった。「花しょうぶ」は水辺を好むのに対し、「あやめ」は乾いた土を好む。花びらの根元に「綾目」の模様があるのが「あやめ」で、黄色い筋があるのが「花しょうぶ」だ。

何年か前、「水郷潮来あやめまつり」を訪ねた際、あやめ園に咲いているのは、「あやめ」ではなく、実は「花しょうぶ」だと知って以来、「花しょうぶ」に関心を持つようになって、いろいろの名所を訪ねた。

小規模ながら、最も美しく手入れが行き届いているのは、皇居東御苑二の丸公園の菖蒲田だろう。勤務先が近かったので毎年出かけた。

明治神宮御苑の株を譲り受け、育てているもので84種あるとか。ここもその種類の名が書いてあるので、風流な名前に興味を持つようになった。

染谷花しょうぶ園は大宮駅東口からバスの便があり、有料ながら、一見に値する。

近くに「ホタルの里」がある。「今年はもう飛んでいません」の掲示があって、今年は見ようと思っていただけに残念だった。

荒幡富士 所沢市

2013年06月06日 16時40分29秒 | 市町村の話題



青森県で2年間、仕事をしたことがあるので、明治から大正の随筆家、名文家として知られた紀行作家・大町桂月の名には親しみがある。

酒と旅を愛し、十和田湖と奥入瀬をこよなく愛した。晩年には高知から八甲田山麓の秘湯蔦温泉に本籍を移し、その地で死んだ。

十和田湖と奥入瀬を世に紹介したことで有名で、奥入瀬には

 住まば日の本 遊ばば十和田

 歩きや奥入瀬 三里半

という有名な石碑が残っている。

13年6月、実測したことはないというので高さは10数m、関東に300以上あるといわれる「富士塚」の中で最大級、日本でも指折りとされる所沢市の「荒幡富士」を梅雨の合間に訪ねると、桂月が文章を書いた「荒幡新富士築山碑」(1921=大正10年建立)が登り口に立っていて、懐かしかった。

海抜(標高)は、山頂に基準点があり、118・5m。

桂月は、何度もこの塚を訪れ、頂上からの眺望を賞賛したという。桂月が来たこと自体、この塚の知名度を物語っている。

「荒幡富士」は、狭山丘陵の「トトロの森」の「いきものふれあいの里センター」のすぐ近くにある。「荒幡富士市民の森」の中にあり、西武園ゴルフ場や荒幡小学校にも近い。

「富士塚」といえば、富士山ゆかりの浅間神社がつきものだが、この塚は浅間神社の境内にある。旧荒幡村に5つあった神社の合祀(ごうし)を機に富士塚もこの地に移築し、村民融和を図ろうと築かれた。

1884(明治17)年から1899(同32)年まで15年かけて、農閑期に延べ1万人の村人がモッコで土を運び、積み上げて造った。

ジグザグの約80段の石の階段があり、何合目かを示す石の道標もある。今では転落防止の鉄製のロープもついていて、安全だ。7月1日には山開きも行われる。

山頂からは360度、見晴らしがよく、西武園や西武ドームのほか、丹沢と陣馬山の間に富士山が見えるはず。残念ながらこの日は曇っていて、富士山は見えなかった。


富士塚と言えば、川口市の見沼代用水と通船堀が連結する所に、県内最古(1800=寛政12年)の「木曾呂塚」があり、国の重要有形民俗文化財(国指定史跡)に指定されている。皇太子も視察された。あれで高さ5.4mだというから約10mと言っても馬鹿にできない。

当時は、登ってお参りするのが目的の「富士講」は、富士山を対象にする信仰「富士信仰」をバックに、江戸後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどのにぎわいを見せた。

その講の一つ「不二講」は、鳩ヶ谷出身の小谷三志が始めたもので、天保年間、女人禁制の富士山に江戸深川の尾張徳川家江戸屋敷の奥女中を務めた女性高山たつを男装させ、初めて登頂させたことで知られる。

「富士信仰」こそ日本の山岳信仰の代表だった。

と言っても、実際の登山はなかなか出来なかったので、富士山のミニチュアを造って、登ったつもりになる。

富士塚は、富士講が盛んだった関東、県内には170基と最多の塚があるという。富士見市とかふじみ野市という市名さえあるのだからうなずける数字である

富士山が世界遺産に内定したいま、こんな庶民の夢を担った身近な「富士塚」のことを少しは考えてみたい。

「荒幡富士」は「荒幡富士保存会」の人々が、地震で崩れても補修している。先の東日本大地震でも被害を受けていて、少し低くなったという。市では実測を検討している。

志木市には、本町の敷島神社に「田子山富士塚」、上宗岡の浅間神社に隣接して「羽根倉富士嶽」がある。田子山富士塚は古墳の上に土を盛り、1872(明治5)年に出来たもので、高さ約9m。富士塚としては初めて県有形民俗文化財に指定されている。

関東には300以上あるとされるが、170基は県内にあるという。