ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

らき☆すた 鷲宮神社 久喜市

2011年03月17日 07時55分14秒 | 寺社

「らき☆すた」 鷲宮神社 久喜市

11年の初詣には、いつものように近くにあるさいたま市の調(つきのみや)神社や氷川神社ではなく、茨城県境に近い久喜市鷲宮町の鷲宮神社へと足を延ばした。

景行(けいぎょう)天皇の時代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が造営したとされ、土器を作る部族である土師氏の祖神「天穂日命(あめのほひのみこと)」などを祭る。このため、「土師宮(はじのみや)」が「鷲宮」に変わったという。

関東最古の神社と言われ、関東のお酉(とり)様の元祖とされる。

藤原秀郷、源義家、源頼朝など関東の武将に尊崇され、徳川家康からも寺社としては別格の400石の朱印地を与えられている。川越市の喜多院の500石に次ぎ、武蔵一ノ宮の氷川神社の300石を上回っていた。今も源義家の駒つなぎの桜が残っている。中世から伝わる神楽「土師一流催馬楽(はじいちりゅうさいばら)神楽」が有名だ。関東神楽の源流とも言われる国指定重要無形民俗文化財である。

この神社にはかなり昔、車で出かけたことがある。約3トンと県内一の重さを誇る「千貫神輿」を見たことを覚えている。

1789年(江戸寛政年間)にできたもので、縦・横1.4m。担ぐのに1回180人が必要とのこと。毎年9月第1日曜日にお出ましになる。

元日に出かけたのは、この町がこの神社のおかげで「らき☆すた」ブームに湧きかえっているというからだ。

にわか勉強でネットを検索し、新聞をめくり、やっと「らき☆すた」とは、英語の「ラッキー・スター」(幸運の星)の略語と分かった。

埼玉県は幸手市出身(現在はさいたま市に転居)の原作者美水(よしみず)かがみさんが「マンガ界の幸運の星となれ」という願いをこめてつけた名前だという。その願いはみごと実現、「らき☆すた」は美水さんにも鷲宮町にも幸運を呼び込んだ。

ペンネームの美水かがみさんはその名前の響きからてっきり女性と思っていた。男性とのことだ。春日部共栄高校の出身だから、舞台になっている鷲宮神社も幸手のこともよく知っている。

それぞれ名前は変えてあるものの、漫画の中で主人公の二人は「柊かがみ・つかさ」という名の神社の宮司の双子の娘で、その友達は幸手に住んでいて、通っている学校は春日部となっている。

「神社は鷲宮神社で高校は共栄高校がモデル」と作者もインタビューで認めている。埼玉の東北部を舞台にした極めて地域性の強い4コママンガ漫画である。

「萌えアニメ」などという言葉も、もちろん知らなかった。 女子高生の日常生活をゆったりとコミカルに描いた漫画で、思わず「そうだ そうだ」とうなずいてしまうのが特徴だとか。

これが07年からテレビアニメになって「テレ玉」(てれび埼玉)など全国各地で放映されると、人気が爆発、6巻で合わせて300万部を超え、中国、韓国、タイ、英語版も出たという。

アニメ放映が始まった07年ごろから全国の「らき☆すた」オタクが鷲宮神社を聖地とみなし、人気スポットになり「聖地巡礼」の先駆けとなった。そのあげく、10年の初詣は前年の倍に近い30万人、13年には47万人に達した。47万人とは大宮氷川神社に次ぐ人出である。例年8万人前後だったという。

このアニメの監督を務めた竹本康弘さん(47)も、19年7月の京アニの放火事件の犠牲者になった。

その陰には、鷲宮商店会の努力もある。漫画、アニメの版権を持つ角川書店の協力も得て、ネットでファンを募り、売り出したキャラクター商品のデザインや価格なども話し合って決めた。

このファンとの交流がこのブームつくりに多いに役立ったようだ。神社の鳥居の前に古民家を改造して「大酉茶屋」をオープン、町も神社のアニメのキャラクターに「特別住民票」を発行した。

7月7日には「柊姉妹誕生祭」、9月第1日曜日に門前どおりで開かれる「土師祭」では、千貫神輿と並んで「らき☆すた神輿」も担がれる。

1日午後2時過ぎ、東武伊勢崎線鷲宮駅に降り立つと、「らき☆すた」の幟が目立つ通りに長い参拝の列が続き、最後尾では「お参りに2時間以上かかるのでは」とガードマン氏。

神社の鳥居近くでは、埼玉新聞が元日第2部特集の「サイタマニアでいこう!」を売っていた。作者とのインタビューなどが掲載されていて、この原稿でも大変お世話になった。

経済効果は14年までに約20億円と試算され、このような町おこしを進めた鷲宮商店会(齋藤勝会長)は、その功績を買われ13年11月21日、全国約1700商工会が加入する第53回商工会全国大会で、最も顕著な実績を挙げた商工会に贈られる「21世紀商工会グランプリ」を獲得した。

このブームは、たとえ観光資源は乏しくとも、何か核になるものとアイデアさえあれば、新しい資源を開発できることを教えている。問題はこのブームがいつまで続くかである。


武州世直し一揆

2011年03月10日 18時01分49秒 | 近世

武州世直し一揆

埼玉県は地理的に、生糸の貿易港だった横浜、幕府のお膝元江戸にも近かったので、横浜や江戸で起きていることがすぐ波及する。秩父事件は、横浜から輸出される生糸の値段が、世界不況や政府のデフレ政策で暴落したのがきっかけだった。

「明和の中山道伝馬騒動」(1764年)から102年後の1866(慶応2)年、今度は埼玉県域の中山道以西の村々と上州、八王子までを巻き込んだ幕末期最大の農民一揆「武州一揆」が発生したのも、ペリーの来航(1853)による安政の開港と対外貿易、第二次長州征伐で米や油、綿の値段が4倍前後に高騰、たまりかねた農民が打ち壊しに立ち上がったものだった。

一方、輸出品の養蚕・製茶などに関係した農家には巨利を得たものもあり、血洗島村(現深谷市)の渋沢栄一の叔父に当たる宗助は、この年に付近の農家六軒と共同出資して、奥州蚕種(蚕のたまご)を仕入れ、横浜で売却、約千両の純利を得たという。

このような貧富の格差の拡大に対し、「世直し」「世均し(ならし)」のスローガンを掲げ、「杓子と椀、箸」の図柄を持つ「世直し大明神」などの幟(のぼり)の下に貧農が結集したのである。

この年は天候不順で、蚕や作物が不作になったことが加わり6月13日、秩父郡上名栗村の農民たちが、二人の首謀者らを中心に上名栗の正覚寺に集まり米の値下げを要求して一揆が始まった。麓の飯能では穀物屋四軒が打ち壊された。この後、一揆勢はいくつかに分かれ、駆り出しに応じて同時多発的に蜂起が各地で起きた。

対象になったのは、豪農、豪商、米屋、質屋、横浜での生糸取引で儲けた浜商人(生糸仲買人)。米や金の施し、質草の無償返還を要求、応じなければ宅や蔵を打ち壊すことが多かった。

最初、中心になったのは約30人といわれるが、雪だるま的に増え、所沢では3万人に増えていた。参加したのは合わせて10万人ともいわれる。埼玉県で15、群馬県で2郡の202村を巻き込み、520軒の豪農、役所が打ち壊された。

農民たちの武器は、鉈、鋸、鍬、斧、まさかり、鎌など農民が日常使用する道具類で、刀や槍、鉄砲などの武器は原則禁止。一揆中の行動規律は厳しく、金品の奪取、婦女子への暴行は禁止されていた。後の秩父事件の軍律に似ている。

15日以降、幕府側は鎮圧に転じた。中山道を北上した一揆の一派は、現高崎市の岩鼻代官所を目指した。18日、群馬の新町宿を襲ったところを、代官所と高崎藩の連合軍に弾圧され、死傷者26、逮捕者300~400人を出して壊滅、一揆は約一週間で終わった。

逮捕者は全部で4千人に上り、首謀者の上名栗村(現在の飯能市)の大工島田紋次郎は死刑、おけ職人新井豊五郎は島流しになった。

百年余を経ているものの、伝馬騒動と武州一揆は、お上に農民が集団で立ち向かうという反抗精神で相通ずるものがあり、その気骨は秩父事件に受け継がれているようにみえる。


中山道伝馬(てんま)騒動

2011年03月07日 18時14分34秒 | 近世


秩父事件のことを調べるため、分厚い県や市町村史をめくっているうちに、埼玉県では江戸時代を通じて約90もの農民騒動が起きていることが分かった。

この中で最も大きいのは1764(明和元年)に発生した「中山道伝馬騒動」である。江戸時代最大の農民一揆で、参加者は桶川宿で最大規模に膨れ上がった。この事件の背景を知るためには、まず伝馬とはなにかを説明しなければならない。

埼玉県は、川は荒川、利根川、道は中山道や日光街道に依存して発展してきた。今でも、県の主要な市はこの道沿いにあることからも明らかだ。伝馬はまさしく、中山道、日光街道、それに日光御成街道の副産物だった。

中山道には多くの宿場があった。宿場には、公用の荷物を運ばせるため、人と馬が常駐している「問屋場」があった。前の宿場から来た荷物を次の宿場に運ぶためである。人馬の数は中山道では、一日に人足50人と馬50頭、日光街道はその半分ずつと定められていた。公用だと無料、一般の旅人は有料。徳川家康が始めた制度である。

中山道には加賀藩など39藩の参勤交代の行列が通った。行列は100から2千人にのぼった。数が多いと、問屋場の定数ではまかないきれず、不足した人馬を周辺の村から出させる「助郷(すけごう)」という制度があった。4月から9月までが多く、農繁期と重なって、農民の大きな負担になっていた。

この年幕府は、日光東照宮で翌年150回忌が営まれるのを理由に、中山道と日光街道で助郷村を増やす計画(増助郷=ましすけごう)をたて、街道から十里四方の埼玉、群馬県の195の村の村役人に本庄宿に出頭するよう命じた。

この年は、朝鮮通信使が来訪、これまでにない高額な負担金を支払わされたばかりだった。いつも人馬を徴収される定(じょう)助郷村では、「国役金」と呼ばれた負担金が免除されるのに、増助郷村では免除されない。

本庄宿の増助郷村に指定された村の農民は不公平感にたまりかねて12月16日、本庄宿に近い児玉郡十条村(現美里町)の川原に集まり、幕府の老中に増助郷中止を願い出る一揆を起こした。幕府が禁じている強訴(ごうそ)である。

一揆勢は本庄宿で上州(群馬県)勢と合流、江戸を目指して本庄、深谷、熊谷、鴻巣、桶川宿と南下した。幕府は、熊谷宿で忍藩を使って追い散らそうとしたものの、押し出しと打ち壊しが繰り返された。

宿場ごとに数は増え、桶川宿では5、6万(10数万とも)人になった。江戸時代の農民暴動の中で最も大規模な「明和の伝馬騒動」(天狗騒動、武上騒動=武蔵と上州)である。中山道沿いの日光街道沿いの長野、栃木県の村々でも蜂起が起きた。

幕府は、攻勢に押され、増助郷を中止せざるをえなかった。29日、桶川に関東郡代で農民の信頼が厚い伊奈半左衛門忠宥(ただおき)が撤回を伝え、一揆は収まったかに見えた。農民の全面勝利である。

だが続いて、年末から翌正月にかけて宿場以外の、足立、比企、高麗、入間、埼玉郡の各地でも、豪農や商人を狙う打ち壊しが始まった。川越藩の藩兵などが出動、八日ごろにはすべて鎮圧された。この二つを合わせ、参加総数では200余村、20万人余とも言われる。この騒動は天草以来の大騒動と言われた。

伝馬騒動は、増助郷反対だけではなく、貧農たちの不満が爆発した事件で、その後も県内各地で打ち壊しは続発した。

首謀者だった児玉郡関村(現美里町関)の名主・遠藤兵内(ひょうない)が1766年、43歳で死罪・獄門の刑(さらし首)になったほか、360余人が流刑、入牢、追放などの刑に処せられた。その三分の二以上が村役人だった。

平内は義民として崇められ、美里町では関観音堂にある宝筐印塔を「義民遠藤兵内の墓」として文化財に指定している。

近くの児玉神社には「義民遠藤兵内お宮」(関兵霊神社)があり、近くの川の橋のたもとに「義民遠藤兵内之碑」が立っている。(写真)

騒動から百年後、「正一位関兵霊神」の官位が与えられ、神として、美里町関の観音堂に祭られている。

当時の関村の名主・中沢喜太夫が作詞した

「昼夜暇なき御伝馬なれば 民の苦しみ諸人の難儀」「吾はもとより諸人の為に 捨てる命は覚悟の上と・・・」

という「兵内くどき」は、今も歌い、踊り継がれている。


秩父事件 逃亡者 井上伝蔵

2011年03月04日 12時38分08秒 | 現代 秩父事件・・・


事件の120周年を記念して04年にできた神山征二郎監督の映画「草の乱」を見た人は、よくご存じのとおり、秩父事件の関係者で最も数奇な人生を送ったのは、井上伝蔵だった。伝蔵は、蜂起の日の11月1日、田代栄助が読み上げた役割表の中では、総理、副総理に次ぐ会計長だった。

逃亡後の手配書には、「年齢32、3」「眉太く、眼はクルリとした方」「顔長く白き方」「男振は美なる方」「丈高き方」「歯並揃いたる方」「鼻高き方」などとあったという。

当時なら歌舞伎役者、今ならそれこそイケメンそのものだ。こんな人目につきそうな色男が35年も「逃亡者」を続けられたのだから、人の世は面白い。

当時31歳。吉田町のはずれに住み、鉢形城の家老井上氏の流れをくむ名門の二男。村会議員などもしていた。絹や生糸を扱う「丸井商店」を持ち、東京にもよく行き来していた。自由民権思想に共鳴し、東京で自由党本部にも出入りして大井憲太郎とも付き合い、政治的視野も広かった。

秩父の自由党中心人物となり、困民党のブレーン役だったのに、武装蜂起の自重、延期を求めていた。俳句や歌舞伎にも詳しかった。

数奇な人生が始まったのは、11月4日の本陣解体の後、栄助と分かれてからである。

数日潜伏の後、伝蔵の実家と村役人仲間で親しい間柄だった実家近くの下吉田村関の斎藤家の土蔵の二階に二年間匿われていた。ところが、蔵の中で息を潜めていたのではなく、六法全書を読み、階段を昇り降りして身体を鍛えていた。

たびたび実家を訪ね、食事などをしていたので、近所の人に出会うこともあったが、密告するものは誰もいなかった。

欠席裁判で死刑の判決を受けた後、宇都宮に出て、汽車で仙台へ。仙台から青森まで歩いて、北海道・室蘭に渡った。1987(明治20)年秋である。室蘭から苫小牧、札幌を転々。22年、明治憲法発布で秩父事件関係者は特赦になったのに、知らなかったらしく、秩父には帰らなかった。

明治25年、39歳の時石狩で、「伊藤房次郎」という名で、石狩原野に開拓のため4万8000坪の土地借り下げを受けた記録が残っている。石狩で江差町出身の高浜忠七の長女ミキ(16歳)と入籍せずに結婚した。妻の姓を借り「高浜房次郎」と名乗った。二男三女をもうけ、幸福な家庭だった。

1912(明治45)年、野付牛(のっけうし 現北見市)に移住した。事件から35年が経ち、死の10日ほど前、妻と長男に本名と秩父事件の過去を告白した。

1918(大正7)年6月23日、65歳で波乱の生涯を閉じた。腎臓病だった。死の直前に撮った一家の写真が残されている。

長男は、伝蔵が単なる「暴徒」として扱われたことを非常に口惜しく思っており、「国事犯」でなかったことを本当に残念がっていたと語っている。

ネット上にある北見市の市史編さんニュースによると、20年暮らした石狩では、妻の父親忠七に土地の名義を譲り、まず代書の仕事をした。これは意外に繁盛したようだ。法律の改正で身元証明が必要となったので、発覚を恐れて、妻が始めた文房具店を本業とした。

養子縁組の証人や神社の祭典委員、土地の評価委員を務めるなど、地域の名士として活躍し、潜伏の暗いイメージとは程遠い、落ち着いた普通の生活をしていた。

石狩には幕末から盛んな俳句結社「尚古社」があった。下吉田村で俳句をたしなんでいた伝蔵は俳号「柳蛙」(りゅうあ)で参加し、多数の俳句を残した。秋の句が多く

 想いだすことみな悲し秋の暮

秩父事件を思わせる句も残されている。

7年住んだ野付牛では、古道具屋をしていたようだ。孝行な長男・長女は就職していたので、暮らしは成り立っていた。ふだんはおとなしい人なのに、選挙になると別人のようになり、演説会でも公然とヤジを飛ばし、警察に二、三度引っ張られたこともあった。

長男から告白を聞いた釧路新聞の野付牛支局長岡部清太郎は、政治談議好き、囲碁仲間で、伝蔵と親しく、家ぐるみ付き合っていた。死後、釧路新聞に伝蔵の告白を「秩父颪(おろし)」の題で連載した。

「高浜爺さんが暴徒の首魁?あの柔和な品の善い御爺さんが暴動の大将だなどとは何かの間違いだろうとて、野付牛でこの御爺さんを知る人は容易にお爺さんの井上伝蔵なるを信じない・・・」(現代語訳)がその書き出しだった。

伝蔵に私淑していた岡部は、「暴動の首魁等は、いずれも皆手段を誤ったけれど、その心事の高潔は、国事、公共の名に隠れて、私利を謀り、私欲を満たさんとする、今の代議士、政党員らとは、決して同日の論ではない」と、伝蔵たちを評価している。

朝日新聞には「秘密の35年 秩父事件の首魁井上伝蔵 市に臨んで妻子に旧事を語る」という見出しで報道され、事件を忘れかけた社会を驚かせた。

栄助には、秩父に妻コマ(古まとも)と生後5か月の娘布伝(ふで)がいた。関わりにならないよう離縁していたが、1908(明治41)年、その縁談が持ち上がった時、伝蔵はコマの所を訪ねてきたと布伝の四女が話している。

伝蔵の「丸井商店」は、「草の乱」のセットとして、吉田町の「龍勢会館」の隣に復元され、秩父事件資料館として一般公開されている。

秩父事件 指導者群像

2011年03月04日 12時36分00秒 | 現代 秩父事件・・・
秩父事件 指導者群像

秩父事件を率いたのはどのような人々だったのだろうか。

1884(明治17)年2月、自由党過激派の論客大井憲太郎が秩父で政談演説会を開いたのをきっかけに、秩父から入党者が増えた。

入党者の中には、秩父困民党の組織化に奔走した落合寅市、坂本宗作、高岸善吉の農民三人組や困民党幹部になった井上伝蔵の名もあった。

自由党、困民党指導グループで忘れられないのは大野苗吉(22)。蜂起の際の駆り出しで、「恐れながら、天朝様に敵対するから加勢しろ」と叫んで回ったので有名。本陣崩壊後の金谷の戦いを指揮、戦死した。

落合寅市(35)は下吉田村の半根古と呼ばれる集落(秩父では耕地と呼ばれた)に住んでいたので「ハンネッコの寅市」、坂本宗作(30)と高岸善吉(38)は上吉田村の道を挟んで斜めに向い合って住んでいて、「かじ屋の宗作」、「紺屋(こうや)の善吉」でとおっていた。三人とも自由党員で、副総理になる加藤織平の子分だった。

落合寅市は、本陣解体後、皆野近くの粥新田峠で鎮台兵らと戦いを交え、逃亡中に欠席裁判で重懲役10年。大井憲太郎の計画した大阪事件に関与して逮捕されたものの罪は問われず、秩父事件で服役中、大赦で帰郷、救世軍に入って87歳で死去。

明治末年、加藤織平の墓碑を建立。椋神社にも「志士慰安碑」を建てようと、募金活動をしたが、氏子の反対で実現しなかった。

秩父の困民党の組織者の中で困民党の八ヶ岳山麓の壊滅まで見届けたのは、伝令使の坂本宗作だけだった。蜂起が決まると、「悟山道宗居士」という戒名を白鉢巻に書きこんで、決死の覚悟だった。壊滅一ヶ月後、秩父の炭焼き小屋に隠れていたのを逮捕、死刑。

高岸善吉は、本陣解体後、東京に潜入して逮捕され、田代栄助と同日死刑になっている。

親分の織平は36歳。石間(いさま)村に住み、「質屋の良介」と呼ばれていた。長身で太り、堂々たる貫禄。「幹部中、人物の最もしっかりしていたのは、加藤織平だった」と取り調べの検事は語ったという。

「石間の親分」と呼ばれ、自由党員だったとされる。坂本宗作や井上伝蔵に困民党への参加を求められると、貸付金150円を放棄して参加した。井上伝蔵とも親交があった。織平の土蔵は石間のたまり場で、秩父困民党はここで結成された。大宮郷討ち入りの指揮をとった。織平は東京へ潜入したが、逮捕され栄助と同時に処刑された。

長野県南佐久郡相木村は、山と峠を越えると秩父から遠くなく、経済条件も秩父と似通っていた。この村から困民党に加わった大物は、参謀長になった菊池貫平(37)と軍用金集方になった井出為吉(25)である。二人とも自由党員だった。

菊池貫平は、裁判所の代言人(弁護士)を兼ねていた。困民党の軍律を定めたのはこの人である。本陣解体後、新総理として困民軍を率いて、群馬県を経て十石峠を越えて、長野県南佐久へ侵入、東馬流の戦いの後、姿を消したが、2年後甲府で逮捕された。

欠席裁判で死刑の判決を受けるが、憲法発布で大赦。逃走中の強盗教唆事件で無期懲役で北海道で服役したが、今度は皇太后崩御で減刑、明治38年出獄、郷里に帰り、余生を安穏に暮らし、68歳で死去。代言人だっただけに、法廷戦術にたけ、運の強い人だった。
 
井出為吉は、同村坂上で、代々名主を務める富農で村長の長男として生まれた。東京で学び、膨大な蔵書には、フランスの革命史、法律、政治の翻訳書があり、自由民権時代の地方の最高の知性の持ち主とされる。

法廷陳述でも「フランス法は高金利を禁ずる」と述べたという。村会議員、戸長(村長)も務め、南佐久地方では最も早く23歳で自由党に入党した。秩父困民党では軍用金集方。豪商などから集めた金の領収書に「革命本部」と書いたのはこの人である。

本部解体後、加藤織平らと東京に向かい、逮捕され、軽懲役8年の判決を受けた。憲法発布の恩赦で出獄。郷里の小学校教員や群馬県各地で役場職員を務めた。46歳で死去。



秩父事件 総理 田代栄助

2011年03月04日 12時31分42秒 | 現代 秩父事件・・・
秩父事件 総理 田代栄助

「一見温厚の老人のようで、暴徒の巨魁(きょかい)などとは見えなかった。全く多勢のために祭り上げられたもののように思われた」。逮捕された後、「総理」田代栄助の取り調べにあたった検事は語ったという。

 振りかえりみれば昨日の影もなし 行く末くらし死出の山路

と墓石に刻まれている辞世の句にも“革命家”の高揚感は感じられない。事実、祭り上げられた老人だった。

事件当時、指導者の中で最年長の51歳だった。大宮郷、現在の秩父市熊木町に生まれた。生家は近くの鉢形城の家老から出た名門。旧幕時代、名主を務めていて、大百姓の部類だった。

しかし、しだいにその田畑も手放し、天蚕(てんさん)を育てる農民になっていた。天蚕とはヤママユのことで、野生種だから室内でなく、山林のカシ、クヌギの葉で網を覆って育てる。最高級の絹が取れるので、飼育は困難だが成功すれば大きな利益が期待できた。畑も高利貸しの担保になっていた。

家系を支えるため代言人(弁護士)の資格を取り、裁判所に出入りしていたから、高利貸しに苦しめられる農民たちの苦しみはよく分かっていた。

当時、自由党の影響を受けた「秩父困民党」の旗上げの準備が着々と進んでおり、活動家たちはそのリーダーを求めていた。栄助は義侠心に富んだ侠客(きょうかく)として知られ、「熊木の親方」と呼ばれていた。その年令といい、知名度の高さからうってつけだった。活動家たちが何度も接近、持ち前の義侠心から一命を投げ出す覚悟を固めた。

尋問調書で「生来強きを挫き、弱きを扶(たす)くるを好み、・・・人の困難に際し中間に立ち、仲裁を為すこと18年間、子分と称する者200有余人」と語っている。侠客と言っても博徒や暴力団ではなかった。

蜂起を急ぐ者が多い中で、栄助は慎重派で、政府を相手に回すのだから、秩父だけでなく関東甲信越近県の困民党が一斉蜂起できるよう、蜂起の日が決まった後も一か月延期論を唱えた。

自由党の大井憲太郎も「軽挙はことをあやまる」と阻止のため使者を派遣していた。自由党に属し、困民党の育ての親だった会計長井上伝蔵は、自由党本部の意向を知っており、一斉蜂起ができないと決起の意味が無いと「延期論」「平和論」を唱えた。

だが、高利貸しの取立てが厳しくなって、破産の瀬戸際に追い込まれている者が多くなっていた。結局、田代と井上は、副総理加藤織平らの単独蜂起に賛成せざるをえなかった。
 
栄助には胸痛の持病があった。3日午前10時頃、皆野村の「角屋」の本陣に入った栄助は胸痛が起こり、大野原村に戻り、民家で静養した。4日朝、本陣に帰ったが、胸痛が去らず、安宿で横になっていた。

この日は、持病の発作に加えて、大隊長の新井周三郎が捕虜の巡査に斬られ、重傷を負って本陣に運び込まれてきた。栄助が皆野防衛のために呼び寄せようとしていた大隊だった。秩父からの出口はすでに軍隊と警官に封鎖されていた。

午後3時頃、栄助は新井の姿を見ると、「嗚呼(あゝ)残念」との言葉を残し、井上伝蔵らとともに角屋の裏口から脱出した。副総理の加藤織平が周三郎を追って皆野に来たときには、栄助の行方は分からなかった。織平も逃亡せざるをえず、本陣は解体した。

「斯(かく)八方敵を受けたる上は打ち死にするの外なし。・・・山中に潜み、運命を俟(ま)たん」と傍にいた者に語ったと調書にはある。

実戦部隊を率いる加藤織平や菊池貫平らが栄助の指令を受けず、単独行動をとったのも栄助には不快だった。栄助はすでに大集団を掌握出来ていなかった。

栄助ら七人で荒川を渡り、長留(ながる)村に来た時、栄助は伝蔵ら六人と分かれ、夜陰にまぎれて姿を消した。伝蔵はこの後、行方をくらまし、死ぬ寸前まで消息は知られなかった。

栄助は一人になると、山中の炭焼き小屋などに潜伏した後、二男と出会い自首するつもりで、14日夜黒谷村の民家で親子で熟睡中、密告で逮捕された。翌年5月18日、熊谷監獄で死刑が執行された。

秩父事件 火縄銃と村田銃

2011年03月04日 12時28分17秒 | 現代 秩父事件・・・


“秩父コミューン”の寿命は短かった。政府が警察、憲兵、鎮台兵(東京や高崎の基地駐屯兵)を動員して鎮圧に乗り出したからである。

困民党の本部が秩父郡役所に置かれた翌日の3日から、困民党軍は政府軍と衝突した。

困民党軍は鉄砲隊、抜刀隊、竹槍隊から成る軍隊編成をとっていた。とはいえ、一番多いのは竹槍隊、ついで抜刀隊、鉄砲隊は抜刀隊の半分くらいで一番少なかった。鉄砲と言っても、合わせて150から200丁程度で、ほとんどが猟銃(火縄銃)だった。

猟銃だから鹿や猪には有効でも、発射速度は2分に1発、実効射程距離は50m前後だった。おまけに夜戦では、火縄の火は遠くからでもはっきり見えるので、人の姿は見えなくても格好の標的になった。

木砲一門もあったとされるが、この地に江戸時代以前から伝わる、音だけ大きい花火だったようだ。

対する政府軍は新たに開発された村田銃を持っていた。1880(明治13)年に軍が採用した最初の国産小銃である。フランスの銃に習って開発された、金属薬莢式の弾丸を後ろから装填する後装式。引き金の上の突起を真上に回して、ロックを解除、後ろに引いて弾丸を入れて、発射する。

村田銃は欧米の小銃に比肩する性能を持っていた。先込めの火縄銃を「1発撃つうちに軍隊は20発撃ってきた」という。火力の差は歴然としていた。

早くも4日午後には総理の田代栄助、副総理の加藤織平、会計長の井上伝蔵らが、皆野に移った本陣を離れて姿を消し、本陣は解体した。困民党の組織的な動きはこの日で終わった。

その後は、残党が参謀長菊池貫平(長野県北相木村出身)の指揮で、群馬県を経て十石峠を越えて長野県南佐久郡に侵入した。

9日、八ヶ岳山麓の東馬流(ひがしまながし 現小海町)で、高崎から派遣された鎮台兵や警察隊に追撃され、交戦・敗走、秩父事件はこの日で9日間の幕を閉じた。困民党は「八ヶ岳山麓の樹林の中へとけこんでいった」のである。

困民党と政府側との主な戦いは三か所で展開された。困民党は、警官隊との清泉寺(秩父郡阿熊村)の戦いでは2人、秩父事件で最大の激戦となった金谷戦争(児玉郡金谷村)では即死6,仮病院収容後死亡6(4とも)、東馬流の戦いでは13人が戦死した。政府側の戦死は合わせて警察官4人だった。

困民党はこのほか、自警団の村民との小競り合いなどで4人が死亡した。東馬流の戦いでは、たまたま困民党の白鉢巻と間違えられて白手ぬぐいの妊婦が射殺された。困民党と誤認され、2人の村民が憲兵隊に殺害される事件もあった。(「秩父事件」=秩父事件研究顕彰協議会編、新日本出版社)

この事件に参加した農民は、1万人を超したとされる。この中には、駆り出されただけで帰ってしまったり、警察の取り調べを受けただけで釈放された者も多い。

参加者、裁判結果の数は史料によってまちまちだ。2007年に「ちちぶ学検定公式テキスト」として、さきたま出版会から出版された「やさしいみんなの秩父学」(秩父市・秩父商工会議所編 監修・千嶋壽=秩父地区文化財保護協会長)によると、参加者数は4576人。

内訳は、埼玉3618(逮捕380、自首3238)、群馬281、長野県677人。

裁判結果は、埼玉県で3386。内訳は重罪296(死刑11、懲役289)、軽罪448、罰金・科料2642、検事・検察官釈放232人。

死刑は総理の田代栄助、副総理の加藤織平、会計長の井上伝蔵、参謀長の菊池貫平、大隊長の新井周三郎、小隊長の高岸善吉、伝令使の坂本宗作ら7人(井上伝蔵と菊池貫平は逃亡中で欠席裁判)と警官二人の殺害者4人の11人。

高利貸し打ち壊し・焼却は25軒だった。

参加者について、「秩父事件史料集成」や新編埼玉県史によると、裁判文書に残っている公判廷に出た者、検事の手で放免された者は、秩父郡で3339(うち無罪13,放免130)。秩父郡以外の埼玉県の参加者は42,群馬県で235、長野県570人で総計4186人とある。