妻沼の聖天さまを拝観した後、利根川自転車道を経て、赤岩渡船まで来ると、「荻野吟子記念館」はもう目の前だ。
「荻野吟子って誰?」という人のために。一言でおさらいすると、1885(明治18)年、34歳で日本初の公認の女医になった人である。
赤岩渡船に乗っていると、親切な船頭さんから、「荻野吟子の生家の長屋門」が千代田町の乗り場近くに残っているとのパンフレットをもらった。
道しるべどおりに歩いて行くと、真言宗の古刹光恩寺があり、その右手に「生家の長屋門」(国の登録有形文化財)がある。瓦葺き、白塗りの長屋門(長屋の中央に門を開いたもの)である。光恩寺に移築されたのは、明治の頃である。その傍らの木陰に洋装の吟子像がある。
吟子の実家は、熊谷市側の対岸にあるのに、「なぜ」と聞いてみると、光恩寺の檀家は対岸にも及んでいたからではないか、とのことだった。
対岸の熊谷市側にもどり、堤防を下流にしばらく歩くと、土手の下に「記念館」が見える。記念館は、生家跡にあり、光恩寺の長屋門を模したもので、約1.5倍あって、その中に展示品がある。「生誕の地史跡公園」も隣に整備されている。(写真は記念館の銅像)
記念館の資料によると、吟子の生まれた俵瀬地区は、渡船のある葛和田との間に、利根川が増水するたびに土砂が流れ込み、俵の格好をしていた島だったので「俵島」と呼ばれていた。当時、利根川には土手もなかった。今もその名が残る。
教育熱心な父・綾三郎は俵瀬村の名主で、葛和田河岸で船問屋との農業を営んでいた。長屋門があったので「長屋んち」と呼ばれていた。屋敷の敷地は約1800坪あったというから大変な豪農だった。2男5女で、吟子は5女で第6子。
1883(明治16)年、高崎線が上野~熊谷間に開通してから、利根川の水運は衰え、1889(明治22)年、荻野家は没落、この地を去った。
40歳の吟子がキリスト教徒として知り合った13歳年下の志方之善と再婚する1年前である。
記念館には
人その友のために 己の命を捐(す)つるは
是より大なる愛はなし
という吟子が愛唱し続けた聖書ヨハネ伝15章13節の文句が大書されている。
熊谷市の観光パンフレットの中に「三偉人ゆかりの地を訪ねてみよう!」というのがあった。いずれも埼玉県北が生んだ人で、本庄市の塙保己一、深谷市の渋沢栄一、熊谷市の荻野吟子である。
吟子の記念館にも、女医としてだけでなく、キリスト教徒、女性解放運動の活動家としての活動をしのんで訪れる人が絶えない。
荻野吟子 日本最初の公認女医 熊谷市
日本女医会などのホームページによると、日本の医師国家試験合格者の中で女性は、三分の一を占めているという。ちなみに、女性医師の数は約4万5000人で、その比率は2割以下だ。(10年の時点) 出産などの事情で家庭に入ったままの人が少なくないからだ。
ところで、日本で初めて医師国家試験に合格し医師になった女性の名前をご存知の方はどれぐらいおられるだろうか。
埼玉県出身の人だから、県にゆかりのある方は、知っておられる方が多いだろう。荻野吟子――。「男女共同参画」が声高に叫ばれている時代だけに、塙保己一、渋沢栄一と並んで、埼玉の生んだ三偉人の一人に挙げられている。
埼玉の明治の初め、男性にしか許されなかった医師の国家免許を初めて獲得、女性医師の道を切り開いた吟子の人生は、苦難そのものだった。
1851年(嘉永4年)、現在の熊谷市俵瀬(当時俵瀬村)の名主の農家の五女に生まれた。地図を見ればすぐ分かるとおり、県北の中の県北で、利根川を挟んで隣は群馬県だ。
今でも葛和田の渡し場には「赤岩渡船」と呼ばれる渡し船が残っており、群馬側に黄色い旗を揚げると、熊谷側に迎えに来てくれる。
勉強好きで隣村の寺子屋や私塾で学び、17歳で隣村の素封家に嫁いだ。ところが、夫(後の足利銀行初代頭取)は遊郭で淋病に感染しており、吟子は子供を産めない身体になって2年後、実家に返された。
治療のため、東京の順天堂病院に入院したが、もちろん医師は男性ばかり。「女性医師がいれば、こんな恥ずかしい思いをしなくて済むのに」。
同じような境遇にある女性たちのためにも医師になる覚悟を決めた吟子は、親の反対を押し切って上京、まず、井上頼圀(よりくに)という漢方医で国学者の私塾に入学、塙保己一が編集した「群書類従」などの書物を学んだ。
ついで、お茶の水女子大の前身である東京女子師範の一期生になり、医学校入学のチャンスをうかがった。
1879(明治12)年、女子の入学を認めていなかった好寿院という私立医学校に唯一の女子学生として入学できた。
はかま姿に高下駄、髪型は男子と同じショートカットで通学、男子学生の嫌がらせをうけながら抜群の成績で卒業した。父親も死去していたので、家庭教師をして、学資と生活費を稼いだ。
ところが、「医術開業試験」の受験は、女性だからと拒否された。この時思い出したのが、「群書類従」の中に昔の法令の解説書である「令義解(りょうのぎげ)」があり、その中に医療制度を定めた「医疾令(いしつりょう)」に女性医師についての規定があったことだった。
「医疾令」は散失してそっくり欠けていたのを、塙保己一らが苦労して復元したものだった。
井上先生らにも内務省衛生局への働きかけを頼み、女性への受験が認められたのは1884(明治17)年。吟子はただ一人合格して、翌年、日本最初の公認女性医師となった。35歳。医師を目指して14年、上京して11年が経っていた。
東京・湯島に「産婦人科荻野医院」を開業、「女医第一号」と新聞などに書き立てられたため繁盛したが、健康保険制度もない当時、受診できない女性も多く、社会の現状を目の当たりにした。
「男女平等」の理想に共鳴して、キリスト教の洗礼を受け、「キリスト教婦人矯風会」に入り、風俗部長として婦人参政権の実現、廃娼運動、飲酒喫煙廃止運動にたずさわった。
39歳の時、13歳年下の同志社大学のキリスト教徒志方之善と結婚した。まもなく理想社会の建設をめざす夫とともに北海道に渡り、開拓を手伝い、医院を開業し、地元民の診療に当たったが、夫と死別した。
東京に戻り、本所で開業したが、晩年は生活に困るほど困窮した。1913年(大正2年)、肋膜炎を発病、養女に看取られ、脳溢血で死去した。62歳だった。
吟子のことは世間にあまり知られていなかった。医師である渡辺淳一による読売新聞の連載小説「花埋み」や、三田佳子主演の演劇「命燃えて」で脚光を浴びた。
吟子のことを調べているうち、驚いたのは、日本の公認女医第2号も、同じく県北の隣の深谷市出身だということだった。
吟子の二年後に合格した生沢クノという女性で、深谷、川越などで産婦人科を開業した。深谷の蘭医の娘として生まれ、81歳で亡くなるまで生涯独身。「おんな赤ひげ先生」と呼ばれ、治療費の代わりに数本のサツマイモを受け取ったという逸話が残っている。
クノが学んだ私立東亜医学校でも、女性は受け入れてなかったので、吟子同様、断髪男装で通った。一人別室で授業を聴講させられ、「別室先生」とあだ名された。クノが学んだ講師の一人が若き日の森鴎外だったという。クノが試験に合格したのは23歳だった。
渋沢栄一 東京駅のレンガ
栄一は世界や日本のことに目を配りながら、郷土愛も強く、埼玉県や深谷市、血洗島のためにも奔走した。
JR深谷駅に降り立つと、ホームに「青淵深沢栄一生誕の地」と横書きで大書してある。「青淵」とは栄一の号。自宅近くの淵にちなんだもので、その碑が立っている。駅前に栄一の像が立っているのは当然だ。(写真)。
この駅は、堂々とした赤レンガづくりで、東京駅をしのばせる。「JR日本の駅百選」にも選ばれた。それもそのはず、深谷市上敷免にある「日本煉瓦製造株式会社」で作られたレンガを模して(レンガ風のタイルを貼って)造ってあるからだ。
1996年、旧駅の老朽化で改築の際、耐震性から本物のレンガが使えず苦肉の策である。
この工場は栄一が郷土のために誘致したものだった。この地は、利根川が堆積した土砂に恵まれ、古くから瓦の産地として知られた。明治22年(1889)に完成、敷地約19万平方m、日産5万個の製造が可能。明治末期には国内最大級の年3500万個を製造した。
人手に変えて機械力を使った日本初の洋式レンガ工場で、ドイツ製のホフマン式焼き窯三基などを備え、明治35年には従業員461人、日本鉄道(現JR)大宮工場についで県内第二位の大工場だった。
工場から深谷駅までの4.2kmの専用鉄道も引かれ、ここから出荷されたレンガは、東京駅を初め、日本銀行、赤坂離宮(現迎賓館)、旧司法省の本館、丸の内煉瓦街、東大、慶大図書館など多くの建築物に使われた。
赤レンガは、欧米の近代文明の象徴だったから、盛んに使われた。だが、大正大震災で大被害をこうむると、熱は急激に冷めた。
初めて栄一の足跡を訪ねたのは、国の重要文化財に指定されているこの煉瓦製造会社の「ホフマン輪窯(わがま)6号窯」などが、09年1月、初めて一般公開された時だった。この会社は06年まで約120年存続した。
「産業遺産」にはかねがね興味を持っている。英国の産業革命の発祥地マンチェスターをそのために訪ねたこともある。窯の中に入って、説明を聞くと、窯の頭上や壁面から粉炭を吹きこんで、約1千度の温度で焼いたとのことだった。
栄一の郷里への貢献の数々は、これまた数えきれない。秩父セメント、秩父鉄道、埼玉銀行の前身、武州銀行などの創立のほか、まだ交通機関が整っていなかった頃、埼玉県出身の在京大学生のために埼玉学生誘掖(手をとって指導する)会会頭として、東京・市ヶ谷に寄宿舎を設け、学資を貸与した。埼玉県人会会長に選ばれるのは当然ながら、旧制浦和高校の浦和誘致、埼玉会館の建設、郷土出身の塙保己一の遺徳をしのぶ温故学会会館(東京・渋谷)の建設にも力を尽くした・・・などなどである。
これほどの人物を、埼玉県はもう一度生み出すことができるだろうか。