ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

日本一の大凧あげ 春日部市 

2011年05月27日 17時26分38秒 | 祭・催し



「ジャンボこいのぼり」が大型クレーンを使うのに対して、春日部市西宝珠花の江戸川河川敷の堤防の斜面を使う「大凧あげ」は、小川和紙1500枚を使った重さ800kg、縦15m、横11mもある日本一の大凧を、風と集団の力で上げようというものだ。日本一「百畳敷大凧」が売り物。

重さ150kg、縦6、横4mの女性が引っ張る小町凧も、子供が引く子凧もある。

凧に書かれる文字は年々変わり、11年は「武蔵」と「春風」だった。

江戸時代後期、出羽(山形県)の僧、浄信が養蚕の豊作占いとして凧あげをこの地に伝えた。「凧が舞い上がる」を「繭の根が上がる(繭上がる)」にかけたものらしい。

いつの間にか端午の節句の凧上げに変わり、明治30年ごろから大きくなった。春日部市に合併前は「庄和町の大凧あげ」として知られ、毎年10万人が押し掛ける伝統行事だ。

「国選択無形民俗文化財」に指定されている。全国的に珍しい行事ということらしい。

「世界一」と「日本一」が同じ日にかちあうのだから、見る方も大変。午前中の「こいのぼり」が終わると、急いでバスと東武伊勢崎線を乗り継ぎ、「凧あげ」に向かった。

大凧上げには100人が必要。元気な若手の動員がままならないので、10年、地元の中学生を使ったら、首に引き綱が絡まり、けがをする事故があった。体力に自信のある引き手を公募する。

大凧を川の斜面まで運ぶのも一苦労。皆で担いで斜面に安置して、百人の引き手が綱に取りつき、風を待つ。しかし、それは風の勝手である。(写真)

ちょっと風が来ると、指令が出て、一斉に引く。ちょっと上昇の気配を見せても、降下してしまう。風と人と共同作業なのだ。何度もやっているうちに、帰る人も出てくる。

「風が4、5mはないとな」と長老が教えてくれた。その風はどのような強さか聞きそびれた。毎年上がるというわけではなさそうだ。

例年5日には午前中、日本凧の会による「全国凧あげ大会」も一緒に開かれる。

私にとって、江戸川は映画「寅さん」の川である。春日部はこの川の上流沿いにあるのかと堤防に立って思った。


トダスゲを見に行く 戸田市

2011年05月27日 16時14分04秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物


さいたま市から戸田市にかけての荒川左岸の河川敷にある「彩湖」は、洪水防止と東京都の飲料水確保を目指した人工的な大きな湖だ。

人工的といえ、その周囲は水と緑と鳥のすばらしい自然の宝庫に変わった。天気のいい日にママチャリで出かける散歩には最高のコースである。

その戸田市側はかつて、「戸田ヶ原」と呼ばれ、荒川の水が自由に出入りする広い湿原だった。この近くに「美女木」という地名がある。国道17号線を車で走った人なら覚えておられよう。

「風流な地名だな」と思っていた。江戸の文化・文政の頃に書かれた「新編武蔵風土記稿」に「京都から美しい官女数人が来て住んだ」ことから「美女来」が「美女木」になったと書いてあるとかで、それが定説になっているようだ。

異説もある。濡れて「びしょびしょ」を意味する日本語には豊富な擬態語「びじょびじょ」が語源だというのだ。「びじょびじょ木」が「美女木」になったというわけ。これでは夢もぶち壊し。現実とはいつもこうだ。

実際、荒川を挟んで、対岸の埼玉県朝霞市田島の美女地区には、「美女神社」という小さな祠(ほこら)があるそうだ。三方を川に挟まれた湿地帯で、水害に悩まされたところだったというから、こんど探しに行ってみよう。

全国的にも「美女」と言う地名は、じめついた湿地帯に多いというから、ロマンこそないが説得力はある。

「戸田ヶ原」は、そのような湿地を好むサクラソウの名所で、春には一面に赤い敷物を敷いたようだったと伝えられる。

江戸から花見に来るほどで、

 春先は戸田も吉野の桜草

などといった句も残されている。

しかし、明治時代に採りつくされ、大正末には見る影もなくなった。第二次大戦後の開発や開墾で草原自体が姿を消した。国の特別天然記念物に指定され、さいたま市桜区に「田島ヶ原サクラソウ自生地」として柵に囲まれて保護されている。

サクラソウと同様、びしょびしょしたところが好きで、同じ運命をたどった戸田ヶ原の草に「トダスゲ」がある。

「トダシバ」という戸田ヶ原にちなむシバもあるので、最近まで混同していた。彩湖の「幸魂大橋」近くにある「彩湖自然学習センター」を何度か訪れるうちに、戸田市が「戸田ヶ原自然再生エリア」を設け、保護に乗り出しているという話を知った。「トダスゲ保存地」もあると聞いた。

いつか見に行こうと思いながら、無精者だから行きそびれて、やっと11年のゴールデンウイークに探しに出かけた。

戸田市の彩湖周辺に「彩湖・道満グリーンパーク」がある。荒川の旧河川の一部を利用した道満河岸釣り場があり、ヘラブナ釣りで知られる。その彩湖側に「自然再生エリア」があり、トダスゲが保存されている。

漢字で書けば「戸田菅」。スゲについて知っていることと言えば、菅笠や蓑細工の素材ということぐらいだ。

カヤツリグサ科スゲ属。属の下に世界で2千種、日本で二百以上の種がある。もっとも多くの種を含む属だとスゲの解説にあった。

1916(大正5)年、牧野富太郎博士が発見、1950年には絶滅したと思われていたのに、1992年に対岸の朝霞市の新河岸川で、「朝霞の自然を観る会」によって再発見された。

自生地も株も大変少なくなっているため、もっとも絶滅の惧れが強い「環境省絶滅危惧ⅠA類」に指定されている。

サクラソウのように花が咲くわけではないが、季節がピッタリだったので、穂も膨らんで、けなげに生きているのがいとおしかった。(写真)

このエリアには、昔、湿地に生えるハンノキの葉を食べて育つ、緑色に輝く美しく小さいチョウ「ミドリシジミ」(県のチョウに指定されている)やトウキョウダルマガエル(トノサマガエル)などが生息していた。トダスゲの間をミドリシジミが飛び交い、トノサマガエルがうごめく日を期待したい。

三菱UFJリサーチ&コンサルティングが16年12月に公表した調査によると、戸田市は生物多様性を保全する取り組みで全国1位だった。


世界一ジャンボ鯉のぼり 加須市

2011年05月26日 15時27分33秒 | 祭・催し



加須市は、鯉のぼりとうどんの町である。鯉のぼりは、日本一の生産量を誇る。プリントが主流の中で、手描きの技も唯一、橋本弥喜智(やきち)商店で受け継がれていたが、16年9月までで店仕舞いした。

加須と鯉のぼり作りは、明治初期、「西行」と呼ばれた全国を渡り歩く職人から技術を学んだのが始まり。

大正の中頃、主として墨で描いていた地味な江戸鯉のぼりから金粉、銀粉を使って12の色彩を重ねた極彩色の加須産の「武州鯉のぼり」が登場して人気を呼んだ。関東大震災で東京の業者がつぶれると、加須に注文が集中、日本一の産地となった。

この市では毎年5月3日、利根川河川敷緑地公園でジャンボこいのぼりが上げられる。

一般的なこいのぼりは長さ10m。1988(昭和63)年に初めて加須青年会議所の協力でできた巨大な鯉のぼり「ジャンボ1世」は、綿製でなんと100m、重さ約600kgの世界一ののぼりだった。

余りに重すぎるので、生地をポリエステルに替えて改良を加え、現在の4代目「ジャンボ4世」は、約330kgと軽量化した。全長100m。目玉と口の大きさは直径10mあるので、柱の代わりにアームの長さが110mもある巨大な建設用クレーンで釣り上げる。

利根川河川敷公園で「市民平和祭」の一環として午前と午後の二回上げられる。11年に初めて見物に出かけた。東武伊勢崎線加須駅から無料バスも出るというから有難い。

ものが大きいので取材するのも大変。ヘリコプターが何機か上空を飛び交っている。上空には風があるのか、クレーンで釣り上げると、重そうな尾ヒレを平らに持ち上げ、5月の空を泳いだ。

新市誕生一周年記念と東日本大震災復興支援で、第二回加須市民平和祭の一環である。

市内の旧県立騎西高校に集団避難している福島県双葉町の住民らが招待されたほか、被災地でも上げてもらおうと、宮城など4県5か所に応援のメッセージを書き込んで鯉のぼりが贈られた。

このジャンボこいのぼりの二世は海外にも遊泳に出かけ、1998年にはハワイ・ホノルル・フェスティバル、三世は06年にはサッカーのワールドカップ・ドイツ大会で日本対オーストラリア戦の会場になったカイザースラウテルン市でも雄姿を見せた。


飯能新緑ツーデーマーチ 天覧山 多峯主山

2011年05月23日 14時37分44秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


「わざわざお金を払って、旗を持ったリーダーに率いられ、集団で長い列をつくって、ぞろぞろ歩道や山道を歩くなんて」。人嫌いでへそ曲がりな性分だから、こんな催しに参加するなんて思いもよらないことだった。

「だが、待てよ。一度やってみようか」と思ったきっかけは、年をとり、飯能の魅力に取りつかれてからだ。

奥武蔵の玄関口として知られる飯能を、初めて訪ねたのはもう何十年前のことだろう。たしかあの時、天覧山に登って、四代将軍綱吉の生母桂昌院が、綱吉の病気平癒のお礼に寄進した十六羅漢像を眺め,能仁寺を訪ねたのだった。

訪れた当時、埼玉にこんなに立派な寺があるのかと感心した。日本の名園百選にも選ばれている。上野の寛永寺が官軍の手に落ちた後も、逃げ延びた振武軍が本陣にしたため焼失した。1936(昭和11)年再建されたという。

。私は薩摩出身だが、時の流れに逆らって、敗北を覚悟で「飯能戦争」を戦って切腹した渋沢平九郎(22)(渋沢栄一の養子)ら埼玉人の心意気に感じている。

「飯能ツーデーマーチ」もあるのは知っていた。飯能が「エコツーリズム」に力を入れていると聞き、講演を聞きに行った時である。

今回は大地震の「復興支援」がテーマというのも気に入った。歩いてささやかながら貢献できるなら一石二鳥である。

11年は第9回。5月21日の初日は、天覧山・多峯主山・南高麗ルートで、20、10、5kmの3コースがある。前回、多峯主山に登っていないので、この山を登る10kmに参加することにした。

10kmだと、この山を登って、入間川の飯能河原に抜け、飯能を代表する景観の一つの赤い割岩橋を渡って帰ってくるだけのコース。午前9時半、中央会場の飯能市役所を最後尾で出発、散歩がてらにのんびり歩いたら、終着の市役所まで3時間かかっていた。

考えてみれば、「多くの峯の主の山」――多峯主山とはすごい名前である。「とうのすやま」と読むらしい。「この山はなんと読むのかしら」という声も聞こえた。山頂に経文が書かれた約1万2千個の河原石を埋めた経塚があるとかで霊山なのである。はやりのパワースポットとして売り出してみてはどうだろう。

標高271mとたいしたことはない山なのに、山頂真近はちょっと急登で、二十年来の運動靴の底が平らになっているので滑った。そろそろ買い替え時かと痛感した。

下りは、源義経の生母常磐御前が、あまりの美しさに振り返り、振り返った「見返り坂」を通ったはずなのだが、杉檜林の中で展望はなく残念。

これも常磐御前がらみの「よし竹」は、ちょっぴりだけ残っていた。『源氏再び栄えるなら、この杖よし竹となれ」と、持っていた杖を地に突き刺したら、根付いて一面の竹林になったといういわれの竹である。近くに病にかかり亡くなった御前を供養する五輪塔もあったという。ところで御前はなぜ、はるばるこの地まで来たのだろうか。

歩いた後、市役所の広場で舞台を見ていたら、フラダンスを習っている人が多いようで、幼稚園の子まで踊っている。三線(さんしん)こそなかったものの、地元の駿河台大学の沖縄県人会の太鼓と踊りも楽しめた。地元の伝統芸能も披露された。

売店もずらり並んでいて、地元の名酒「天覧山」もあったから、二杯も飲んだ。元気が出て四里歩けるという「四里餅(しりもち)」もあったので、お土産に買った。


狭山茶 歴史

2011年05月16日 18時27分49秒 | お茶・農業



日本へ茶が初めて伝わったのは、臨済宗の開祖栄西禅師が、今から約八百余年前、鎌倉時代が始まろうとする頃、中国から種を持ち帰り、「喫茶養生記」を書き、栽培を奨励した時だとされる。

それが狭山地方にどのように伝わったのか。一説には、栄西から種をもらった弟子の京都の高僧、明恵上人(みょうえしょうにん)が、武蔵河越の地(現在の川越市)に栽植したのが始まりだと伝えられる。栄西は、宇治、駿河とともに武蔵も栽培適地の五か所の一つに挙げたという。

明恵上人は、もらった種を再興した京都・栂尾の高山寺に植え、宇治にも広めたと伝えられている。

川越市の東照宮の南にある中院には、「狭山茶発祥之地」と大書した石碑が立っている。慈覚大師円仁が喜多院の前身である無量寿寺を建立した際、京都から茶の種を持ってきて、境内で薬用として栽培を始めた。それが河越茶、狭山茶の起源たという。(写真)

また、ときがわ町の慈光寺でも茶を栽培し、飲んでいたようだ。

武蔵にいつ誰が伝えたのかは、はっきりしないが、「河越茶」が狭山茶の起源のようである。

川越市には史跡公園「河越館(かわごえやかた)跡」がある。桓武平氏の流れをくむ河越氏の館で、平安時代末から約200年間使われ、国指定史跡になっている。

この館の発掘調査で、茶碗や茶臼、風炉などの茶道具が出土、河越茶に河越氏が、かかわっていたことが分かった。

「武蔵の河越茶」が文献に現れるのは、14世紀の南北朝時代の書物「異制庭訓往来」で、京都栂尾などにつぎ、全国銘茶五場の一つに紹介されている。南北朝時代には全国有数の茶の産地だったようだ。江戸時代には、川越藩で茶会も開かれていた。

川越市では、河越館と河越茶のこのような関係から09年から「河越館跡」を史跡公園として整備する一方、河越茶に近いと思われる、地元の農家で栽培されてきた在来種と静岡茶、狭山茶の三種類約千株を育てている。

河越茶の茶摘み体験や試飲などのイベントで観光客に河越茶の存在をPR、川越観光のもう一つの目玉にしたい考えだ。「河越」が「川越」に変わるのは、江戸時代に川越藩ができた後のことのようだ。

11年5月29日には、川越城本丸御殿、喜多院、中院、川越館跡など七会場で大茶会を開いた。イメージキャラクター「河越茶太郎」もできている。

『狭山茶場史実録』(吉川忠八著)によれば、狭山茶が盛んになるのは19世紀以降で、1802(享和2)年、現入間市宮寺の宮大工もしていた吉川温恭(よしずみ)が、麦刈り作業中に雨に見舞われた際、茶らしい木を見つけ、製茶してみたら、お茶独特の香りがした。

同じ宮寺に住む親友の村野盛政に相談して、茶の栽培を始め、先輩の宇治の蒸し製煎茶の製法を取り入れて、河越茶を狭山茶として復活させ、江戸で飲まれるようになった。

これに協力したのが、江戸の茶商山本家の六代目山本嘉兵衛徳潤だった。「狭山茶」の名は、村野盛政が山本嘉兵衛に相談したところ、宮寺あたりの地名が「狭山」だったので、その地名を取って「狭山茶」としたという。

宮寺の出雲祝神社には狭山茶業復活の記念碑として「重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)」が1832(天保3)年)に建立され、狭山茶の歴史を伝える史蹟になっている。

明治の初め、狭山茶の歴史の中で忘れてはならないのは、日高市生まれの高林謙三である。

川越の開業医だったのに、お茶に注目した。当時、日本の輸出品は、生糸と茶しかなかったからだ。時間と労力のかかる従来の茶の手もみ法では、費用ばかりかかって、量産は無理なので、蒸しから乾燥まで機械が全部行う製茶機械の完成を目指した。

まず、回転円筒式のあぶり茶、生茶葉蒸し、製茶摩擦の三つの機械を発明した。この三つは、特許法が施工されたばかりの1885(明治18)年、日本の特許の2、3、4号となった。民間の発明家としては初めての特許取得だった。

1897(明治30)年には、結核と貧困に悩みながら、妻子の手助けもあって、ついに念願の製茶機械「高林式茶葉粗揉(そじゅう)機」を完成させ、日本の茶業界の産業革命に寄与した。今でも改良を重ねて使われている。

日高市のJR八高線の高麗川駅近くに「製茶機械発明者高林謙三出生地」の碑が立つ。




狭山茶 入間市の八十八夜新茶まつり

2011年05月12日 16時49分30秒 | お茶・農業



入間市は狭山茶の本場である。狭山茶とは、埼玉県下で生産されるお茶の総称だ。栽培面積(約500ha)、収穫量とも埼玉県で一位。狭山茶の半分はこの市で産する。

主産地の金子台に広がる茶畑は約350ha。関東以北で最大規模を誇る。かまぼこ型に刈りこんだ「本茶園」が整然と並ぶ。。県の茶業研究所はここにあり、ちょっと離れた市の博物館のメーンテーマはもちろんお茶。小高い、その名も「茶業公園」からは広大な茶畑を見渡すことができる。

この「入間の茶畑」は、05年埼玉新聞社がはがき投票で募集した「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢百選」で、名所などの部で第一位に選ばれた。

「北狭山茶場碑入り道」と大書した、ギネスブック掲載の日本一の道標も立っている。この道標は、高さ4.1m、台石1・1m、重さ20t。近くの龍円寺にある「北狭山茶場碑」への道を教えるものだ。

金子台には「茶どころ通り」があり、市の市内循環バスのルートは、「てぃーろーど(TEA ROAD)」と呼ばれている。

狭山茶は市の売り物だから、市役所前に8aの茶畑もある。11年には立春から数えて「八十八夜」の5月2日の朝、ここで茶摘み体験や新茶試飲会が開かれた。東日本大震災に配慮し、この年は「新茶まつり」の名を「試飲会」と改めた。(写真)

所沢市の同様な催しを見たばかりなのに、「やはり本場も」とJR武蔵浦和駅から電車で出かけてみた。乗り換えや入間市駅からの徒歩でけっこう時間がかかって、終わる寸前だったが、市役所ホールの展示や農政課でもらったパンフレット、博物館の資料などを読むと勉強になることが多かった。

「狭山茶摘み歌」に

♪色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめさす♪

という一節がある。

狭山茶は、この歌のように日本三大銘茶の一つに数えられる。なぜその中で「味は狭山」なのか。いつも疑問に思っていた。

この地は、茶の大規模な産地としては北限に近い。冬には霜が降りることもある比較的冷涼な丘陵地帯にある。その気候のおかげで肉厚の茶葉ができる。この「茶葉の厚さ」が狭山茶の売りである。

私は味の鑑定にはまったく自信がない。聞いたり、読んだりしていると、狭山茶にはこの厚さのために濃厚な甘みやこくがあるという。色も香りも味も濃いとされ、「少ない茶葉でもよく出る」というから貧乏人には有難い限りだ。

このような茶を揉んで加工するにも一工夫があった。「狭山火(び)入れ」である。機械製茶が導入される前の手揉み茶の時代、蒸した茶葉は、焙炉(ほいろ)の上に和紙を敷き、下から熱して指で揉みながら乾燥させた。この火入れを高温にすると、独特の「火入れ香」が出た。

現在の狭山茶の主要品種は、静岡の「やぶきた」や地元の「さやまかおり」。実質的に最北限なのだから、問題もある。

南の産地鹿児島では、年に何度か茶摘みができる。ここでは春夏二回だけ。一番茶は四月下旬から五月下旬、二番茶は六月下旬から七月上旬と決まっている。当然、温暖で4~5回摘める鹿児島はもちろん、静岡より収穫量はかなり少ない。

ところが、霜の心配はあっても、土壌や雨量が茶づくりにピッタリだった。金子台などの狭山茶の産地は、武蔵野台地にある。この台地は、砂や石ころの層の上に、富士山などの火山灰が厚く積もってできた。

両者とも水はけがよく、雨水が地下に沁み込むため、水田には適さず、畑作中心。この水はけの良さが茶の栽培には好都合だった。

茶は、年間降水量1300mm以上の雨の多い土地を好む。入間市の年間降水量は約1500mmと、これをかなり上回る。茶の栽培に適した、雨が多く、水はけの良い土地の条件を「上湿下乾」というそうだが、入間市はまさにその条件にぴったりの場所なのだという。

もうひとつこの地では、農家が自ら栽培し、製茶し、販売までを一貫して行う「自園・自製・自販」が主流になっているという。

なるほど。緑茶大好き人間なので、見ること、聞くこと、読むこと、いずれも面白い。